春は嵐
「……なんでまた」
突然の思いつきには慣れた、というような呆れのにじんだ顔で跡部は掃き出し窓の前で下に目をやった。
千石清純のすごいところは(それには、良くも悪くもという形容詞がつく)、どうしようもない思いつきにはもれなく行動がついてくるところだ。
肝心なところではしり込みするくせによ、と跡部は何度か思ったことをまたそっと心の中で呟いて、まあ今回それは関係のないことだしと、意外に気にしいの千石を振り返る。
うん、と得意げな笑顔で千石は頷いた。手は腰に添えて、胸は気持ち反らし気味だ。
「いいでしょ?」
「だから、なんで、また急に」
それはさっき聞いたからと跡部は改めて置かれたガラス鉢を見下ろす。
開け放した窓から差し込む春めいた太陽の光を浴びて、鉢に満たされた水がきらきらと反射した。
鉢と水はまるで境目がなく、そのゆらゆらと揺れるきれいなものの中を赤と黒の小さな生き物がふわふわと尾びれをなびかせて泳いでいる。
金魚だ。
コンビニに言ってくると出かけて帰ってきた千石の手にぶら下がっていた荷物が、今跡部が見下ろしているものすべてだった。
留守番の跡部が何だそれと訝しげに尋ねる間に、千石はちゃっちゃと口の丸い直径二十センチほどの、先っぽの切れた逆円錐の形をしたガラス鉢を取り出し水を入れ、ビニール袋へ入れられていた金魚を二匹、そうっと鉢の中へ落としてやった。
それで準備完了、はいとずっしり重い鉢を跡部に渡して、
「窓の近くに置いたげてよ」
と笑ったのだった。
「お前、金魚飼いたいなんて、一言も言ってなかったよな」
よちよちと泳ぐ、自分の親指ほどもない金魚を眺めながら、跡部は鉢の前に腰を下ろした。足を引き寄せて胡坐をかく。
二人は今、大学の長い春休みの最中だ。先週の間にそれぞれ両親に促されたのもあって実家へ戻りはしたが、示し合わせたわけでもないのにお互い数日泊まっただけで二人暮しの小さなアパートへ帰ってきた。
けして広いとは言えないが、よく日が差し込み明るい部屋は居心地がよい。それはもちろん住居環境だけの心地よさではなく、一緒に暮らす互いの存在のおかげでもあった。
まあね〜と間延びした声が背中に近づいて、自分の横へすとんと千石が座る。ちらりと見やれば、千石も鉢を覗き込んで首を伸ばしている。
「思いつきだから」
「だと思った」
予想した答えに満足して微笑む。鉢の水面が弾かれたように小さな波紋を作って揺れた。千石の指が、ちゃぷと水を絡めて遊ぶ。
「ここ犬は飼えないし、あ、鉢植えでもいいなって思ったんだけど、何か、ちゃんと大事に育ててかわいがってあげたいなあと思って」
指に近寄ってきた黒の金魚を撫でるふりをして、千石は人差し指をちょいちょいと動かした。
その仕草に驚いたように、金魚は身を翻しぱたぱたと小さな背びれを一生懸命動かして離れていってしまった。愛らしい様子にそれぞれ小さな声を漏らして笑う。
跡部はきらりと白く光るガラス鉢の縁をなぞりながら、千石の顔を見つめた。
「ま、いいんじゃねえの。思いつきのわりにはそれなりに考えてるみたいだから良しとする」
「そう? よかった。」
ほらほら、かわいいでしょ、と同居人の同意も得て改めて嬉しくなったのか、千石が水面を指差した。
金魚がえさを求めるように顔を出して、口をぱくぱくさせている。
「ねえねえって話しかけられてるみたいじゃない?」
「ちょっと間抜け面だけどな」
愛嬌はある、と言って胡坐をかいた足首をつかんで跡部は笑う。ああ、と思いついたように続けて、
「それより似てるものがある」
とまた水面に出てきた赤い金魚を指差した。
「なに」
「『跡部くん、跡部くん』って言ってるお前の顔」
「えー!」
それはちょっとひどくないと、千石は跡部の顔と金魚を交互に見やりながら、納得のいかない顔をした。
「いいよ、愛嬌があるっていうのだけ、誉め言葉として受け取っておくから」
「ははは」
「ちょっと、結構本気でウケないの」
屈託なく笑う跡部の顔を見て、千石は笑いをにじませた声で言った。そして、一息つくと、窓の外を見上げて言った。
「あったかくなってきたねえ」
それに促されて跡部も外を見れば、青い空から柔らかな日差しが降り注ぎ、掃き出し窓に面した質素な庭にも小さな春が訪れ、緑が戻ってきているようにみえた。
「だって、こうして窓開け放したままいても大丈夫だし、水に触っても手がかじかまなくなった」
そう言って千石はまた水に触れた。今度は、指の先だけちょんと、水に棲む生き物を驚かさないようにそっとだ。
