幼い頃の心持ちを思い出す。もういいかい、そう小さく呟いてみた。
ひとり木の幹に額を寄せ、紅く陽の燃える中、ぽつんと長い影を差して待っていた心細いあの心境は、今こうして橋脚に寄り添うようにしている心と重なった。
待ち人は、いまだ来ない。
海の近い川に架かる橋の下で、今宵千石は落ち合う約束がある。それは誰にも言えない、けして悟られてはならない約束だ。
ふと、橋脚から離れ、頭からかぶった外套を押さえながら橋の上を見やった。微細な装飾の施された欄干越しに、日の暮れる様が窺える。欄干の影が千石の顔に落ちる。煌く夕暮れの色が目に焼きついた。眩しさに目線を落とすと、上流の川面にゆらゆらと太陽がその黄金の身を映している。千石は胸を焦がした。
早く夜に、そう思いかけたとき、じわりと踵を濡らす感触に片足を上げた。中州がゆるゆると地形を狭めているのに気づき、また橋脚に身を寄せる。
かたかたと床板を鳴らす、馬車の往く音が段々と遠ざかってゆく。行き交う人々の沓音はさらに遠い。沈みきっていない太陽がじんわりと空の縁を滲ませている。辺りの風景は闇をまとい始めていた。
冷えた水が背筋を震わせる。目をつぶり、外套の合わせを掴んだ左手の下で、胸元の紋章を右手でぎゅっと掴んだ。
こんなものと思い続け、この一族の名で良い暮らしをしてきたのも確かだけれど、いつだって窮屈な思いをしてきた名の足枷を、自分はいつでも未練なく捨てられると、やっと捨てられると思ったのに、なぜかそれはまだ自分の手の中にあった。いざ捨てても良いとなると、なんだか寂しいような、どことなくいとしいように思えてくるのだから、分からないものだ。
指先で感触を確かめる。細かな刺繍のざらついた表面を撫ぜる。見なくても、仔細はよく思いだせる。うっとうしいくらいに、家のあちこちでその紋章を目にしてきたからだ。
黒き花の紋章。幾枚にも先のつんとした花びらを重ね、華やかに咲き誇る花の名。
かすれるような、衣擦れの音が耳をさらう。柔らかな布と床板の擦れる音。目を開けると、空の深い紺を吸い込んだ水面にぼんやりとまあるい光が落ちていた。はっとして千石は振り返りながら、橋の下から出、足が濡れるのも構わずに欄干の向こう側を見上げた。しかし、白い沙羅の衣を翻す人の姿をちらりと目の端にとらえただけだった。水面に揺れた光の影の正体はその人が手にしていた行灯の明かり。
千石は、か細く息を吐いた。それは微かに白く染まったように見える。川が、ざわめき始めた。
待ち人は、千石の家と対をなす、白き花の紋章家の者だ。
久し振りの再会を果たしたのは、名家の時期跡取りお披露目会のような場で、なんとも皮肉めいていると今思い返しても思う。
彼はその家の名にふさわしく、一段と凛々しくしなやかで華のあるひとになっていた。お互いの胸には、幼い頃には見ることがなかった白と黒のはなぶさが光っていた。
香り高く、誇り高い。
君にそれはよく似合っている、と千石は素直に思ったままを呟いた。すると彼は、目をわずかに細めるようにして、これか、と自分の左胸に長い指で触れた。そしてそっと鼻先を寄せた後で顔をあげると、柔らかな声音でつまらねえ、と言った。
「なんの香りもしやしねえ。これは、にせものだ。偽りの花だ」
にせものなんだ。
繰り返したときの、口元に漂う寂しさが忘れられなかった。気づけば、ほんものを二人で見にゆこうと、叶わないはずの約束の切れ端を口にしていたのだった。
そう、叶わないはずの。
じわじわと足元の水嵩が増していく。千石の沓、そして衣の裾が静かに川の流れへ埋没する。千石は橋脚に手を添えた。
幼い心がまた甦る。とっぷりと陽の暮れた帰り道、遠くに梟や野犬の鳴き声の聞こえるのがとても恐かった。けれど彼と二人、手をつないでゆけば何も怖くなかった。
あの頃はお互いの名の重さなどまったく知らず、空が真っ赤に焼けるまで、ずっと二人で遊ぶことが出来たらそれで良かった。そんな日々が毎日続くのだと信じていた年月は、もうない。何も知らない二人はもういない。
時は刻々と流れ、辺りの風景は宵闇に埋もれつつあった。真上を見上げ、空に目を放つ。その中で、ようやくひとつ、星が瞬きはじめるのを見た。もうひとつ、そしてまたひとつ、煌きが橋の陰が少しかかった空を彩るのを千石は見る。
