暑い盛りの中、関東ジュニア選抜合宿もいよいよ明日、最終日を迎えようとしていた。
日米親善ジュニア選抜大会の開催が決定され、アメリカ西海岸の選抜チームに臨むメンバー候補として選りすぐりのメンバーに集合がかけられ、もう一週間が経つ。
皆なんとなしに選ばれるであろう人物たちの予測はついていたが、試合でしか戦ったことのなかった者、戦ったことすらない者のプレイを見て学ぶことは多く、日が経つにつれて雰囲気がだれる、というようなことはなかった。
勿論誰しも選ばれたいという思いはあるけれど、己を高めるためという目的を始め、部での新しい練習方法の参考にするためなど、個々でしっかりとした目的を持ち、練習に臨んでいるものがほとんどだ。
関東のみとはいえ、選ばれた者ということもあって、お互いほとんどの者が一度は名を耳にしたことがある存在。
良きライバルとして馴れ合うことはなく、けれどそこは中学生、ひとつの部活のようにまとまりを見せているところもあって、終わりを迎えようとしているのは、どこか寂しかった。
勢いよく蛇口をひねる。
沁みわたるような冷気を撒き散らして、白い飛沫が散り、それはまるで滝のように、乾いてからからのコンクリートに打ち付けた。
両手で受け止めてほんの少しの間、清廉な流れに浸る。
そして、蛇口を少しだけ閉めて、両手ですくった水を顔に浴びせた。
顔の熱が、じん、と一瞬疼く。続けてもう一度浴びた。最後にまたすくって、今度は丁寧に顔を洗うようにした。
きゅっ、と音をたてて、蛇口を閉める。
からん……、こつ。
何か落ちた音がして上げかけた視線を下方に戻すと、まあるくゆらゆらと光るものが、すっかり水を吸い込んだコンクリートを流れゆくのふと捉えて、拾い上げた。
人差し指と親指で摘んで、目の前にかざす。
ビー玉、だ。
どこの誰がこんなところに置いたのだろうか。そんなこと思いながら、跡部は片目をつぶってみた。
薄青の、炭酸ソーダに沈められた逆さまの世界が映る。
と、そこで何か思い出したかのような顔をして軽く唇を噛むと、ビー玉を手のひらに包んでしまった。
「跡部?」
後ろで順番待ちをしていた城西湘南の若人が、水を止めたのに動こうとしない跡部を不思議に思って声をかけた。
ああ、と跡部は半ば上の空で答えると、ビー玉を置く代わりに置いておいたタオルを取り、水を拭うと、ついでペットボトルをとった。
そしてすり抜けるように、水場を離れる。
いい天気だ、と思う。良すぎるとも思う。これじゃあさすがの自分もバテる、そう思いつつ、跡部は木陰に移動してまた水を一口飲んだ。
合宿中の練習は3つの班に分かれて、それぞれのコーチの元、まったく違う練習メニューで動いている。
跡部は華村の指導する班に割り振られ、今ちょうど華村班は休憩に入ったところだった。
太陽が真上にあった時間帯よりは、大分マシになってきた日差しの強さだが、それでも暑いのに変わりはない。
きっと35度はある。いやそれ以上か。
そんな気温では、休憩中ともなると外の水場は砂漠のオアシスといえる。
皆、跡部と同じように顔を何度も洗ったり、蛇口のそばに顔を近づけて水を貪るように飲む者もいた。
いっそのこと頭から水をかぶりてえな。
少し乱暴に顔に水を浴びたせいで濡れた、首筋や前髪が乾きはじめていた。
もう滲み出てきた汗をタオルで拭いながら、何気なく水場を見やっていると、本当に蛇口の下に頭を突き出して頭から水をかぶった者がいた。
天根だ。
六角中の二年生で、特に合宿中も話したことはないが、寒いシャレを言う以外は悪い奴ではないと跡部は思う。
少し髪の色が似ているな、と思った。
わしゃわしゃと長めの茶髪をかき混ぜながら天根は水を浴び終えると、勢いよく水をはね散らかすようにして上体を起こした。
と、その飛沫を後ろで涼んでいた忍足がまともにくらって、わっ、と飛び上がった。
濡れた髪を撫で付けるようにしていた天根がそれに気づいて謝る。
大きな身体をきちんと九十度に曲げて頭を下げていて、忍足も、まー涼しくなってちょうどええわ、と笑って返していた。
そんな様子を見ていて跡部もわずかに笑みを零した。
忍足と天根は、合宿の最初の頃に練習試合でダブルスを組んだこともあり、ボケとツッコミという二人の立ち位置もぴったりと当てはまったせいか、たまに何やら会話を交わすようになっていた。
跡部はよく分からないが、その様はやはり漫才のようだと、ちらっとその様子を目撃した宍戸が笑って報告したことがあった。
休憩は10分ほどだ。この後のメニューで練習は最後だろう。
跡部は顔を拭い、首筋の辺りも拭うと、木陰から離れた。
「ラムネが飲みたい・・・・・・」
その言葉に跡部は視線をやる。まだ話していた忍足と天根のうち、天根が大げさにうなだれながら発したようだ。
部活帰りに、皆と海の家に寄って飲むラムネが恋しいらしい。
忍足が、ええね〜氷水でめっちゃ冷えたラムネ! こうぐびっといきたいわーなどとオヤジくさい相槌を打つ。
「そういえば、今日この近くでお祭あるらしいで〜」
