俺は、ここで、やられる。
千石は直感的にもそう思った。
自分の目の前に躍り出た男と対峙したその刹那。
そして不覚にも息を呑み柱の影に隠れ、男が無音をまとい銃を構え、こちらを見据えているだろう姿を想像した瞬間、頭の中で何度もシュミレートしてみたが、どうしても結末はあっけない自分の敗北に行き着いた。
論理的な思考を追っても、やられる、そう思った。
千石は屈指のスナイパーだ。
何年か前までは自国の軍隊に所属していたが、以前変わろうとしない腐った体制、見えない国の行く末に嫌気がさし、自分の力を使うべき相応しい場所を探して国を出た。
内戦で荒れる某国の傭兵となったが、国連が事態の収拾にと、連合軍を使って乗り込んできた今、千石の役目は終わっていた。
報酬の半分はもらっている。そもそも、報酬のためだけにここに来たわけでなかった千石は、引く間際に連合軍に一泡ふかせてやろうと、廃墟にひそみ、自分自身で課した最後の一仕事に腰を上げたのだった。
廃墟の前を訪れたのは日米英の混合小隊。
まずは英兵を仕留めた。突然の襲撃に統制を乱しかけた隊だったが、一人の指示ですぐさま態勢を立て直してきた。
狙撃銃のスコープを覗いてその人物を確認する。軍人には見えない秀麗な横顔、この地の暑さにそぐわない、白い肌だ。
「(日の丸……同郷の人間か)」
迷彩服の肩についたワッペンで日本の軍人だというのが分かる。だからといってためらうことは何もなかった。
今まで自分の前に伏した人間の大抵は、ろくな生得的情報すら知らずに撃ち殺してきたのだ。
自分が潜む廃墟とは反対側に仕掛けておいた罠を発動させる。狙いを定め設置しておいたオートライフルが装填された弾丸一発を発射する。
小隊の近くにあった廃車が爆音を立てて炎上した。
何人かが囮の方へ向けて自動小銃を打ち込む。こちらへ背を向けた米兵の頭を確実打ち抜く。
倒れた兵に気づき、他は打つのを止め瓦礫に身を潜めた。
そろそろだな。
千石は弾を込めながらそっと外を窺った。
最初の襲撃、そして今の一発であちら側が囮だということは分かったはずだ。諜報隊員がまだ残っているならばもう確定しているだろう。
「(そう、そうじゃなくちゃ、つまらない。)」
先手必勝、とばかりに千石はスコープをのぞき、一発放つ。立ち上がりかけた兵士に命中する。
壁に身を隠す。すると、轟音とともに衝撃が廃墟に訪れた。
ロケット弾が一発打ち込まれたのだ。
来た、と千石は降りかかるコンクリートの欠片から頭を庇いながら、埃が舞い上がる中、外の様子を見やる。
日本兵と残った米兵がこの廃墟を真っ直ぐに目指していた。その2人背後から煙を吹いた2、3発の弾が廃墟の目の前に落ちた。
どうやら残りの日本兵は援護に回るようだ。
煙幕か。
千石が気づいたときには、先行していた日本兵は迷うことなくもうもうと立ち上る煙の中に消えた。
舌打ちして、後続する米兵の肩を撃ち抜く。
千石は身を引っ込めるとさっと立ち上がり、隠れていた部屋の一箇所しかない出入り口を真正面から見据えることの出来る位置に移動した。
来る。
短く浅く息を吸って吐く。それだけで初めて相対する敵への緊張は捨てた。
あいつは出来る。
あの意思の強そうな瞳、真一文字に結んだ唇がそう窺わせた。
廃墟に飛び込んできた日本兵は、スコープ越しに見た、あの横顔の冴えた男だった。
目を閉じて、男の姿を思い浮かべる。
男は部屋へ侵入するなりライフルで千石の足元にあった無線機の類を撃った。
千石が身を翻して柱に身を隠すその間、男は千石を撃つ余裕があったはずだがそうしなかった。
微動出せずに、瞬きさえせずに銃をそのまま構え、こちらを見つめていた。
今でもきっとその態勢のままだろう。
普通の人間ならばまったく身動きせずに勤めるのは不可能だ。
しかし今この場からは、息を潜める千石の、耳の近くから聞こえる自分の心臓の鼓動の音以外は拾えない。
「(頭が切れる上に、完全義体のサイボーグか…… こりゃあ分が悪いな)」
悪いどころの話じゃない、そう頭の片隅で考えながら、一方でまだシュミレートを繰り返す。
だが、思い描けば描くほど、そのイメージは現実味を帯びて眼前に迫ってくる。
俺は、死ぬ。
そのあまりに具体的な近すぎる未来に、千石は今更ながら戦慄した。冷や汗が額を流れていく。
何時間か前に降ったスコールの跡が、まるで鏡を張ったかのように床に水を湛え残っている。
微かな水の揺れに、自分の足が震えているのを見る。そのことにようやく気づいて、足を踏ん張る。
千石は唇を噛み締め、目を開けた。
諦めるには早い。分のない戦いだとしても、挑んだのは自分。そして、可能性がまったくないわけでは、ない。
男が真っ先に壊した無線機の類の中に、ジャミングを発して連合軍の通信を妨害していた装置が含まれていた。
千石がたった一人で動いていることはきっともう見抜いているはず。それならば応援を呼ばれる心配のない無線機を壊す理由は何もない。
すると、本当の狙いはジャミング装置の破壊と取れる。
男が持つのは一見したところ長距離用のライフル。ということは、そのことから推測するならば、もしかしたら、超中距離用の照準調整設定ソフトを衛星経由でダウンロードしている真っ最中なのではないか。
それなら。
