8月最後の土曜日、全国大会初日。
全国大会は日曜日と合わせて、二日間で全試合が行われる。
すべてと言ってもいいくらいの、時間と想いを込めて目指してきたものは意外にも短い。
その方がいい、と千石は思う。
募りに募ったこのありったけの熱情をぶつけるには、後であっけなかったと思うくらいの潔さが丁度いい。
そして、届かなかった者たちがこの舞台に想いを馳せるのも、刹那でいいと、思った。
深呼吸をひとつ、する。
朝の空気はまだ位置の低い太陽にさらされ始めたばかりで、吸い込むと朝露の水分を含んでいるように、すうっと冷が肺に染み渡った。
かき氷を食べたときみたいに、喉が冷たい。
それでも連日の残暑と同じく、今日も天気予報は快晴を告げていたのを千石は思い出した。
会場は静かだ。心地よい緊張感が辺りを包んでいた。
都心から少し離れたところにあるこの場所は、急速な都市開発が進む中、きちんとレイアウトされたように木々に囲まれていて、自然を感じさせようとするつもりが逆に違和感を感じさせている。
開会三時間前の会場に集まっているのは、出場校の生徒や関係者がほとんどで、皆額を寄せてミーティングをしているか軽く身体を温めに入っているかのどちらかだ。
山吹中はちょっとしたミーティングを終えたところだった。
あと少しで選手登録が始まる。出場予定選手の状態を確認して、部長の南が当初の予定で登録する準備を始めた。
そのダブルスの相棒である東方、そしてもう片方のダブルスである、喜多と新渡戸がアップに入る。
まだ開会式すら始まっていなかったが、一応出番の早いことと、これから混雑してくるだろう会場の雰囲気を考えると、何より、身体を動かすことで気を紛らわせたいのだろう。
そんな空気が少し感染ったのだろうか、シングルスである室町と錦織が南に断り、軽く走り始めてテニスコートの向こうへ消えた。
千石は、仲間たちがそれぞれが口数少なく、自分の気持ちを上手く消化しようとしている様子を見、
さて自分はどうしようか、と思ったりして、随分と俺もマヌケだなあとすぐに自身で答えを出し、それがなんだか可笑しくて苦笑いした。
なんとなくスポーツバッグから取り出してみたラケットでぽんぽんと軽く肩を打つ。
続けて、グリップと面の一番端をそれぞれの手で掴み、頭上で引っ張るようにして伸びをした。
太陽の光を顔で受けるように、少し身体を捩ってみる。熱が、じわりと千石の肌を焦がした。
千石は顔を逸らしてもう一度大きく伸びをすると、試合前に倒れたら本末転倒なんて、する必要のない説明を心の中で呟き、素振りの真似をしながら木陰に入った。
木々の植わっている土の部分とコンクリートで舗装された道路部分の境目の段に、っしょっと、と声に出して腰かける。
深呼吸、ふたつめ。
目をつむってたっぷりと息を吸い、ゆっくりと瞼を持ち上げつつ、ゆったりと吐く。
微かに、息の流れ、そして指先が震えているのが分かる。
緊張しているんだやっぱり。
そう思った途端、強烈な力でぐいっと自分を後ろに引っ張りこまれそうな力が現れるのを感じて、
千石は頭を振った。
落ち着け、俺。
ぎり、とガットの張りを確かめるように、手に力を入れる。
飲み込まれてたまるもんか。ここまで、来たんだ。あとは、今までの力を出すだけじゃないか。
ただそれだけじゃないか。
「よし」
決意を固めるように口に出して千石は頷いた。すると、
「何いつになく真面目な顔してんだよ」
と、ことりと靴の踵が鳴る音がとともに、久しぶりにノイズまじりではない澄んだ、いとおしい声が耳に届いた。
見上げて顔を確認するまでもなく、千石は素早く立ち上がり、少なからず驚いた表情で声の主を認めて、跡部くん、と小さく発した。
「見に来てくれたの?」
「まあな。いろいろ気になる選手もいるし」
跡部は薄く笑うと、周りに目をやり、誰もいないテニスコートを眺めた。
千石にとって見慣れた普段着で跡部はやってきていた。肩にはいつもより小さめのスポーツバッグがかけられている。
なんてその姿がこの場所にそぐわないんだろう、と千石は思った。
ユニフォームを着てテニスラケットをここで握る姿が誰よりも似合うのは、目の前の彼だ。
影の色をその身に落としている跡部に、千石は再び口を開いた。
「それ、」
バッグを指差す。跡部は気づいたように千石へ視線を戻すと、ああ、と軽く頷いて、
「帰りに宍戸とかと打ってくんだ。あいつらも見に来てるぜ」
あっちの方にいる、と跡部はテニスコートの向こう側を顎で示した方を千石は見やったが、宍戸たちの姿は確認出来なかった。
ふうんと返事をして、じっと千石は跡部の肩にかけられたバッグを見つめた。
このバッグも千石は見慣れている。
まだ部活も差し当たって忙しくなかった春頃、二人は休日にテニスを楽しむことがあった。
