確かに代わりなんて思いつかないよな、と真顔で隣を歩く跡部が言うので、うん、と答えて千石も考える。息がほんの少し白く染まって見える。今日は朝から冷え込んで秋晴れとは正反対の天気模様だ。木立をささやかに揺らす風は冷たい。思わず、朝慌てて引っ張り出し羽織ってきたニットコートの肩をすくめた。
何かで読んだインタビューの話だった。何度も使われて手垢のついた『好き』ということばが好きだという話で、他に替えがきかない、代わりがないと言われて、はじめてなるほど、と思った。愛してるじゃくすぐったいもんねえと並んで歩く恋人を見ると、女はその言葉に警戒するから気をつけろよ、と笑った。言いませんよと答えておいて、ふと、君には何回か言ったかもしれないなとちょっとした恥ずかしさとともに思い出す。
跡部はきっちりと秋にふさわしいトレンチコートを颯爽と着こなして油断も隙もなく歩いている。俺とは違うようなあ、と今朝のこと思い返した。今日は十月でいちばん冷え込む日なのだそうだ。天気予報を見ながら、何も着てくものないよ!と夏服のまじったタンスを漁っていた横で、クリーニング済みのぴしっと整ったコートを取り出しながら、今日はいったい何時に家を出発できるんだろうなと嫌味っぽく言われたのもいつものことだが、跡部の準備がいいのは本当にいつものことで、そんなところもかっこいいなあと思う。負けてもいいやくらいの気分になってしまうのは、惚れた弱みだろうか。
「まあ、好きってものは好きってもの以外のなんでもないしな」
そう前を見ながら独り言のように跡部が呟く。その頬が秋の風に冷えて白っぽく見えた。そうだね、と千石も相槌を打つ。
何か目的があって出かけたわけではなかった。デートといえばそうなのかもしれなかったが、
休みの日をたまには外で過ごそうかというような提案で、卑下して思うわけではないけれども、結局男同士が男女のように仲睦まじくいかにもそのように振舞うのは無理なのだと、つまりはそういう話だ。デートしようよなんて昔は深く考えずに言えたのに今はなんとなくそれが嘘っぽく思われる気がして、どうせ手もつなげないのに、でもそれがいちばん大事なことでもないのになと思う自分もいて、なんとなく宙ぶらりんだ。
まあ実際そこまで思いつめているわけでもない。自分たちが目的なく出かけると中学高校時代の部活練習の賜物か、歩き続けるのが苦にならず数時間の散歩になっていることが多いから、それはまったくデートに不釣合いなのだ。ウォーキングじゃないんだからさと千石はよく言うのだけれど、それで跡部も屈託なく笑うのだから、デートじゃなくてもやっぱりいいかと思う。現実的にはその程度だ。
赤のボディバッグをかけ直しニットコートの襟をかき合わせた。今日は街行く人も暖かそうな格好が多い。道脇に続く、きれいに磨き上げられたショッピングウィンドウに飾られている洋服たちも、こっくりとした色合いが寒い日によく似合う。
千石はつつつ、と気になったコートを目で追いかける。
「冬はいいよね。まだ秋だっていうツッコミは飲み込んでおいてよ」
はいはい、と跡部が軽くあしらうように言う。
「寒いとさ、くっつきやすいでしょ」
とっさに千石は横一歩分足を踏み出して、跡部の膝裏あたりを自分の膝で軽く小突いてみた。腕を掴んだり体当たりする勇気はちょっとなかった。大人だもんなとひそかに自分に言い訳をする。
そんなちょっかいに跡部はよろけることなく、ああ、と言葉を探したあとでやけに明るく、
「まあいちゃつくにはぴったりだよな。恋人にとっては」
と意味ありげに千石へ目をくれた。ははあ言葉遊びを楽しんでるなとかんたんに理解する。だよね、恋人にとっては、とわざと重ねてにっこりした。わずかに相手の口角が上がるのを、千石は感じ取る。
「夏だとさー暑いって文句言われるけど、冬だとそうでもないんだよね」
「そんなことねえよ。態度に出さないだけでああうぜえなって思ってる、場合もあるんじゃないか恋人も」
