静けさを取り戻した夜の街、暦はそっとめくられて、今はすでに25日。
俺の誕生日になって、まだ5分少々。
「連れてってやるよ」
ひらりと黒のコートを翻し、たんたんたんと、軽やかに歩くと跡部くんは、
誕生日プレゼントだ、と綺麗に微笑んだ。そして天を指差す。
促されて、頭上に広がる宇宙を見上げる。
ぽっかりと浮かぶ、3センチほどの月。満月には右側の縁が大分足りないな、と思う。
そうして視線を跡部くんに戻すと、随分遠いねえ、と俺は笑った。
お互いの誕生日を一緒に過ごすのはこれで5回目。
出会ったのは中2だけど、そのときはお互いの誕生日なんて知らなかった。
確か、そんな話題を気にすることが出来るようになった頃には、すでに俺の誕生日が終わっていた気がする。
来年からな、そう言ってくれた跡部くんとの約束を、中3の頃から俺たちは形にし始めて、今もそれは続いてる。
幸せな約束のひとつ、だ。
「鍵は」
現れた俺に向かって、第一声、跡部くんが言う。
俺が最後に家を出ると絶対に跡部くんはこうやって確認する。もう合言葉みたいなものだ。
俺たちが一緒に暮らし始めて、もう一年半が過ぎる。
一緒に暮らしたいな、という思いは、そこまで具体的なものじゃなくても、一緒にいればいるほど、沸々と沸いてくるものだった。
でも、だめだろうなって俺諦めてたんだホントは、と、お互いが大学合格を決めて、ようやく決心して一緒に暮らそうと告白をしたところ、意外にもあっさりとOKの返事をもらったときに俺は跡部くんに苦笑いしてみせた。
たった一人の跡取り息子を、そう簡単に親元から手離すはずはないと、割と古風な考えを持っていたのは俺の方だったようで、跡部くんの親の方が一枚上手だった。
すんなりとことが進んで、高校卒業、大学入学とともに、今の生活が始まった。
もう今年で二年目なわけだけれど、アツアツ新婚生活中です、といまだ俺はお約束通り、来る友人に繰り返し吹聴してその度に跡部くんに、これまたお約束通り叩かれたりしている。
それを見ては周りも、夫婦喧嘩は俺たちがいなくなってからやってくれと呆れたように言うから、
やっぱり幸せだな、と思ったりする。
うん、本当に、幸せだ。
灯りのついた眩しいアパートのエントランス(その横文字と実際の雰囲気はまったく合っていないのだけれど)
の階段を駆け下りて、跡部くんの目の前で、だいじょぶ、ちゃんと閉めたよ、とまだ手にしていた鍵を掲げて揺らす。
跡部くんもそのやりとりは慣れたものなのか、特に返事をすることなく、お前はそっち、と顎で示した。
「今日は俺が運転する」
そう言うと、跡部くんは漆黒のビートルに颯爽と乗り込んだ。
「それで、お前何持ってきたんだよ」
回り込んで右の助手席に滑り込んだ俺に、シートベルトを閉めながら跡部くんが尋ねる。
連れてってやる、跡部くんのその一言で、俺たちは真夜中に出かけることになったわけだけれど、
車を回すから待ってろと跡部くんが俺を残していった間に、俺が家に戻って用意していたものといえばステンレス製の水筒だった。
その銀色の金属の筒を後部座席に放る。
「あっついコーヒー。身体あったまるし、眠気覚めるし」
ガスコンロに置いてあった、お湯の残ったやかんに水を足して沸かし、インスタントコーヒーで急いで作ってきたのだ。
途中で缶コーヒーを買ってもいいかなと思ったのだけれど、こっちの方が断然保温効果は高い。
「ふうん」
跡部くんはちらりと後ろを振り返り、水筒を見やった。
11月の下旬のともなれば夜は随分冷え込む。今も、指先がかじかんでいる。
暖めた息を吹きかけていると、跡部くんがキーを差し込んで回し、どるん、と唸る音がして車体が震えた。
「行くか、」
バックミラーに跡部くんが触れる。俺は、さっと手を伸ばしてエアコンのスイッチを押した。
生温いともいえない風が流れ始める。そのうち、温まってくるだろう。
「うん、行こっか」
シートベルトを閉めた俺を見つめ、サイドミラーに視線を移すと前後を確認して、歩道につけていた車をハンドルを切りアクセルを踏み込んだ。
免許を取ったのは、昨年の秋頃。
跡部くんは、もうちょっと早かった筈だ。8月あたりにはもう持っていた気がする。
