そのとき聖人は差し出しなさいと言い
「……お せ え!」
「メンゴメンゴ〜って、おわっ」
駆け寄ってきた千石に、跡部は出会い頭、ぶん、と勢いよく学生鞄を振り回した。
空を切る音がして、千石は腹の手前1センチでそれをかわす。
「ちっ」
手さげ部分を長く持ってぐるりと回した鞄を、さっと肩にかけると、跡部はマフラーに顔をうずめたまま舌打ちした。けれど目の端はほんの少し優しくなっていて、自分が避けることもきっと分かっていたのだろうと千石は思う。
遅えよ、と、笑いを含んだ口調で跡部が言った。



二人とも部活の帰りだった。今日でとりあえず年内の練習は終わりだ。ようやく本当の冬休みといったところだった。
今日はクリスマスだ。街では明るいクリスマスソングやら賛美歌が流れ、色とりどりの電飾が賑やかに瞬いている。
部活もあったし、夜は家族と過ごすつもりだったし、特にクリスマスにあやかろうと思うところはなかったのだけれど、練習最終日だったこともあって、夜にはまだ時間もあったから二人は会うことにした。
待ち合わせ場所はたまにこうやって会うときに使う、いつもの駅前だ。
ふと、跡部の様子に気づいて、千石が手を合わせ片目をつぶって苦笑いで謝った。
「ごめん、結構待たせたみたいで」
ん、と短く声をもらした跡部の鼻先は寒さで赤くなっている。
いつもなら大抵千石の方がほんのちょっと先に着くのだけれど、今日は運悪く伴じいに捕まって跡部が出迎える形になった。
「別に。行こうぜ」
跡部は小さく微笑むと、同じように待ち合わせでごった返す駅前の人込みを縫って、颯爽と歩き出した。
その紺のピーコートの背中を追って横に並び、千石が跡部の手に一瞬だけ掠めるように触れた。
ちらりと跡部が視線をやる。
千石は、わずかに首を傾けて笑ったのを見やって、何でそんなに温かいのか不思議だ、と跡部は掠れた声で言った。
特に目的があるために待ち合わせをここにしたわけではなく、二人の足は自然と人込みを避けて、どんどん街の賑わいから離れていく。
隣駅まで歩くのもいいだろう、そんなことを跡部は思っていた。
駅前の商店街の店先には、どこもかしこもクリスマス一色で、店頭にはクリスマスツリーにリース、店内は幼稚園の誕生日会のような飾りが溢れていて、客が出入りする度にそのドアの隙間から鈴の音のような音楽が流れて消えた。
街往く人の手には赤と緑のギフトバックが下げられている。大きくて四角い箱は、ホールのショートケーキだろうか。
嬉しそうに包みを抱えて歩く子供と、その頭を撫でている嬉しそうな親たち。幸せそうだなあと思う。
自分もあんな年の頃があって、ああやって笑って、よく覚えてないけどきっとそんな思い出が、自分にもある。
今、中学生になって、クリスマスの時期まで部活に費やすようになって、千石はその思い出の雰囲気から遠ざかっている気がした。
「なんかさあ、クリスマスって感じじゃないよねえ俺たち」
やや沈黙があって、そうだな、と跡部は返す。
「そもそもクリスチャンでもないのに、こんなに騒いでる方が変なんだろ」
「うーんそうだね〜 あ、キリスト教のガッコとかなら違うかもね。ほら、ミッションスクールとか?」
ミサとかしちゃったりするんじゃないの〜、と頭の後ろで手を組み、千石が言った。
その顔を跡部は少し睨むように見つめ、
「……お前今、具体的にどこかの女子高を想像してるだろ」
と言うなり、ふい、と顔を逸らし足を早めた。ゆっくり歩いていた千石は一気に離される。
「や、してないって! あ嘘ですちょっとしたけど、もう忘れた! 待って!」
喧騒から少しずつ遠ざかっていた。
隣駅に続く道を選んで、跡部は進んでいく。何回か行ったことのある道だから迷うことはなかった。
