泣けない恋、その心アルミナ
俺はあいつが気になってて、あいつが誰にそういう感情を持っているかなんて俺は知らない。
あいつは、俺が好きで、俺は、それを知ってる。

それならあいつは、俺のを知っているんだろうか。
俺が、あいつを、



「……お前な、今日はダメだって言っただろ」
昨日と同じ場所、同じような様子で、そいつは俺の学校の校門に寄りかかっている。
もう10月の終わり、冬の始まりもいいところで、ひやりとした風が吹くようになったというのに、苦ではないのだろうか。
二週間前の俺ならば、発見したと同時に無視を決め込むか、怒鳴り散らしていたところだけれど、そういった反応はまったくもって意味がないと気づいた現在では、俺は呆れた調子でそいつを迎えることにしていた。
千石は、うん、そうなんだけど、といつもみたく情けなさそうには笑って答えた。
あれからも千石は氷帝によくやってきた。
嫌われていない、と確信したからだろう、と俺は思う。
事実、俺は千石のことが嫌いじゃない。
そもそも最初は嫌いとかそんなことを考えるほど興味がなかったのが本当で、うるさいと思うことに変わりはないけれど、今は、その情けない笑顔も、つながりの見られない会話のテンポも、校門の前で奴が手を振ってくるその瞬間も、嫌いではなかった。
千石は、俺が、好き、だ。
それを思い出すと、少しだけ心臓が早くなった。ちらっと窺うように千石を見やると、そいつは首を傾げた。
「用事があるってこの間教えてくれたけど、や、えーっと、教えてくれたから、こうして早めに来てみたりしたわけなんだけど」
跡部くんがそういうこと、教えてくれたの初めてだったから。
そう言うと、今度はなんだか幸せそうに笑った。
心臓を、思わず掴まれそうになる。
……そういう顔、不意にするんじゃねえよ。
と言いたいところだけれど、どうせこいつを喜ばせるだけだと思うので、俺は何も言わなかった。
今日は用事があった。
だから昨日、いつも部活が終わった頃に待ち伏せしている千石に、明日はいないということを一応伝えておいたのだけれど、そういうことを自分から教えるようになるくらいには、自分は千石が嫌いではないのだということにふと気づく。
そして奴はたったこれだけのために、俺の授業が終わった時間を見計らって来ているのだから、なんというか、これが恋、なのか、とも思ったりする。
俺はため息をつくと、肩に下げられたテニスバッグに目が留まって顎で示した。
「お前部活は、」
「う。……これから帰って出ます」
千石は胸を押さえて、痛いところをつかれたという心情を表すと、手のひらを合わせて頭を下げた。
一度、俺は千石に怒ったことがあった。
明らかに部活に出てないことが分かる時間帯ばかりに訪ねてくるものだから、怒鳴ってやったことが、あった。
すると意外にも千石はしょんぼりして謝った上、真面目に出ることを約束した。
それ以降訪ねてくる回数は減ったものの、多少はサボっているらしい。
今日も予想したとおりだったけれど、これから出るつもりなら、まあ進歩した方だろう。
「だったらもう帰れ」
俺はしれっと突き放すようにして言う。ええまだ来たばっかだよ、と千石は凭れていた背中を伸ばして立った。
「すぐに帰ったりしたら、南にもう振られたのかって嫌味言われるよ〜!」
「だから何だ。俺には関係ねえ」
「ありありだよ! だって俺のす」
条件反射で俺は千石の口を塞ぐ。ぎろっとついでに睨んだ。効かないことは分かっていても、だ。
まったく、すぐにそれを口にするのは初めて会った頃から変わっていない。
ごめんといったふうに千石が目尻を下げたのを確認して、俺は手を離しにやりと笑ってやった。
「じゃあその南とやらに言っとけ。振られるっていう話の前に、まず相手にされてないってな」
「ひどいよ……!」
言わないよそんなこと!、と千石は俺の斜め後ろについてきていたが、足を止めた。
「跡部くん?」
「アーン」
呼び止められて俺は振り返った。千石が校門を出て右に折れる方の道を指差す。
「こっち、じゃないの」
俺が曲がろうとしていたのはその逆、左に折れる方だった。いつもは千石の指す道を行き、駅まで出る。
それを千石は勿論知っていた。だから不思議に思ったのだろう。
俺は千石に向き直ると、用事があるって言っただろ、と口にした。
千石は、一呼吸置くとやっぱり気になったのか、
「どこに行くの?」
と尋ねてきた。
せ、という言葉が喉の奥まで出てきて、引っ込む。
微妙に開きかけた口をつぐんで右足を後ろにずらすと、くるりと方向を変え少し歩き出したところで身をよじり、そのまま後ろ向きに歩いた。
「せいがく」
質問が飛んでくる前に、招待試合の打ち合わせ、と続ける。
本当だった。
青学の学園祭の招待試合に氷帝が招かれることになって初めての、話し合いだ。
手塚に、会いに行く。
そう思うと、なんとなしに千石には言いづらかった。
千石は自分の頭で変換するように、青学、と呟くと、手をポケットに突っ込んで、少し拗ねた素振りを見せた。
「なんか……跡部くん機嫌良さそう」
ここが、と自分の頬を人差し指でぴたぴたと叩く。
俺が何だそれ、と笑って言うと、ほら、ともっと拗ねた口調で、
「いつもならそこで笑わないもんね。跡部くんならこうやって、バーカって言うもんね」
と、眉間に皺を寄せて俺の真似らしいことをした。
そうして、何で、とぶっきらぼうに尋ねる千石が可笑しくて、
確かにらしくない、と思いつつ、吹き出して笑い、いいから早く部活行けよ、と言い残して千石に背を向けた。
「やっぱり機嫌いいよ絶対!」
千石の不貞腐れた声が背中を追っかけてきたので、俺は、足を休ませることなく首を巡らせて千石を見やると、
バーカと言ってやった。
千石は、納得がいかない表情を浮かべていたけれど、邪魔出来ない用事だということには納得がいったのか、
渋々と大きく手を振った。半ばやけくそにみえて、それもまた可笑しかった。
千石の問いには答えなかった。
肯定こそしなかったけれど、いつも真っ直ぐな千石を思うと否定は出来なかった。
ずるい、な。
そう考えながら、俺は少し寂しくなった背中を冷たい一陣の風に撫でられて、バス亭まで急いだ。



