風が、出てきた。
きい、きい、とブランコが小さく揺れ、背後で音を立てているのを跡部は聞く。
夕方の公園には自分以外誰もいない。この時分になると、日が暮れるのも夏に比べて大分早くなった。ブランコを揺らしていたかもしれない子どもたちはとうに帰ったのだろう。
低く簡素な作りの柵に腰かけた跡部は、灯った街灯の下で腕時計を覗き込んだ。
お互い部活があるから、だいたいの時刻で待ち合わせをしている。その時刻を10分ほど過ぎてはいたが、慣れたことのように顔を上げてぼんやりと前に向き直った。
少し前から、ブレザーを羽織るようになっていた。天気の悪い日や日の落ちた時間は秋らしく肌寒い。
ささやかな風が跡部の頬を撫でた。横に流してる前髪が額をくすぐるようにする。変わらず、ブランコが小さな悲鳴のような音をささやいている。
風と音があいまって、ぽつりと寂しい心を演出する。
なんと言えばいいのかこの心を。
思い出が甦って切なさに浸るほどではなく、人生の悲哀をそこに感じるほどでもない。
大げさに言うならば、今日というこの日が終わっていくのを独り見るような、ひっそりと“今日”という日が終わっていくことを、ただ一人、自分だけが知っているような。
そして密やかに、笑みをかみ殺す。
これを、センチメンタリズムというのか。
まったく秋だと思って、跡部は普段慣れないことに飽きたのか大きく伸びをした。
息を吐いて腕を下ろそうとしたそのとき、ブレザーのポケットの中で携帯電話が震えた。さっと取り出して開くと、ディスプレイには新着メールを知らせるアイコンが表示されていて、差出人を確信しつつ、迷いなくメールを開いた。
『遅れた! ごめん! もちょっとで着く』
歩きながらとにかく早く連絡しようと思ったのだろうと思われるその文面に、にやっと笑うと、別に、と心の中で返事をしておく。
どうせ、あっという間にここへ来る。
「ごめーん! たっだいま到着いたしました千石清純です!」
ほら来た、と跡部は思う。うるせえよ、と笑いながら立ち上がる。
街灯の光の届かない方から足音がして、やがて白い制服姿が浮かび上がった。丸い光の円の下では、オレンジ色の髪の毛が一層透けるように明るくなる。
柵から離れた跡部に、駆け寄ってきた千石は額を寄せ合うくらいまでの距離で急停車すると、
「ごめんね、駆けてこれたらよかったんだけど、ちょっとそうも行かなくって」
と頑張って早足で来たんだこれでも、と表情を崩すと、肩にかけていたスポーツバッグを無造作にどさりと下ろしてしまった。
「お前、下、砂」
「いや、いーのいーのそんなことは」
笑って、手に下げていた紙袋を胸の前で抱え直した。そして、一歩下がって跡部から離れると、
「本日はここまで来てくれてまことにありがとうございま〜す!」
とぺこり一礼をする。跡部はブレザーのポケットに手を突っ込んだ。
「別に、なんだその挨拶」
照れくささのまじったような顔で笑う。
いやほらね、と顔を上げた千石が似たような顔をしていた。
「今日は君の誕生日だから」
おめでとう、とひとつひとつの音に心を込めるように千石は跡部に言葉を贈る。
「……、ありがとう」
きゅっと1回、跡部は眩しそうに眉根を寄せ、千石の声を心の中で反芻した後で、跡部は軽やかなお礼ときれいなお辞儀をして返した。それはちゃんとしたことを好ましく思う、跡部らしい所作だ。
「ううん、ありがと」
そう応えて千石は眉を下げた。そして、これ買ってきたんだ、と紙袋を少し持ち上げてみせた。
「何?」
「ちょっと小さくて、申し訳ないんだけど」
近寄って千石の顔と袋を交互に見た跡部に、千石は中身を取り出しながら、先ほどと同じく紙袋は放り出して、四角い白い箱を開けた。
その中に鎮座している小さなものは、変わったものでも何でもなく、それこそ誕生日には付き物だったのだけれど、跡部は思わず目を見張った。
「ごめんね、今月CD買っちゃってお小遣いなくって。小さくても美味しくて豪華なやつって思って選んだんだけど」
何も言わない跡部に不安を覚えたのか、跡部の表情を窺うようにして千石が頼りなげに呟いた。
「そんなことねえよ。これで、十分だ」
慌てて、跡部は応える。
目に映る1ピースの苺のショートケーキをゆっくりと瞬きで何度も記憶に刻み込む。
小さい頃はよく誕生日のテーブルに並んでいたそれも、今ではもう久しく見ていなかった。
