ボタンがとれた。
寒い外から千石の家に招きいれられて、部屋まで案内されて、コートを脱いだときだ。引っ掛けた覚えなんかなかったけれど、セーターの飾りボタンがころりと落ちてとれた。
いろんなものが散らかって賑やかな床に糸くずのくっついた黒のボタンが転がる。
それをひょいと千石が摘み上げた。
糸をそのまま床に払って、ボタンのちっさな穴から俺を覗く真似をすると、
「つけてあげよっか」
とまるで新しいおもちゃを見つけたように、言った。
お前裁縫できるのかよ、そんな台詞がすぐに喉元まで出かかったけれど、意外にも器用なこいつのことだから、まあ学校でも家庭科の授業があるわけで、と自分を納得させるように思い直し、
「針と糸は」
と、この部屋から見つかるのを期待出来ない道具の行方を尋ねた。
持ってきたよ、そう言いながら部屋に戻ってきた千石が抱えていたのは、千石の母のものと思われる、カントリー調の木製の裁縫箱だった。
ベッドに腰掛けて片足をぶらぶらさせ待っていた俺は、今更ながら、お前出来るのかよ、と言って少し笑った。
千石は、首をかしげてうーん、といたずらっぽい顔をすると、
「ま、ボタン付けくらいなら、ね」
と俺の横に裁縫箱を置き、自分も腰を下ろした。そしてふたを開けようとして、手を止める。
ん、と俺が箱を眺めていた視線を千石にやると、千石が手のひらを上にして俺を指差し、その人差し指をすいっと上に滑らせた。
「不器用じゃないけどさ、一応。危ないし」
「ああそっか」
その仕種で何を言わんとしているか気づいた俺は、黒のセーターの裾に手をかけた。
ぐいっと持ち上げて、セーターが背中から首を擦ると、ぱりぱり、と静電気の立つ音がした。
首をくぐらせて一息つく。乱れた髪が顔に貼り付いていて、鬱陶しい。
そうして腕を抜き、脱いだセーターを千石に放ると、
「寒くない?」
とすかさず千石が尋ねてきた。下には薄手のTシャツを着込んでいたが、確かに急に背中が寒くなった。
俺は乱れた髪をかきあげて払うと、さっきの千石のように、手のひらを差し出す仕種だけでそれを示す。
千石は、はいはーい、とにっこり笑って元気よく立ち上がると、ベッドの片隅に放り投げられた脱ぎっぱなしの服の山、からではなく、(以前ここから拾って俺に貸そうとしたことがあったが、そのとき盛大に怒ってやったせいだろう。)床に散らばる小物の数々を飛び越えてタンスまで行き、上から三番目の引き出しを開け、スウェットのパーカーを持ってきた。
カーキ色のそれはよく着ているのをみる。
袖を通すと、肌の体温に馴染んだセーターの温もりには及ばないが、背中の心細さがなくなった。
ジッパーを上げて首をすくめる。すっと息を吸い込むと、ふと、鼻先を先ほどまでとは違う匂いが漂った。
パーカーの袖を手の甲までずり下げて、その手を鼻に軽く押し当てる。
千石のだ、と思う。
香水なんてものを千石はつけないから、洗濯せっけんの匂いだったり、千石の家の匂いなのだろうけれど、好きとか嫌いとかそういうのでなく、ただ、それが掠めるとなんだか落ち着いた。
なんてことを言ったらこいつ、うぜえぐらいにはしゃぐんだろうな。
そう思いつつ、裁縫箱を開けて中をがさがさと漁っている千石を見ていると、ふと千石が顔を上げ、膝の上に置いていた俺のセーターを抱え込み、ねえこうしてたら俺の匂い移るかな、とまるで俺の心を読んだようなセリフを吐いたので、俺はぶっきらぼうに知らねえ、とだけ答えておいた。
千石は短く笑うと、探し当てたセーターと同じ色の糸を取り出して、するすると20センチほどの長さで切り、器用にさっさと針に通した。
そこら辺にはなかなかに感心する。
「へえ」
「あ、ちょっと今俺に惚れ直したでしょ。えへへ、意外に俺こういうの得意なんだ」
「ふーん」
「何、なんか一気に興味ない返事に変わっちゃったんですけど! 惚れ直すでしょー こういうのポイント高いでしょー」
いつもみたく軽口を叩きながら、千石は結び目を作り、付いていた位置にボタンを添えて縫い付け始めた。
すいすいと糸を通していく。
「でもね、料理はいまだ勉強中で、掃除はこのとおり不得意だから跡部くん、そこらへんはお願いします」
