忍び手の逢い
ホームルームも終わって賑やかな教室の中、跡部が帰り支度をしていると、ブレザーのポケットで携帯が震えた。
取り出してボタンを押す。予想はついていたが、やはり送り主は千石だった。

「ごめん、今日行けなくなった。本当にごめん!」

短い文面。
そのメールを読み終えた跡部は訝しげな表情を浮かべた。
今日は随分前から会う約束を取り付けたのだが、よりによって千石の予定がダメになるなんていうのは、今までなかった。
跡部くんに会えるならいつでもどこでも!をモットーにしていると豪語する千石らしからぬことだ。
楽しみしてたのに、と少々怒りたい気持ちもあった。
今日、千石に用事があったのは他ならぬ自分なのだから。
けれど、自分も何回か予定が入ってダメにしたことがあったし、あいつが来れないなんて余程のことがあったのかもしれない、そう思って、手早く返信メールを送る。

「怒らねぇから理由を言え」

返事が来るにはしばらくかかるだろう。
途中だった帰り支度を再開する。
宿題の出た数学の教科書を入れ終えたところでまた携帯のバイブ音が響いた。

「なんかすでに怒ってるような気がするけど(笑)
いやあ風邪引いちゃってね、大したことはないんだけど。
さっきまで眠り込んじゃっててさ、連絡遅くなってごめん!
すごい楽しみにしてたんだけどなー俺。ホントごめん!!
今度予告なしで遊びに行っちゃうから(笑)
愛しの跡部くんへ」

バカかあいつは。
最後の文章に跡部は口元を綻ばせる。
そうして携帯を畳むと、近くで談笑していた忍足に岳人、ジローを見つけて声をかけた。
「見舞いの品って何持っていけばいいんだ?」
「花じゃねーの?」
「俺、ポッキー食いてー」
「なん千石怪我でもしよったん? つーか今日は見舞いの品とかいう日とちゃうやんか」
「……やっぱりいい。自分で考える」
ペースに巻き込まれて話がずれていきそうな三人の反応に、跡部は額に手をやって首を振った。
そして、背後で冷たいーと口々に騒ぐ連中を置いて、自然と早くなる足で教室を出た。



布団に埋もれる、押し黙った自分の携帯を千石はぼうっと眺めていた。

あーもー俺のばか。
よりによって今日この日に熱なんか出すんだろう。
いや勿論それだから跡部くんが会おう、って約束してくれたわけじゃないのかもしれないけど。
でも少しは期待しちゃうってもんじゃあないですか。
あーあ〜昨日布団蹴っ飛ばして寝ちゃったからかなあ〜

瞼が、ゆっくりと落ちていく。

明日には良くなるかな。そしたら部活抜けて会いに、行こうか。
サボるなって、怒られるけど、たまには、いいよね……



「またかよ」

あ、やっぱりそういう顔をした。だって君に会いたかったんです。大丈夫、テニス頑張ってるって。
「あんまり自分んとこの部長に迷惑かけんじゃねぇよ。あいつたまに胃薬飲んでるんだぜ」
あはは。心配性なんだよね南はさー。ていうかそんな極秘情報を何故知ってるんですか。
「ああ? 前にあいつに頼まれて、イギリスから取り寄せってやったんだよ。王室御用達のだぜ?」
へえーそれは知らなかった。胃薬にそんな困ってたんだ南。今度の誕生日それあげようかな。
「で、お前何しにきたんだよ」
え?俺? えーと……なんだっけ? あ、探し物! 失くしちゃってさ。
「なんだよ、お前もそれか。じゃあほら行くぞ」
一緒に来てくれんの? ラッキー。

