「じゃあいい」
無理を言う気はないし、と短くそして別段不貞腐れた様子もないその声音と表情は、街で見かける彼と同年代の子たちに比べるとやはり大人びていると、千石は頭の片隅で思った。
そんなことをぼんやりと考えていられるような事態ではあまりなかったのだが、久しぶりに再会した人物はより目を引く容姿と雰囲気を持っていて、少なからず千石を圧倒した。
意志の強さを感じさせる眉に、澄んだ光を湛える力強い瞳、顎の線も幾分かまた細くなったような気がした。全体的な雰囲気がすっとまとまって、そういえば成長期ももう終わっているだろうに、背が伸びた気もする。
数年前、千石がまだ大学生だった頃、母の田舎へ一人で旅行へ行ったことがある。そのとき世話になった親戚の息子が今日、東京で一人暮らしをする千石の元へ尋ねてきたのだ。
彼の名は跡部景吾といった。もう酒の飲める年齢をわずかに過ぎ、今年の春から東京の大学へ進学することになった。世間一般で言えば浪人ということになるのかもしれないが詳細は少し違う。高校を卒業し親の家業を継ぐことを考えていた青年が、考えに考えて大学へ行くことを決め、一年前から受験勉強を始め今に至る。
それを母づてに千石は聞いたとき、素直にすごいと思い、それからやはりと妙に納得したものだった。
大学生最後の夏休み、これからのことでぐだぐだ悩み通して、年下の景吾に情けない姿をさらして、それでもそれなりの答えを自分でさえ見つけられたのだから、あの聡明な青年が自分の道を見つけるのだってそうたいして先ではないだろうと千石は思っていた。
景吾がこちらへ上京してきたら、あのとき伯父夫婦へお世話になった恩返しのつもりで落ち着いた頃に一度くらいは会って、飯でもおごろうと思ってはいたが、まさかこんなにも早く、しかも景吾の方から尋ねてくるとは思っていなかった千石は突然のことに面食らった。
まだ肌寒い早春の風がキッチンの窓ガラスを無遠慮に揺らす。
訪問も唐突かと思えば、チャイムを鳴らし、大きなスポーツバッグをひとつ肩にぶら下げて2DKの玄関に立った景吾の開口一番も唐突すぎた。
ここにおいてほしい。
がちゃりとドアを開け思いもしない人物の顔を前にして、景吾くん、とやっと口にした千石はそれを聞いてさらに二の句がつげなくなった。
ええと、と意味もなく間を持たせる言葉をひねり出せたのはたっぷり秒針が一回りする頃で、その間景吾がすらすらとまるで千石と話し合いでもして決めたかのように、家賃はもちろん半額負担すること、そっちが働いていることを考慮して夕飯はなるべく自分が作るようにすること、けれど休日は千石も手伝うこと、掃除洗濯は休日にまとめて行うこと、ゴミ出しは交代制などの条件を述べていたが、千石の耳にはろくに届いていなかった。
うわごとのように、
「掃除洗濯?」
とか、
「ゴミ出し?」
などと合いの手を入れてはみたものの、拾った言葉を繰り返してみるにすぎない。それほどに千石の頭は事態を整理しきれていなかった。
「……んんん、いやいやいやちょーっと待って」
ようやく、景吾を制止するように片手を胸の前に突き出した。けれど当の景吾はすでに自分の話が終わった後で、涼しい顔をして黙している。千石の手にちらりと目を落として小さく首を傾けた。口元には微かな、見落としてしまいそうなほどささやかな笑みが乗っている。
さあ聞こうか、とは、口で言われなくても、分かる。
何を弟のような若者に振り回されているんだろうもう俺も社会人なのに、と思わなくもない。まあでも、賢く大胆さ備えたも青年を前にかっこつけるのも今更だ。多分、自分は彼に一生かなわない。
……あれ?、と最後の部分に違和感を覚えながらも、千石は部屋へ上がるように促した。
景吾は礼儀正しくおじゃましますと口にすると、変な遠慮など見せることなく、靴を揃え荷物は玄関脇へ置いて部屋へ上がりこんだ。いつのまにかバッグから出していた、やけに形のくずれていない紙袋を千石へ差し出して、
「父と母から」
と告げる。一連の所作の無駄のなさは相変わらずだ。
渡されたのは景吾の田舎の銘菓だった。そういえば遊びに行ったときに出してもらって、帰りのときも持たせてくれたのもこれだったなあと、千石は黄色い包装紙を見て懐かしく思った。
おいしい、と自分が言ったのを案外伯父夫婦は覚えていてくれたのかもしれない。あるいは、この目の前の青年だろうか。
「……何」
じっと見つめられていたのに気づいて、部屋をなんとなしに見回していた景吾は千石を振り返った。