「……何の話だか」
「えっ、勿論新婚の話?みたいな。洗濯、料理、ゴミだしは交代、こういうのは俺がやったげる。
あ、掃除は跡部くんが仕切ってくれるなら俺も手伝うから!」
「お前具体的すぎ」
いつそんなこと考えてんの、と俺が吹き出して笑うと、いつも〜と千石も笑って答えた。
すーっとひと針通して、よし、と千石が呟く。袖部分をめくって始末する。針に糸を巻きつけて、くるくるくる、
と三回。親指で押し付けた針をゆっくりと引っ張る。最後に、つめの部分で出来た結び目を押さえつけた。
ちょきん、と小さな音を立てて、余った糸をはさみで切る。
使った針を針山に戻して裁縫箱のふたを閉める。残った糸はいつのまにかなくなっていた。
千石のことだからまた下にでも落としてしまったのかもしれない。
「終わり!」
ばっと自分の前にセーターを広げて、千石がやたら嬉しそうに言った。
どうよ、と俺はそんな千石によりかかり、肩をくっつけ、千石の顔の前に身を乗り出して、袖口を見る。
反対側の取れなかった方ときちんと対称になっている。
「ん、いいんじゃね」
「ふふふ〜 惚れ直した? 何気ないところにちょっときゅんときちゃうでしょ?」
「おーおー」
そういうことにしておいてやる、と笑いながら流して千石の手からセーターを受け取ると、千石が手を離したと同時に、
「感謝の気持ちがこもってないぞ〜!」
と上目遣い気味に何か企んだふうな笑顔で、俺の脇腹をくすぐってきた。
「てっ、 はは! ちょ、お前くすぐってえ!」
「ったりまえ〜 くすぐったくしてんだもん」
「こいつ、」
脇腹に触れるもどかしい感覚に、可笑しくて涙がにじむ。身をよじり片手でガードして千石の手から逃れつつ、負けじと俺ももう一方の手を伸ばす。
ぐりぐりと脇腹をつついてやって、弱い二の腕の下のあたりをぎゅっと掴んでやった。
「あははは、だめだめ! そこおかしい! ははっ、くすぐった、」
「お前の弱点はお見、通し、だぜ! わ、ははは、もうやめろって!」
仕返ししたつもりが、すぐに反撃に出た千石に、大きく仰け反った俺はそのままベッドの上に倒れ
こんだ。
俺をくすぐったままだった千石の手を掴んで、一緒に巻き添えを食らわす。
いきなり引っ張られて、千石は、うわっ、と声を上げ、俺の上に覆いかぶさる形になった。
下で、腕を突っ張らせて千石の胸を支える。あぶねーあぶねーと俺の頭より少し上で千石の声が聞こえて、また俺はくつくつと笑いがこみ上げてきた。
俺の目線よりちょっと下にある千石の腹をくすぐってやる。
「ぎゃあ!」
最後は声にならず息だけで笑いながら、千石はくるりと回転し、俺の横にばふっ、と仰向けに転がった。
俺も千石も小さく細かく笑いを洩らしていて、それはほんの少し掠れている。
千石が俺の方へ身体を傾けて、口を開きかけた。うまく声がでなくて、ひとつ、咳払いする。
「、は〜すっげー笑った。腕だけはさあ、勘弁してってこの間も言ったのに」
「お前筋肉ついてねえんだもん。すっげー柔らかい、ぜっと」
「わっ、だめだよだめだめもう終わりね! そんなことないって、筋肉ついてるよ〜」
「俺に比べたらまだまだ」
「うー精進しまっす。……あれ?」
千石がふと目をぱちくりさせて身体を起こした。ベッドに腰かけ、足元に手を伸ばしている。
俺は身体を曲げ、何やってんだと訊くと、千石はセーターを拾い上げた。
いつのまにか手にしていたはずのセーターが、千石の足元に落ちたらしい。
簡単に払って、千石がはい、と俺のところまで持ち上げたそのとき、ころん、ぽとん、と小さな優しい音を立てて、ベッドの上にまるいものが落ちた。
「……」
「……」
ボタンだ。
さっき取り付けた飾りボタンとまったく同じ、黒の糸くずのついたボタンがひとつ、転がっている。
それを見下ろしている千石を俺は見やり、少しだけそっぽをむく。
「……きゅんは取り消しだな」
「えっ! 俺ちゃんと付けたって! ていうかいつ君きゅんてしてたの」
口を尖らせて千石は言うと、ベッドに乗り上げてきて、おっかしいなあとセーターの袖を探した。