免許を取ったのはそれなりに早かったけれど、車を持ったのは今年の春だ。
跡部くんの両親が車を買ってくれる話があったのだけれど、跡部くんはそれを断った。
教習所代は素直に出してもらっていたけれど、車は、俺と二人で使うから自分たちで買いたいと俺に告げた。
俺は勿論それに賛成して、二人でバイトしてお金を貯め、この黒のビートルを買ったのだ。
一目ぼれ、だった。
何軒か中古車チェーン店を回り、確か4軒目で俺たちはこのビートルを目の前にして顔を見合わせた。
それですぐに決まった。
VWのビートル、勿論左ハンドルで、色は闇を吸い込んだような漆黒、まるでピアノみたいだ、と跡部くんはそのとき言ってた。
走行距離が結構いってたから、VWにしては安い方だったと思う。(それでも少し予算オーバーだった)
ひとつだけ、車内が少し狭いのが欠点といえば欠点。
一応5人乗りだけれど、きっと大人の男5人がこの車に乗り込んだなら、それこそ鮨詰め状態になる。
体格のある奴だと後部座席に3人は座れないんじゃないだろうか。うん、樺地くんとか絶対無理。
でも基本的に、跡部くんと俺、二人しか乗らないわけだから、そこら辺はあまり問題ではない。
後部座席に乗ってもいいのに、俺たちは今見たく助手席と運転席にしか座らない。
助手席と運転席も大分近くて、俺はそれが結構嬉しいわけだけど、(跡部くんだってきっとそうなはずだ)
外から見れば、ちょっと、滑稽かもしれない。
ゆっくりと車が減速して止まる。
顔を上げると、赤信号だった。先頭に止まった俺たちの車の前を、白いラインの横断歩道が光っていた。
街はまだ起きている。
コンビニやレンタルビデオ店の明かりが歩道を照らしている。
けれど、シャッターが降りても光り続ける店の看板、マンションや一軒家から漏れる明かりの少なさ、歩道をぽつんと照らす街灯、そういったのを見ると、夜の街はもう寂しかった。
夜を往く車の数は、まだそれなりに多かった。右から左、左から右、流れが絶えることはない。向かい側の反対車線にもそれなりの車が待っている。トラックが多いな、と思う。
歩いている人は、さすがに少なかった。この気温のせいもあるに違いない。
大分車内は暖まってきたけれど、揺れている街路樹を見ると、少し風が出てきたようだった。
会社帰りの中年の男が一人、横断歩道を渡っていった。
俺たちの車の前を過ぎるときに、ちらりとこちらを見やっていき、俺たちを滑稽だと思ったか良い車だと思ったか、どちらかかなと俺は思った。
ん?
カチカチカチ、と音のするウィンカーランプ、そして車が止まっている車線、それを確認して、あれ、と思う。
「跡部くん、左折?」
右折じゃなくて、と首をかしげてハンドルを握ったままの跡部くんを窺う。
跡部くんは、俺の方見ずに瞬きすると、
「多摩川渡って、東名高速に入る。何だよお前右折って」
と発車させた。信号が変わったのだ。ハンドルを切り246号線に入る。
俺は頭をかきながら走り出した重力に従い、座席に背を預けた。
「え、あ、うん、茨城に行くならって思って」
「茨城?」
「や、えっと、つ、つくば? つくばに行くのかななんて、思ってさ」
「はあ? つくば?」
「いやうん……何でもない」
素っ頓狂な声を上げた跡部くんに、俺は気にしないでという意味を込めて片手を横に振った。
俺はなんとなく、本当に根拠もなく、もしかしたらつくば宇宙センターに行くんじゃないのかなあと思っていたのだった。
一回テレビでつくば情報センターの特集見たことが会って、確か跡部くんも一緒に見てたのだけど、
宇宙ステーションの実物大のモデルや、人工衛生の完全な複製が展示してあるところで、行ってみたいねなんてことを話したのを記憶している。
だから、何かイベントでもあるのかなと思ってて、それに連れてってくれるのかなあとか、考えてみたりして、
つくば市の茨城に行くには右折して、常盤自動車道に入らなければならなくて、だから俺はおかしいなと勝手に思ったわけだ。
ああうんでも、そうか、それだったらこんな夜中から向かったりはしないですねはい。
一体何時から開館なんだよ、と心の中で自分につっこむ。
