「何やってんじゃーあとべー」
「……うるさい」
むっとした低い声で跡部はのん気なご挨拶を跳ねつける。
話しかけてきた人物の気配は自分の後ろを通って冷蔵庫の方へ移動していった。
ぱたんと扉を開ける音、ついでペットボトルの栓をひねる音がする。
一息つきにダイニングへ出ていたのだろうと思ったが、あえて跡部はそちらを見ることはしない。
がた、と自分の前の椅子が引かれた音がし、跡部は拒むように右肩を寄せた。
「なんじゃ、あんなことしなきゃよかったって後悔してるんか?」
ごく、と水を飲み干す喉の鳴る音の後で、心配などという感情からはほど遠い、からっているとしか思えないような明るい声がした。
跡部はだんまりを決め込むことにした。こういうときこの同居人と話しても暇つぶしのためにからかわれておしまいだ。
しかし。
「あいだだだだだっ、てめえ、何しやがる!」
「人がせーっかく話かけてるいうに、お前が返事しないからじゃ」
にょきっとこちらへ伸びてきた手に、耳をつままれて無言の抵抗はあっさりと阻まれてしまった。
離せ、と暴れて手を振り払うと、意外にその手はやすやすと引き下がった。
渋面を作って、ちらりと首を巡らせる。
「で、どうなのよ」
やはり、そこにあったのはろくでもない詐欺師の笑顔をした仁王で、跡部ははあっとマリアナ海溝より深いため息をつくと、
「てめえに言ってもな……」
と明後日の方向を見て呟いた。
「あ〜そういうえっらそうなこと言うんはこの口かー?」
「だから、やめろっ、つーの!」
またひょいと伸びてきた仁王の手を跡部はなんとか右腕で庇い、阻む。
「この恋愛経験豊富な仁王さまに相談しろ、っつうの!」
「アホが! てめえは微笑腹黒紳士しか見えてねえだろうが! 狂・信・的・に!」
「違うわ。誇・大・妄・想・的・じゃ。間違えんなボケ」
「余計にたちがわりいんだよ!」
ぐぎぎぎ、と無駄に力の均衡が保たれる中で、しょうもないいつもの口喧嘩が始まる。
普通の人間ならばこのどちらにも口喧嘩を挑むことなどできないが、態度がでかく口の悪い跡部と口の達者な仁王の二人が相対すれば、互いの性格からして躊躇や引き下がるということは知るはずもなく(多分二人の辞書にはないだろう)、きっかけがあれば幾度でもこんな事態は訪れる。
そして、
「……あーやめじゃやめ」
「……疲れた。水寄越せ」
そろって面倒臭がりなたちなので、意外とあっさり事は終わる。
跡部の言葉に、誰がお前と間接チューするかと仁王がべっと舌を出してみたせいで、また第二ラウンド開始かと思われたが今日は運良くそうならなかった。
「二人とも、夜中にぎゃあぎゃあと声をあげて、ご近所に迷惑ですよ」
すっと物腰柔らかく現れたのは、もう一人の同居人だ。
その人物は冷蔵庫を開け新しいミネラルウォーターのボトルを取ると、はいどうぞと跡部の前へ置いた。
「サンキュ。こっちこそ、てめえと間接キスなんて願い下げだ」
礼を言ってから、今度は跡部がべっと仕返しに仁王へ舌を出す。
ああー?と唸って、仁王が身体を前に乗り出した。
跡部も口をつけ、ふたをしめたペットボトルをどん、とテーブルに置いてなんだ、と臨戦態勢になる。
けれど、そんな喧嘩っぱやい二人がいてもこの家が崩壊しないのは、この二人に割って入れる人間がいるというわけで、
「はい、そこで今日はおしまい」
とにっこりめがねの奥の瞳が笑った。彼の名は柳生比呂士。
その笑顔に似合わず力強くぐいと、跡部と仁王の額を同時に手のひらで押さえつけ、喧嘩を止めるのがこの家での第二の仕事だ。
「二人ともなかよく戯れるのはいいんですけど、人のことをネタにするのはよくありませんね」
微笑腹黒紳士って、誰のことでしょかねえ、と付け加えて、先ほどの笑顔のまま紳士が跡部を見る。
「いや、それは、お前のこととかじゃねえよ」
「いーや! 跡部はお前のこと愚弄して言った。聞いてーこいつひどいんじゃよー」
「そうですねえ、私、誇大妄想な方に愛されても困るんですよね」
ふふ、と笑って今度は仁王を紳士は見やる。
……こっ。
こえー。
地獄耳だと、思わず跡部と仁王、二人の心の声が重なる。
二人が見えない恐怖政治にぶるりと背筋を震わせ黙り込むと、微笑の似合う紳士はようやく手を外してくれた。
「まったく、君たちは喧嘩ばかりして」
ふう、と息を吐くと柳生は仁王の隣に腰を下ろした。そして、跡部くん、またそんな座り方して、と困ったように眉を寄せた。
「え、ああ」
指摘されて跡部はもぞりと足を動かした。