「へええ。そんなこと思ってる恋人もいるんだあ。俺初耳だなはじめて聞いた」
「そりゃよかった、そっち側のことはじめて理解できたじゃねえの」
そっち側ねえ、と跡部を顔を覗き込むように見るとしっしっと上品な仕草で追い払うようにされた。恋人を追い払ってるのに優雅ってどういうことだろう、と千石はまじめに考える。君ってさあ、と呟いて足元を小さく蹴るように足を運ぶ。
店から出てきた男女の二人組みが二人の前に滑り込んで歩き出した。カップルかなと思う間もなく腕を絡ませ手を握り合うのを、千石はぼんやり眺めていた。求めるのも自然で、その様子が街に溶け込むのも自然で、うらやましいと思うより先にすごいなあと小さく感動してしまう。そのせいか、手つなぐのっていいねと思わずもらしたのにうっかり気づかなかった。
「手?」
跡部が耳ざとく拾ったのを千石は鸚鵡返しして跡部を見、さっきの呟きが口に出ていたのをようやく知る。
「あ、いや、手をつなぐのっていいねって話。……恋人と」
それ以上に深い話じゃないんだよ、と付け加えて、これって逆に言い訳がましくないだろうかと千石は頭をかいた。分かってるのになあと思うのに宙ぶらりんな気持ちがあるから、こういうことで揺れたりする。その横で跡部はふうん、とその端正な顔立ちで呟いてわりとあっさりした表情を見せていた。
「まあ、恋人と手をつなぎたいと思うのは普通だろ」
かさかさと落ち葉が鳴って、アスファルトの道を行き交う人の足をすり抜けるように転がっていく。その一枚が跡部の革靴のつま先に当たって、一瞬引っかかったけれどすぐに流れていった。大きく開けた交差点と赤に信号変わったばかりの横断歩道が見えてくる。
「でも俺も場合、いつでもつなげるとは限らないのが残念なところだ、と心底思ってる」
跡部の大げさな言い方がちょっと切なくておかしくて、かなりいとおしかった。
少し伸びた前髪が揺れる横顔を千石は外していた視線を戻して見つめた。クソまじめだなあと感じて、そのあとで同じだと思った。そしてやっぱり違うなと考える。跡部は、まっすぐだ。
「跡部くんは、えらいな」
手を伸ばしかけて、何故だか肩を撫でてしまった。それを見て跡部は小さく噴き出すように笑い、子ども扱いするなよ、と目を伏せて頭を撫でられたときのような少しうっとりした表情をにじませる。自分だけにしか見えないその傾けた顔をやさしさをいっしょに、深呼吸で胸に仕舞いこんだ。抱きしめたいと思う瞬間に出来ないのは、少し悔しい。
赤信号の横断歩道に近づいて、少しずつ落としてきた歩調に合わせ人の流れが滞り始める。千石の足の下で音もなく鈍い緑色をした落ち葉が崩れて溶けるようになくなった。
ポケットにつっこんだ手は寒さでごわごわしていた。テニスのグリップを必死で握ってまめを作って、その面影がほんの少しある右手。今は少し乾いてがさがさしている。
勇気があったらよかったんだけどな、と少しの情けなさを口にすると、それは別に勇気とは言わねえよ、と呆れたように言って跡部が足を止めた。千石も同じようにする。信号が変わるのを待つ群の中で跡部の手が伸び、千石の頭を一回ぐしゃっと大きな手のひらが撫で回して最後にばん、と背中を景気良く叩いた。向こう側で青信号が瞬いているのが見える。やがてこちらが青になるだろう。
「……そっちこそ、子ども扱いだよそれ」
拗ねるように言うと、分かってるならいいんだよ、といたずらっぽく跡部が笑った。それが合図のように赤信号が青になり、人の波に乗って二人も歩き出した。交差点を過ぎると少しずつ人が拡散してゆく。
分かってるなら。心の中で跡部の言葉を反芻する。ほんとはつながってるなんて知ってるのにとポケットを小さく叩く。あ、とそこで声を出して次は、エアギターだよと口走っていた。怪訝な声で自分を確認する跡部には気づいていたが気づかないふりをして、それは置いといて歩こうよと先を促す。なんとなく早足になりだした千石に跡部が駆け寄って追いついた。