青学に来るのは初めてだ。
バスから降り立ってほどなく歩くと、レンガ造りの茶色い校門に掲げられた青春学園の文字を認めた。
改めて校舎の外観を眺める。
さて、とりあえずここは事務室に行くべきか。
そう考え、敷地内に足を踏み入れる。
昇降口を目で探していると、左手の方からボールがラケットを弾く気持ちの良い音が届いた。
テニス、か?
そう思って、そちらに目をやると思ったとおり、青く茂った大きな木々の先にテニスコートがあり、
見覚えのあるユニフォーム姿が打ち合いをしていた。遠いので顔までは分からなかった。
コートの周りを一年生あたりと思われる集団が走りこみをしている。
自分の学校以外の部活の様子を見たのは別に初めてではなかったが、
敵情視察のつもり半分、興味半分で首を伸ばすようにして眺めつつ歩いていると、

「跡部」

不意に、優しく響くいつもの声で自分の名が呼ばれた。心臓が震えるのを、目を瞬くのでなんとか抑えた。
声の主は、決まっている。間違えるはずはない。

「お出迎えとはありがてえな手塚」

俺は斜めに視線を滑らせるようにして、声の方へ向き直った。
手塚は、試合会場で見るジャージ姿で、ゆっくりと俺の方へ歩いてきていた。
いや、と奴は口の中で小さく言い、
「本来なら、招く側であるこちらが氷帝に出向くべきなのに、こちらの都合で来てもらったんだ。これくらいは」
させてくれ、と言ったところで、ふと表情を崩した。
特別に向けられたものではない、と分かっているのにどきりとする。
「……別に、お互い、なかなか予定が合わないのは仕方ねえだろ」
頭をかきながらそう答えると、手塚は、そうか、と呟くように言って笑った。