千石が、ってああ自分は知らへんか、まあ人から聞いたんやけど、と言いながら、ちらりと跡部を振り返って意味ありげな視線を送ってきた。
跡部は薄青の眼を瞬かせ、ふいと忍足の視線を無視すると、
水場近くの、置き場になっているベンチにタオルなどを無造作に置いて、コートに向かった。
遅い日の入りを迎えて、夕食も済んだ。最終日は練習がないことから夜のミーティングもない。
ごろりとベッドに寝転がっていた跡部を千石がメールで呼び出したのは、気持ちのよい風が吹く夜空の下の、屋上だった。
昼間の熱気が夜風にさらわれていくようだ。
屋上に出た途端、横に凪ぐ風を受けて、跡部は息を吸い込んだ。
入ってすぐ見えるところの手すりの近くに、ぼんやりと人影が見える。
階段の踊り場に点る淡い明かりも、跡部がそっとドアを閉めると消えた。
人影がわずかに動く。三日月の落とす白い光と、きらめく星のおかげで、色の沈んだオレンジ頭が判別できた。
ささやくように名前を呼ぶ。
「千石」
千石と二人きりで抜け出すようにして会うのは、合宿中では今日が初めてだ。
部屋割りは、班内で適当に二人部屋に振り分けられていた。跡部の班は奇数だったので、必然誰かが一人部屋となったのだが、それが跡部だった。
千石が押しかけてくるんじゃないか。
一緒に来ていた氷帝のメンバーはからかうようにしてそういったけれど、自分も、ほんの少しだけそのことは考えたけれど、初日に跡部の部屋を訪れた千石自身も、ここに移ってきちゃおうかな、って思ったんだけど、と言った。
けれどその後に続けて、でもやめとく、と千石は笑ったのだ。
君のこと好きだけど、こういう機会なんて滅多にないと思うけど、でも俺も君も、テニス、しよう。
いつになく真面目に千石が言ったので、そのとき跡部は何も言わず千石の顔を見つめた。
そして急にへらっと笑って、だって一週間も隣で平気な顔して寝てられないよ男の子だもん、といつもの調子で言ったが、跡部は、そうだな、とどこか安心したふうに返した。
青春だ、と跡部はなんだか古臭い言葉だけれど、それがぴったりだと思った。
自分だって千石と一緒にいられるだろう合宿を少しは期待していたのだろうし、同じ部屋だって良かったのだ。
でも、一緒にいれば、そのうち千石に触れたいときがあるだろうと思った。
それでテニスをおろそかにすることになったらと、不安になる自分もやはりいたのだった。
だから千石の告白は、跡部にとっても助かったのだ。
テニスを選択する、というのは、ほんの少し、ほんの少しだけ複雑な気持ちがあったけど、選ぶ自分、千石が、跡部は好きだ。
でも学校に行っているときは、一週間も会わないなんてことはざらにあったけれど、こうやって同じ場所で過ごしているのに、微妙に避けているかのような振る舞いをするのがもどかしいことに変わりはない。
最終日となる明日は、朝食をとったのち選抜メンバーが発表され、すぐに解散となるので、合宿らしい日はある意味今日が最後だった。
だからこそ、千石はようやく自分を呼び出したのだろうと跡部は思った。
多分、千石からのメールがなければ、自分がそうしていたに違いないとも。
一週間ぶりにまともに顔を合わせた二人は、変わっているところなどひとつもなかったが、改めて、いう感じがおかしくて、ちょっと吹き出すように笑った。
ところが、千石が、ね、と少し首を傾げるように、にこにこと笑ったところ、和んだ雰囲気を吹き飛ばすように跡部はさっと表情を変えて、
「ダメだ」
と短く告げた。
「え、まだ何も言ってないんだけど!」
千石は予想もしなかった跡部の言葉に、少し慌てたような様子でそ知らぬふりをする跡部の顔をのぞき込む。いつもの二人の呼吸がもう戻っていた。
「な、何で何で? 俺何か言ったっけ? いや言ってないよね・・・・・ あ、跡部くんが思ってることと違うかもしれないよ?」
手すりに両腕を預けた跡部は、わずかに目を細めて千石を見ると、
「言わなくても分かる。この間ジョイポリスに誘ってきたのと同じ顔してた」
と言った。
「・・・・・・・・・・・・、そう?」
よおく考え込んだ後、千石は思わず納得したような返事をしてしまった。すぐに、いや、と口の中で小さく否定してみて、そうかなあと自分の顔を指で押したり摘まんだりする。
静か、だ。
都心からは遠い某県の、住宅地の真っ只中に存在している合宿所だが、
ここの合宿所は結構いろいろな設備を整えていて、テニスコートは勿論、野球やサッカーが出来るグラウンド、
陸上競技が行えるトラックと、とにかく無駄に広い。
そんな場所だから、敷地にぽつんとある宿舎は夜になると本当に静かになる。ここを利用するのは学生ばかりだから、教員に引率されていることを考えると尚更だろう。
敷地内は緑が多かった。綺麗に手入れのされた芝生、色を添える鮮やかな花壇、そして、枝をゆらしてさざめく木々。
それらが夜気に吹かれてざわざわと優しい音を奏でると、こうやって外にいても、まるで人の住む世界から遮断されたような気分になる。