落ちたボタンを摘み上げる。まとわりついた糸を引っ張って、ふと気づく。
俺がなあ、と話しかけると同時に、千石がやっぱりと声を上げた。
「ほらみて跡部くん!」
「あ」
飾りボタンのない方の袖を千石が示す。
気づいたとおり、今度取れたのは千石が縫い付けた方でない、左側のボタンだったのだ。
「ほらねっ、俺ちゃんと付けたもん。……うふふ」
「何だその最後の気持ちわりー笑いは」
一応、予測はついていたが尋ねないのも気持ち悪いので訊いてやると、千石は口元に俺のセーターを持っていって隠すようにして笑い、
「きゅんってしちゃったんだね〜 跡部くん」
とだらしない、良い見方をすれば幸せそうな顔をしたので、条件反射で俺はその頭を叩いた。
それでも、にへらとさらに表情を崩すのでもう一回お見舞いして、軽くため息をつく。
「あーもう分かった分かった。きゅんとしたからなんだっつうんだ。早くしろ」
「えへへ、えーそれではわたくし千石清純、まことに勝手ながら本日をきゅん記念日と制定させていただきます! わーどんどんぱふぱふ〜! ……ん、って何早くしろって?」
「手」
「うん?」
素直に差し出した千石の右手に拾ったボタンを乗せ、置かれたままだった裁縫箱を顎で示す。
千石がボタンと裁縫箱に順番に目をやって、俺と最後目を合わせたのを計って、
「もっかい」
と言ってやった。
すると、千石はセーターを抱え込むように背をまるめて、さっきよりも幸せでたまらないみたいな顔をして身体を震わせて笑い、唇をひとなめして顔を上げた。唇の両端が、楽しくてしょうがないみたいに、にんまり上がっている。
「それ、いいね。もっかい言って」
「もっかい? 何をだよ」
「ぷはっ、だから、それもっかい」
ツボにはまったように笑って、楽しそうに身体を横に揺らす。もっかい、って言ってよ、と目尻に溜まった涙を拭いながら言った千石に、俺はまたもっかい?と聞き返した。
「そうそれ! いいなあ俺、その響き好きだな」
「もっかい、が?」
千石の気持ちが移ったのかまるで、さざなみが起こったみたいに、俺も笑いを含んだ声になっていく。
「なんかねえ、いいよねえ」
「もっかい、ねえ」
千石が前かがみになる。俺の目を伏せながら、俯き加減になった。
自然と額を寄せ合う。
「ね、もっかい、って言ってよ」
「……もっかい?」
「うん、もっかい付けたげます」
「当たり前だ。もっかいな」
ころころと舌足らずな言葉が口の中を転がる。
ふ、と息をはくようにして、千石が小さく笑い出した。その振動が触れた額を伝わって俺を暖かくする。千石の手が俺の頬に触れた。
額の熱が離れて、すぐに微かな水音を立てて千石の唇が触れた。
目を開けると、千石が微笑んで、いっかいね、と言った。
そうしたら、次に俺が言うべき言葉はたったひとつだ。
「もっかい」
何回目かな、そんなことをふと思う。おまじないを繰り返している子供みたいだとも思った。
千石が動く気配がした。
それを牽制して、俺はその右肩に手を添えて腰を少しだけ浮かせ、千石の鼻先をついばむように
キスをする。
そして。
「もっかい!」
吹き出しそうになるくらいおかしくて楽しい気持ちを抱えて笑うと、無防備の千石の脇腹にさっと手を差し込んだ。
「うわぎゃー! くすぐった、もっかいって、わ、第2ラウンド開始ですか! タンマタンマ!」
「待たねえ! 問答無用!」
「ひゃははは、もーだめギブ!降参! ははは、ふ、腹筋いてえー!」
「お前腹筋もねえからちょうど、い、うわ、やめろってくすぐってえ!」
降参なんて言いながら、千石も反撃を開始してきた。ベッドの上を二人で文字通り笑い転げる。
喉も腹筋も痛かったけれど、きっと明日も引きずりそうだけれど、結局5分くらいそうしてじゃれあった。
「……は、」
「もー俺、もうだめ〜」
やっと一息ついて二人してベッドに転がってると、放ったからしになってたボタンがちょこんとベッドの上に鎮座していた。
あ、と千石が自分の手のひらを見る。知らないうちに落としていたようだった。
そうして俺たちは顔を見合わせ、向かい合っていた身体を少し縮めると、
「「もっかい!」」
と声を合わせて笑った。
Fin.