とん、とんとん、とステップするように追いついて、千石は、そうそう俺ね、と不機嫌そうな跡部の横顔を窺うようにして話し始めた。
「ひとつだけ聖書の言葉知ってるんだ。言葉っつーか、曖昧なんだけどさ、前ね、学校の講演で聴いたんだ」
「お前でもそういうの聴いてるのな」
「や、寝てたんだけど、ふと目覚めたときに耳にしてさあ。なんかねえ、悪い奴に殴られたら、もう片方の頬も殴られなさいみたいな、そんな感じだったかなあ」
「……絶対、そんなふうには書いてねえ」
「だから、なんとなくだって。ええもう片方もって何言ってんのこの人、ってそのとき思って覚えてたんだもん」
「ふうん」
静かに前を見たまま跡部は呟くと、黙った。
目を瞬いて、千石が跡部の名を呼ぼうと口を開きかけた。途端。
「は、跡部く、何す、」
突然千石の方を向いた跡部が白ランの胸倉を掴み、空いた左手を振りかざした。
殴られる。そう思った千石の耳元で、びゅお、と風の唸る音が聞こえ、ぎゅっと目を瞑る。
やってくる衝撃に歯を食いしばって備えた。
と、予想とは大分違った、ぺち、と透き通るように冷たい肌の感触が千石の右頬に触れた。
……これはおかしい。
そう思って千石が目を開けようとしたのと同時に、くつくつという笑い声が耳に届く。頬に触れる手が離れた。
「……あっとべく〜ん」
眉を寄せて不機嫌な顔を作って千石は、楽しそうに身体を折り曲げて笑う、跡部の姿を見た。からかわれたのだと気づくのには十分だ。
跡部は身体を起こして、それでも湧き上がってくる笑いを抑えきれないように切れ切れに言った。
「悪い、そんな、本気、で、本気に、」
その先は楽しそうな声の震えでかき消される。
千石は、そんな跡部の様子に口を尖らせた。さっきのことまだ怒ってんのかなって思ったじゃん、と愚痴っぽく言ってみる。
「ああ? あれはもう気にしてねえよ」
目の縁を拭った跡部がバーカ、と笑った。そして、悪い、と告げて、千石の制服を整えてやった。
「なあ、俺も知ってるんだよなそれ」
「ん、何が〜」
跡部にされるがままになって、その整える指先を見ていた千石が半ば無意識に返事を返す。
「あなたの右の頬を打つような者には、」
え、と千石が指先を追うのを止めて顔を上げると、目の前には口の端を上げて目を細める、跡部がいた。その表情は先ほどよりも楽しそうなものだった。
「左の頬も向けなさい、が、正解だ」
跡部が優しく目を閉じる。まるで微笑むようなその顔が近づいて、千石の左頬に回り込んで、限りなく優しい罪をひとつ落とした。
やがて不意打ちに目を丸くしたままの千石からゆっくりと離れた跡部は、だから絶対お前が言ったのじゃねえって言ったろ、とコートのポケットに手を突っ込んで、からりと笑った。



fin.
慌てて書いたクリスマスSSS。
もう25日終わるんですけど……というような時間から書き始めて、26日突入後のアップだったのですけど、気持ちは(以下省略)
クリスマスっぽくない感じを目指したつもりが、結局は聖書の一節を引っ張り出してきたりして。
個人的に、跡部が千石の制服の襟を直してやるその様子が好きです。子供がお母さんに、「ほら、ちゃんとしなさい」って直されてるのみたく、可愛いなあと思うのですが。
この後、二人は隣駅まで他愛もない話をしてじゃあね、っていつもみたく別れて、それぞれ家族が待つ家に帰ります。
クリスマスだからって別段はしゃぐ必要も盛り上がる必要もないんですけど、そういうあったかい場所があるなら、それは嬉しくて良いことだと思う。

2004.12.26
This fanfiction is written by chiaki.