風に流されて、懐かしさを感じる旋律が微かにここへ届く。二人ともそれにはもう気づいているだろう。
「うーん、でもさ、とりあえず・・・・・・言ってみてもいい?」
こんな静けさの中では自然と、内緒話をするような声になる。囁くような千石の声に、跡部はなんとなく背中にくすぐったさを覚えた。
言ってみたって返事は変わらねえよ、という跡部の言葉を遮って、結局千石はじゃあもう言っちゃいます!と挙手した。
「夏祭りに行きませんか!」
「ダメだ」
「えー!」
すぐさま寄越されたまったく同じ返事に、千石はブーイングを送る。
何だよ言うだけ言わせてやっただろうが、と跡部は呆れたような顔をした。
「だってなお前、行くってことはここを抜け出すってことじゃねえか」
くるりと身体を回転させ、手すりに寄りかかる。
当たり前だが、合宿中の外出は禁止事項だ。特に夜の抜け出し行為など、監督陣に見つかりでもしたら選抜メンバーから外されるくらいの罰がありそうだと思う。
「だから、ダメだ」
跡部はそう言うと、ちらっと黙り込んだ千石を見やった。
この合宿が終わって、もし選抜メンバーに選ばれることになり試合に出ることになったとして。
跡部は、その後練習時間など融通がきくようになるだろうが、千石はそうもいかない。全国大会が待っているのだ。
それを考えると、こうやって二人で過ごす時間をとるのは、これ以降難しくなってくる。
跡部はそれを分かっているし、千石もそれを考えたからこそ、こうやって練習の終わったこの日に誘ってきたのだろう。
本当は二つ返事で応えたいところだった。
そうじゃなくても、夏の思い出なんてきらきら光る宝物みたいなものはいくつあったって嬉しい。
行きたくないはずなんかない。けれど、跡部は思わぬ展開から既に真田とともに選抜メンバーに決定されていて、
行動に慎重にならざるを得ないところがあった。そして何より、出来ることなら千石と一緒に選抜試合に出たいという思いがある。
それだって、大切な夏の宝物になるに違いはなかったから。
・・・・・・それは少し、聞き分けの良すぎる理屈だ、とも跡部は思ったが。
ようやく千石が眉を寄せた表情を解き、何か思いついたらしくぽんと手を打ち、
「じゃあバレきゃいいんだよ!」
と自信満々に言った。ぴきっと跡部の額に青筋が立つ。
「・・・・・・お前長考した結果がそれかよ。それと、いっつも思うけど、その自信はどっから来るんだアーン?」
心底呆れたというふうに跡部がじとっと千石を見ると、千石はブイ、とピースサインを決めて、
「跡部くん愛しの、ラッキー千石ですから!」
と笑った。盛大に、跡部がため息をついてみせた瞬間、
ピリリリリ。
と、携帯の電子音が間に入った。ふと、顔を見合わせる。
千石はジャージのポケットを両手でぽんぽんと叩いてみせると、俺じゃないよというふうに首を横に振った。
そうして跡部が自分もジャージの右ポケットを叩いてみると、あった。そういえば千石のメールを見るなり急いで部屋を出てきたから、そのときに無意識のうちにポケットに突っ込んだのだろう。
音の高い電子音はよく響く。誰誰〜と千石が覗く暇もなく、跡部は背面ディスプレイに映る名前も確認せず、取り出すとすぐに通話ボタンを押した。ちぇ、と軽く千石は身を引く。
「・・・はい、」
と電話を取るなり、跡部は顔をしかめて耳から離した。どうやら向こう側が大層賑やからしい。
耳にぴたりとくっつけることなく、用心して電話を近づける。
「ったく、お前もう少し、・・・ていうか何の用だよ、ああ? どこって・・・・・・、は?」
そこで跡部が固まった。そして、
「はあ!? お前いるって、は、何言っ」
と大きな声で電話の相手に言い始めたので、千石は慌てて手を伸ばし、跡部の口を塞いだ。
夜はただでさえ大きい音が響く。一応、宿舎をうろつかないように注意を受けていて、そしてここは屋上、見つかりでもしたら厳重注意ものだ。
「跡部くん、なるべく小さな声で、ね?」
空いている方の手の人差し指を唇にあて、跡部の口を塞いでいた手を退かすと、跡部は静かに頷いた。
呼吸を整えるように小さく息を吐くと、受話器の向こうに耳を傾ける。
「・・・ああ、・・・・・・ああ、・・・・・・・・・、分かった」
ため息とともに跡部はピッと電話を切った。
沈黙した携帯をしばし見つめた後、跡部はじっと千石を見つめた。
「・・・夏祭り、行ってやるよ」
「え?」
突然の展開にあっけにとられて、千石は眼を瞬くのも忘れた。だって行くってことは。
「だから、今から抜け出すって言ってるんだよ」
跡部は携帯をポケットに押し込み、頭をかくと、ぽそっとあいつらが来てる、と呟いた。
電話の相手かな、と千石は予測をつけ、気を取り直してその相手を尋ねた。
「・・・・・・ジローとか岳人とか、ウチのレギュラーがそこの、夏祭りに遊びに来てるって」
「マジで?!」
「うるさい」
「いて」
俺は殴らなかったのになと口には出さず、心の中で呟きながら千石は叩かれた頭をさすった。
それにしても。