先ほどから跡部はダイニングセットのチェアに膝を抱えるようにして、体育座りのような格好で収まっていた。
仁王と柳生曰く、何かに悩んでいたりするときの座り方とのことで、それを今ちらりと思い出した跡部はそろそろと罰が悪そうに足を下ろす。
「で、後悔してるんですか」
にっこり、先ほどの仁王とさほど変わらない口調で柳生が言い放つ。
今度はお前かよ、と跡部は心底嫌そうに呟いた。そして片肘をつき、顎をその手に乗せて上体をひねってそっぽを向き、
「うるさい」
と結局変わらない答えを繰り返した。どうせからかわれると分かっていてもつっぱねるしかないのだ。
同居生活がいくら長いといえど、この性格は直らない。素直に悩み相談など跡部に出来るわけはなかった。
「はあ〜…… 後悔してるんですねえ」
「じゃの〜」
今の一言から何を勝手に感じ取ったのかは知らないが、仁王と柳生はそろってしみじみと頷いた。
柳生はさらさらの七三分け、仁王はつんつんのくせっけをちょろりと束ねているというまったく違う髪形のせいかパッと見分からないが、実は顔がとてもよく似ている。
まあ世の中には自分と同じ顔が三人いる、というのだから、それと奇跡的に出会ったのだろう。
(でも同じ顔で恋に落ちなくてもいいのじゃないかと跡部は思う)
性格も基本的に正反対といっていいほどなのだが、こういうときの二人を見ると、跡部はやっぱり性格は顔に出るというわけではないが、どこか性質も似ているんだろうと思う。
ずずいっと、腕を組んだまま仁王がテーブルに乗り出す。
「っつうか、今日のあれ、あっれはひっどいのー。
ただ担当交代の挨拶に来ただけっつうのに、マンガの資料だって言って無理矢理コスプレさせてそれで街中走らせるわ、夕食の買い物してこいってスーパー寄らせるわ、罰ゲームでもこんなんないわ、なあ?
しかも社会人になって初めて人に祝ってもらった誕生日にびっくり箱のプレゼント!
かかか、……お前極悪人じゃな!」
人を指を差して笑い出した仁王に跡部は額に青筋を浮かべ、話の最中からぐっと握り締め震わせていた拳を解くと、ぐっと仁王の人差し指を掴んで煮えたぎる怒りを瞳に湛えてアーンとすごんだ。
「笑ってんなよ……! 半分以上が! て め え の 所 業 な ん だ よ !」
押し殺した声と座った目に追い詰められ、仁王も今回は本気だと踏んで慌てて苦笑いで、悪かった俺が悪かった、つい調子乗った、と片手で降参のポーズをとった。
「でも、じゃ、跡部。乗り気じゃのうなったら、言えばよか。そしたらいくら俺でも、仲間の恋路の邪魔、する気なんてないし。な」
最後の部分で、一応本気半分、助け舟を求める気半分で、仁王は柳生を見た。
そうですね、とちゃっかりその悪戯の終始を止めることなく見守っていた微笑腹黒紳士も同意する。
見つめ返す視線に、本当にちゃんと協力してあげて下さいね、と静かな脅迫が含まれていたのを仁王はさらりと気づかなかったことにした。
「なんで、言わんの」
といまだ自分の指を握ったままだった跡部に、仁王が尋ねた。
すると、いつのまにか俯いていた跡部ががばりと顔を上げ、
「そんときはっ、」
と勢いよく言い、やがて途方に暮れたように眉を寄せると、蚊の鳴くような小さな声で、気づかなかったんだ、と付け加えた。
すとんと椅子でしょぼくれた跡部を見、仁王と柳生は顔を見合わせると、どうやら今回は本当に本当なのだと頷き合う。
「ならここは、きちんと謝ったのちに告白するんですよ」
「……、できるか」
「どっちがじゃ? 前者、後者、それとも両方」
「前者は、する。つーかてめえもしろよ、さっきも言ったが半分以上はお前が遊んだんだろうが」
「いやーん、ケイゴったら遊ぶだなんて」
「ああ?」
落ち込んでいたかと思われた跡部が急にドスのきいた声でじろりと仁王を睨みあげた。
なんじゃ、結構元気じゃないのよと仁王がふふんと笑う。
「仁王くん、ふざけるのもたいがいにしたまえ」
また余計な方へ話が進まないように、ため息まじりに柳生が間に入った。
そして、私も同罪ですからね、この件に関しては三人で謝りましょう、とそれぞれの顔を見る。
「それからは、跡部くんが、彼に対して誠実な対応をしなくちゃいけませんけどね」
跡部の部分をことさら強調して柳生が笑った。
うえ、という顔を跡部が作ると、できないとは言わせませんよとぴしゃりと逃げ道を塞がれた。
時と場合により、柳生は仁王よりも数段数倍厳しい。
つうかさ、と仁王がテーブルに肘をついて話し始めた。