別に他のことをして過ごしたって良かったのだけれど、二人で出かけたり部屋で過ごすことがつまらないわけでもないのだけれど、どちらかがテニスの話を持ち出せば、自然と外へ足が向いていたのには、
それこそ二人でストリートテニス場への道すがら笑いあったものだった。
きっとその笑いはこのひととテニスが出来るという楽しさと嬉しさも内包していたに違いなかった。
突然ということがほとんどだったから、千石がテニスラケットなどを用意していることは少なかった。
貸してと無邪気に笑う千石に対して、跡部は自分の使っているラケットをほらよと気に留めるふうもなく渡した。
千石は自分のラケットにこだわりがあるタイプではない。
ラケットの面の大きさは気になるところがあるものの、ラケットによってそう差があるような部分でもないし、グリップの握り心地、ガットの固さなどには特に気にならない。
だから借りているうちに、跡部のラケットは手に馴染んだ。こだわりはないけれど、ガットの固さも好みだった。
氷帝によく遊びにいっていたのも、あの頃だ。
何かの用事で、跡部がコートを離れていた間、ジローと打ち合うことになったことがある。
千石は学校帰りで自分のラケットも持っていたのだけれど、きちんとベンチに置いてあった跡部のラケットが目に入り、それを手に取った。
と、レギュラーメンバーに一斉に、早く戻せと慌てた様子で言われたのだ。
黙って借りるのはよくないということを咎められたのかと思ったが、そもそもそれ以前の話だった。
跡部が、基本的に自分のテニスラケットを触らせない、ということを知ったのはそのときだ。
それを自分だけには許している。
千石はどれだけ嬉しかったかしれない。
嬉しすぎて一瞬ぼうっとして、ラケットを落としてしまったときの周りのメンバーの顔色を、今でも笑いとともに思い出すくらいだ。
そういえばそのときラケットの横に、これもきちんと置かれていたものも、珍しいなと思ったのでよく覚えている。
スカイブルーの布地に、オレンジと白のライン。
二人でテニスをするとき、跡部は必ずそれを持っていた。
あのラケットが入っているバッグだ、千石はそう思って、目の前にある跡部のバッグに手を伸ばすようにした。
「跡部くん、」
ん、と跡部がその手を目で追う。千石はそっとバッグに触れた。
「ラケット、貸して?」
「……ラケット?」
千石がすでに手にしているラケットに目を落としつつ、跡部は訝しげな声を出した。
ガットが切れたのだろうか、そんなことを考えて見ているのだろう。
や、壊れてないんだけど、と千石は笑いかけると、
「跡部くんのラケット、使い慣れてるから」
貸してほしいな、なんて、と言い、だめならうん、いいんだけど、と付け足した。
跡部は、少し上目遣いにして千石を見、言おうとした言葉を飲み込むようして息を吸い上げると、
「いいぜ、持っていってくれよ」
と目を細めて笑った。
「どうしよう俺、百人力だ」
「だといいな」
眩しそうな表情を跡部はした。バッグからラケットを取り出して千石に手渡す。
千石は自分のを脇に抱え、受け取るとグリップを握り、ひっくり返してみたりした。
「跡部くんと俺で、ダブルスVSシングルスだね」
跡部はぷっと吹き出して、なんかそうやって言うと卑怯くせえな、と表情を崩した。
「そう?」
少し安心した千石は、首をかしげてみせた。
すると、跡部は先程千石がそうしたように深く息を吸い込み、吐き、真っ直ぐに千石を見つめた。
「そいつだけでも連れていってくれ」
目を合わせた千石は、一呼吸つまって口にした。
「……跡部くんは?」
「俺は、」
そこで一旦言葉を区切ると、誇らしげに笑って、
「俺は来年、自分の力で行く」
と言った。
千石の脳裏にその姿がありありと浮かぶ。
きっとそうなるだろうと思った。
彼に相応しい舞台に、跡部は自分の力で立つと、確信に近い気持ちで思う。
「……うん、君と、戦いたいよ」
「ああ待ってろ」
声を立てて跡部は笑った。
千石がラケットの滑らかなそのラインをなぞるように、人差し指と中指でなでた。
そうだ。
今までの力を出すだけじゃ、ない。それだけじゃなかった。
どういう経緯であれ、自分は多くの者を蹴落としてここまできたのだ。
蹴落とした先に、立っている。
風に、木立がざわめいた。足元の葉陰が合わせて揺れる。影に出来たところどころの光の隙間が、ちらちらと動く。
そのとき、ふと、跡部が小さく呟いた。本当に無意識のうちに、洩らしてしまったかのような呟きだった。
「持ち主より先なんて、ずるいな」
……恥じない試合をしたい、しようと、千石は思った。
この指先の震えは、不安や緊張を押さえ込もうとする必死さの表れなんかではなく、武者震いであるべきだ。
顔を上げた千石が見たのは、
陽の当たらない木陰の下で、眩しそうに笑う跡部だった。
fin.