俺のその考えを見透かしたように、跡部くんがくつくつと笑い出して、
「つくば宇宙センターじゃねえぞ」
と本当に可笑しそうに言った。
多摩川を渡るってことは、神奈川県。目的地はそれよりも先かもしれないけれど、何か思いつくところはない。
まさか、本当に月に行くなんてことは、ね。
ちらっと、ビルの陰に見え隠れしている三日月を見やった。
「勿論、まだ秘密だよね」
身体を傾けて、肩を寄せてみる。狭いからすぐにぴたりとくっつくことが出来た。
跡部くんがゆるやかにカーブした道路を走る最中に一瞬俺に視線をくれる。
「まだっつうか、当分秘密だな」
「はい、楽しみにさせてもらいます」
笑い混じりの声に、俺も笑いをもらしてお辞儀してみせる。先ほどからずっと跡部くんの機嫌がいい。
俺は振り返って後部座席に置いた水筒に手を伸ばすと、飲む?と跡部くんに尋ねた。
短い返事を受けて、ゴムのこすれた音をさせてふたを開け、慎重に気をつけてコーヒーを注ぐ。
白い湯気と、香ばしい匂いが漂う。ふたを持つ手がじわじわと温まっていく。
足に挟んで注ぎ口を片手で閉め、ふと窓の外を見る。橋上を走っていた。
夜の闇のせいで分かりづらいが、下を川が流れている。道路灯の光を鈍く反射する水面を認めてそれが分かった。
さっき話していた多摩川だ。
昼間なら子供たちが野球か何かをしているのだろうな、と土手下のグラウンドを見て思う。
「ねえ、今度昼間にこういうとこに来てみない?」
一口コーヒーを啜って俺は、外を眺めた。
流れの遅い川は、どちらに流れているのか判断するのをふと迷う。吸い込まれそうだ。
それもきっと、陽の下ののどかな世界では、ゆったりとした気持ちにさせてくれるものなんだろう。
「お前と?」
跡部くんが言う。
「勿論」
他に誰がいるの、と口を尖らせる。跡部くんは、こういう遠回しな、ちょっと試すような物言いが好きだ。でも。
「ま、いねえな」
つ、と跡部くんが自分の唇をなぞる。運転中なので、視線は変わらず前だけど。
「でしょ。おべんと作ろうか俺。跡部くん、あーん、なんてさ」
「それはいらねえけど。いいぜ、天気の良い日にな」
……ほらね、その後はちゃんと俺の欲しい言葉をくれる。
川は過ぎた。橋の終わりに差し掛かって、道が下り始める。ちょっと先で車が列を作って停止していた。
ブレーキを踏み込み、やがてとまる。
ようやっと俺は跡部くんにコーヒーを渡した。
跡部くんは、ぽつりとあったかい、と呟くと両手でふたを包み込んで、肩をすくめるようにして口をつけた。
「あったまるでしょ」
幸せそうな跡部くんの仕種に、ちょっぴり嬉しくなって笑う。
跡部くんは目を合わせると、はにかむように笑ってああと言った。
エンジンを吹かす音が道路に響き始める。車の列が動き出す。
はい、と手を出すと跡部くんは残りを一気に飲み干して、俺にふたを受け取らせるなり、ぐいと手首を掴んで引っ張り、俺の唇に自分のをくっつけた。
自分の唇を舐めるようにして、俺のも絡めとる。コーヒーの温かみと味がじんわりと伝わってきた。
そうしてあっさり離すと、
「夜だからな」
と益々機嫌の良さそうな顔をして、アクセルを踏み、前の車を追いかけるように制限速度より少しスピードを出した。
「……やられた」
ふたを握り締めたまま俺が小さく言うと、跡部くんは面白そうに声を立てて笑った。
流れ消えていく白い長方形の、まるで足跡のような車線を、追い越して追い越して、まだ、追い続けて、随分走ってきた。
まだ月は遠い。
当たり前なんだけど、その大きさはまるで変わらなくて、俺の左の窓からその姿をずっとのぞかせてる。
3センチの三日月。
腕時計の蛍光ランプを押す。ブルーの仄かな文字盤が2時を示していた。
ビルやらやかましいネオンやら、都心の風景はもうとっくにない。
木々の固まりと分かる濃い影の隙間から、ちらつくように町のぼんやりとした灯りが時折覗く。
都心近くにいたときはまだ交通量もそれなりにあったものだけど、ここまで来ると、時間帯もあって車は少なかった。
俺たちみたくぽつんと走っているのを追い越したり、大きなトラックがぐんぐんと俺たちに迫って追い越されたり、
そんなことがたまにあるくらいだ。
