思い出してくれるといいな、って思うんだ。
哀しいときとか、辛いときとか、勿論そうじゃないときでも。
俺はよく思い出すよ。
そうして実際に君を引き寄せたりするんだ。
君は、思い出してくれている? 想ってくれているかな。
もし、欠片でもその心で叫んでくれているなら、俺はどこにだって駆けつけるよ。
傍にいてよ、って、呆れるくらい叫んで。
「跡部くん何やってるの?」
歩道橋の踊り場で足を止めると、千石は左手の方へ首を巡らせた。
呼びかけられた当の本人は、少しばかり間を置いたあと、目線を下げて大して驚くふうもなく、
「お前こそ」
と少し笑った。
ちょっとでも会えないだろうかと千石が跡部の携帯に電話を入れたところ、
この歩道橋の近くにいると聞いて、千石はついさっきここへ辿り着いた。
その辺りを探しても見つからないのでとりあえず上からと、歩道橋に足をかけ、上り始めたところ、
ふと脇のマンションに目をやった。
そのマンションの二階は、歩道橋の踊り場とちょうど同じくらいの高さだった。
二階は貸し店舗スペースらしく、広めにとられた廊下は他の階のとは違ってフェンスに囲われている。
まだ何も店舗が入っていないそこは人気がない。
そんなところに何故かただ一人、跡部がそこの廊下の柵に腕をのせて、物憂げな表情で空を見上げていた。
正直、似合わないと千石は思った。
本当は、不自然なほどそれが様になっていて、戸惑ったと言った方が正しい。
吸い込まれそうだと思う。
何もない空に、あの瞳ごと落ちていってしまいそうだった。
この辺りは山吹の通学路の近くだが、人通りが少ないことと、中学生が遊べるような場所は何もないことで、
普段千石でさえあまりこちらにはやって来ない。
どうしてこんなところへ一人できたのだろう、そんな疑問を少し込めて尋ねたのだが、
それは柔らかい笑みでかわされてしまった。
跡部と千石の間は、2メートルほどの宙空に阻まれている。
お互いに手を伸ばしても届くことない距離だ。
千石は、歩道橋の柵に身体を寄せると、前に乗り出し気味になって、両腕を外へ投げ出した。
「お前こそ、って俺は跡部くんがいるから来たのですよ」
「ふうん」
さほど興味がないような返事を跡部は寄越した。
「そういう跡部くんはー?」
柵のふちに足をかける。
「何してんの」
「ああ」
思い出したようにぼんやりと空を見上げると、跡部はそのまま動かなくなった。
その様子に、千石はそっと遠慮がちに声をかける。
「・・・跡部くん?」
「空」
心配そうなその呼びかけを打ち消すように、跡部が短く言い切った。
「空見てた」
そしてまた空を見上げて、また黙り込んでしまった。
千石は、見上げようとして、一瞬戸惑い、ちらっと跡部の方へ視線を戻すと、気にしつつも空を仰いだ。
頭上に広がる何の変哲もない曇り空が、夕方になってえその色を徐々に夜の空へと近づけている。
あまり好きじゃない天気だなあと、なんとなく思う。
「曇り空だったんだよな今日」
不意に口を開いた跡部に、千石は少し驚いて振り返った。
「朝も、昼も、さっきまでずっと味気ない曇り空でよ、
青でもなく、夕焼け色でもなく、ずっと雲の色で、まるで色のない空だったな」
そこで一区切りした跡部は、視線を落とすことなく話し続けた。
「それが今見上げたらだ。
滲みでるように色が沈んできて、ああ夜が来るんだと思ったんだ。一日が、終わる色なんだと」
話を終えても、跡部は視線を下ろすことはなかった。
千石は話していた間中ずっと、跡部の顔を見つめていたのだけれど、それに跡部が気づくことはなかった。
今もそうだ。
それでも見つめているのは、ひどくその表情が儚くみえたからだった。
「跡部くん」
引き戻すように一度、呼ぶ。
跡部はゆっくりと千石の方を見た。
「跡部くん」
引き止めるように、もう一度呼ぶ。
そこでやっと跡部は目を瞬き、初めて千石を認めたような顔をした。
「・・・なんだよ」
「そこにいる君は消えそうだ跡部くん」
真っ直ぐに、跡部を見つめる。
真摯、という言葉は自分には似合わないと思ったけれど、それに近いくらいには、
ありったけの想いを込め跡部の目を捉える。
跡部は、フェンスに片肘をつき、顎をのせると、
「なんだそれ」
と綺麗に口の端を歪めた。
それでも千石は目を離さない。
「抱きしめに行ってもいい?」
じゃないと、どっかに行っちゃいそうで、と千石は困ったように微かに笑う。
「何言ってんだ。どっかってどこだよバカ」
「今そっち行くから、そこで待ってて。待っててよ。待ってて」
するりと両腕を引き上げて、跡部に言い聞かせるように、千石は念を押した。
しかし、跡部もフェンスから身体を少し離すと、今度は笑いもせずに言葉を放つ。