「言われなくてもずっと歩いてるけどな。ちなみに大人の平均時速四キロで計算するとすでに三十分近く歩いてるから、」
「その話まるっとさくっと飛ばして次いってもいいよね」
「エアギターってなんだよ」
「君そういうところ細かいな」
ううんと考えて、今考えると四次元ポケット的なんだけど、と千石が真面目な顔で言うと跡部も好きにさせようと雰囲気を醸し出して黙る。
「なんだよ、俺も真面目に説明したらいけない気がしてきたじゃないか」
落ち着こうと呟いてゆっくりと歩調を戻す。ポケットから手を出してじっと見つめた。そしてポケットも。
「四次元ポケット知ってる? ドラえもんの」
「バカにすんなよ。知ってるよひみつ道具が出てくるんだろ。タケコプターとかどこでもドアとか」
「うわあ俺今地味に感動した。跡部くんの口からタケコプターなんて出てくるとは夢にも思わなかった」
ヘリコプターだろアーンっていうかと思った、と口真似を披露したら跡部の目元の凄みが増したので千石は素直に謝った。
「でね、ドラえもんが壊れて海に捨てられる話があるんだけど、そのときにのび太がスペアの四次元ポケットを通ってドラえもんを助けに行くって話があるんだ。要はポケットとポケットがつながっているっていうね」
アニメで見るととても感動する話なのだが、その話を見たことがない跡部はのび太がポケットを通るという部分がうまく想像できなかったのか難しい顔をして首をかしげている。
「で、俺のこのポケットが四次元ポケットだとしよう」
「……ほう」
そこでやっと、お前の言いたいことは分かったぞというような顔をして跡部が千石の顔、ポ
ケット、そして自分のトレンチコートのポケットを見た。ぽんぽん、とビスケットが飛び出しそうな軽やかさで千石は自分の左ポケットを叩く。
「だから、このポケットは、俺の恋人のポケットにつながってる」
とする、と最後は自信無くちょっと付け加えた。
「そう来ると思った」
「それしかないでしょう」
そこだけは自信満々に答えると、そうかなあと跡部が苦笑いに似た顔でぼやく。それでエアギターね、と腕を組んで続けたので、それはもうなしだよと千石は眉を下げた。
「エアポケット、ってなんかないじゃん」
「それはすでに別の言葉だ」
風が波のような音をたてて秋の街を駆け抜けていく。真昼の太陽は鈍くて見えない曇り空の奥に隠れているけれど、目に見えなくても誰もその存在を疑ったりはしない。それと同じだと千石は思う。
「四次元ポケットじゃなくてもいいんだよべつに。いつでもつながってるって、それだけの話」
「離れててもな」
「……一緒にいても、だよ」
横に並ぶ相手との距離十センチ、四次元ポケットでその距離が消えるわけでもないなら、すべてが『好き』ということばで埋められたらいいのにと思う。でもどうしたって替えの見つからないことばだから、それだけで本当のことを示すのはすごく難しくてそのために多分、人の手はつなぐことが出来たりして、足りないところをそういうので埋めたりするんだろう。この伸ばせない手で。
とりあえず、と跡部が腕時計と緩やかに右手へ湾曲する道を見やって、その先のレストランでのランチを提案した。
「おっけーそうしよう。お腹空いたよ俺。で、これは独り言なんだけど」
今日、俺手つなごうって恋人を誘ってみるよ。
そう言って千石はこれみよがしに自分の左手をポケットに入れて、その中でぎゅーっと手を握ってみた。はいはい、と流しつつも跡部がトレンチコートの右ポケットにそっと手を差し入れるのを見る。つながっている、そう思うと指先がほんの少し温まる気がした。
「……相変わらずがさがさしてんな」
「リアルな呟きはやめてくれないか」
そういう君はすべすべですねって褒めるんだ俺、とふざけると当ったり前だという表情と何気持ち悪いこと言ってるんだという表情が混ざって跡部の男前な顔が台無しになったのを千石は見た。
Fin.