それをゆっくりと目に焼き付けると、まぶたの裏でちかちかと明滅する小さな輝きを想いながら、まぶたを下ろした。
* * *
幾千の夜を越えて、また夜が訪れる。
次々と人を飲み込み鉄橋を揺らし駆け抜けていく電車の音、ロータリーや表通りを忙しなく行き交うバスや乗用車のクラクションや排気音、帰り道を急ぐ人々の足音や喧騒を後にして、千石は帰路についていた。賑やかな駅前を過ぎ、自宅近くまでやってくると人も車もぽつぽつとしか見当たらない。
変な夢を見たなあと、スポーツバッグをかけた肩を回し、ついで首もほぐすようにぐるりと回した。
珍しく座席に座ることが出来、部活で疲れていた身体を電車の心地よい振動に知らず知らずのうちに預け、うたた寝した間に見た夢はやたら鮮明なものだった。いつもの夢よりも自分の目が冴えて物を見、はっきりとした感覚ですべてを捉え、まるでタイムマシンでたった今体験してきたかのように、気持ちが入り込んでしまうものだった。
俺は、誰かを待ってたんだ。
川の水の冷たさや、橋の下の影の暗さははっきりと思い出すことが出来るのに、待ち人のことはもうよく思い出すことは出来なかった。それこそ、普段夢の記憶を自分の中にとどめておくのがとても難しいように。
「何だったんだろうなあ……」
口に出して呟いてみながら、千石は無意識に胸元の辺りを気にしてみた。触れたのは、白ランの左胸にあるポケットでしかない。
だらだらと歩いていたせいか、同じ電車から駅へ降り立ち歩き始めた人々の小さな列は、周りからいつのまにか消えていて、千石はときどき車の往く二車線の道路脇の歩道を一人で歩いていた。
建物の立ち並ぶ、街の区切られた空を見上げる。街灯の明るさで夜空はぼんやり白けているが、小さな光が淡く滲んでいるのが目の良い千石には分かる。
あの後、夢の中の俺は会えたんだろうか。
夢の途切れははっきり覚えている。目が覚めて、明るい車内に一瞬戸惑ったくらいだからだ。
もし会えなかったら、そう思うと、一人帰り道をゆく心持ちが寂しくなった。足元に目を落とすと、工事をしたばかりのアスファルトの歩道が、深い川のように色濃く続いていた。地面の濡れたような紺が、靴をじわりと浸してしまいそうな気がして、ふと止めてしまった足を少し急がせる。
夢で味わった心持ちを思い出す。
そうだと気づいて、千石はポケットを探った。視界がふっと青ざめる。歩道から道路の方へ伸びる長い影の下を抜ける。
「おい、そこのオレンジ!」
ぱっと照らされるように明るい声が頭上からした。
飛び上がって声をあげ、自分の頭を押さえながら、まず後ろをきょろきょろ見回し顔を上げると、道路と自分に影を落としていた歩道橋の上に人影を捉えた。
影の下から抜け出したすぐのところで、千石は足踏みするように身体の向きを変える。誰か、なんてことは考えずとも、すでに分かっている。
「てめえなんで電話に出ねえんだよ!」
いろんなことを千石が問おうとする前に、橋の上にいる人影が投げかける。離れているから少し声は大きいが、怒っているようには聞こえない。橋に手を添え、覗き込むようにしていて、髪が流れ見上げる自分の方へ毛先を垂らしていた。
千石は慌てて、たった今ポケットから取り出した携帯電話を掲げた。
「いや、あ、ごめん! 今見るとこ!」
「バーカ! 普段くだらねえメール立て続けに送ってきやがるくせに、肝心なときに出ねえんだからてめえは」
最後はくつくつと笑い声が混じっていて、夜の帰り道の空気に静かになじんで拡散する。
何か続けたのが聞こえたような気がしたけれど捉えきれず、なあに! と聞き返してみると、ひとつ息を吸い込んだのが聞こえ、
「会いにきた!」
と夢の中の自分がいちばんに欲しかっただろう言葉が降ってきて、思わず千石は目を見開いた。
道路を一台の乗用車が走り去っていく。ヘッドライトのまあるいふたつの光がさあっと地面をなぜる。それは辺りをひらりと軽やかに照らしてゆき、叶わなかった夢の恋がひとつ、微笑んだ待ち人の顔が、千石の見上げる橋の影が横たわった夜空の中にちらりときらめいた。
跡部くん。
懐かしむように愛しい名を口にして、千石は届くはずもない腕を真っ直ぐに伸ばし、しっかと、手を握り締めた。
幾千の夜を遡った夢の自分が、きっと、そうしたかったように。
fin.