来月11月の頭に青学で学園祭が行われる。
テニス部が有名な青学は、招待試合が学園祭におけるひとつの目玉であるらしい。
その目玉に、今回氷帝が招かれたのだ。
本当は手塚が氷帝へやってくる予定だったのだが、
中高一貫教育である俺も手塚も、部や生徒会などの仕事から引退する、というのはまだ先の話であり、
なかなか手塚が出向くことの出来る日を決められず、こういう形になった。
手塚が俺を案内した部屋は、生徒会室だった。
生徒会室、と書かれたプレートを見上げた俺に気づいて手塚は、今日は使わないので貸してもらったんだ、と告げてドアを開け、先に入るよう促した。
図書館に似たような匂いが掠める。
ぱちん、と電気が点けられた部屋の壁際には棚があり、その棚にはファイルやら学校で発行された冊子などが収まっていた。
部屋の中央にある、折りたたみ式の長方形の机は四角に組まれていて、机の上には、学園祭の資料がそこここに山を作って無造作に置かれていた。
「すまない。今準備に追われていて、いつもこういった状態なんだ」
手塚はさっと俺の前に出ると、比較的散らかっていない机のあたりの物をまとめて退かし、席に案内した。
腰を下ろす。
他校の生徒会室なんて、めったに入る機会などない。
何より手塚の学校生活の一部なんだと思うと、自然とあちこちに目がいく。
がらりとドアの開く音がして、席を外していた手塚が戻ってきた。
手にしている木製の小さなトレイの上には、白い陶器の小ぶりな碗がふたつ乗っていて、上品で仄かな香りと湯気が立っていた。
「……気になるか。すまないな」
お茶を差し出すのについで、手塚が俺の顔を見て謝る。
俺が部屋の様子を窺っているのを、この散らかりようが気になるものだと思ったらしい。
そんなに見ていただろうかと少し反省して、そうじゃなくてと、
「ウチも学園祭が近いとこんなもんだ。確かに、どこも変わらねえな、とは思ったけど」
と笑った。
すると手塚は座り直して、お前も生徒会長だったかと口にした。
「氷帝の学園祭はいつだ」
「ん、ウチは11月の三週目。遅いだろ」
「そうだな」
三週目、と言ったら、今度は音楽祭の準備に追われてる頃だ、と手塚は肩をすくめて軽くため息をついてみせた。
その少しおどけた様子に、俺は可笑しくなって吹き出す。手塚も口の端ほんの少し上げて笑う。
いただきますと、断って出されたお茶を一口すすった。
段々と寒くなってきたこの季節、温かいお茶は身体にもありがたいが、
温かい液体を口に含んで、馴染ませるようにゆっくりと飲み下す所作は、気持ちを落ち着かせるのに丁度いい時間をくれる。
温まった息を吐く。
それを見計らったように、手塚が一枚の紙を俺の前に滑らせた。
「前回の招待試合の資料だ。開始時刻と、試合形式あたりの参考にはなるだろうと思って」
「ああ」
俺は碗を置くと、紙を拾い上げて目を落とした。
開始、は、11時か。人が一番多い時間帯だな。さすが目玉のひとつ。
メンバーは二年生が中心。手塚、は。
「お前は出なかったんだなこのとき」
口に出して、ああそうかジュニア選抜の頃かと思い当たった。
目線を上げると、手塚はああ、と頷いた。
その先はもう口にしなかったけれど、俺に多少気を遣ったのだろうかと手塚の肩を見ながら思った。
手塚はその視線に気づくことなく、さて手際よく決めていくか、と俺を見やったので、
俺もそうだなと返し、再びその資料に目を落とした。

前年度の資料を用意してくれていたことで、小一時間もしないうちに大体の段取りが決まった。
「時間や控え室の教室なんかについては、他のこととも合わせて調整することになる。
後でまた詳細が決まり次第連絡するが、前年度と基本的に変わることはないと思う」
手塚がとんとん、と机の上で紙をそろえながら言い、そのうち一番の上にあったものを抜き出して、
これは持っていってくれ、と前年度の資料を差し出した。
礼を言って鞄に仕舞う。
手塚が席を立ったのにつられて、俺も席を立ち、飲み干した碗を少し奥に押しやって、ごちそうさまと言った。
「それじゃあ」
「ああ、と」
そこで手塚が片手を上げて俺の動作を止めるようにした。
もう帰るつもりでドアの方へ一歩踏み出していたところだったのだが、自分の胸の前に手をかざされて踏みとどまる。
「……、何だよ」
ちょっとばかり驚いてきつめの視線を送ると、手塚は悪いと笑い、
「もし時間があるなら練習を見ていくか?」
と資料を脇に抱えながら言った。
俺は目を瞬かせた後、いいのかよ、とだけ口にする。
「来たとき、テニスコートの方を見てただろう。良ければだが」
お前が見にきたというだけで、やる気に繋がるところもあるだろう、と手塚は言い、息をつくように笑った。
その考えがいつも手塚じゃないみたいで、結構腹黒いじゃねえの、と俺が答えてやると、
手塚は、部長だからな、と多分部員にはあまり見せない顔をした。
そんなことが嬉しくて、
「見ていってやるよ」
とけらけらと笑って、俺は誘いに乗った。