「春なんだね」
「そうだな」
顔を寄せ合うように二人でガラス鉢を覗き込む。二匹の金魚は、まるで外に自分たち以外の世界があるなんて知らないかのように、悠々とガラス鉢の中を泳ぐ。
「そういえばお前、水草買った?」
「え、買ってない。なんで」
「小さい鉢だし、二匹しか入れてないからポンプはいれなくていいと思うけど、それなら水草くらい入れてやらねえと」
「ポンプ?」
首を傾げる千石に、跡部は軽く頬をつまんでやった。千石の頬は柔らかいから、そうやって伸ばしてもあまり痛がらない。
「空気入れてやるんだよ水に。呼吸しやすいようにな」
「はああ。でもなんで水草がポンプの代わりになんの」
「理科の勉強し直してこい」
「あいた」
勉強不足の答えに眉間のあたりを軽く指で弾いてやると、千石はすいません、とそこそこしおらしく首をすくめた。
「じゃあさ、」
と千石が言った。立ち直りの早さが千石の良さのひとつだ。
「散歩行こうよ、春だし」
「お前どういう話のつながりだよ」
息を吐きながら跡部が言うと、関係なくはないよと千石は目を大きくした。
「水草買いにだよもちろん。この前、あそこの角に大きなペットショップ出来たでしょ、そこで買ったの金魚」
あそこの角のところで千石は跡部のいる左の方を右手で指差した。
跡部は、ぐるり首を巡らせ、自分の頭上を通り越したその手が示す先を追って、ああと千石の言わんとしている店に見当をつけた。
「あったかいから外歩くと気持ちいいし、そこそこ距離もあるから散歩にもなるじゃない」
「それは一緒に来いって言ってるのか」
「うん。春だし」
にっこりとする、その笑顔が春らしいと跡部は思う。誘いを断る理由はない。
このうららかな陽気に、跡部も少しばかり外へ出てみたいという気持ちはあった。
家でゆったりとした時間を過ごすのも好きだが、外で身体を動かすことも昔と変わらず好きなのだ。
「……春だから、ねえ」
「そうそう、もったいないでしょこんな日に出かけないなんて」
首を少し傾けて笑む千石の顔をじっと見つめる。瞬きもしないそぶりに、やはり千石が先にたじろんだ。
目をぱちぱちさせて、なになにと上体だけ引く。
それを跡部は追っかけるように上体を前に傾げていって、捉えたと思ったところで首を伸ばして飛びつくように柔らかな頬へキスをした。
「春だからな。人が愛しくなるもんだ」
「……そういうもの?」
にっと口の端を上げた跡部の顔と、突然の行為に千石は一瞬あっけに取られた顔をしたが、まあいっかと破顔する。
そして、さっと跡部に顔を寄せると、察して傾けた跡部の頬にいささか無作法に勢いよく、愛おしさを込めて唇を押し付けた。
「春だからね」
「なら、仕方ない」
わざとおどけて跡部が頷くと、ふふふと優しさのこみ上げる声で千石が笑う。
片膝を立たせてから、跡部は立ち上がった。
鉢の水面が、薄絹の羽衣が舞うように輝き、その下をかいくぐるように赤と黒の金魚がゆるゆると泳いでいる。
金魚の身体も、何億年もかけて出来上がったきれいな鉱石のように光を持っているようにみえた。
紅玉と黒曜石、否、それに劣らず美しい。
「ほら行くぞ、春だから」
「水草買いに?」
戯れのフレーズにくすくすと笑いながら千石も腰を上げた。
そうだと頷いて、跡部は隣の寝室へ行く。
さっと着替えて、財布だけをジーンズの尻ポケットに突っ込んで居間へ戻ると、掃き出し窓の網戸を途中まで閉めかけた千石がガラス鉢に目を落としていた。
「千石」
呼ぶと、ほら見て、とまるで秘密を話すように小さな声でゆっくりと千石がささやいた。
まるで大きな声を出せば何かが逃げてしまうというような気の遣い方だ。
何をと、千石に倣って小さく跡部が言うと、
「ほんとに、春だね」
と、千石が顎でそっと示して唇を和ませ口をつぐんだ。
数歩近寄ってガラス鉢を覗く。ちらちらと小さな影が水面に揺れている。
本当だと跡部も千石と同じことを思い、ふわりと心があたたかい風に吹かれたような気持ちになった。
網戸も閉めず開け放っていた窓から風にのって、それはこっそりやってきたのだろう。
桜じゃないね、何の花だろうと千石が呟いたそれは、確かに小指の爪先ほどの花びらだった。
音も立てずにやってきた小さな春が、光の満ちた水の上で真白に光った。



Fin.
『さくら』という本と同じ設定で書いています。大学1年生の春休み、同棲中です。

2008.3.16
This fanfiction is written by chiaki.