派手なパーティーで食べる、さまざまなフルーツが飾り付けられ、どこかの有名パティシエが作ったというケーキは確かに美味しいものだったけれど、この1ピースのケーキには、ささやかだけれど、たった一人のための精一杯の誕生日パーティーには何ひとつ敵いやしないだろう。
誕生日には苺のショートケーキ、そのありきたりだけれど、素朴で、当たり前のことのように跡部にプレゼントする千石のその心を何より大切に感じた。
「あ、蝋燭もらってきたよ。大きいの1本と、小さいの5本」
千石はパンツのポケットから袋に入ったそれを取り出すと、ちょっと持ってて、とケーキの乗っかっている箱を跡部に差し出した。
ああと答えて、躊躇なく跡部は自分の鞄を下へ放り投げる。今度は千石が声を上げたが、いいよと跡部は笑った。
千石が蝋燭を立てていく。うまく小さな面積に並べた後で、
「火遊びは今日だけにしとくから、怒んないでね」
と冗談を口にしながら、家から持ってきたらしいマッチを取り出して、しゅっと音をさせて擦った。
「わ、」
「風結構強いな」
公園を小さな秋風が通り抜けてゆく。肌には心地よい程度にしか感じられないが、火を灯していると風の流れがよく分かる。庇った千石の手の中で、ちらちらとその炎が揺れる。
風を自分の身体で遮るように、跡部が動いた。千石は、マッチの火を消すまいと手で囲いながら、その火を蝋燭に近づける。
「大丈夫か」
そう言いながら、跡部は片方の手を箱から離して、千石の手に自分のを添えるようにした。
順々に火をつけ終わって、ちらりと千石が跡部を見る。いつのまにか、額が触れ合うほどに近づいていたその顔を跡部も見やると、マッチの火を映したオレンジ色の瞳で千石が顔をほころばせる。
「あったかい色」
本当だと、跡部の心が和む。
視線を落とすと、蝋燭の炎に添えた千石の手と、それをさらに囲んだ自分の手が、灯りに照らされて、手のひらが空を焦がす太陽の色に染まっているのを跡部も見る。
ふわっとした生クリームの白、それを彩る瑞々しい苺の赤、優しい色をしたスポンジ、色合いや形をとってもなんだかかわいらしく見えるそれは、蝋燭の懐かしさを覚える暖かい光に浮かび上がって、おもちゃのように見えた。
小さい頃、欲しいと願っても手に入らなかった、羨望に光るきらきらしたもの。
欲しくても手に入ることはないということすら忘れていた、大切な思い出の欠片とよく似ているその眩しさ。
「花みたいだ」
跡部はふと漏らした。手という花びらに包まれて、炎の花が咲いているようだった。
ちらちらと揺れる炎の下で、溶けた蝋燭が甘い蜜を思わせる速度でゆっくりと芯の下から胴体を伝い流れ落ちていく。ケーキの表面に、落ちた蝋燭の跡がいくつかビーズのように残る。
やけに静かに感じられる公園の空気に、先ほど抱えた心がふっと自分の鼻先をかすめ漂っていった気が
した。
蝋燭の溶けゆくのを眺めしばらく何も言わずいると、千石がぽつりと口を開いた。
「あと6時間くらいで、跡部くんの誕生日終わっちゃうんだね」
添えた手を少し傾けて戻す。蝋燭の灯りで腕時計の時刻を確認したのだろう。
そうだなと返事をする代わりに上目に千石を見やり、閉じたまぶたの先に睫毛がきれいに並んでいるのを目に含んだ。
さみしいな。
続けて、千石が手でそっと包んだケーキに目を落としながら、柔らかくもらした。
千石の言葉を、跡部は心の中でまず打ち消した。
「そんなことは、ねえよ」
だってお前は覚えているだろう。きっと、今日というたったひとつが終わるのを最後の瞬間まで、俺と二人。
そう思ったが、まばたきとともに誕生日には似合わない切なさは自分の胸だけにしまっておくことにした。
瞬きして、千石の手を見つめると火を消すまいと自分も添えていた右手で、そっと千石の左手に触れた。そして指を、全て包み込むようにぎゅっと掴む。思わず息をこぼすように、かすかな笑いが唇から溢れた。
ありがとう。
改めて、嬉しさの滲み出た温まった声で跡部が言うと、千石は小さな驚きと嬉しさに目をぱちくりさせた後で、顔に収まりきらないほどの笑みを見せた後、ごつんと、音がするほど勢い余って1回おでこをくっつけてきた。
「いてっ」
「誕生日、おめでと」
額の鈍い痛みは、もう今は、ないに等しい。
この後、蝋燭の火は吹き消されて誕生日の幻想はあっけなく灯火を絶やす。
それでも、何もかもは消えはしないだろう。
しばらく蝋燭からこぼれる細い白糸の煙とともに、幻想の余韻が夜気の間に漂うのを跡部は静かに、思い浮かべた。
fin.