「ラッキーなんかじゃねぇよ」

ん、何で?
「だってお前の病気は治らないだろ」
……何で、そんな哀しそうなの。何で。

「この熱が、引くことは、ない」

そう言われれば、熱い。身体が火照ってる。汗がまとわりついて気持ち悪い。

「だか  ら   お  が  さが し  い   から」

ごめん、よく聞こえない。どこか行っちゃうの。行かなくて、いいのに。それ、が、

「熱は」

……うん、それが、あれば十分だって。行かなくて、いいよ。
行かないでよ。

「引」

額が、冷たくて。気持ちいい。


……悪い、起こしたか」
目が覚めた千石は、うっすらとする意識の中、ぼやけるシルエットではない跡部の顔を認めて、勢い余って飛び起きた。
ゴッと鈍い音がする。

「跡部く、ったあ!」
「……ッ!」
起きたなり額をさすってうずくまる。跡部も額を押さえて膝の上に突っ伏した。
涙を滲ませて顔を上げると、勉強机から引き寄せた椅子に座る跡部が、自分と同じように痛みをこらえていた。
睨みあげた視線と、目が合う。

「あ、とべくん!」
「この石頭……!」
凄みをきかせた顔はまだ苦痛に歪んでいる。千石も、頭の中で鐘を鳴らされているような痛みに苦笑いした。
「メンゴメンゴ〜! つーか跡部くんじゃん! どうしたの?」
「どうしたもこうしたもねぇよ。見舞いだ」
「えホント!」
もう痛みなんかどこかへ行ってしまったかのように、千石は喜んだ。
跡部はいまだ額を擦っていて、まるで頭痛もちのようなしかめっ面をしている。
ずり上がって、千石はベッドの背にもたれかかった。
「ほんとごめん、大丈夫? こぶになったりしてない?」
そう言って自分の手を見、伸ばして跡部の額に右手を添える。
ん、と跡部が仕事を奪われた自分の手に目を落とし、千石を見上げた。
手を戻すと、千石は微笑んだ。
「さっき俺にこうしてた?」
「ああ」
「やっぱり。冷たくて気持ちよかったからそうかなって思ったんだけど」
跡部は少し首をかしげて、手を見つめた。
でね、と千石が話を続ける。
「夢に跡部くんが出てきた」
「俺が?」
「うん、なんかねー、南に胃薬あげたって言ってた」
「お前んとこの部長にかよ」
「しかもイギリス王室御用達のやつ」
「何だそれ」
呆れたように、跡部が笑う。千石も声を立てて笑った。
「おっかしいでしょ。で、探し物手伝ってくれるって言ってね、そっからもうよく覚えてないんだけど、熱くて、冷たくて、起きた」
冷たくて、のところで跡部の手を指した。
「そうかよ」
そうして千石の目の前に手を伸ばすと、すっと額に手をやった。
へへと千石が嬉しそうに目を伏せて笑みを洩らす。
「やっぱ冷たくて気持ちいい」
「……熱引いてるな。着替えたほうがいいぜ」
さっきその言葉聞いたような気がするな、そう思いながら、パジャマ代わりのTシャツの襟首を引っ張って首筋に手をやると、確かに汗ばんでいて、熱かったのはこのせいかだと分かった。
千石から、手のひらの冷が離れていった。
少し、名残惜しかった。
「え、もう帰っちゃうの」
そっと目を開けた千石は、椅子から立ち上がった跡部を慌てて呼び止めた。
振り返った跡部は、
「バーカ、おばさんにタオルもらいに行くんだよ。汗拭くだろ」
「あ、うん」
「着替えは自分で出せよ」
「うん」
「……まだ帰らねぇよ」
「うん」
満足そうに笑う千石に、別に、と中途半端に呟くと跡部は静かにドアを閉めた。
たんたんたん、と階段を下りる優しい音が遠ざかっていく。
千石はドア脇のタンスから新しいパジャマを取り出して、無造作にベッドの上に放り投げた。
そして、部屋を見回してはたと気づく。

……汚い……

もう跡部を部屋へ入れてしまった今、手遅れだったが、それでも一応、床に散らばっている雑誌や学校のプリント、ところどころに出しっぱなしになっているCDやMDをまとめて、隅においやった。
テレビに繋いだままのPS2もコードを抜いてラックに押し込む。
そんなことをやっている最中にまた、あのやさしい音が近づいてきて、少しドアが開いたかと思うと、ほらよ、とタオルが飛び込んできた。
片づけをしていた手を止める。
しかし、跡部が入ってくる気配はない。

あれっ?

