夜の静まり返った宮殿の廊下を千石は靴音を殺して歩く。
等間隔に灯されたランプの火が壁に斜めに影を落とし、ちらちらと揺れた。
侍女の詰め所をそのまま通り過ぎようとすると、扉が開いて一人の若い女が出てきた。
女は扉を閉め振り向いたところでようやく千石に気づき、きゃっと小さく声を上げ、慌てて口をおさえ、
「も、申し訳ありません。少しも気づかないで」
と一歩下がって頭を下げた。
足音を消していたのだから当たり前だろうなと千石は思いつつ、顎で廊下の先を示し見やりながら、誰か人は、と尋ねた。
「あ、はい、今日は扉の前に二人、警護の者をつかせております」
「今日もね」
そう、とそっけなく返事をすると千石はもう用はなくなった侍女から目を離して歩き出した。
上目遣いで見ていた侍女がさっと、身を縮こめるようにして頭を下げ身体を引いて道を譲る。
終始自分を見る目に怯えが現れ、機嫌を窺うような卑屈さが見て取れた女に、千石は一切の興味を覚えなかった。
そもそもここには、三大部隊長である自分をはじめ、柳生や仁王に臆せず接することの出来る人間など一握りもいない。ましてや、上から命令を下すことのできる人間は、この先の部屋にいる人物しかいなかった。
少しゆくと、突き当たりの薄暗い大きな扉の前に二人の衛兵が槍を握り、背筋を伸ばし寝ずの番をしているのが見えた。
衛兵が気づいて千石に小さく敬礼をする。
それに何か返すわけでもなく、千石は手を持ち上げ、下がれと手を払った。
衛兵は一瞬当惑した顔を見せ、二人で顔を見合わせたが躊躇いつつも頷き、頭を下げ千石に道をあけるようにして去っていった。
向こうにその背中が消えるのを見届けてから、千石はそっと扉のノブに手をかけた。
音なく自分の身体を滑り込ませられるだけ引いて、部屋へ入る。後ろ手で扉をゆっくり閉めた。
部屋の内装は一国の主の部屋とは思えないほど、意外にすっきりしている。
それは粛清と大改革を行った結果だった。
王族に蟻のようにたかる貴族どもを制するために、この公国の主が十五の少年になってから、夜会やパーティー、宮殿全体の内装や装飾品のたぐいなどにかけられる予算は半分以下に減った。
もちろんそこらの貴族の館に比べれば、ここも廊下も宮殿自体は豪奢なのには変わりない。
品のない贅沢は必要ない、芸術家や文化を育てるのは平和な時代でもできる、が主の持論で、粛清の際に没収した装飾品は歴史的価値のあるもの意外はすべて売り払われ、減額された予算とともに軍事費に回した。
逆らった者のほとんどは領地の没収に地位を剥奪され、一部の貴族は一族郎党根絶やしにされたところもある。
広い部屋の左端には天蓋付きの大きなベッド、深緑のビロード張りのソファセットがある。
そして入ってすぐに目に入る、バルコニーへとつながる大きなガラス張りの窓の前には、大きな樫のどっしりとした執務机に腰を落ち着け、公務を片付けるこの国の主、跡部景吾の姿があった。
自分が入ってきたことに気づいていないはずもないだろうに、一向に書類から目を離そうとしない跡部に、こつこつ、と遅いノックをした。
「今晩の夜伽は俺がしよっか」
すると、ようやく跡部が顔を上げ、首を傾け扉によりかかるようにしていた自分を見やったので、千石は口の端を少し持ち上げて、まあ、啼くのは跡部くんなんだけどね、と艶やかな目をして笑った。
すると跡部は、何か用かと言っただけで手にしていたペンをインクにつけると、また下へ目を落とした。
そのそっけなさに千石は慣れている。
別段肩を落とすわけでもなく、癖のように足音をさせずに机まで近づくとするりとその角に腰かけ、半身をひねって跡部を見下ろした。