なんだか、やたら遠いところに来てしまったような気がした。
神奈川はとうに過ぎ、静岡に入って30分ほど走ったところでサービスエリアに寄った。
エアコンで温まっていた車内から出ると、冴えて湿気をたっぷりと吸い込んだ空気が意外にも気持ちいい。
息を吸うと、何か新しいものでも取り込んだような気分になる。
澄んだ空気が頬を撫ぜ、顔が火照っているのがわかった。
降り立った俺と跡部くんは、固まった身体をほぐすように、伸びをしたり腕を回したり軽く体操みたいなことをしながらトイレに行き、パンを一つずつ買って、コーヒーだけではごまかせなかった胃を満たすことにした。
車に戻る間に袋を破って、かじりつく。
隣で俺と同じように、歩きながらパンを頬張っている跡部くんを首を傾げるようにして窺うと、跡部くんがパンを差し出した。
笑って応えて、遠慮なくかぷっと一口もらう。うん、ジャムパンだ。
俺も差し出すと、跡部くんが俺の手に自分のを添えて、一口かじった。飲み込んで、口の端を親指で拭う。
ん、と満足そうな呟きをもらした。
「メロンパン好きだよなお前」
「君の好きなクリームパンはなかったねえ」
もごもごと口を動かしながら喋る。すると跡部くんは、俺が好きなのはモアーズの、と言って最後の一口を口に入れた。
その背中に、軽く身体をぶつけてみる。
跡部くんはちょうどパンを飲み込んだところで、数歩よろめくように歩くと、一呼吸置いてから俺を振り返り、
いたずらっぽく微笑んで、俺にも同じことを仕掛けてきた。
不意打ちにバランスを崩してまだ持っていたパンの欠片を落としそうになって、うわ、と俺が慌てると、
その腕を支えるように跡部くんが掴んでくれた。
何やってんだよ、と目を細める。
だってさ、と俺が笑う。
冷えた手で跡部くんが俺の頬を触った。その冷たさに身をすくめると、跡部くんがまた目を優しくして笑った。
身体を離し小さく駆けていく。
それを追い、また身体ごとぶつかってみたり、肩をくっつけたり、頭を寄せて意味もなく笑い合って、
アルコールが入ったみたくじゃれ合って車に辿り着いた。
ガソリンを入れて高速に戻る。相変わらず車はほとんどない。
車の中は静かだ。
外から響くエンジン音はほとんどないし、ラジオもつけてないし、音楽もつけてない。
車のエンジン音の邪魔になる、とか、そういった車好きからくるものではなくて、
ただ、この車が古くてカーステレオ自体ついてなくて(窓もパワーウィンドウじゃなくて手動のだし)、オプションでつけることも可能だったわけだが、予算の都合上やめただけだった。
別に不便なことはなかった。
BGMが欲しいと思ったときは、俺のスピーカー付MDウォークマンを持ち込めばよかったし、
二人で話していればBGMなんて必要なかったし、
基本的に、二人で一緒にいる、それだけのことが出会った頃から今でも変わらずに好きだ。
静かに唸るエンジンの音、どちらかともなく歌う鼻から抜ける掠れた旋律、そういうのが溶けた沈黙は心地いい。
今もそっと跡部くんが歌を呟いている。途切れがちのそれはよく耳にするやつで、確か花の名がついた曲だ。
ちらっと跡部くんを盗み見する。
夜の闇に対して寂しすぎる明るさの、道路灯の光を受け、ときどき思い出したようにその輪郭がなぞられ現れるかと思うと、またすぐに色の沈んだ灰色の横顔に戻った。
ぼんやりとその色の浮き沈みを眺めていると、歌が止み跡部くんの右手が動き、とウィンカーランプが点いた。
車線を変更し、一番外側の道路を走り始める。浜松インターチェンジの標識が目に入る。
どうやらここで高速を降りるみたいだった。
「やっとゴール?」
近づいてきた出口の下り坂を見やる。浜松って、何かあったっけと思いつつ。
すると跡部くんは、
「もう少し」
とハンドルをゆるく傾けた。
高速降りたて少し走ったところで、一回車を路肩に寄せ、跡部くんが持ってきた地図を確認し始めた。
俺がナビするよ、と申し出たらすごい勢いで断られた。地図を頑固として渡してくれないし。
訝しげに、地図に目を落とす跡部くんを見守っていると、車内の電気をパチンと消して跡部くんがにやりと笑い、
「よし、覚えた。行くぞ」