そろそろとドアまで進んで、窺うように顔を出す。
「おーい跡部くーん?」
ドアのすぐ横に寄りかかって、何だよと目で聞く跡部と目が合う。
「なんで入らないの?」
「野郎の着替えなんか見たくない」
「部活のとき見てんじゃん」
「望んで見てるわけじゃねぇよ」
「はは、ごもっとも」
ちょと待っててね、と言い残して消えた千石に、
「ごゆっくり」
と、面白そうに跡部は言ってやる。

さて。

ブレザーのポケットを軽く叩く。
寝ている間にこっそりと置いて帰ってしまおうかとも思ったけれど。
どうしようか。

「いいよー」
くぐもったのんきな声に跡部の思考は中断された。
そしてドアが勢いよく開き、
「洗濯もの出してくるから入っててー」
と、するりと跡部の横を抜けて、どたばたと服を抱えて千石は階下へ消えた。

どうしよう。
跡部はポケットの中のものを握り締めた。
早く、渡さないと。

そのままじっと跡部が待っていると、千石はすぐに戻ってきた。
上にいる跡部に気づいて、自然と千石が見上げる形となる。
「何してんの」
やわらかく笑いながら、ゆっくりと階段を登ってくる。
この表情が、跡部は嫌いじゃなかった。好き、とは絶対に言ってやらないけど。
小さく小さく息を吸い込んで、跡部は握り締めていたものを宙へ放った。
「お、っと」
何?と千石がナイスキャッチした手を開くと、リストバンドがひとつ収まっていた。
自分の頭と同じオレンジ色に、白のラインが入ったそれは、緑色のユニフォームに映えそうだ。

まさかこれは。

期待に満ちた目で見上げると、跡部はいたたまれないといった表情で、
「仕返しだ」
と告げると、さっさと部屋へ入ってしまった。
「え、ちょちょっと待ってよ、ねえ、お返しでしょお返し!」
二段飛びで駆け上がって部屋へ飛び込む。
跡部は、片隅に置いておいた自分のコートとカバンの前にいた。
千石に気づくと、まだ首筋から赤いあの表情で、ずいっとビニール袋を前へ押し出した。
「見舞いだ」
「え、うん、ありがと、でさっきの」
ちらりと袋の中に視線を落とす。ポッキーやらチョコレートやら、自分の好きそうなスナック菓子がたくさん入っていた。
「ケーキと果物はおばさんに渡した」
「あ、そういやさっき持っていってって言われたよ。ありがとう、って」
「じゃあ俺帰るな。安静にしろよ」
「待った」

コートとカバンを引っつかんだ跡部の腕を押さえて、遠慮がちに、でも嬉しくてこぼれるものがある顔で尋ねる。
「これ、ホワイトデーのお返し、だよね」
「……仕返しだ」
「お返し!? ホントにお返しだー! わーい!」
「だから仕返しだって……!」
手放しで喜び騒ぐ千石に、跡部は頑固に言い張ったが相手はもはや聞いていない。
他愛のない掛け合いに、恥ずかしさの熱も大分治まり、呆れてため息をつく。
すると、
「あ」
抜けた声を出した千石は、机に置いてあった通学カバンから小さい箱を探し当てた。
跡部がきょとりとしてその様子を眺めていると、その小箱を持った千石が近づいてきた。
「何だよ」
「今日渡せないと思ってたから、忘れるところだった」
そうして、にっと笑うと、
「俺もお返し」
と言って、跡部の手を取って、その手に小箱ごと手を重ねた。
先ほどの熱が再び跡部に戻ってくる。

「ばっ、か、俺のなんか」

あげたうちに入らねぇよと続けようとして、出来なかった。
体温が上昇していくのが分かる。自分よりいつも熱いはずの千石の体温が、もう、そうとは感じられなかった。
千石が跡部の言えなかった言葉を引き継ぐように言う。
「いーやもらったからね。本命のひとからもらって返さないなんて、男がすたるってもんでしょう!」
意気込んで一息に言い終えた千石は、重ねた手を外すと、開けて?と跡部を促した。
跡部は、目をしばたたかせると、躊躇しながらも柔らかい笑みを口元に浮かべて箱に手をかけた。
中身を認めて、もう一度目を瞬く。
銀色の、なめらかな曲線。光を受けて流すその丸い……

ゆび、わ?

