気づいて、千石はきょろきょろと辺りを見回した。
二段になっている寝台が左右に一つずつ設置されたコンパートメントを見やったところで何が窺えるわけでもなし、下段の寝台に腰かけ、三人の道連れとともに窮屈そうに膝を突き合わせている自分が確認できるくらいだ。
それでも皆千石と同じことに気づいたようで、ひそひそ話していた声も絞り、やがて示し合わせたように黙り込むと、そろって肩をすくめた。
夜を往く列車の中は、もうすでに寝静まっている。灯りは周りも自分たちのところもとうに落としている。耳を澄ませば、レールを走る車輪の音の裏に、どこかで寝返りを打つ、衣擦れの音が聞こえた。
青春18切符で乗ることの出来る夜行列車は限られていて、数も少ない。そのために切符の使用期間はとても混みあう。安い切符で乗り込んだ鮨詰め状態の狭い列車では、夜通し喋って笑い楽しむことは遠慮せざるを得ないだろう。
お開きの雰囲気が否応なしに流れてからの行動は、意外にも皆迅速だ。
そろそろ寝るか、とぽつり呟いた仁王がだるそうに身体をのばし、身軽に梯子を上り上段の寝台へ引っ込んだ。そうですねと返事をした柳生が丁寧に挨拶をして、その下の寝台へ身体を縮こませるように滑らせ、カーテンを引く。
じゃんけんに勝った千石は下の寝台を選んでいた。そこへ腰かけ引っ込む二人の様子を見ていた跡部は、ちらりと千石の顔を見、ん、と気づいた千石と顔を見合わせると、おやすみ、と軽く笑って立ち上がった。
「うん、おやすみ」
跡部が梯子を使い上に引っ込むのを見ている千石の横では、仁王が上段から下段のカーテンをつまんで覗き込み、何やら柳生に話しかけている。
「なー朝起こしてな。よろしゅう」
「自分で起きる努力もして下さいね。私と体格の変わらない君をそこから引きずり降ろすのはいくらなんでも出来かねます」
「柳生が目覚めのキッスでもしてくれたら飛び起きちゃるよ」
そうして笑いながら首を引っ込めた仁王に、
「それはさらに致しかねますね」
と柳生は追撃するのを忘れない。
そのやりとりに控えめに笑った千石は、思いついたように立ち上がって、ちょうどカーテンを引こうとしていた跡部に、顔だけ覗かせるようにしてささやいた。
「ねー、俺が朝目覚めキッスで起」
しゃっ。
すべてを言い終える前に跡部は表情ひとつ変えず、カーテンをぴったり閉めて遮った。
ばかーせめて最後まで言わせてよひどいよー跡部くーん、と寝台の頭の方へ近づいて小さな声でわめくと、ちらりと隙間が空いて、跡部がほんの少しだけ顔を見せた。
「バカ言ってないで寝ろ。このアホンダラ」
楽しそうな声と、にゅっと出てきた腕が千石の額に伸び、ぴん、と指で小突かれて千石は再び、おやすみ、と笑った。
がたん、と身体を揺らされて、千石は目を覚ました。やけにぱちりと目が開いたものだから、もう朝かと灰色のカーテンを開けて上体を起こしてみたが、車内はまだ暗かった。
目を擦りながら寝台に腰かけるようにし、なるべく音を立てないよう静かに足裏の感触で靴を探す。右足をまず捜し当て、見当をつけて左の方をまさぐってもう片方も履く。
手を伸ばしコンパートメントにある窓のカーテンの端を持ち上げて見た。流れ去る景色は闇に濡れていて、静かに佇む森とその向こうでなだらかな姿を横たわらせている黒い山々があった。人口の光も、星や月といった自然の光も見当たらない。
何時だろうと思って、そういえばしたままだった腕時計を覗き込む。かち、と文字盤の横のボタンを押すと蛍光色の緑が光を灯した。
……まだ1時間くらいしか経ってないじゃん。
なのに、こんなにしっかり目が冴えてしまっているのは、自分たちだけで旅をする、という状況にまるで小学生のように興奮しているからなのだろうか。
いやあそれはおおいに。
ありえるね、と納得して、千石は口元をほころばせる。映画のように、子どもな自分たちだけで、行く場所を決めて列車に乗って、夜を過ごして、朝を迎えて、歩いて旅して、そんなことを考えるだけでどきどきする。
自分たちだけの旅なんだ、そう思っただけで、どこまでも行けるような気がした。
みんなはどうなんだろうな。
実は自分と同じようにとても楽しみにしていて、寝台に引っ込んだはいいけどカーテンの向こうでは寝られなくて無駄に寝返りを打ってたら、なんて考えたら少し嬉しくて可笑しかった。