横に首を振って笑い返し、立って話すのもなんだから座ってよ、と言うと素直に景吾は小さな座卓の前に腰を下ろした。無造作なあぐらをかく。
千石も冷蔵庫から烏龍茶のペットボトルと、棚からコップを2つ取り出して景吾の斜め右に落ち着いた。
茶を注いですすめると、喉が渇いていたのかゆっくりとした動作ではあったけれど、手にとって半分ほど飲み干した。それを待ってから、千石は話を切り出す。
「ええと、今回はどうしたの、大学通うのは来月からだよね」
「ああ。引越し先決めに来た」
「はああそっか。で、今日はどこ泊まるの? ……ここ、とか言うまさか」
「まさか。もし会えなかったらどうするんだよ事前に連絡もしてねえのに。ホテル、取ってある」
「どこ?」
「新宿。駅から少し歩くけど、安いところ」
「そうかあ。……ていうか、大きくなったよね。背、伸びた?」
「伸びた。5センチくらいな。そっちはあんまり変わらねえな。相変わらずくせっ毛」
「小さい頃からだからもう直りません。このくらいの年齢になると外見は変わんないの」
「ふうん」
「…………」
「で?」
その先はというように、景吾が座卓へ身を乗り出して片肘を突き、踏ん切りつかず首筋をさする千石を覗き込む。横目で見やりながら人差し指で唇をなぞるその様は、無邪気な分だけたちが悪いと千石は思う。
うう、と喉の奥で唸ってから、大きく息を吐く。あのさ、と意を決して握り締めた拳を座卓に乗せ、真面目な顔をして景吾を見据えても、彼が特に身構える様子はない。うん、と案外素直にこくりと頷くのは年齢より幼くみえた。
「引越し先、決めに来たんだよね」
「そう」
「……俺んちにするっていうのは最初から決めてたこと?」
「いや。大学の近くで、安いところっていうのがだいたいの条件で探しに来たけど、まあ半々ってとこだな」
「だいたいの条件って、君はほんとに親御さんから信頼されてるよねえ。俺だったらぜったい親同伴で上京だなって、半々ってのはなに」
「俺の中ではここで暮らしてもいいなって思ってたけど、両親には話してないから、半々」
「ああそういう……」
「ま、あとは、俺はいいけどそっちがだめかもしれないっていう半々」
ぴっと景吾は指を差す。そのさきにはもちろん、瞬きをする千石がいた。
俺かあ、と呟いて千石はがくっと俯く。別に絶望しているわけではない。さして迷惑だと思っているわけでもないのだけれど気持ちは、困った、の一言に尽きた。
「……景吾くんはさ、一人暮らしとかしたくない、の?」
「べつに。それより、家賃半額の方が魅力的だしな。仕送りはなるべく断りたいから」
「ああそうだねえ……」
なんたる孝行息子だろうかと学生時代のわが身を思い出して、千石は呟く。そこまで多大なる迷惑をかけたわけではないけれど、ここまで精神的に自立していたかといえばほど遠い。
少しの沈黙の後、たとえばさ、とぽりぽり頭をかいて千石は口を開く。
「俺はうーんまあいいんだけど、さ、大学の友だちとか呼びにくくない? 変なのと一緒に住んでるって思われるというか、あ俺はもう働いてるからさ、そんな友だち呼ぶとかないんだけど、学生のときはそうじゃないでしょ」
「俺は部屋に呼ぶ気はねえけど。わざわざここで話すこととか、することとか、ないし」
「でも一人でのびのびしたいときとかも、俺がいるんだよ? それでもいい?」
いい、とも、嫌だともすぐには返ってこなかった。
一度だけ瞬きした景吾がここに来てはじめて、言葉を選ぶ時間をあらわにする。
そっちは、と簡潔な一言が部屋に落ちた。
詰まった千石に景吾は答えを待たなかった。もしくはそれ自体が答えだと認識したのか、じゃあいい、というとすっと立ち上がって背中を見せた。
擬音語のような断片を発しながら千石は慌てて彼を追いかけた。景吾がバッグを拾い上げ肩にかける。スニーカーに足をねじ込む。かかとをとんとんと鳴らす。準備をしながらまたしても用意してきた文句のように、明日の夜帰る旨と、また上京することになる時期を述べて、
「また来る」
と、くるり玄関で振り向いたのに千石は思わず軽く仰け反る。待って、という言葉は出てこなかった。軽々引き止められるような、とりあえずの言葉で誤魔化せるような状況でも、相手でもない。
景吾の表情は本当に不機嫌や怒りといった負の感情が窺えることはなく、まあ仕方ないという程度のさっぱりしたものにどちらかというと近かった。