跡部が声を大きくしたのはこれが理由だったのか、と納得する。
東京からそんな離れていない某県だからといって、・・・・・・いや、でも、ジローと岳人あたりなら、行っちゃう?行っちゃえ!くらいの軽いノリで何でも実行に移してしまいそうだ。
他のメンバーは、と千石が尋ねると、滝、(無理矢理連れてこられた)日吉、そして、跡部たちと同じく合宿所にいるはずの、忍足に宍戸、樺地、鳳は既に合流済みだと、跡部は答えた。
昼間の視線の意味は、このことも含めてだったのか、と忍足に一本取られた気がしてほんのちょっと悔しい。
きっと自分にこの計画を知られていたら、事前に止められると思ったからだろう。事実、その判断は正しかったのだけれど。
「えーと、じゃ、今のはお誘いの電話だったんだ」
ふとためらいがちに千石に言われて、跡部は、ん、と目を瞬きすぐに、千石が言わんとしていること考えたことを見抜いた。
そして困ったような顔をし、手を伸ばして千石の手を取ると、半ば強引に引っ張って歩き出した。
「二の次みたいになって、悪かった、な。遠くから、しかももう既に来てる奴らを追い返すような真似、できねえし。お前に誘われたときは、行かないって決めてたんだ本当に」
でも行けるなら本当は、行きたかった、それだけは知ってろ、と言う跡部の背中を見、千石はくすりと笑う。
「うん。知ってる。ありがと」
跡部くんだもんね、俺断るだろうなって思ってたよ、と千石は大きく踏み出して横に並ぶと、
「でも、それでもうんって言ってくれる方法を俺、すっごい考えてたんだけどな。いいよ、って君が笑う方法。それが披露出来なくて残念!」
と、大げさに空いている右手を額に当てた。その様子を見て、跡部はそれは悪かった、と表情を崩した。たすたすと足音が屋上に響き渡る。
久しぶりに、手つないだね、と千石が言う。ああと跡部が頷く。
「二つ目、だな」
「ん、何が?」
ぎいっと鈍い音を立てて扉が開いた。ドアを支えた千石が立ち止まって先に跡部を中へ入れる。
何がって、と跡部が歩を緩めて千石に肩越しの視線を送ると、
「思い出。夏の、な」
と言った。
月の淡い光に透かされて、跡部の双眸が優しくなる。
千石の心音が、しゅわっと弾けて空にのぼった。
「・・・じゃあこれは、1と2の間にでも足しておいて」
中にさっと身体を滑り込ませ、雫をまとって涼しく光るビー玉のような瞳とひとつ目を合わせて、キスをした。
ゆっくりと眼を閉じるのに合わせドアを閉める。中から伸びる、ほんのり白い光が細くなって、やがて消えた。
二人は、薄闇の中で唇を離すと、縺れるように二、三歩歩いてまた軽く触れる程度に唇を合わせる。そしてまた離した。
へへ、と千石が笑うと、跡部の手を導くようにして歩き出し、階段を駆け下り始めた。跡部もそのスピードについていく。
「う・れ・し・い・なっ、と!」
「あんまりはしゃぐなよ」
「分かってるって〜 あ、財布取りに行かなきゃ。たこ焼き、じゃがバタ、ラムネにヨーヨー!」
「まだ食う気かよ・・・ そうだ、着替えてこいよ」
「え、あ、そうだね。このジャージじゃ目立つよね。うん、おっけ」
「俺は、あんず飴食うかな。みかんのやつ」
「俺も俺も!」
「お前なあ」
跡部が小さく笑いを零す。
逢い引きってこんなのだろうか、と千石はふと思った。
昔の映画ぐらいでしかこんな言葉は出てこないだろうと思うけれど、なんだかこの密やかな空気に合っている。
夜に抜け出して、夏祭りに行くなんてのも、雰囲気が出てるなって思わない?
そんなことを話すと、跡部はまんざらでもなさそうに、バーカ、と決まり文句を放った。
始まったばかりの夏の夜に、跳ねる軽やかな足音と、笑い混じりの囁くようなふたつの声がこだましていた。
* * *
口笛のような音が空気をわずかの間震わせ、裏返るように音を上げる。小刻みに音階を上下した。
跡部は、次第に近くなるその笛の音に、懐かしさを覚えていた。
神社はすぐそこだ。入り口前も提灯やら電灯やらで照らされて、出店も何軒か並んでおり人が多い。
夜の闇をじわりと滲ませる裸電球の熱、その灯りの下で、出店の外装や品々、そして練り歩く人々の、すべての色が褪せてみえる。
懐かしい、そういう感情を抱かせる魔法みたいなものがここにはあるんだろうと跡部は思った。
だからだろう。
先程、跡部の横を小学生くらいの男の子が二人、ラムネを片手に駆け抜けていった。
楽しそうに何か言い合い、人込みをうまくすり抜けていくその子供の足音に重なって、空になった瓶の中で転がる、ビー玉のからからと鳴り響く音が跡部の耳に残っていた。
昼間の、透き通るような青さを思い出す。
そしてほんの少し昔のことも思い出した。他愛もない、思い出だ。
余計なことを思い出していけない、祭特有の熱気に当てられたかのように跡部がひとつ息を吐くと、
どうしたの、と尋ねる声があってその方を向いた。
隣に並んで歩いていた千石が自分に微笑みかけている。
「何でもねえよ」
息をもらして跡部も笑うと、千石はそう、と首を少し曲げて楽しそうに笑った。