「そろそろ人手欲しいと思わん〜? 家政婦だと長く続かんし、ウチら専用マネージャーっつうの、スケジュール管理に、栄養管理、家事やってくれると助かると思うんのな。あいつドンくさそうじゃけど編集じゃしな、営業は出来るんじゃないかなー。あ、なんだっけ名前」
家政婦云々のところで、柳生がぼそりとそれはアナタの悪戯のせいですよ、と静かなるツッコミを入れたが、仁王はお構いなしだ。
じっと、仁王に見つめられて、跡部は、
「千石、だ」
と居心地悪げに答えた。
なんだかもらったラブレターを友達に回し読みされたときのような気分だったが(それはほとんど間違いないわけだが)、答えないというのも気にしてるようで癪に障る。
そう思うこと自体が仁王にうまく遊ばれていることなのだと、跡部は一応、薄々は気づている。
それでも答えるのが跡部景吾という人間なわけで、そうそう千石ね、とにやり仁王は笑った。
あ、じゃあこういう告白はどうですか、と柳生がぽんと思いついて手を打つ。
「俺の人生のマネージャーになって下さい」
「おっいいね〜 それ最高! 柳生最高俺最高。それにしようなっ跡部、伴侶もマネージャーも手に入って一石二鳥じゃ」
「……勝手に決めてんじゃねえよ」
異議を唱える跡部などいざ知らず、柳生と仁王はとりあえず話は一段落したような雰囲気で、和気藹々と跡部くんにも春が来ましたね、よかったのーなどど交わしている。
その会話に、これで営業しなくていいんですねとか、トーン貼りも手伝ってもらえるかのーなどという呟きも聞こえて、本当の極悪人はまさしくこいつらだと心底跡部は思ったが、もう口に出す元気はなく一人ため息をついた。
「あ、ため息をついた数だけ幸せが逃げるんじゃぞー」
「そうですよ、謝って告白すればいいんですから、ねっ」
「他人事だと思いやがって……!」
あーもーうるせえんだよてめらは、と頭を抱えると、じゃ俺寝るわ、と仁王がスイッチの切り替え早く立ち上がった。
どうやら仁王にとって、この話は一件落着したようだ。
「こんの薄情者が」
跡部が噛み付くように言うと、冷蔵庫へペットボトルを戻した仁王は、寝れるときに寝る、これ鉄則ナリとすましたように言った。
そして、んなこと言ってもな、俺の仕事はお前の作画が終わってからなのよと、柳生の傍へ立ち、テーブルに手をつき柳生の肩へ手を置いた。
「とにかく、さっさと告白しろっつうの、な柳生」
「ええ」
そして会話の後に控えめに唇の触れ合う音が響いた。その光景をばっちり目撃した跡部は地獄でも見たようにげんなりした表情をした。
「てめえら、さらりと人前でイチャついてんじゃねえよ!」
「うっせえボケ、お休みの挨拶じゃ邪魔すんな、とっとと仕事戻れアホ」
「アホはてめえだ。かっるい脳みそが、簡単にアメリカナイズされてんじゃねえよ。ここは日本だ」
「うらやましいんかー ふふーんだ」
どん、と大きな音を立てて跡部が立ち上がった。びっ、と自分のどこかの血管が切れた気がした。
「……だから! もう一回し直したりしてんじゃねえよ!」
と叫んだところで、柳生のお小言がいよいよ飛ぶかと思われたが、その前にピンポーンと呑気なインターフォンのチャイムが部屋に響いた。
まさか、と三人で恐る恐る顔を見合わせる。
これも運命と言うべきか、一番近くにいた跡部が動かない二人を恨みがましく見ながら仕方なくインターフォンのテレビを覗き込んだ。
そこには思ったとおり、昨日の事にへこたれた様子もない、にこにこと無邪気な顔で笑うオレンジ頭がいて、
「こんにちはー! 原稿もらいにきました!」
インターフォン越しにでも圧倒される明るい声がスピーカーから届き、跡部は思わず身を引いた。
返事もせずにさっと、オートロック解除のキーを押す。ぴっとテレビの画面が消えた。
「……締め切りって今日だったか」
たっぷり沈黙をとってから、跡部はキーを押した体勢そのままに呟いた。
背後にいるはずの二人がいつまでたっても返事を寄越さないのを、跡部はひとつの確信した答えに置き換えると、脱兎のごとく駆け出した。
仁王と柳生も慌てて追いかける。三人の目指す部屋は、仕事場だ。
「柳生、背景先に描けるものはどんどん描いてけ! 仁王は描いたそばからトーン!
とにかく仕上げてけ! 原稿コマで切ってもいいから! 後で貼り合わせりゃいいんだ!」
最後の方がどうにもやけくそ気味だったが、仁王と柳生はそろって返事をした。
そうして三人三様、思いの出所は違ったわけだが、千石をどうにかここへ引きずり込もうと思ったのだった。
fin.