君と付き合い始めてから、もっともっと好きになったこと。
土曜日と日曜日。(もともと好きだけど、君と気兼ねなく会える日だから)
冬の寒さ。(夏よりかは、くっついても怒られない。)
誕生日。(意外に律儀な君はちゃんとお祝いしてくれる。)
他にもいろいろある。数え切れないくらい。
それと、もちろんいちばんは。
“きみ”に決まってる。
電車から降り立ったホームで、千石は思わず身体を硬くした。じん、と寒さが背中を伝う。
滑り出て行く電車が髪の毛をあおり、頬を切るような冷たさの風を連れて間もなく線路の向こうへ見えなくなった。ホームにはラッシュよりも大分早くに帰宅する者の姿がぽつぽつとある。
12月が近づき、日の暮れる時間も早くなったこの時期、もう空の遠くが薄いだいたい色に色づき始めている。
まばらな人影が吸い込まれていく下り階段の方へ、千石も背を丸めながら続いた。
土曜日ってだけでも儲けものだよね、と千石は思う。
部活はあるけれど、普段よりかは上がりの時間が早い。
千石は随分前から自分の誕生日をアピールしていて、その日の帰りに会うだけでも出来ないかなとお願いしておいた。
跡部からの返事は、ああ、と短いものだったけれど、ないがしろなものではなくて、それだけでも千石は嬉しかったのをちらりと思い出した。
待ち合わせは跡部の家近くの最寄り駅。
じゃあいつもの駅で、と千石が違う駅を思ってメールすると、跡部からここへ指定する内容が返ってきた。
珍しいなと思いつつ、待ち合わせることが多い駅からもたいして離れていなかったし、会ってくれるだけでも十分だと思ったので、千石はオッケーとだけ返信した。
軽快に階段を駆け下りると、すぐに改札口が右手に目に入り、少し離れたところの柱に寄りかかって文庫本を開いている跡部を見つけた。
早めに着いて大分待ってたのかもしれないなと思うと、千石は跡部の感じる寒さがうつったかのように寂しい首をすくめて、小走りに駆けた。
「跡部くん」
急いで改札を出、声をかけると、ぱたんと小さく閉じる音をさせてから跡部は顔を上げた。
口元までうずめていたマフラーを、ぐいと下げる。
風にさらされ少し水分を失った赤い頬と違い瑞々しい唇が、
「意外に早かったな」
と動いて、きれいに少し上に持ち上がった。
「待たせてごめん」
小さく笑い返しながら、千石が手のひらを顔の前で合わせる。
「別に」
意に介さず跡部は文庫本を肩にかけていたスポーツバッグに放り込んだ。
その様子を見ていた千石は、あいいなと気づいたように手を伸ばした。
「アン?」
「いや、これこれ」
少しだけ躊躇して首を引いた跡部の首元に触れる。
「いいなあ、あったかいんだよねこれ〜 なんか俺、毎年言ってる気がするけど」
掴んでみたのは、跡部のしている黒のマフラーだ。
跡部は冬になると必ずといっていいほどこのマフラーをしている。
カシミアのだというそれはなめらかな手触りで、昨年もときどき千石は戯れにそれを借りたりしたことがあった。
「そういえばお前マフラーは?」
気づいたように、跡部がじっと千石の首元を見て言った。
え、ああうん、と千石は跡部のマフラーから手を離し、自分の制服の詰襟を触りながら、
「今日に限って忘れちゃった」
と答えてから、小さくぴょんぴょんと跳ね、駅舎へ吹き込んだ風にさみーと呟いた。
ふうん、と相槌を打った跡部は、それからさりげなく、そうかとちょっと微笑むようにして、
「とりあえず行くか」
と、その表情はなんだろなと思った千石を促し、さっさと歩き出した。
跡部の住むこの周辺は都内の有名高級住宅街のひとつで、駅前は洒落た雑貨屋にカフェ、ショップなどがそろっていて、休日ともなれば結構な人がショッピングを楽しみに来る。
車の込み合う狭い道路を通り過ぎ、駅を離れると、そこは細い道の入り組んだ閑静な住宅街だ。
車二台がすれ違うのがやっと、という道も少なくない。
近くには広場もある大きな寺もあり、遊歩道が整備されているところも多く、近所に住んでいるのだろうと思われる人がのんびり散歩しているのを千石は何度も見たことがある。
互いに近い期末テストの話をちらちらとしているうちに、何度か寄ったことのある喫茶店の二軒をとっくに通り過ぎた。