梯子に掴まってそっと立ち上がった。ゆっくり振り返ってみると、上段の足元のカーテンが半分ほど開いている。首を伸ばして中を覗いてみれば、跡部の姿はそこにない。
「……あとべくん?」
ささやくように呼んでみて、千石は手を口元に持っていった。
どこいったんだろう。
トイレかな、とも思って、それなら心配することはないのだけれど、なんとなく気になって通路に出てみることにした。
コンパートメントの出入り口は、寝台に取り付けてあるものと同じ灰色のカーテンで簡素に区切られている。丈の少し足らないそれは、通路を往く人の足元、膝下あたりが覗けるようになっていて、絶対にこれにまつわる怖い話のひとつやふたつありそうだと千石は思う。
その下方から今、白い影が差し込んでいた。そっとカーテンをめくると、通路側の窓から煌々と満月の白い光が注いでいる。偶然にも、雲の覆う隙間を縫って現したその姿を千石は見ることが出来たようだ。
一瞬慣れない眩さに顔をしかめた千石だったが、目を瞬くとその静寂に身を浸しゆっくり息を吸い込んで吐いた。それは別になんてことのない景色、今までも見たことのある情景だったかもしれなかったが、なんだかとても特別な、この旅でしか見れないものを見たようで、心の端がぶるぶると震えた。嬉しいという感情にほどなく近い。
真夜中の空が薄く照らされて、風で音もなく流されうごめく雲の形が少し見えた。月明かりの下、木々がその葉の縁を鈍く光らせる。流れていく景色が、ぼんやりと車窓の向こうに浮かび上がった。車内はどこもかしこも薄明かりをまとったグレーに見える。窓の枠と、腰まである車体の影だけが、足元と千石に落ちている。
子どもが起きていてはいけない、明るい夜の世界に入り込んでしまったようだった。ここはもう二度と戻れない魔法の世界なんじゃないだろうか、とひやり、そんな考えさえ思い浮かぶ。
揺れる中、一歩慎重に踏み出す。
そしてふと右の方をを見やると、跡部が月光を浴びて窓に向かっていた。
つ、と持ち上げた顎の下に、くっきりした影が伸び落ちている。顔の輪郭は白の世界に埋もれることなく、影に馴染む灰色のラインが境界線を保っている。整った横顔の頬は、澄んで熱が低そうだ。
あ、と口を開けると、こちらに気づいて、跡部は少し目を見開くようにした。
「眠れないのか」
そう口が柔らかく動いたような気がする。千石は、こっくり頷くとところどころに設置された手すりから手すりへ掴まりつつ、跡部の方へゆっくり歩き出す。
がたんごとん、と規則的なリズムが突然破られて、千石はわ、と小さく叫ぶのを口の中で押さえ込み、跡部のすぐ横の窓に手をついて、ついでどさくさにまぎれて右手で跡部の身体を自分に引き寄せ、そのまま抱きしめた。
「……なんだ、お前、抱き枕がないと眠れない奴だったか」
面白そうに、跡部が言う。零した息が千石の耳元を温めた。空いていた左手で、を千石と同じように跡部は背中へ回す。
「もしくは、興奮して眠れない、とか」
「あたり。昨日もあんまり寝つきよくなかったんだそういえば」
月の光を溶かして混ぜたような千石の声が今度は跡部の肩に温かな跡を残す。くすぐったさに跡部は肩をほんの少しすくめた。
千石は跡部の肩に傾けた顔を窓の方に向けて、額をくっつけた。上り線の黒いレールが黙々と平行に線を引っ張り続けている。レールのくぼみを月光が伝って、まるでこの列車を追いかけているように見える。
自分の頭に心地よい体温と重みが傾けられたのに気づく。跡部が頬を柔らかく押しつけたのだろう。
相手の身体から聞こえてくるような列車の走りゆく音と振動が、そのときのすべてのように、時を支配する。
その時間の流れを壊すことなく、鼻から抜ける甘く優しい音で千石は鼻歌を呟いた。高い音をかすめるときには一瞬息を止めたように小さな沈黙が響き、かすかな喉の震えが追うように残った。
幼い頃の記憶から引っ張り出したその歌は、単純な連想から思いついたものだったが、夜の静けさの中で抱える、この心にぴったりだと思った。
耳に入り込んできた旋律に跡部は閉じていた目をそっと開く。夜の空気を口に含むように、跡部が小さく笑ったのを千石は察した。
「なあ千石、俺もだ」
ひそやかに紡ぐ。
何がと聞き返すのはこの空気と空間に無粋な気がして、うん、と喉に響かせるように低く、曖昧に促した。
冒険に行くみたいだろ、と跡部は上擦る調子を穏やかに抑えてささやく。
重なった心臓がとくとくと鳴る。
「俺も、わくわくしてるんだ」
fin.