その笑顔もオレンジ色に染まって、まるでセピア色の写真を見ているようだ。
ふと、この夏の思い出に残る笑顔だ、と跡部は思った。
浴衣が良かったね、と千石言ったのを聞いて、跡部はさすがのお前でもそこまでは用意してなかったんだなと、からかうようにして言った。
二人の出で立ちはジャージという、浴衣とはあまりにもかけ離れた姿だ。
合宿所への往路は制服だったし、合宿所内は指定のユニフォームやらジャージ、部屋着が用意してあったし、まさか抜け出すなんて思っていなかったから、二人とも私服は持ってきていない。
今着ているジャージは、指定のものが配られると思っていなかったために持ってきていた、私用のものだ。
「ま、地元の子みたく見えるから、結果オーライかも」
そう言って千石はいたずらっぽく笑い、大きく伸びをした。
確かに目立たなさそうだ。
跡部は千石と自分の姿に目をやり、自分たちの目の前を次々と過ぎていく人の流れを眺めた。
二人が立っているところは、祭が行われている神社の入り口石段下。ジローに指定された待ち合わせ場所がここなのだ。
「こっないね〜 皆!」
千石は伸びをしたついでに、爪先立ちして人込みを窺い知った顔がないか探してみた。
黒い頭がどれも同じに見えてよく分からない。
すぐに、境内に入る石段の端に飛び乗って見回してみたが、やはり待ち人の姿は見当たらない。
「いいから大人しくしてろ」
跡部が千石の上着の端を摘まんで引っ張った。うん、と返事をして千石は石段から降りる。
「どこから電話かけてきてたのかな」
何か聞いた?と千石が言うと、跡部は首を横に振った。
「後ろ、騒がしかったからもう祭りに来てるのかと思ったんだけどな」
跡部はジローからの電話を思い出していたが、ジローの声の後ろには岳人の声、それと人々のざわめきしか覚えがない。
もしかしたらまだ駅だったのだろうか。それならば、ここまではもう少しかかるかもしれない、そう口にしようとして千石を見ると、千石の後ろからにょきっと片腕が伸びた。
一瞬二人してぎょっとして目を見開くとそこへ、
「あーとーべー!」
と聞きなれた声がして、見えなかったもう片方の腕とその腕が跡部の首に巻きついた。
背中に体重を預けられて、跡部が体勢を崩す。前かがみになったところを、隣にいた千石が慌てて支えた。
「……ジロー!」
すぐに犯人の顔が思い浮かんで、跡部は振り返りつつ名を呼ぶ。
予想したとおり、えへ、と得意げに笑ったジローの顔があった。
そしてその背後には、手を振って駆け寄ってくる岳人と、呆れたように笑っている宍戸、忍足、滝の三人に、
跡部と千石を見て軽く頭を下げた樺地、鳳、日吉がいた。
ジローは跡部の肩に手をついて、千石との間にぴょいっと降り立つと、二人の顔を交互に見やって久しぶりーと笑った。
跡部千石は、顔を見合わせるとジローの屈託のない笑顔につられて表情を崩した。
「よう跡部! 千石!」
続いて岳人が、軽い身のこなしでジローに飛びつくように石段を飛び降りてきた。
にかっと笑って、いいっしょ、と水あめをまとって赤く甘く光るあんず飴を見せる。
「おっ、いいなー! 俺も食いたいな」
千石が羨ましそうな視線を送ると、早速どこに何が売ってるというような話に二人は花を咲かせた。
のんびりやってきた宍戸たちも合流して、人の流れにじゃまにならないよう、揃って端に寄る。
「岳人がなあ、待ってる間に食う言うて、あんず飴のとこまで戻ったんや」
「そしたら、段々混んできてよ」
「悪いね、待たせて」
やはりあの電話はここからかけたものだったらしい。
遅れた訳を忍足、宍戸、滝が引き継ぐように話したが、その手には皆ちゃっかりと何かしら握られていた。
説得力ゼロだ。
跡部は腕を組み、忍足と宍戸を軽く睨むと、
「お前らな……、一応言っておくが、本当に気をつけろよ。まったく、鳳と樺地まで巻き込みやがって」
と言い、岳人と千石、ジローに構われている二年生たちを見やった。
それに気づいて鳳が、いえ、俺も行きたかったんです、と行った後に、すみませんと困ったように小さく笑った。
樺地もウス、とその身体に似合わず小さく頭を下げる。
日吉は、いつもより3割り増しの仏頂面で岳人に引っ付かれていたが、それなりの態度で受け答えしているところを見ると、
そう嫌でもないらしい。意外と一緒にいるのを見かけることの多いこの二人は、性格が合わなさそうで合うようだ。
そんな様子を見て、跡部は少し可笑しかった。
「さてどうしようか、この人数じゃ動きづらいね」
滝がパン、と手のひらを合わせて言った。そうやなあ、と忍足がやきとりをかじる。
「適当でいいんじゃねーの」
食べ終わったたこ焼きの入れ物を捨てに行っていた宍戸が戻ってきて言う。
そうだな、と跡部も同意した。
「じゃあ、俺たち9時前には帰るつもりだからさ」
と滝が腕時計を覗いた。跡部が自分のを確認すると、今は8時ちょっと前だった。
「ふうん、ま、見送りくらいしてやるよ」
跡部は口の端を上げて笑った。
