「結局何が言いたいんだ」
女みてえと跡部がつまらなさそうにため息をつき、手をすっとあげ切り上げる仕種をした。その上自分に背を向け歩き出そうとするのに千石は盛大に顔をしかめる。
「何それ」
緊張を含んだ硬い声が、柔らかいと形容するのがふさわしい夜の闇と昼の空の名残が溶け合う空と空気の中に響く。どうして自分と一緒に帰るのか、自分と会うのか、そんなことをふと尋ねてみただけのつもりだった。それがなぜこんなふうに突き放すように返されなくてはいけないのかが分からない。
呼び止めに振り返らない跡部に火のついた感情をなるたけ抑えるようにして追い、横に並ぶ。
「ちょっと聞いただけじゃんか。どうしてそんな怒んの。そういう跡部くんの方がいらついてるんじゃん」
「そう思うなら思ってればいい」
冷めた横顔で跡部が言い放つ。その物言いに千石は一瞬言葉を詰まらせ、抑えきれない感情をあらわにした。
「だから! どうしてだろうねって俺は言っただけだろう! 合宿での出会いは最悪だったし、なのに、なんでこんな仲良くなったんだろうって、ちょっと思っただけじゃん」
「それで」
あっけない一言を返して跡部が足を止めた。そうして千石を見つめる。は?と千石は見つめ返して目をしばたいた。
「それでって」
「お前の、好きなようにすればいいじゃねえの」
何を言ってるんだと千石はさらりと言ってのけるこの人物を目の前にして思った。好きなように。その言葉がふわりと形なく千石の心の中を確かに支配して揺らめく。好きなように、そうできたらと思いはする。心の底から。でもそれは。
「ねえ、でも、それって」
想いのまとまらないままに言葉を吐き出して、千石は跡部を見た。すると珍しくいらついた声が矢継ぎ早に飛んだ。
「だから、勝手に手でもなんでもつなげばいい。抱きしめたきゃ勝手にそうしろ。お前の勝手にすればいい。そうだろだってお前、」
そこまで聞いて千石は思いがけず叫んだ。自身がいちばんそれに驚いて慌てて口元を手で覆った。跡部も小さな悲鳴に驚いたようで目を見開くようにした。そうしてすぐに、ああと小さく呻いて苦いものをかみ締めたような表情を作った。困ったように眉間に皺を寄せ神経質にちらりと瞬くまぶた、言葉を探して空を食む唇。見慣れない跡部の様子に千石はふつ、と胸にもどかしさを感じて苦しくなった。
「……なんだよ、もう」
そうだそんなの分かってるじゃないか何もかも。
誰のものだか分からなくなった臆病さに千石は強く唇を噛んだ。跡部の顔を見やる。それは鏡を見るようだった。瞳を覗き込まなくったって分かる。ああ、彼は自分だ。塗りつぶすようにまぶたを下ろす。
正体が分かった途端、瞬時に腹の底が煮えた。内臓が焦れて焼けるように何かが身体の中を這いずり首筋がぞわりと熱を持った。耳たぶが熱くなる。かっとなるってこういうことだ、とそれだけ人事のようにぽつりと思った。拳を握り締める。胸の前まで振り上げて、耐えるようにつぶっていた瞳を開けた。
目が、合う。
さっきまでの表情が消えうせて跡部が真っ直ぐに千石を見つめていた。千石と、かざした拳を跡部がそっと交互に見やる。そこで千石は手が震えていたことにようやく気づいた。そして、振り上げた拳にはじめて気づく。ああこれはなんてものだろう。ぼんやりと考えながら跡部から目を離したときだった。
「殴らないのか」
たった一言跡部が確かに言った。
それでぜんぶ千石は夢から覚めたような心地になった。急速に腹底のマグマが冷えていく。緊張に張り詰めた首筋の熱がすっとほどけて肩の力まで抜けた。水鏡のような澄んだ跡部の瞳を見つめる。それはすべらかに千石だけを映していて他には何も見えなかった。
殴らないよ、殴らないと繰り返しながら震える右手を下ろし俯く。
「そんなこと、しないよ」
溢れ出た何かを千石は袖口でこすって拭った。跡部の温かな手が伸びてするりと自分の髪をすくように頭を引き寄せられ、もう片方の手はなだめるように背中を一往復してそのまま留まった。すっぽりと跡部の身体に自分を預ける形になって、千石はその肩口に額をこすりつけるようにした。ぽた、と熱を持った涙が跡部の制服に落ちて跡を作る。悪かった、と静かな声で跡部が謝るのを聞く。
「俺は今、お前が抱きしめたくてこうしてる」
俺が、だ、と念を押すように言って、跡部は千石の頭と背中をかき抱く手の力を少し痛いくらいに強くした。震える背中が大きく上下して千石はひとつ息を吐く。ああうん分かってる、そう言いたかったけれど吐息にまじってしまって形に出来なかった。握り拳をほどいた手を、跡部の背中に回して抱きしめるのに使う。同じ想いを返すように、同じだけの力をこめて。
跡部くん、俺のことこわかった?と顔を上げ耳元でささやくように尋ねると、それはねえよ、とやわらかな声が小さくした。
「でも、憎いくらいに俺のことが好きなんだろうなとは、ずっとまえから、思ってた」
自分の言葉をかみ締めるように、子どものたどたどしさを残して跡部が言う。
千石はその答えを胸のうちで反芻して馴染むまで待ってから、自分のまつげがちらちらと震えるのを感じてそっとまぶたを閉じた。
(おれはこのときはじめて、これが恋だと、しったんだ。)
fin.