日の沈み始めた外は、風が冷たかった。せっかく温まった頬の温度を一気にさらっていく。
見上げた空は雲をたなびかせたオレンジ色に染まる空だった。
昇降口を出た俺たちは、テニスコートに向かっていた。
少し先を歩く手塚が、終わるのは6時15分だからな、と独り言のように言ったのを聞き、俺は腕時計を確認した。
4時48分。
夏の頃ならまだ明るいのに、とそんなことを思った。
追いつくように足を早めて、手塚の横に並ぶ。
ちらりと手塚の横顔を見やった。少しだけだが見上げる形になる。
なかなかこの差4サンチは縮まらない。
夏の頃からちっとも変わってないな、そう思うとちょっと悔しかった。

もっと近づけたらいいのに。

自然とそんなことを考えて、はたと一瞬足を止める。
この感情は何だ、と分かりきった疑問を心の底に押し込み、
手塚に気づかれることなくすぐに歩き出しだけれど、さっきまで意識していなかったことが急に顔を出した。
千石の、機嫌がいい、という言葉が甦る。
俺を毎日のように訪ねてくる千石の、恋、が自分の今の想いに重なった。
もしかして、そういうことなのか、と少しくらくらする頭を押さえたとき、
思いもかけない呑気で大きな声が俺と手塚の背中にぶつかった。

「跡部くーん! 手塚くーん!」

二人して校門の方を向くと、わ、やっぱりそうだ俺ってラッキー!とぶんぶんと大きく手を振りながらやってくる、
たった今自分の中で思い出された人物がいた。
ため息を盛大についてみる。

どうしてお前がここにいるんだ千石清純。

「どうしてって、えー…………」
そこでぽりぽりと頬を掻くと、がばっと頭を下げて、
「跡部くんのことが気になって気になって仕方なくってここまで来ちゃいました! いやあのね一回帰って部活に出たんだけど、身が入ってないって南に追い出されたっていうか……、
ごめんなさいすいません!だから嫌いにならないでー!」
まず、だからの意味が分からない、と俺は思ったが、そこは一番最初に突っ込むべきではないところだな、と冷静に判断して千石の後頭部を見下ろした。
とりあえず軽くチョップを喰らわせる。
あいた、と言うなり千石は起き上がって、ごめん、とあまり反省してないだろう笑顔で言った。
怒っても効かない、それが分かっていてもこのときばかりは俺も眉根を寄せる。
そのとき、
「仲が良いんだな」
と、手塚がおもむろに口を開いた。
手を振り上げて頭を叩こうとする俺、それをガードしようと頭を庇った千石が、今までのやりとりをじっと眺めていた手塚を見つめる。
「どこが!」
「そうなんだよー!」
同時に発した言葉はまったく正反対のものだった。
牽制するように俺は千石を睨む。睨まれた千石は、さすがに分が悪いと思ったのか、
「ご、ごめん。無駄口はもう叩きません……!」
と言うと、両手を広げて降参のポーズをとった。
俺はため息をつくと、まだ仲が良さそうだな、というような目でこちらを窺っていた手塚に、
「知り合いだが別に仲は良くねえ。いきさつは割愛する」
と告げた。千石も割愛しま〜すと重ねる。
手塚は分かったのかどうだか分からない表情でそうか、と頷くと、
「それじゃあ、千石も見ていくか」
テニスコートの方を示した。
千石はどういう経緯なのか、そういう細かいところは特にこだわらない性格のようで、
二つ返事で、うんうん見てく!と笑って答えた。
俺は、なんとなくその笑顔が気に食わなくて、先程叶わなかった千石の頭を叩いた。