「何黙ってんだよ」
どう言葉をかけたものか、迷う千石に小さくため息をついた景吾が視線を投げかける。たたきに降りた景吾と部屋に上がったままの千石の視線の位置はそう変わらない。少し千石が高いだけで、まっすぐに目がかち合った。思わず千石は視線を泳がせ、頬を指の腹で手持ち無沙汰に撫でる。
「あ、うん、えっとー」
「また来るって言ってるんだから、またな、くらい言えよ」
「ああうん、もちろん、また来て、ね?」
「言われなくても来る」
そこで景吾は少しだけ声をこぼして笑った。再会してはじめて見る顔だった。
人を安心させるような柔らかいもので、ああこういうふとした表情に惚れちゃう子がいるんだろうな、と思う。
でも、正直景吾には似合わない顔だとも感じた。こういうふうに出来る子だっただろうか。
「あっ、明日の家探し俺も行こうか。休みだし、そうだご飯おごるよ」
「いい。大学の周りも見ておきたいし、いろいろ連れ回すのもあれだから遠慮しておく」
「そ、っか」
「そう」
ゆっくりと頷いて景吾は話を区切る。あまり物の入ってなさそうなスポーツバッグをかけ直す。
じゃあ行くから、という一言も何ひとつ変わらずさらりとしていた。後ろ髪が引かれる様子もなく、千石に背を向けてドアノブをひねり押し開ける。一歩、ひやりとする外へ踏み出した。
「……景吾くん!」
呼び止めて腕を掴んで、それから千石はどうしようと逡巡する。思わず引き止めたはいいが、それからのことは考えていなかった。案の定、
「何」
とそっけない返事がして景吾が上体をひねって千石を見た。静かにくっきりと、映すものを見極める目をしている。この目が千石は好きだった。数年前も、遠くを見つめる瞳に見惚れたのを覚えている。そのことを忘れたことは
なかった。
その目が、今千石だけを映している。
そのことにも、ここを彼が選んで来たことにも、少しは自惚れていいのだろうか。
「……聞いてくれるかな、正直に話すから」
言って掴んでいた手を離すと、黙ったまま景吾は千石と相対した。聞くよ、と小さく言った。それも再会してはじめて、少しだけ自信のないような声音だった。
俺はね、と詰まりながら千石は話し始める。
「迷惑とか、ほんとに思ってないんだよ。無理とかも、俺は、思ってないんだけど、」
「嫌なら仕方ない」
「そうも思ってないって! そうじゃなくって、……うーん、いいんだけど、ね。ここに住むのはいいんだけど」
「……はあ?」
「俺もまだ社会人になってそんな経ってないし、立派に一人前というのにはなんかこう、自分で言うのもあれだけど胸を張って言えるほどではないっていうか」
「……うん」
「景吾くんまだ若いし、そういう前途有望な、大事な息子さんをウチで預かっていいのかなあって、ほら、ちゃんとご挨拶に行かないとだめかなとかっていうか、まず休み取るとこからしなきゃっていう」
そこまで喋って、千石は目の前の青年がくつくつと笑いをこらえているのに気づいた。
「……あれ?」
変なこといったかなと至極真面目に呟くと、いよいよ盛大にははと景吾は声を上げて笑った。
そうして、深呼吸して一旦笑いを収めると、
「あんたさあ、それって同居の心構えっていうより、結婚前提の同棲みたいな感じなんだけど」
と可笑しそうに言ってもう一度喉を鳴らした。
へっ? と景吾の発言に一瞬固まった千石だったが、ふと、そんなこと言ったら景吾が言い出した同居の条件だって同じようなものじゃないかと思った。けれどそれを口にすることはやめて、
「そう、かも」
と相槌を打ってしまうと、多分自分はそういうことの境界線であたふたしていたのだと思えた。
「……ごめん、なんかこう、面倒臭い性格で」
でもこういうのはきちんとしておきたいというか、と続けて、ああまた変なことを口走っている気がすると、ずんずん墓穴を掘り進めている気分になった。
そうして結構大胆な発言をしてしまったんじゃないかと、ちらりと千石は思いながら景吾の様子を窺ったが、そんなことで動揺するような青年では、やはりなかった。
顔を赤くするようなことも、目を丸くするようなことも、口をぽかりと開けることもなかった。
けれど、面倒臭い、とは言わなかった。得意の意味深な微笑みも、涼しげな顔も、やけに大人びた顔もしなかった。
ただちょっとため息に似たものをついて、はじめて千石に見せる顔で、
「いいぜ、電話でも直にでも挨拶に来てくれて」
と、優しく呆れたように目を細めて、笑った。
fin.