そもそもジローたちは自分たちがここに来ているから、この祭にやってきたのだ。それくらいはしたかった。
うん、と滝は頷くと、後ろで騒いでいる6人に集合時間を伝えに行った。
入れ代わりに、千石がやってきて、何々?と跡部の隣に納まる。
「帰りの話」
と跡部は言い、9時前にはこいつら見送って帰るぞ、と告げた。うんうん、と千石は頷く。
「じゃあいこー!」
岳人が張り切って、日吉を樺地の手を引き、入り口前の出店の方へ向かった。どうやらそちらの方に目当ての食べ物があるらしい。
その後をゆっくりと滝がついていき、8時45分にはここだからねと言い残して人込みに消えた。
残されたメンバーは、一度気づかれないようにため息をつき振り返った日吉の、ものすごい表情を目撃して、揃って少し笑った。
そして、宍戸に忍足、ジロー、鳳が境内の方へ歩き出したのを見て、千石と跡部もそれに続いた。
広いとは言えない参道の両脇には、ずらりと出店が並んでいる。
地から足に、足から腹に響く太鼓の音、陽気さとどこか切なさを感じさせる盆踊りのお囃子、
石畳につっかかる下駄の音、人込みの熱気とざわめきがその通りをますます賑やかにしていた。
「お、射的! なあ射的やろうぜ」
宍戸が声を上げる。わー面白そうですね、と鳳もにこにこ賛同した。
「よっしゃ、じゃあ浪速のスナイパーと呼ばれた忍足さんがいっちょこの腕見せたるわ〜」
やきとりの串を飲み屋帰りの酔っ払いよろしく、口にくわえた忍足は腕をたくし上げる真似をした。
お前、さっき輪投げでもそんなこと言ってたじゃねえかよ、と宍戸がツッコミつつ、三人は射的屋へ向かった。
こちらはもう食べることは一段落ついたようだ。
千石は、忍足たちが射的を始めたのを確認して、斜め後ろにいた跡部を振り返った。
「ね、跡部くん、とりあえず何か」
食べない?と言いかけて、千石は視線を上にやった。跡部がそうしていたからだ。
跡部くん、と千石が声をかけると、跡部は気づいたように視線を戻し、ああ、と頷いた。
「どうしたの?」
千石が跡部の腕のあたりを掴んで尋ねると、跡部は微笑んで、
「いや、懐かしいなって思って」
と歩き始めた。あんず飴食うんだろ、と言われて、千石も追いかけるように歩き出す。
「小学生の頃にも何回か、それこそジローたちと一緒に行ったことがあったなって思ってよ」
跡部は追いついた千石に続けた。
そういえばジロー君たちとは付き合い長いんだっけ、と千石は思った。
確か忍足くん以外は全員小学校から一緒なんだと以前聞いたことがある。
祭の日は、こうやって夜に出かけても怒られないだろ、と跡部は言い、
「大人公認の夜更かしみたいでやたら楽しかったなって思ってた」
と、目を細めて笑った。
それ分かる、と千石が頷く。
「なんていうのかな、街全部が、夜なのに起きてる感じがするんだよね」
そうしてじっと跡部を見つめた。
何だよ、と跡部が目を瞬くと、
「俺は今、やたら楽しいよ」
と千石は微笑んだ。
「俺もたのC−!」
そう声がするなり、がっちりと跡部の右腕と千石の左腕が捕まった。
ぐいっと二人の腕に重みがかかって、真ん中に引き寄せられる。
呆れた跡部がその名を呼ぶまでもなく、犯人はまたしても、ジローだった。
「あんず飴食べるんでしょ〜! 俺も食べるから案内したげる!」
果たしてどこからどこまで話が聞かれていたのだろうか、千石はほんの少しそんなことが気になって、なんとなしに跡部の表情を窺った。
黙ってかすかにため息をついたところを見ると、自分と同じようなことを考えているのだろうと思う。
「あん? 何笑ってんだよ千石」
訝しげな表情で見咎められたので、千石は何でもないよ〜と答えると、ジローと楽しいねえと調子を合わせた。
「ったく……」
跡部が目を優しくした。
基本的に、跡部はジローに優しい。
ジローががみがみ怒ってもきかない性格というところもあるけれど、あの天真爛漫な笑顔向けられるとなんとなくしょうがないかと、怒るということ自体がくだらなくなるようなそんな、不思議なところがあるのだ。
それにジローのすることは本人に悪気がないことが多いので、余計怒る気にはなれない。
甘やかしているというほどではないけれど、つい、甘くなる部分が自分にもあると千石は思う。
だから、付き合いが長いということも知っているし、気になるわけではないが、ほんの、ほんの少しだけ妬けたりする。
ほんの少しだけ。
笑った跡部の横顔を盗み見るようにしていると、じっと見上げるジローの視線に気づき、千石は何?と笑いかけた。
ううん、とジローは首を振り、
「あ、あそこだよ」
とずんずん二人を引っ張っていった。
店の前に来ると、しゃきしゃきした中年の女性が、大きな声で、はい、いらっしゃい、と声をかけてきた。
両腕でやっと囲うことの出来そうなくらい大きな立方体の氷の上に、赤いあんず飴や、パインの飴、みかんに、ブルーハワイの水飴をまとったものなどが、くぼみに並んでいる。
熱で少しずつ溶けている氷と、いろとりどりのフルーツと水飴は、光を反射してまるで綺麗なガラス玉みたいだ。