「今日も警護だけ? 侍女たちが城へ来てから一度も部屋に呼ばれたことないって、嘆いてたよ」
愚痴を実際に聞いたわけではなかったが耳にした噂ではあった。
もちろん千石は噂でだけでなく事実としてそのことを知っている。夜にこうして時折、跡部の部屋を訪れているのは自分だからだ。
跡部は返事を寄越さなかった。
淀むことなく羊皮紙にペンを走らせ、自分の名をサインし、刻印を押し、書類を仕上げた。
そして千石を見上げた。
ん、と千石は眉を動かす。目を細め、ほんとにする?とささやくように尋ねて、何も答えない跡部の頬に手を伸ばして触れた。
肌の滑らかな感触を楽しんで柔らかに指で撫ぜ、耳の後ろに這わせる。
つ、と目を合わせた。意志の強い瞳だ。たまに湛えたその光の強さに、目を逸らしたくなるときもある。実際にしたことはないけれども。
片方の手をついて身体を支え、千石は上体をかがめ、顔を近づけた。
殺した微かな吐息を感じるほどの距離でも二人は目を閉じない。
視線を絡ませたまま鼻先が触れた。睫毛が揺れるのが気になって、少し伏せがちになる。
唇を薄く開け、一瞬千石は待つ。
それを見て取ったのかは分からなかったが、その後ですぐ跡部が目に宿す光を優しくして、まぶたを下ろし、顔をわずかに傾けた。
そのねだるような小さな仕草を千石は見逃さずに、迷いなく自分も目を閉じて唇を合わせる。
温度を確かめ合い分け合うように、唇と舌を食むように味わう。
くちゃ、と唾液がなった。静かな部屋に水音と微かに漏れる吐息が潜む。
逃げては追いかけ交じり合う、互いの舌を吸って柔らかに噛み、時折合間を縫ってする息継ぎとともに、どちらのか分からない唾液を飲み下して喉が動く。
何度か角度を変えて、千石は跡部の唇をいとおしむ。
跡部の耳の後ろにやった手が自然と動いて首筋や喉元を撫で回した。
ん、と千石は気づいて声を漏らす。
跡部が深く千石の舌を吸い、もうこれで仕舞いだというように自分ので押しやって、ちゃぷんと最後に唇に軽く吸い付いてから、ゆっくりと離した。
気づいて千石がまぶたを持ち上げると、跡部はもう目を開けていていつもの強い眼差しで千石を見ていた。
頬を撫でていた千石の手をどかし、夜伽はいいと静かに言って、先ほど一瞬見せたあの表情はどこに消えたのか、そっけない顔で机に目をやった。
「手」
「え、ああ」
少し名残惜しくもあった千石は、余韻に浸って跡部の顔を見つめていたが、手をついた際に下敷きにしていたサインしたばかりの書類に気づき手を引いた。身体も引いて机の端に座りなおす。
跡部は何も言わず、ぴっとその書類を拾い上げて処理の済んだ紙の山へ加え、別の山からまた新しいのを一枚取って目を走らせた。
「他に用は」
顔を上げずに、跡部が言う。
千石は机についていた手を少し気にしていたが、インクがこすれてないのを確かめると、床の絨毯に投げ出した足の間にだらりと両手を下げて、別に何もないよと答えた。
「話戻すけど、結局あの侍女たちはどうすんの。夜の相手もだけど、雑用もほとんどさせてないんでしょ」
ばあやさんが言ってたよ、と付け加え振り向くと、案の定跡部はちらりと目を上げこちらを見、すぐに視線を外し、考え込むように部屋の隅に目をやった。
「侍女たちは全員数日中に帰すつもりだ。元々、形だけとってここへ来させた者たちだからな。今手配している」
そして、ばあやにも近いうちに休みを出すつもりだ、と呟くように言った。
そうなの、と目を瞬いて千石は漏らす。
「まあ、ばあやは頼んでも出ていってくれなさそうだけどな」
「言えてる。あの人、跡部くんの世話をするのが生きがいだから」
そこで跡部が少し表情を崩したので、千石も少し笑った。