青学に来るのが初めてならば、他校の部活風景を間近で見ることすら俺は初めてだった。
他校の制服姿である俺と千石が、手塚に連れられてフェンス越しにテニスコートの近くに立つと、
物珍しいのだろうか、部員たちの練習の手が止まった。
関東大会で対戦したメンバーの何人かが気づくなりこちらへ寄ってきて、二言三言交わしたが、手塚が適当なとこでいつもの練習に戻れ、と散らしたので、
下級生は慌ててラケットを振り始め、集まっていた奴らも肩をすくめてすぐに練習へ戻っていった。
「俺、実は一回偵察に来たこと、あるんだよね」
と千石が笑いを含んだ声で言った。
「そうなのか?」
手塚が俺とは反対側にいた千石を見やる。
うん、地区大会前に越前君と会ったんだ、と千石が言うのを聞きながら、俺は目の前のテニスコートから目を離さなかった。
人数こそウチの部と比べれば大分少ないが、なかなか良い腕を持ってる奴がいる。
今コートに入っているのはどうやら二年生らしかった。見覚えのある三年生らが、打ち合いの相手をしている。
招待試合のメンバーはこの二年生から選ばれるんだったけな、と、前年度の資料を思い出す。
面白い試合になりそうだ、と思うと自然と、頬がゆるむ。
「いい部だな」
素直にそう口にすると、手塚が、少しだけ瞳を大きくしてこちらを見、やがて、
「ありがとう」
と珍しく、嬉しそうに笑った。
嬉しそうに。
笑った、その顔、が

わ、

と思った。
こんな顔をするなんて、思わなかった。
今までの笑顔と比べものにならなかった。比べるられるようなものではなかった。
なんて、言えばいいのだろう、
手塚自身の、大事な大切な、好きなものの一端に触れた、ような。
そうだ、俺は、似たものを見たことが、ある。
コーヒーを、ファーストフードで見た、いや、さっきも校門の前で待ってた、俺に笑いかけた、
千石、の。


…………目が、合った。


その途端、分かった。知られたと思った。
俺が、俺の気持ちを知られたことよりも、俺はどんな顔して、お前を、
よりによってお前に、なんて、まるで借りでも作ったような顔だろうか。
これで諦められるだろ、なんて、肩の荷が下りたような顔だろうか。

まさか。
お前だけには、知られたくなかった、なんて、後悔に満ちた目をして、罪悪感でいっぱいの顔を、俺は。

千石が、俺の名を呼びかけたのを、手塚、と振り絞った声でかき消す。
「? 何だ」
誰の顔も見れなかった。テニスコートの方も、手塚の顔も、千石の顔も、何も見ることが出来なくて、
がつんと殴られたような頭を俯かせて、目を閉じたまま言った。
「悪い、も、帰る」
「ん、ああ、そうだな」
手塚はそう答えると、俺の様子が先ほどと違うのに気づいたのか、もしかして気分が優れないのか、と手を伸ばしてきた。
慌てて、一歩下がってそれを避ける。
そのときちらりと顔を上げたせいで、手塚の顔が見えた。変わらない、手塚だった。
その後ろにいた千石は、不安そうな、揺れる瞳で俺を見ていた。

ああ分かったんだなお前。

そう思うと、もう、その場にいられなくて、俺は、悪いと押し殺すように一言言い残すと、
手塚の声とも千石声とも分からない制止の声に振り返ることも出来ず、駆け出した。



ろくに知りもしない道を足が向くままに走る。
バス亭はとうに過ぎていた。乗る気には、到底なれなかった。
景色なんか目に入らなかった。自分がどこにいるかも分からなかった。何をしたいのかも分からなかった。
すべてを振り切るように走っていた。
それなのに。

「待ってよ跡部くん! 待って!」

一番振り切りたかったはずの、ひとつの、足音がついてきていた。
何でついてくるんだよ。
低く、唸るように言った言葉は風に紛れた。

「千石!」

ついてくんじゃねえよ、振り向かず、わめき散らすように言い放つ。一瞬苦しくなって、息を吸い込む。
足を踏み出すたびに揺れる俺の身体に合わせて、千石の、たんたんという足音がまだ後ろにあった。
「ついてくんな!」
「ごめん跡部くんごめん」
「ついて、くんな!」
「俺知ってたんだよ、俺」
「いいから、」
「君に好きなひとがいるってこと、知ってて」
「も、か、えれよ、っ!」
「だから俺、青学まで押しかけたりして、」
「もうっい、……、」
「、跡部くん」