ジローがどれにしようかな、と見比べている横で、跡部が店の女性に200円払った。
「はいよ、じゃあそれやってね」
店の女性が受け取りながら指差したものは、手作りの簡易版のパチンコのようなもので、傾けてあるそれの上部のところにチューブがあり、それを辿っていくと屋台の支えの柱に入り口部分が結び付けてあった。どうやらここからビー玉を入れるらしい。
跡部は、パチンコに置かれたままのビー玉を拾い上げると、一瞬何か考え込むようにし、くるりと千石を振り返った。
「お前やれ」
「え? 俺?」
「ほら」
そうして千石は渡されたビー玉を受け取ると、いいの?と一応跡部にもう一度確認しつつ、パチンコの前に出た。
いいんだよ、と跡部が笑ったと同時に、チューブにビー玉を入れる。吸い込まれるようにして、すぐにビー玉はパチンコ台の上に転がり出た。
かたん。
からからから、こつ、こつ……
釘にぶつかり弾かれつつ、ビー玉は下に落ちていく。ジローがいけ〜と楽しそうに見守る。
こつ、こつ、
こつん。
「おっ、すごいね当たり! 5本好きなの持っていっていいよ」
店の女性が一際大きな声で言った。店の前で足を止めていた人や、通りがかりの人からすげえというような声がもれる。
千石はさささっと跡部の横に来ると、笑いのまじる声で、
「君これ狙ってたね?」
とささやいた。
跡部は一回千石に目を合わせてにやっと笑うと、2つ選べよ、千石に言い、自分はひとつだけ選んでジローにも同じことを言った。
両手がふさがって他に何も持てないということで、人の流れのない端っこの方で三人は足を止めた。
甘い。
一口食べて、跡部は思う。みかんの瑞々しさと酸味が、水飴の甘さを緩和してちょうどいいと言いたいところだけれど、
ひとつ食べれば十分だ。
「お前らよく2つも食べられるな……」
二本目のあんず飴にかじりついているジローと、ひとつめの最後の一口を口に運んだ千石を見やって跡部が言った。
「らっておいしーらん」
口をもごもごと動かしながらジローが返す。美味いけど、と跡部は一言呟き、何か飲み物買ってくると近くにあったゴミ箱に棒を投げ捨てた。
「あ、俺も俺も!」
ラムネがいい、と千石が手を挙げた。ジローもそれに倣う。
跡部は軽く手を挙げて応えると、人の流れに紛れた。
二人がふたつめを食べ終えたところでちょうど跡部が戻ってきた。ラムネをみっつ、抱えている。
ほらよ、と跡部が二人に手渡すと、千石があっと小さく声を上げた。
どしたの、とジローが下から千石を覗き込む。
「や、うん、瓶じゃなくなったんだなあって思って」
ぴん、と千石はラムネの瓶を指で弾いた。ガラスの音ではなく、鈍い音がする。
「ほんとだ〜」
ジローが掲げるようにして見た。プラスチック製の瓶はガラス瓶より緑色が薄い。
何だか安っぽくみえるな、と跡部も思った。ふと先程入り口付近で見かけた小学生の持っていたのはどっちだったろうか、とそんなことを思った。
「でもね、俺、これはこれで好きなのよ」
と千石は笑顔で言って、口をつけた。何で何で、と尋ねるジローに、飲み終わってからね、と千石は答える。
しゅわりと炭酸が喉にくっついて弾ける。ぴりぴりする感覚がちょっとだけ顔をしかめて、また口をつけた。
そうして飲み干してしまうと、千石はえーとね、と空になった瓶の飲み口に手をかけた。
「こうやってね、右じゃなくって左に回すとね……、ほら取れた」
と、飲み口の部分を外した。跡部とジローが感心したような声をもらす。
知ってた?と千石が笑いながら、瓶を傾けた。からん、と音がしてビー玉が千石の手のひらに転がった。
「ガラスのやつだと、ビー玉ってもらえないけど、これだとなんか得しちゃった気になるでしょ。俺、ビー玉好きなんだよね」
きらきらしてるからさ。
取り出したビー玉を千石は電灯の光にかざした。ほんのりと、優しい色合いに落ち着いて光る。
跡部はその煌きを瞳に映して、またぼんやりと昔のことを思い出していた。
とても嫌な思い出というわけでもないのだが、いい思い出とはやはり言いがたかった。
跡部の瞳の色は、黒ではない。
暗い場所では分かりにくいが、陽の当たる場所だとそれはよく分かる。
その、薄いグレーのまじった薄青の瞳は祖母にとてもよく似ていた。
祖母はイギリス人のハーフで、母は確かに黒よりも薄い瞳をしているが、祖母ほどではなく、
ややこしいことに隔世遺伝で跡部にその瞳の色が受け継がれた。
幼い頃、跡部はこの瞳の色があまり好きではなかった。
大好きな祖母を嫌いだと言うようで、口に出すことはなかったけれど、周りの子と同じ黒っぽい瞳だったら良かったと思うことは何度もあった。
ビー玉みたい。
そうからかわれたことがある。
なんだか生きている者の目ではないように言われて、ビー玉を見るたびに自分の目が自分を見つめているような、嫌な気持ちになった。
今ではそんなこともないし、自分の瞳の色のことを気にすることもないが、
ビー玉を見れば、それなりにそのときのことだったり、瞳の色のことを思い出した。