ばあやは、跡部の母が嫁ぎ宮殿へやってきたときから付いている世話係で、母子ともども長年世話になっている。生まれたときから跡部を知っている、祖母のような存在だ。
だからこそばあやは歯に衣着せぬ態度で跡部に接し、跡部が心を開く数少ない人間の一人である。
民衆や貴族でさえも恐れるこの公主でさえ、ばあやの前ではまだ十五の少年の顔をみせる。
そんな家族のように信頼のできるばあやに休みを出すと言ったのは、この大陸が近いうちに戦乱で荒れるのを跡部は知っているからだ。
その戦乱の火種を蒔いたのは跡部自身。
先日のアーマーン国境軍の奇襲と殲滅の件はもう真田の耳にも届いているだろう。
事が事だ、そして真田のあの性格、話が違うと宮殿へ怒り心頭乗り込んでくるに違いない。
来るならば、知らせを受けてすぐにでもやって来る。明日にでも。
そうすれば三国同盟は破られれたも同然だった。
跡部は和議に出向く気もない。それは攻撃を受けたアーマーン公国も同じ。
ここでまた仲良く致しましょうなどと、へこへこするほどプライドのない公主でもない。
三国のうち二国が同盟破棄となればいくら真田もどうすることもできないだろう。
戦乱の世になる。
千石は身震いすることなく、落ち着いた心持ちで思った。
宮殿のあるこの都にそう簡単に戦火の手が届くとは思わないが、戦線が激しさを増し、長引けばその心配も出てくる。
大切な者や関係のない者を巻き込まないために、ばあやと侍女に暇をやるのを跡部は前からもう決めていたのだろう。
「まあ、誰もいなくなっても跡部くんには俺がいるから」
夜伽でも食事の用意でも何でもするよ、と千石が笑うと、夜伽以外の仕事が心底不安だな、と跡部は鼻で笑ってまたペンを握り直し、紙に何か書き付けた。
それを見やってから千石は上体を戻し、足元にぼんやり目を落とすと、そうか、返すのかと、ふと跡部に聞こえないようひっそりと呟いた。
侍女たちはピンからキリがあるとはいえ、だいたいそこそこの家柄出身の者たちだ。
彼女らが宮殿へ侍女としてやってくるのは作法と社会勉強のためだが、それはほとんど建前で、あわよくば主のお手付きになり子を宿し、権力に一歩近づこうとする家ぐるみの企みが裏にある。
それを主の側も上手く利用し返し味方を作る作戦もあるわけだが、跡部はまず侍女たちを自分のそばに置くことをしなかった。
最低限の体裁やらしがらみがあるから、跡部も宮殿に入れることだけはしたけれど、それまでどおり自分の身の回りの世話や警護は、昔から跡部と母に付いていた召使いと衛兵にさせた。
信頼のおけない者は近寄らせなかった。
そして先ほど千石が言ったように、侍女たちに一度も、誰一人として手を出すこともしなかった。
その理由を千石は薄々とは知っている。
俺さ、と今度は聞こえるようにこぼした。
「ちょっと跡部くんの子ども、見たかったな」
間を置いてから振り返ると、跡部は手をぴたりと止めていて、インクをつけたばかりのペンが紙の上で静止していた。
ぽたり、と小さくペン先からインクが滴り落ち、羊皮紙に黒の不快なしみを作った。
ああ、と千石はそれに気づいて声をもらしたが、跡部は意に介さず、ペン立てにペンを差すとつまらなさそうに息を吐いて、椅子の背もたれへ身体を沈み込ませた。
「俺の子種は蒔かない。最初から、その気はねえよ」
分かってるだろう、と言ってついと滑らかに視線を持ち上げ千石を見つめた。
千石は答えなかった。黙って見つめ返すと、やがて跡部は座り直して両肘をつき、指を組み合わせた手に顎を乗せた。
「どこのアホも、自分たちが権力を握ることしか考えていない。他国との情勢も定まらない時分に、内輪で潰しあいをやっている暇なんてねえ。今ここで俺の世継ぎをそこらの女が身ごもってみろ。また同じことの繰り返しだ」
