「ふざけている……!」
押し殺した声が斜め後ろを歩く柳に小さく届いた。
磨き上げられた大理石の床と高い天井に足早な靴音が響く。
他はなにひとつ音のしない静かな廊下は美しい彫刻の施された柱や壁のレリーフで彩られているが、急ぐ二つの人影はそれらに見向きもしなかった。今は、この館の豪奢加減が不気味でさえある。
感情を極力抑えて吐いた言葉とはいえ、裏に煮えたぎらんばかりの怒りがあるのを感じ取り、柳は前をゆく自分の主でもあり戦友でもある人物をそっと諌めた。声のトーンには細心の注意を払う。
「落ち着け、弦一郎。どこで誰が聞き耳を立てているか分からない」
「……ここは、同盟国だというのにか」
返ってきた言葉には苦々しげな侮蔑の感情がこもっていた。表情は背後からでは見えないが、きっと苦虫を噛み潰したような顔をしているのだろうと柳は思う。そうだ、と静かに頷く。
「あくまで、同盟国だ。いいか弦一郎、今回のことがあったとはいえ、この国は我々の敵でも味方でもない。
そのことを忘れるな」
最後の方で柳はさらに声を潜めた。それに、すぐに弦一郎と呼ばれる人物は返事を寄越さなかった。
やがてぴたりと歩みを止める。
そして、彫りの深く屈強な精神が見て取れる真っ直ぐな眉と眼差しで柳を振り返り、
「敵でも味方でもない、か。……すべては奴の返答次第、この謁見の後で分かることだ」
と意を決し、前方に聳え立つ人をやすやすと受け入れることのない、頑強で重厚な扉を押し開けた。
「よく来たな、真田公」
自分の背後で扉が閉まりきる前に、よく通る声が謁見の間に響き渡った。
不遜と自信の溢れる声。
会ったのは、両の手で数えられるほどの機会だが、自分と同年代の王国や公国の嫡男たちの中でも目立つ男だった奴のことは忘れられなかった。
負けを知らない剣の腕、何十手も先を見た知略、人型兵器を操るランナーとしても自ら先陣を切って出るその実力。天武の才に恵まれた者とはまさにこの男をいうのだろう。
真田は、ぐっとこらえるようにして眉を寄せ、上からの物言いにしか聞こえない声の方へ歩き出した。
行く先へ真っ直ぐに伸びる、柔らかな赤の絨毯が靴音を打ち消す。
広い部屋の中心へ辿り着いたところで、真田は立ち止まり、きっと顔をわずかに上げ、
「話が違うぞ、跡部公よ!」
と声高に言い放った。後ろには、口を結んだ静かな表情を浮かべた柳が控えている。
真田の見つめる数メートル先に壇上には玉座があった。この公国を治める者だけが座ることのできる場だ。
そこに高々と足を組み、見下ろす目つきで真田に目をやったのはこの国の主、跡部景吾だ。
整った秀麗な顔を肘掛についた手の上に乗せ、返事を待つ真田に対し、ふっと口元をきれいにゆがめてみせる。
「違う、だと。それこそいったい何の話だ」
なあ、と跡部が言うと、くつくつと周囲から小さな嘲笑のようなものが漏れた。
真田はその反応に顔をしかめてから、視線を横へ滑らせ睨んだ。壇上の下、真田の左手に跡部の部下が控えていた。真田にも一応その顔に見覚えがあった。
すっと、真田に近寄った柳がそっと耳打ちする。
「奥が仁王、手前が柳生。跡部の腹心だ」
名前を聞いて真田は、あいつらが、とひそやかに息を呑んだ。
二人は跡部が抱える軍隊の主力人型兵器部隊の三大部隊長に数えられている男だ。
声を漏らすことなく、俯きがちに口元に指をあて微笑んでいるのが柳生比呂士。
眼鏡の奥の瞳からは何を思っているのか、まったく探ることの出来ない。いつでも丁寧な口調、物腰で、どんなときでも崩すことはなく、逆にそれが冷酷な印象を人に抱かせる。
長めの銀髪を後ろで小さく縛っているのが仁王雅治だ。ころころ変わる言葉遣いで飄々と話し、それが表しているかのごとくとても気分屋で、つかみ所がない。
