春の食材はどうやら逃げ足が早いらしい。
食べられる時期も鮮度も、冬のそれよりすみやかだというその新聞のコラムをふんふんと読み終え、エコバッグに財布を放り込み、サンダルを引っ掛けていそいそとスーパーへ向かった。
タラの芽、ウド、コゴミに筍、わらび。
春の名前を思い浮かべながら淡い陽気に軽い足取りで道を急ぐ。
休日の買出しに使うスーパーは散歩にもぴったりの距離で、陽の高い時間を過ぎれば夕飯の買出しに人がそこそこ集まり始める。
黄色のプラスチックカゴを引き抜いて店に入る。お目当ての野菜売り場はすぐそこで、トマトにきゅうり、ナスに長ネギ、小松菜、ほうれんそうを横目に春を探してきょろきょろする。
目が合ったのはウド。袋には“酢水でアク抜きして”とある。かんたんじゃないか。迷わずカゴに入れる。
他にはと見回すがどうやらこういうときもあるらしい。空で覚えてきた春の名前で見当たったのはウドひとつきりで、見慣れた野菜の姿が少し憎らしく思えた。春の食材は日持ちもせず店頭に並ぶ日も短い。巡り会わせというのもあるんだろう。ひとつでも手に入って良しとすべきかと頭をかく。
肩を落として野菜売り場を後にし、通り過ぎようとした魚売り場で数歩後戻る。大きなハマグリ、はなかったが“今が旬!”と謳った粒の大きなアサリが並んでいた。多めに入ったパックを選んでそっとカゴへ。
あれもあるこれもある、家のストックと今日の献立に必要なものを思い浮かべて結局、缶ビールを2つだけ追加してレジに並ぶ。最後は“レジ袋入りません”の札をそえて締めだ。
家に帰ると相方が読書を終えてソファに座ってテレビを眺めていた。
今日は春のメニューだよと言うと、へえ、と幾分か興味のありそうな返事がした。
バッグからウドとアサリを出して缶ビールは一瞬考えて冷凍庫へ。エプロンをして手を洗う。アサリは殻をこすり合わせて洗い、塩水を張ったボールに入れ、その辺に置いてあったトレイでふたをする。砂抜きをしている間にウドの下ごしらえ。厚めに皮を剥いて短冊切りにし、酢水につけてアク抜き。これで終了。
冷蔵庫の野菜室と相談して、取り出した長ネギを薄く斜め薄切りにしておく。にんにくをひとかけ、みじん切り。鷹の爪のヘタをちぎって中の種は捨てる。
ふらっと台所を覗き込み、何作んのと冷やかしに来た相方に簡潔に答える。パスタ。ふうん。定番の短いやりとり。
長くつけておくと歯ざわりが失われてしまうウドをザルに上げしっかり水を切る。砂抜きしていたアサリも同じようにする。大きめの鍋に水を入れて火にかけた。隣のコンロにはフライパンを並べオリーブオイルを入れ熱する。にんにくと鷹の爪を放り込み弱火に。
ぷつぷつとオイルが小さく泡だち食欲をそそる良い香りがじんわりと広がり始める。水を切ったアサリを投入して火を強めると少し油がはねた。酒を回し入れてアルコールを飛ばしふたをする。殻が開くまでしばし待機。
鍋の様子を窺う。小さな気泡が鍋底や側面に張り付いている。パスタを2人分よりちょっと多めを量って、ちょうどぐつぐつと沸いたお湯の中へ塩といっしょに滑り込ませる。くっつかないようにサラダ油をたらっと少し。トングでパスタをお湯に沈めてからほぐすようにかき混ぜる。火を止めふたを。タイマーをセットして茹で上がるのを待つ。
そうこうするうちにフライパンの中でぱっくりとアサリは口を開いていた。慌てて、ふたを持ち上げる。潮の香りを含んだ白い蒸気が上がるのと同時に沸き立っていた煮汁がしゅうっと収まる。酒とアサリの旨みが合わさったスープをさじでちょっぴりすくう。美味い。
切っておいた長ネギを上に散らしてフライパンを揺すりスープがかぶるようにする。生しょうゆをひと回し。台所いっぱいに香り立つのに名残を感じつつふたをし、火を止める。パスタが茹で上がる間に蒸されて長ネギがほどよく柔らかくなる。