「……こんのバカスミ!!!!」
「ぎゃー!!」
跡部の拳をぎりぎりでかわして、身を翻し、飛んできた小箱を避けてベッドへ飛び乗る。そして隅の壁にへばりついた。
「あーん、病人がやけに元気じゃねえか! 降りてこい!」
「ごめんなさいごめんなさいすみませーん! うわーゆるしてー!!」
どすどすとベッドの方へ近寄った跡部は、しかし千石に掴みかかることなく、
最初に座っていた椅子へ乱暴に腰を下ろした。

「……あのー跡部くん?」

膝に片肘をつき、その手に額を預けて俯いている跡部の様子を窺う。
「何だよ」
あ、よかった意外に怒ってない。
声がそれほど硬くないのに、千石はほっと肩をなでおろす。
「えと、そっちにいっても、いい?」
「勝手にしろ」
「……はい。でもえーとその前に、握り締めてる拳をどうにかしてほしーなーなんて」
頭を掻いてへらっと笑うと、跡部は牽制するように千石を見上げて、握り締めた手の力を抜くと片膝の上に置いた。
千石はそうっと移動して、跡部の前に座る。
やがて跡部がため息混じりに口を開いた。

「お前といると」
「……はい」
「いちいち騒がしい」
「……はいごもっともです」
「でも」
「うん」

……うん?

神妙に、うなだれて聞いていた千石は顔を上げた。そして、
「そんなとこも好きというわけですね!」
と跡部の言葉を先取りする。とたん、拳が飛んできた。
「ったあ!」
「誰がそんなこと言った」
「すみませーんもう調子にのりませーん!」
ったく、そう呟くと跡部は呆れたように笑った。
つられたように千石も笑って、跡部の機嫌が直ったのをいいことに言うつもりのなかったことを口にした。
「あ、ちなみにそれペアリングだから。って、うわもう殴らないで!」
「……分かった。お前と一緒にいるときはつけないから安心しろ」
「ええーひどー、いやすいません何でもありません」
構えを取った拳に、千石は慌ててガードを作る。
そして、急にいいことを思いついたような小さい子供のような顔をし、
「あ、じゃあそのかわりに、これだけやらせて」
というと、なんのかわりだよと跡部が言うヒマもなく、自分が持っていたリストバンドを差し出した。
「えーと、俺の右手にはめてもらえますか」
「は? ああ、いいけど……」
千石の右手を受け取ってオレンジのリストバンドをはめてやる。やはり明るい色が似合うと思った。
「へへ、ありがと」
にっこり千石は微笑むと、今度は俺ね、と言って跡部の握り締められた拳を解いて、指輪を借りた。
蛍光灯にかざす。
銀のきらめきを湛えて、白く、つややかに光を放つ。
戸惑った跡部の右手を、千石がいとおしむようにさらった。

春の木漏れ日のように暖かく、千石が笑った。
跡部も、その戯れにどうしようもなく千石がいとしくなって、額を合わせる。

にじむような冷が、熱を溶かすように右手の薬指を、滑った。



fin.
指輪をあげるんだと言い張ったのは断じて私ではないのですが、リストバンドあげるのを決めたのは私です。千石してないしちょうどいいかなーと思いまして。
「跡部くんが指輪あげちゃったら、らしすぎて嫌だから、ここは千石がお小遣いで買える程度のを!」「……ご、500円くらい?」「まあそれでもいいよ。それでね、つけるのは右手の薬指ね! 婚約指輪はそっちだから。左手は取っといてね」
っていう会話をしたよな。
途中まで、ホワイトデーテキストのつもりで書いてなかったのですが。とにかく、跡部の手の冷たさというか、手、が書きたかった話。
おままごとみたいな儀式って、かわいらしい。それでも、こどもはいつだって真剣です。

2004.3.14
This fanfiction is written by chiaki.