「・・・・・・帰る」
二人がその場所を離れたのはほぼ同時だった。
千石は勢いよく歩道橋を駆け下りる。
地上に着いたと同時に、跡部が背を向けて歩き出しているのを見上げて確かめた。
一瞬躊躇し、後姿とマンションの階段の方を見比べたが、その背中を目に焼き付けて、階段の方へと走った。
「ん、」
「・・・・・・と、追いついた・・・!」
とん、と背中に軽い衝撃を受けて、跡部は小さく声を上げた。
飛びつくように跡部を抱きしめた千石は、背中からぐるっと手を回し、背に頬を寄せた。
背中越しに、上下する千石の鼓動が跡部へと伝わる。
「いらねえ、って言ったのに」
「いいの」
はっきりと、有無を言わさず、けれど気遣うように千石が言い切る。
ふっと空気をもらすと跡部は呆れたように言った。
「お前、俺を甘やかしすぎ」
「そんなことないよ」
「ある」
「ない」
「ある」
「じゃ、もっと甘えて」
「な、やっぱり」
跡部は自分の腰に回された手を、自分の手で上からそっと包んで、
「お前は俺の欲しいときに、欲しいものを寄越す。
それはやっぱり甘やかしてる。
こうやって、」
抱きしめるなんて。
呟く跡部の声は、最後の方はよく聞こえなかった。
代わりに、重ねた手にぎゅっと跡部は力を込める。
「言えねえことってわけじゃなくて」
「うん」
「自分でもよく分かんねえから」
「そっか」
「抱きしめてくれなくても、大丈夫だったん、だ」
跡部が肩の力をふと抜いた。それを感じて、自分に引き寄せるようにした。
「跡部くん、俺はよく君に甘えるでしょ。
で、君はなんだかんだ言って、君なりのやり方で、それにいつも応えてくれてる。
だからこれは順番ね。
今日は跡部くんの番。
理由とかそんなのないんだ。俺ルールなんだけど、だから、甘えて」
「は、」
跡部は千石の言葉に笑いかけて、続けなかった。
すると、跡部が自分に回されていた腕を解き、くるりと千石に向き直ってそのまま身体を預けた。
千石は、受け止めて、すぐに掻き抱いた。
肩口から互いの体温が伝わり、じわりと染み入る。
温かい肌と骨の、人間の感触に、跡部はまどろむような安心を覚えた。
「・・・いいか、これからのこと全部、見逃せよ」
そうして、千石の背中に手を回し息を吐くように、
いっそのこと、この胸を引き裂いて心をさらけ出せればいいのに、と続けて跡部が呟いた。
千石は首筋に顔を埋めて、ひとつ唇を落とす。
「それ反則」
俺が甘えたくなっちゃうじゃん、と千石が笑った。
「ばか」
少し身体を離して、跡部が千石の顔をのぞいた。
何、と首を傾げる間もなく、軽くふれるような口付けが千石の唇をついばみ、頬を掠め、首筋に流れ落ちる。
「・・・・・・えっ、ええー!」
不意打ちを喰らった千石が大きな声を上げた。右手で、見えないと分かっていても赤くなった顔を隠すように、口元を覆う。
そんな千石の体温の上昇に気づいたのか、肩口に頭を預けた跡部が笑いを含んだ声で言った。
「俺の番なんだろ。誰がお前に譲るか」
そうしてまた頭をあげて、赤面した千石の染まった頬に小さく音を立てて、また口付けた。
「跡部くん・・・」
「あん?」
ため息交じりに名前を呼ばれた跡部は、千石の肩に片耳を押し付けて首筋を辿って見上げる。
ちらりと目線をくれた千石と目が合う。
「・・・やっぱり反則だよ・・・!」
そう言って千石は頬を強くすり寄せた。
くすぐってえ、と跡部が楽しそうに笑う。
「ねえ跡部くん」
ん、と安らいだような返事が千石に届く。
千石は抱いた指先に力を込めた。
「どこにも行かないで。俺を、離さないでいて」
跡部は何も言わなかった。
そして、しばらくして肩が少し震えたのを感じ、続いて小さく笑い声がもれるのを聞き取り、
不思議に思って、跡部くん?と尋ねた。
「お前さ・・・さっきから、俺の番だって言ってんだろ。せっかく、それ俺が言ってやろうと思ったのに」
跡部は両手を千石の首に回して、いとおしそうに微笑んだ。
「誰が譲ってやるもんか」
鮮やかな激情が、跡部の心の中を支配する。
本当に、この心臓を差し出すことができればいいと思う。もっと艶やかな色彩で、伝えることが出来れば。
傍にいて、言葉に出来ず叫ぶ心が願う。
「うん、俺だって離すもんか」
届いた願いは、それはあっさりと、けれど確かな強さを以って、千石の胸へ落ち、鼓動になって跡部へと伝わった。
互いに耳を澄ますと、触れた部分から自分のか相手のか分からなかったけれど、トクトクという血脈の流れる音がした。
ああこんな近くに在ったのか、と跡部はその音に浸る。
生きているのだ、と思う。
途切れることなく脈打つそれが在る限り、はぐれることなど、あるはずがなかった。
fin.