タイマーが切れるまであと少し。一息ついて冷蔵庫を開けた。ビールはまだ我慢。麦茶へ手を伸ばしてコップへ注ぐ。一気に飲み干すと身体が洗い流されるようにすっきりした。そのうち台所に立つにも汗ばむ季節がやってくる。気の早い夏のせいで春は思うよりも、短くなった。
ピピピと電子音が鳴った。コンロの前に戻って鍋のふたを開けるとくたっとしたパスタが底に沈んでいる。かき混ぜて、1本拾い上げる。口元に運びするりと吸い込む。ほんの少し芯が残るような丁度良い硬さ。湯切りしてそのままフライパンへ。
再びフライパンを火にかけると少しも経たないうちにふつふつと煮えた音が湧く。揺すってパスタにスープを吸わせ、傾けてスープが少し残るくらいで火から下ろす。パスタを先に盛ってアサリとネギを乗せて、スープも残らず回しかけて完成。
パスタを運び、マヨネーズを添えたウドとよく冷やしたビールを居間へ運ぶ。夕飯の匂いに促されて相方がテレビを消しパスタの前に座る。早かったなと春の匂いを吸い込むように味わい、笑った。春のものは手間がかからず、美味い。かんたんだからねと笑って返す。
いただきます、と揃って口にする。匂いと興味にそそられて、缶ビールのふたを開けるよりまずウドに手を伸ばす。見た目は白い筍のようなそれにマヨネーズをつけひとくち。鼻に抜けるすっとした青々とした香りとしゃきっとさくっとした歯ざわり。深い味わいや旨みがあるわけではないが、あっさりと潔い食感が癖になる。芽吹きの春に思い出す山の味だ。
ウドだよと教えたのに反応の薄かった相方は食べたことがあるようで、そのときの味を思い返すように小さく頷きながら2つめに箸を伸ばしている。春の香りだな。咀嚼してもうひとつ箸に取る。
次はパスタ。いつもより大粒の貝殻にぷっくりとした身。摘み上げてぱくりとくわえる。丁度良い塩っけとうまみが口いっぱいに広がった。身を噛みしめるとほのかな甘みが押し返すような歯ごたえといっしょに染み出る。長ネギとパスタをフォークに絡ませ頬張る。アサリのスープを吸い込んだパスタは文句なしの味だ。美味い、と示し合わせたわけではないのに感嘆が重なる。
残りが半分になるくらいまで夢中でフォークを動かして、やっとビールに手を伸ばした。喉を鳴らして飲むと、何ともいえないアルコールの刺激がかあっと昇ってきて、まるで水中から上がったかのように息をついた。休日の晩餐にビールはほどよく贅沢だ。
春の食材が食べたかったんだよね。そう言うと、相方は瞬きしてから全部分かった顔でなるほどなとまたひとつウドをさらった。でもどうやら出遅れたみたい。肩をすくめて自分もウドに箸を伸ばす。ウドは捨てるところがない素材で葉や茎もぜんぶ食べられる。とりあえず取っておいたが、足の早い食材、明日まで待ってくれるだろうか。
そういうものなんだろと相方が言う。縁があればもうけもの、巡り会えなかったらまた来年。次の楽しみでいいじゃねえのと。そうかそういうものか。ほんわりと体温が上がったのを感じながらビールを舐める。
残りのアサリパスタをかきこみ、最後は丁寧に皿をすくってフォークを置く。すでに晩餐に満足した相方がウドの皿をこちらに差し向けた。最後のひとつを手でつまんでそのままかじる。どの皿も空っぽになった。家に満ちていた夕飯の匂いはどことなく遠ざかりはじめている。
美味かった。ごちそうさま。礼儀正しい相方がぱん、と手を合わせて食事を終える。腹が満たされた人間の顔はとても分かりやすい。少し前まではにぎやかだった食卓が空っぽになった寂しさなんて入り込む隙間なんてないくらいに。
春は繰り返す。春は逃しても明日の食卓は訪れる。朝は、何食べようか。もう次の食卓のことを考える。それは消費とはかなさの連続だ。でもごちそうさまというこの瞬間に誰もそのことを憂う人はいない。疑うようなことって、必要あるだろうか。
美味しかったね。はかない食卓が空っぽなのに満ちる。春の青臭さが少し、舌の上に残った。
fin.