「(くそっ、間に合え……!)」
結論を出したと同時に千石は柱の影から踏み出し、男の額に照準を定め撃ち放った。
再び、男とまみえる。
左右対称の顔、均整のとれた体つき、地を踏みしめ銃を抱いた、聡明な男の姿がそこにあった。
透き通る赤い目が真っ直ぐに千石を射抜く。
引き金にかけた男の指はすでに動いた後だった。
千石の鋭い目は、自分の弾と男の弾がわずかな差で空中ですれ違ったのを見た。頭の中で何度も目にしたシュミレートとは違う弾道だ。
しかし弾がすれ違いざまの互いの干渉によって狙いを逸れる。
男の白い頬に血が走った。わずかに顔をしかめる。
と、千石は自分の左目の上、眉の辺りに焼け付くような痛みが植えつけられるのを感じた。肉を削ぎ骨を削り取るように、男の弾が掠めていったのだ。
その痛みに思わず銃を落とし一旦柱に身を寄せた短い時間で、男はというとライフルを水浸しの床に捨て去り、一気に千石との距離を詰め肉迫していた。
柱に寄りかかるようにして、床に足を付きかけていた千石は左手の甲で傷を負った目の上を拭い、押さえた。
滴り落ちる血が瞼に伝い目を汚す。視界の確保が出来なかった。
これが狙いなのか。どうにも腑に落ちない考えが千石の心にふつと湧いたが、自分の視界に多いかぶさる人影、それこそ影のようにするりと自分の懐に入ってきた男の姿を目にして、疑念も緊張も恐怖も一瞬にして消え、右手でまさぐっていた腰のアーミーナイフを引き抜いた。
「いっ、てえ、っ」
素早く伸びた男の手にナイフを掴んだ右手首を掴まれ、だん、と柱に叩きつけられる。
そのままじりじりと力を込められ、壁に沿い少し上へ持ち上げられた。
苦しくなってナイフを離す。水に浸っていた千石の銃に当たって乾いた音がし、やがて小さな飛沫を上げて水に沈んだ。
ほんの少しだけ手を掴む力が弱まった。しかし振り切れるほどに油断している力加減ではない。
さすが、サイボーグ。
そしてぎりぎりの均衡を保っている微細なパワーコントロールに感心すら覚える。
千石は、左目を押さえたまま、何も言わず目の前にそびえる男を見上げた。
無機質な表情で、男は千石を見つめていた。
天井に溜まり流れ落ちた雨水を被ったのか、薄茶の髪の毛がわずかに濡れていて、真ん中で分けた前髪の先から、ぽとりと雫がこぼれていた。
髪を伝い額に流れた一筋が、眼窩を辿り、睫毛を彩り、瞬きをしない目の縁に流れ、頬から床に滴る。
人でないみたいだ。
千石はいつだったかどこかで見た、赤い目を持つ死神の絵を思い出していた。
俺を、殺すんだろう?
口に出してそう問いかけようとした。この死神にならやられてもいい、仕方ない、そう覚悟も決めた。
多分、戦場で彼を見かけたときからその運命は決まっていたのだと、今思う。
ゆっくりと男が目を閉じ、開けた。涙のように目尻から雨雫が流れ落ちる。泣き黒子が、光る。
その人間らしい仕草に、千石は男がようやく生けるもののように動き始めたのを見る。
男は、綺麗な形の唇を動かしようやく口を開いた。
「お前、なかなかやるじゃねえの」
にやりと口の端を持ち上げ、笑う。
その言葉に千石は目を瞬いた。先ほど一瞬抱いた疑念を思い出す。
ついでフラッシュバックのように頭の中で展開し始めた、生死を賭けた戦いだと思い込んでいた自分のシュミレート、相殺されずすれ違った2つの弾道、予測不可能だったその光景、自分の額を外した弾、さらに左目を傷つけずに視界を潰すまでに終わった理由が、すっきりとあるべきところに収まり、パズルが完成した。
そして男の、使われなかった腰にさしたままのアーミーナイフが目に入る。
千石はそっと息を吐くと、苦笑いで男を見やった。
「君、まさか、最初から、」
ああもうはめられた、と肩をすくめ、俯き加減に首を振る。
そんな千石の様子を見てか、上から喉を鳴らすような笑い声が降ってきた。頭の悪くねえ奴は嫌いじゃないぜ、と続ける。
どうも、と千石はため息まじり、笑いまじりで答え、どこか清々した気分で顔を上げた。
人形のような雰囲気をもう男はまとっていなかった。少し目を細めた機嫌の良さそうな顔で、顎を少し上げる。
薄雲の向こうから地上を照らす柔らかな太陽の光を受け、濡れた髪、そして頬がかすかにきらめいた。
「今から俺の部下になれ」
有無を言わさぬ口調で男が言い放った。それはただ強かった。
どちらにしても千石には選択の余地などなかったが、ついていこう、そう思わせてくれるだけの力は十分だった。
千石は血まみれの頬を持ち上げて笑った。
「オーケイ。俺は、千石。ところで、」
君の名前は?
その後千石は男の手馴れた裏工作で、連合軍の一員として日本に帰国した。
そして独自に調べてみた軍や裏世界の情報から、自分が戦いを挑んだ男が世界屈指の電脳・義体使いであることを知る。
証拠がないものばかりではあったが、作戦をともにする度に噂ではないことを実感し、それは男に対しての絶大な信頼にも繋がっていった。
そして数年後、内務省直属の独立部隊公安9課、通称攻殻機動隊が発足され、千石は正式メンバーとして移籍することとなる。
跡部景吾。
その男こそ、公安9課を発案した課の実質的リーダーであり、異国の空の下、千石と相対し、弾雨の中から現れた凛然たる死神の名前だった。
fin.