沈黙を攫って
夏休みに、部活の休みが重なったのは久しぶりだ。
勿論休みはちょこちょこあるのだけれど、家族との予定があったりで、二週間は会っていなかった。
突き刺すような日差しの下、一日しかない休みを遠出して過ごすのはお互い気が乗らなかったの
で、跡部の家で一日ゆっくり過ごすことで落ち着いた。
そんなわけで、田舎のお土産をもって意気揚々と跡部邸を訪れた千石だったが、冷房のきいた静かな部屋の中、ソファの足元に寝転がってテニス雑誌を読むはめになっている。
何がどうしてこうなったのか、それは悠々と足を組み、ソファで読書に耽っている跡部に因るところがある。
珍しいね、洋書じゃないんだ、とやってきた千石が読書中の後姿に声をかけたところ、跡部は頷き、キリが悪いからあと15分くらい待っとけ、と言われたのだ。
うつ伏せになって、立てて読んでいた雑誌をそっと下ろし、跡部を見上げる。
どうやら今、ミステリを読んでいるらしい。
その茶色っぽい文庫の表紙が本屋のオススメコーナーに平積みになっていたのを、千石は見かけたことがあった。
そういえば今ドラマ化してるんだっけ。
そんな帯が付いていたのも思い出す。本の題名は、跡部の手で隠れていて見えなかった。
跡部くーん。
心の中で呼びかけてみる。ローテーブルの下から、ビデオデッキの時計を確認すると、まだ五分くらいしか経っていなかった。
また首を持ち上げて跡部を見やる。
跡部は左手で本を持ち、その肘を右手てで支えている。
静かな表情で文章に目を落とし、緩やかな速度でそれを拾っているのが目線の動きで分かった。
下から見上げると、俯き加減で時折伏せがちにみえる瞼や、影を落とす睫毛がきれいだ。
首を動かして、跡部の視界に入るようにしてみる。すると、次の行に移ろうとした跡部と一瞬目が合った。
あと五分だよ、の意味を込めて、千石は手のひらを広げにっこり笑いかけた。
跡部は、一回瞬きすると、そっけなく本に視線を戻した上、目が合わないように本を持つ位置をずらしてしまった。
ちぇっ。
ちょっと拗ねてみたりしつつ、千石も再び雑誌を手にする。
久しぶりなんだからほんとは今すぐにだって抱きつきたいんだけどな、そんなことを思いつつページをめくる。
早く終わらないかなあ。15分以上はさすがの千石くんでも待てませんよ跡部くん。あ、これいいな。
新しいラケットの記事が目に留まって、千石は見入る。
へえ、なんて小さく呟いて記事を読んでいると、思いもかけない言葉が降ってきて千石は一瞬耳を疑った。

「キス・ミー……」

雑誌から慌てるようにして顔を上げ、千石は辺りを見回し、その発信源としか考えられない人物を気づかれないようそっと見上げた。
ほんの少しだけ眉を寄せた表情で、相変わらず跡部は本に目を落としている。
けれどその視線が動いていないところを窺うと、何か考えごとをしているようだ。
先ほどの言葉と、その表情がそぐわなかったので、千石は聞き間違いかな、と頭をかいて見入っていた記事に視線を戻した。
すると、

「……kiss me」

と今度は流暢な英語らしい英語で、囁くように言ったのが聞こえた。
聞き間違いじゃ、ないよね、と千石は表情の変わらない跡部をちらりと見上げた。
俺は英語の成績はそりゃもう人に言えたもんじゃないけどさ、ヒアリングのテストなんてさんざんだけど、それくらいは、わかるよ跡部くん。
てことはさ、それって、