そう言うと跡部は目を伏せ、肩の力を抜くように一息、長く静かに吐くと少し俯き、俺は、すべてを終わらせるためにここいにるんだ、と独り言のように、けれど決心を口にするように確かに呟いた。
同じことというのは、跡部が公国の主になった経緯のことでもあった。
跡部の母は公国に代々古く続く由緒ある家ではあったが、政治からは離れてもの静かに暮らしている一族だった。それを前公主がその家柄の良さを利用する形で、跡部の母を娶った。
正室でないのもあって、跡部の母と跡部は宮殿から離れた離宮で追いやられるように過ごしてきた。
もちろん公主継承権は跡部になく、それでも母子は幸せだった。
しかし数年前の継承権争いで運命は転がり落ちるように変わった。
醜い争いだった。継承権など興味もない知りもしない、跡部の腹違いの兄弟たちが立て続けに亡くなった。
継承権を持つ家同士が裏で毒を盛り、盛られたら盛り返し、暗殺を企てやり返した結果だった。
内輪の争いが治まらないうちに公主はぽっくりと心臓病で逝き、さらに事態は泥沼化した。
継承権のない自分も巻き込まれかねないと、早くに母と信頼のおける召使いたちと身を隠した跡部の判断は正しかった。
一年後、継承権のなかったはずの第十一公子であった跡部は公主不在となった公国へ戻り、十三の歳で公主になった。望みもしなかった運命に身を投じるために。
その苦悩を見て取って、千石は、うん、分かってるよ、と小さく言って強く頷き返した。
しばらく見つめた後で、思いついたように手を伸ばし跡部の髪をひとふさ、手に取る。
それに気づくと跡部はちらと目を動かした後で、顎を持ち上げ微笑むようにした。
千石は跡部の髪を愛しむように指で撫ぜもてあそびながら、
「じゃあ俺たちの子どもでも作ろうか」
といたずらに笑って言った。
跡部は驚きも変な顔もせず、は、と一笑すると、俺が産むのかと眉を持ち上げた。
「そうなるかな」
「嫌だね、痛えのはごめんだ」
笑って、跡部はやんわりと千石の手を払い、肘をつくのをやめ、ペンを取るとまた書類と向き合った。
千石は跡部が文字を書き綴るのを少しの間眺めていたが、唇を舐め柔らかに噛み、床に目を走らせた。
軽い身のこなしで机から降り、するりと身体を回転させて跡部に近寄った。
椅子の背もたれの間に入り込むようにして、背中から手を回し、跡部の首に抱きつく。
予測していたかのように、跡部は怒ることもなく、ペンを持つ手を休めていた。そして何も尋ねなかった。
千石は、跡部の骨と筋肉の張った肩を、幼い子どもでも抱きしめるように腕を回した。
自分ならいともたやすく折ってしまうことのできる、脆い首筋に顔を埋めるようにする。
鎖骨のあたりに唇を押し付けるように触れてなるたけ感情を抑えた声で呟く。
「感傷的に、なってるわけじゃないよ」
目を閉じて、肩をすくめるように唇を肌にすり寄せる。
跡部の手が静かに頭に伸びてきて、くしゃりと千石の髪を優しく掴み、あやすように撫でた。
やがて、ひどく、寂しそうな笑みをしているんだろうというのが分かるほどに澄んだ声で、
「知ってる」
と答えるのが聞こえて、跡部の顔を見ることの出来なかったことに少し安堵したのと同時に、十字架を背負うというのはこんな気持ちなのだろうかと、とうに消し去ったと思っていた胸をきりりと突くような感情が心に沁みこむのを、感じた。
いよいよ戦いの火蓋が切って落とされる。
いや、すでにもうそれは宵闇の端をじりじりと焦がすように、くすぶり始めている。
それは業火の道になるに違いなかった。
跡部は、身と心を灼かれながらも、それでも最後まで突き進むだろう。
それならばその道を果てなく共に往こうと、千石は強く胸に誓った。
fin.