「帰ろっか」
何も言わず、俺のそばへやって来た君を振り返って、いつものように、俺は出来ただろうか。
バスで帰るという他の山吹メンバーに、千石は最寄り駅まで出るよと告げて、跡部とともに試合会場を後にした。
テニスコート沿いを歩く。
千石が金網越しにコートの方へ目をやると、いまだ興奮冷めやらぬといった不動峰の生徒たちが手を叩き合ったり、喜びの声を上げたり、試合に勝ったという余韻に浸っている姿が窺えた。
凝視出来なくなって、目を逸らした。自分の中のどす黒い感情がふつふつと湧き上がってきそうで、嫌だった。
そんな感情を吐き出すように、大きく息を吐く。
そのため息が耳に止まったのか、跡部が千石をちらりと見やった。視線に気づいて、千石も跡部を見る。
ほんの数秒間目が合ったが、何?と千石が笑って聞くより先に跡部から視線を外した。
二人とも、何も言葉を交わさなかった。
試合会場から最寄の駅と言っても、徒歩で20分はかかる。
二人は土手沿いの道へ出た。まだ駅は遠い。
そして、どちらかともなく階段を登り、土手へ上がった。
跡部は本当に何も喋らなかった。
試合が終わって千石のところへやってきてからずっとこの調子だ。
歩いて帰るなんて言った千石に、当たり前のようについてきて、今も普通に横に並んで歩いている。
沈黙さえも当たり前というかのように。
千石にはそれが有り難かった。
いつもの自分のように明るく振舞って話すのは、やっぱり辛かっただろうから。
そんなことを考えていたときだった。
急に自分の左手が温かいものに包まれたと思ったら、跡部が手を握っていた。
「跡部くん?」
びっくりして、跡部の顔を覗き込む。しかし跡部は前を見て歩いているだけで、何も答えない。
そうしてぐいっと手を引き上げた。
「うわっ」
バランスを崩して足を止めた千石を振り返って、跡部は笑った。
「お前たまにこうやるだろ」
その笑顔は夕焼けに染まって眩しい。
何か言おう、千石はそう思ったけれど、何も言葉が出てこなかった。
跡部が、持ち上げた千石の手を口元に運んで、唇を滑らせた。
「お守りだ」
行くぞ、そう告げると、跡部は千石の手を握りなおして歩き出した。
引っ張られて、千石も踏み出す。
「はは、」
してやられた。
夕昏色に透ける跡部の後ろ髪を眺めて、千石は可笑しくなった。
笑いがこみ上げる。少し、涙も。
鼻をすすり上げた千石は、川の方から吹き上げる風に、土手からの風景に始めて気づく。
水面にきらきらとオレンジ色の光が落ちている。
子供の掛け声がする川岸の広場では、ホームランを打ったのか、球が宙に大きく弧を描いていた。
土手にかかる大きな橋を往く多くの車がある。皆家路を急いでいるのだろうか。
その橋の向こうにある鉄橋に赤いラインの入った電車がゴウと音を立てて走り去っていった。
銀のボディが夕焼けを反射させていた。
空を見上げる。
橙色に染まる空が頭上に広がっていた。沈みゆく太陽が何もかもを照らしていた。
夜が来るなんてことが信じられないくらいに、世界が眩しかった。
きれいだと思った。
跡部くん君はすごいよ。
あれだけで、俺は魔法にかかったみたいだ。
今、もし喉が震えなかったなら、君にこの世界の素晴らしさを伝えたかった。
ふと千石が跡部を見上げると、跡部もまたこの世界の端々を映しているようだった。
「明日、部活?」
「ああ」
「そっか。俺も」
ようやく口にできた内容は「明日」のことで、千石は自分に嬉しくなった。
明日、ね。
明日があるということをこんなにも自然に、幸せに思うのは、君がいるからこその世界だからだろう。
「ありがとう」
そっと呟く。
世界が滲みそうで、喉が痛くて、それ以上は何も言えなかった。
とりあえず今日は、君が残した跡を抱いて寝ようか。
fin.