……結局は、気にしてるってことだ、と跡部は薄く自嘲気味に笑った。
「おーい!」
人込みの方から、宍戸の声がして三人は振り返った。
射的に寄っていた宍戸、忍足、鳳の姿があった。
「皆で運試しってことで、くじ引こうってことになったんや」
「跡部さんたちもやりましょうよ」
鳳がぶんぶんと手を振っている。気づけば、岳人に滝、日吉、樺地もいた。
適当に、とばらけたはずがいつのまにか全員揃っている。
「誰が一番すげえもの引くか、競争だぜ!」
岳人が飛び跳ねて、また日吉を引っ張っていった。
先行ってるぞー、と宍戸が言い、ぞろぞろと一団が人込みに流れていった。
行くか、と跡部がジローと千石を見やると、ジローは自分のラムネの瓶からビー玉を取り出しているところだった。
「ねえねえ」
千石が、跡部に話しかけた。ん、と千石に向き直った跡部の目の前には、人差し指と親指で摘ままれたビー玉があった。
さりげなく先程跡部から受け取った瓶から、取り出したものだ。
前から思ってたんだけどね、と千石は笑うと、
「跡部くんの目って、ビー玉みたくきらきらしてて、きれい。俺好きだなあ」
と言って、うんきれい、と跡部の目を見て言った。
跡部は、目を見開いたまま、少しの間何も言葉が見つからなかった。
ぽん、とまるでラムネのふたを開けたときのような音がしたみたいに、跡部の心で弾けるものがある。
しゅわしゅわっと泡が立ち上って、爽やかな後味を残して消えた。
気づけば、バーカ、と笑って返していた。
「そんなこと言ったって何も出ねえよ」
そう答えた跡部の耳の端が赤かったのに千石は気づかなかった。
気づいたのは、ジローだ。
行くぞ、と先に歩き出した跡部を追って千石を追い越す間際、そっとジローは千石にやるじゃん、と言って笑いかけた。
千石は首をひねっていたけれど、それは分からなくて当然だ。
小学生から跡部と仲のいいジローは、跡部が目の色のことをからかわれていたこと、ビー玉みたい、と言われたことを知っている。勿論、ジローはそんなことを言う奴をとっちめてやる方だった。
だから、千石の発言に一瞬ジローは息を呑んだのだが、跡部の横顔はもうその思い出のものではなかった。
幸せそうに頬を緩めたその顔に、千石をちょっとうらやましく思ったけれど、跡部のそういう顔がジローは好きだから、
良かったと素直に思った。
ジローは、追いついた跡部の腕を掴んで思い出したように笑いをもらした。
運試し大会は岳人が結構大きなプラモデルの箱を当てて終了した。
それから何やかやと大人数で食べたり遊んでいるうちにあっという間に8時45分を回り、一同は訳もなく走って駅に向かった。
駅について、息の切れたジローたちがと改札口の向こうに消えるのを見送り、残った選抜メンバーたちはもと来た道をのんびりと歩いて帰った。
一際ゆっくりと歩いていた跡部と千石は、前をいく宍戸たちとの距離が随分と開いていた。
祭が終わった後は、妙にさっぱりしていて、なんだか物悲しいと跡部は思う。
もうあの笛の音も、太鼓の音も、お囃子も聞こえてこない。
静かだ。
心だけが祭りの余韻にざわついている。落ち着かせるように、ひとつ息を吸い込み吐いた。
「あ、跡部くん手出して」
千石がポケットに手を突っ込んだのをみて、跡部は素直に手のひらを差し出した。
あげる、と言ってのっけられたのは、あのビー玉だった。
「水で洗ったから、もうべたべたしないよ」
いつもの明るい顔でそう言うと、俺ビー玉好きなんだよね、と千石は今にも鼻歌を歌いそうな様子で伸びをした。
目を瞬かせた後、ぷっと、跡部は吹き出した。
たったそれだけの、けれど絶対に効く魔法。
千石、という魔法だ、と跡部は思った。
「……お前すごいな」
と跡部が言うと、何のことか分からないというように千石は首をかしげた。
跡部が声を上げて笑うと、前を歩いていた宍戸たちが不思議に思って、振り向いて何か言ったが、それでも跡部は笑った。
千石、お前はすごい。
幼い頃は、悪口でしかなかったそれが、お前の好きなものだって知って、それみたいだって言われただけで、思い出まで色が変わってまるで、
俺が好きだって言われたみたいで、
俺までお前が大好きなものが好きになったみたいで、
それってつまり、
お前が大好きなんだ。千石。
楽しそうな跡部の様子に千石もやがて微笑んだ。
跡部は、なあ、と千石の髪の毛の端を掴んで、声を小さくした。
「今度は二人で行こうぜ」
3つめ、な、と跡部は髪から手を離すと、軽くステップを踏むように歩いた。
二人でね、絶対だよと千石も笑う。
何二人で内緒話しとんねん、と遠くから忍足が茶化したが、跡部は何でもねえよと楽しそうに言った。
今日、この日のことを、跡部はきっと二人で何回だって話すだろうと思う。
その度に、この想いも何度でも蘇る。
それこそ終わりのない奇跡みたいな魔法だ、跡部はこっそりと心の中で呟いた。
夜空の色に感化されて、まるで跡部の瞳のように淡い海の色に光る月が、煌々とあたりを照らしていた。
fin.