とまた出発した。
景色はこれといって綺麗というものじゃない。
車窓から見る町の様子は、いたってどこにでもありそうな、ちょっとした田舎みたいなところで、森林が多く、
確かに空気が良さそうだなあとは思うけれど、跡部くんが俺の誕生日に連れて行ってくれるような、
そんな特別な場所には思えなかった。
夜で、よく見えないのもあると思うけれど。
月が俺たちの真正面に移動していた。地上の光が少ないところに来たせいか、夜の闇が一層濃くなって月の白い輝きが映えている。
何だかちょっとだけ近づいたような気分だった。
それからどのくらい走っただろう、川沿いに出たと思ったら、そのまま橋を渡った。
川の流れるごうごうという音が響いている。多摩川よりも橋脚が低いからだろうか。
渡りきって少しいった道路脇に川下り、と書かれた看板があった。この川は天竜川というらしい。
闇に馴染んで岸辺との境目もよく判別できない川を眺めていると、跡部くんが車の速度を少し落とした。
後続の車なんてないから、確かに迷惑なんかにはならないけれど、不思議に思って、どうしたの、と尋ねる。
「あの道路標識」
跡部くんが口の端を上げて言った。
見つめる方向に目をやると、どこにでもよくある青い道路標識が、あって、うん?白い文字で…………えっと、
“月 3km”
「…………うっわ、やられた!」
弾けるように笑いがこみ上げてくる。
ぐるぐると取っ手を回してがーっと窓を開け、身体を乗り出した。
寒さなんか感じなかった。勢いだけが顔を打つ。
月まで3キロ、その標識の上には、夜の深い青、そして流線と鋭形の綺麗な三日月が浮かんでる。
「すっげえ! ねえ跡部くん月まで3キロだって! 月だよ月! うっわーあそこまで3キロしかねえの!すっげえ!」
風の流れが耳のそばでして、急に騒がしくなった俺の世界に、俺は負けじと声を大きくした。
腕のあたりを中から引っ張られる。微かに、危ねえから戻れ、という跡部くんの声が聞こえた。
標識の少し手前で、車がゆっくりと端に寄る。
俺は身体を引っ込ませようとしたそのとき、車がブレーキをかけて止まり、その振動でこめかみのあたりをぶつけた。
さすりながら座りなおすと、エンジンを止めた跡部くんがどうよ、とそれはもう嬉しそうに笑っていて、
俺は、迷わず首に抱きついた。ぎゅうっと抱きしめて、冷たい頬に俺のをすり寄せる。
「最高! だって、月、だよ。ああもう何これ、すっげ……」
「お前、こういうの、好きだろ」
耳元で柔らかい声がささやく。うん、と俺は頷いた。
「すっげえ好き。心臓がすっごいばくばくいってる。うん、すごい、今ならどこにだって行ける気がする」
あの月の先にだって、俺がそう言うと、跡部くんの笑い声が耳にかかった。跡部くんがその耳の後ろの髪の毛を梳くように撫ぜた。
俺も、跡部くん後ろ毛を梳き、ちょっとだけ苦しくなった今の体勢を直すために、身体を離す。跡部くんの手も離れる。
「ありがと」
真正面から俺が笑いかけると、跡部くんは、跡部くんは目を伏せて俯き加減に笑みを零し、どういたしまして、と返した。
「頭ぶつけるほど騒ぐとは思わなかったけどな」
と、手の甲を口にあてて笑う。
仄かな月明かりに、跡部くんの顔が浮かび上がる。白い透き通るような頬を灰色の陰影が縁取る。
白いベールをかけられたみたいに黒いコートの色が霞んでいる。
薄茶の髪は陽の下で見るよりかは色が沈んでいて、夜の闇に少し染まっていた。
微かに震える睫毛の黒だけが、艶やかに光を受けて煌く。
その曲線が、まるで三日月みたいに綺麗だった。
「跡部くん、」
瞳を開けた跡部くんに、手を、伸ばす。顎の線をなぞって、頬を辿る。
「俺、ほんとに月に来たみたいな気がするよ。嬉しくて、身体がふわふわしてて、まるで、無重力だ」
鼻先が触れ合うほどに顔を近づけて、俺は、目を細めて細めて、幸せそうにきっと笑った。
じゃあ、さしずめこのビートルは宇宙船だな、と跡部くんが言う。
ちょっとだけ泣きそうな、掠れた笑顔を見せて、俺の前髪を一筋掬い上げる。
「誕生日おめでとう」
そうして、跡部くんがまた目を閉じたから、俺はその三日月にそっとキスをした。
月に、辿り着いた。
fin.