それに気づいて千石は足を止め、どこ行く?と尋ねると、跡部は、ああと返事ともとれないような声を漏らしてゆっくり立ち止まった。そして、
「出し惜しみしたって仕方ないよな」
と呟くと、バッグからくるくると可憐なリボンのかけられた箱を取り出した。
「おめでとう」
気恥ずかしさを隠すように柔らかに笑って、千石に差し出す。
わあ、と寒さでごわごわしていた顔を一気に崩すと、千石は両手で賞状を受け取るように箱を受け取った。
「ありがと! えへへ、会ったときからちょっと期待してたりなんだりなんだけど、でも、ほんとありがとう」
言い終えて、ぺこんとおじぎをする。
開けてみろよ、と跡部がいつもより半音高い声音で言ったので、千石はもちろんと答えてリボンを解きにかかった。包装紙のテープをぺりぺりと剥がすと、B5サイズほどの箱に収まっている物が現れた。
箱から出して広げると、それはグレーのチェック柄のマフラーだった。
手で柔らかに握って、千石は、ん?とまたその手触りを確かめるように優しく撫でてみた。
「ねえ、これもしかして、跡部くんがいつもしてるやつと同じ?」
「ああ。そんなに気に入ってるならと思って」
千石が包みを開ける最中に手渡した包装紙を丁寧に折りたたみながら跡部は言った。
そうか、だからさっき、ちょっと笑ったんだ。
先ほどの駅でのことが思い当たって、千石は乾いた唇を舐め、口元のあたりを緩ませた。
「俺ほんとラッキーだな、今日マフラー忘れて正解!」
あのときの跡部の笑みにつられるように笑って、千石はもらったばかりのマフラーをぐるりと勢いよく首に回した。
「ひゃー! ちょうあったかい! さすがカシミア! あったかいぞー!」
「これで、俺のマフラーの安全が保たれるわけだな」
「あっそういう魂胆か! でもたまには交換してみるのとかどうよ。イメチェン?みたいな」
「や、大丈夫。間に合ってる。結構です」
「ひどいすっげえそっけないー」
手のひらを前に押し出してしれっとしてみせた跡部に、千石がもう、と肩へ肩をぶつけると、
少しふらついて途端に跡部は笑いをこぼし、やめろよ、と俯きがちに言った。
「ねー跡部くん」
「なんだ、」
よたよたと二、三歩足踏みして姿勢をしゃんとした跡部が優しく千石を見る。
千石は瞬きして、一瞬言うことを躊躇したけれど、やっぱり決心して跡部を見つめ返し、控えめに言った。
「手、つないでもいい」
返事はすぐには返ってこなかった。暖冬のおかげで、葉のたっぷり残っている並木道のイチョウが、徐々に道路へ暗い影を落とし始めていた。夕暮れはもうすぐそこだ。
だめかな、とちらり思った頃に、跡部がようやく動いた。
「こっち」
「うん?」
呼ばれて近づくと、すぐに自分の右手が冷たい左手にさらわれた。
「ぎゃつめた!」
「てめーがあったかすぎるんだよ」
この人間カイロめ、と跡部は横顔で笑うと歩き出した。手を引っ張られたまま、千石はついていく。けれどすぐに歩く速度が落ちてゆっくりになった。ぴったりと並んで歩けるようになる。
ぽつりと跡部が、すぐに暗くなるなもうこの時期は、と独り言のように言った。
人影をぱったり見なくなった道の先と、先ほどよりも濃いオレンジを映している空と木々のまとう黒い影を見、千石も同じことを思った。
でも。
「でも、俺は夕暮れが多分、いちばん好きだ」
千石の思考の先を読んだように跡部が呟く。
思わぬ偶然にびっくりして、跡部を見上げようとすると、その前に小さな力を込めて跡部が千石の手をきゅっと握った。
一呼吸おいてマフラーを空いた手で口元まで引き上げ、千石はその下で嬉しそうに笑った。
相思相愛だなあ。
その呟きは跡部の耳にはしっかりと届かなかったようで、跡部がアーン?と言ったのに、千石は何でないと笑い混じりの声で答えておいた。
そう、君と付き合い始めてから好きになったもの。
そっと千石はつないだ手を動かした。指で肌の感触を確かめるように撫でる。
淡い夕暮れの風景の中に、ゆるやかに自分たちの気恥ずかしさやためらいが溶け込んでいくような気がした。
ふと跡部を見上げて、小さく笑う。
「俺も、夕暮れ好きだなあ」
このすぐ後に、自分は薄闇の向こうに跡部の微笑をきっと見るだろう。
それから、ありがとうともう一度きちんと言おうと千石は思った。
fin.