泣かないで。

ひた、と足が止まった。追ってくる足音も、ゆっくりと、止まった。
世界がじんわりと目に沁みこんできて、土手脇をずっと走っていたのだ、とようやく分かった。
空は、まだ燃えるような赤い夕焼けで、それでも眩しくないのは、影の差す、土手の脇を、ずっと走っていたのだからだと。
それなら、こんなふうに目が痛むことなんか、ないのじゃないかと、やっと気づく。
引きつった声が漏れそうになって、鼻をすする。喉が詰まって少しむせた。
「跡部くん」
まだ、そこにいた千石が、近寄ってくるのが気配で分かった。
俺は、ぐいと乱暴に目元を手の甲で拭うと、勢いよく振り返った。

「……なんでお前が、追いかけてくるんだよ!」

言い終えて、はっと口をつぐむ。
まるで、待ち望んでいる者と違うんだとでもいうような、残酷な言葉だと思った。
ぼんやりとした視界で認めた千石は、眉を少し寄せ、目尻を下げた。
そんな表情で笑うと、
「何で、って、こういうことかな」
と、大きく踏み込んで俺との距離をつめると、力強く引き寄せられた。
俺は、千石の腕の中にすっぽりと収まっていた。
あっという間のことで身動きの取れない俺を、なだめるようにそっと背中をなでる。
絶対に泣かない。
思っていたはずなのに、堪えられなかった。どうしてこいつの前では泣けるのだろう。
そう思うと同時に、きっと、あいつの前では泣けないだろう、とふと思う。
耳の裏で、小さく小さく千石は話した。
「俺知ってたんだよ。君に好きなひとがいるってこと」
ああ、ため息にすらならない想いが、肩を震わせる。
「ごめんね、それでも俺は君に近づいたんだよ。だから俺、知ってたんだ」
ぎゅうっと、息も出来ないほどに心臓が収縮する。
「君の好きなひとも、……俺のこと、気になってることも」

全部知ってたんだ。

優しく千石は言うと、ごめんね、と優しい言葉を口にした。優しすぎて辛いと俺は思った。
心に流れ込みそうになるものを必死でせき止める。
ぐ、という声が微かに漏れて、それでも千石は背中を撫で続けてくれた。
いくつもの雫を千石の肩に落とす。
「ね、跡部くん」
千石が、静かに口を開く。俺の背中をさすり続けながら。
「知ってたんだ」
その、意外にもしっかりとした声の強さに、俺は千石が告げようとしていることが分かった。
止めたいのに、言葉が出ない。身体が強張ったように動かなかった。

千石、頼むから、

「ね、君は手塚くんに」

ああ、その先を。どうか、言

「恋してるんだね」


…………ああ。

それだけは、死んでもこいつの口から、言わせたく、なかった。



fin.
キリリクで頂いた今回のお話でしたが、日記で予告していたとおり、「恋シリーズ」の三部作のひとつとして書きました。
『我儘な恋、至るは清廉心』をシリーズの1として、ほとんど同じ線上にある今回の話ですが、多少、1とは違う雰囲気で書きました。というか、自然とそうなってるかな、という気がします。
それは『我儘な恋〜』は単品で、続きものとして書いたわけではなく、今回の、せんべとして話をまとめるつもりで書いたのとは、ちょっと心持ち違うかな〜と。設定は、一緒です。跡部が好きな千石と、手塚を好きな跡部、今は一方通行の恋の話。
題名の「アルミナ」は、ひとの名前でも素敵な意味を持った単語でもなく、酸化アルミニウムの工業的名称で、アルミニウムの製造原料名、です。(笑)辞書をぱらぱらと眺めていたときに拾った言葉で、なんかかわいいなあと思って、メモっておいたのでした。アルミナ、ってかわいいでしょ響きが。
でも一応、意味も持たせてつけています。「用途によって名前が変化する」というところから、「変化していく心」、という意味合いで持ってきました。跡部の心の奥底で、何かが変わり始めている、そんな予兆を込めて。
4200Hit、リエさんのリクなのですが、まだまだ決着が着いてないのでなんだか微妙なところなんですけれども、とりあえず半分お届け、ということにさせて頂きます〜(笑) リエさん、リクありがとうございました!

2004.11.20
This fanfiction is written by chiaki.