跡部がふと本から目を離した。それと同時に、
「千石お前き」
と言いかけたところで、自分の足元で寝そべっていた千石がいつのまにか起き上がっているのに気づく。
千石は、ソファに右ひざをつき、背もたれを掴んだ。
そうして跡部を閉じ込めるようにすると、跡部の顔を覗き込むように身を屈め、不思議そうに自分を見ていた跡部の唇に口付けを落とした。一回離して、またすぐに合わせる。
右手を跡部の首筋に添えて、泣きぼくろにも優しく唇で触れる。
そこで、跡部の手が動く気配がした。

「でっ!」

今の雰囲気にまったくもって似合わない、つぶれた声が自分から漏れたのを千石は後頭部の痛みとともに理解した。
跡部が左手を背後に回して、文庫の角で千石の頭を叩いたのだ。
「角は痛いよ〜跡部くん! いきなり何すんのさー」
「それはこっちの台詞だ!」
涙目で頭を擦る千石を、跡部は顔を少し赤くして睨んだ。
跡部の様子に、千石はきょとりとして、え、だってさっきさ、と言った。
「キス・ミーって言ったでしょ跡部くん」
「バカ! kiss meだ!」
「だからキス・ミーでしょ。だから俺、キスしてほしいのかと思って」
「違えよバカ! そんなこと言ってねえよ!」
そう跡部は言うと、ずいっと千石の前に読みかけの文庫を突き出した。
千石は一応その本を眺めると、首をかしげて、えっとこれがどうかしたのと控えめに笑った。
「この本で! 殺された男が、周りの人間に『kiss meに行く』って残してくんだよ!」
「うんうん、で?」
「ああもう、それで! 本当は『kiss me』じゃなくて、『霧積』っていう地名のことだったんだよ!」
「ほうほう」
「その謎が解けるところを!俺は!読んでたんだ!」
「……ああ!」
納得したように千石が手を打った。
跡部がキス・ミーと呟いたのは、実際に霧積と聞こえるものなのか、試しに口してみただけだったのだ。
盛大にため息をつき、跡部がソファに身を沈める。
「わーごめん! ごめんなさい!」
すがりつくように跡部の隣に腰を下ろす。読書の邪魔をされるのが跡部は大嫌いなのだ。
「うるせえ、近寄んなこのエロ千石!」
組んでいた足を曲げてソファへ持ち上げ、容赦なく千石を蹴る。
うわあ待った待った!と千石が慌てて手でガードする。その様子はどこか楽しそうだ。
何発かはもろに喰らったけれど、えいっとその足捕らえると、そういえばさ、と話を切り出した。
「さっき何て言おうとしたの?」
少しはしゃいだせいか、笑いを含んだ千石の声は僅かに掠れている。
どうやらそれなりに気の済んだ跡部は、ああと笑い、
「お前、霧積に行ったことあるか」
と告げ一息ついた。掴まれていた足を離させて、ソファから下ろす。
「きりづみ? ううんないよ」
千石がぶんぶんと首を横に振って、跡部くんはと返した。
「俺もない」
「どんなところなんだろうね」
「さあ……温泉があるみてえだけど」
そこで言葉を切ると、跡部は千石を見つめ、艶やかに微笑んだ。
「……来年、行ってみようぜ」
跡部の言葉を受けて、千石は口元を緩めると、

「kiss me?」

といたずらっぽく笑みをこぼした。
跡部が目を細める。そして両手を伸ばし、千石の髪を撫でるようにして指を差し入れる。
うっとりしたような表情でお互いが目を閉じるのを確認して、跡部は、千石の顔を引き寄せた。



fin.
2004年のグッコミで無料配布した「攫/連」より。
作中で跡部が読んでる本は、この時期ドラマも放送してた「人間の証明」です。
竹野内豊がこの辺りから好きになってきまして。俳優成り立てのときは世間知らずの坊ちゃん役が似合ってたけれど、今は寡黙な中に、切れ味の良いナイフみたいな激情を秘めている、どこか危険な感じのする役が合うようになってきたなあと。
あ、大杉漣も好きです。緒形拳も好きです。(笑)

2004.8
This fanfiction is written by chiaki.