自分の主、そして客の前でもあるというのに、今その手には小さな折りたたみ式のナイフが握られている。猫背気味に手元を見つめ、かちりかちりと音をさせ刃を出しては仕舞い、手の中で躍らせ玩びながら佇んでいた。
この二人のランナーが率いる部隊が出れば、その地は火の海になる、そんな噂があるくらいだ。
そして真田は、訝しげにちらりと目線を上げた。
この部屋へ入ったときからずっと真田が気になっていたのは、玉座にもたれかかる男の姿だった。
背の高い背もたれに腕をかけ寄りかかり、跡部に親密そうに顔を寄せているその人物は、真田の視線にとうに気づいているだろうに、まったくお構いなしに跡部に笑いかけ、その耳に何事かをささやき笑い合っている。
柳の声が、一際緊張したように、真田に届く。
「あれが、千石だ。注意しろ、いちばん危うい男だ」
危うい、と言われたその男こそ、三大部隊長の最後の一人、跡部についでずば抜けた腕を持つランナーである千石清純だ。
落日の色をしたくせっ毛の髪、柔らかに無邪気に笑う顔から一見、軍人のようにはまったく見えなかったが、ちらりと千石と一瞬目のあった真田は、その瞳の奥に暗く深い闇を垣間見たような気がして、思わず身震いしそうになった。
あの顔は上っ面ということか。
真田は静かに息を吸い込んで吐き、再び跡部に相対した。
「何の話とは言わせない。盟約を忘れたか! 防衛ラインを越えないという約束だったはずだ!それなのに貴公は盟友の軍を攻めた!
これは立派な同盟破棄だ」
激昂し、腕を振り上げ、払うように跡部に問い質す。
しかし跡部の悠々とした態度は崩れない。顎を反対の手に乗せなおすと、おどけるように眉を持ち上げた。
「同盟破棄? それは隣国アーマーンにただすがいい。我が軍は銃と兵器を向けられ、それに応戦したまでのこと。防衛ラインの均衡はアーマーンが破ったもの。こちらに非はない」
「なっ……、確かに、アーマーン側からの砲撃で事態が始まったことは確認が取れている! しかしそれを誘うような行為を、挑発と取れる威嚇射撃やらを行ったのは跡部公!
その方の軍だろう!」
一歩踏み出し、ぬけぬけとほざいてみせる跡部に真田は食い下がった。
跡部にしなだれかかる千石が、声でかいなあと呆れるように呟く。そして首をかしげ、微笑むように言った。
「で、証拠は? そういうことしたっていう証拠ってあるの?」
「お言葉ですが真田公、あなたほどの方がアーマーンの言い分をそのまま信じ込むわけではありませんよね」
眼鏡をくいと人差し指で抑えた柳生が静かに口を開いた。
むっと真田が睨むように見つめると、逃げることなく柳生は見つめ返し、その威圧を受け流す。
「三国同盟などと言ってみても、結局はただのその場しのぎ。そのことを真田公もよくご存知のはず。誰もが常に我先にと上へ立つことを狙っている……
アーマーンが貴公の国を陥れるための罠、と考えたことは?」
「それは……!」
「それとも、あんた自身がウチに攻め込む大義名分が欲しいだけ、とかな」
ずっとナイフに目を落としたままだった仁王が、不意に目を上げ、真田に目をやってにやりと笑った。
小さな嘲笑がまた沸き起こり、何を、とかっときた真田を慌てて後ろにいた柳が、腕を押さえた。
「そこまでにしておけ」
静かだがいささか強い調子の声が、三人の部下を制した。
はーい、とつまらなさそうに千石が返事をし、いまだ真田から視線を離さない仁王を柳生がちらりと見て小さく口を動かし、仁王もはいはい、と出したナイフの刃をぱちんと収めた。
浸透した跡部の力をそこに見た真田が跡部を見上げると、跡部はすまないな真田公、と目を伏せ、その綺麗な顔でうっすらと微笑に近い表情を浮かべた。
「部下が失礼を働いたが…… まあそういうことだ。真田公も寝首をかかれないよう、気をつけるがいい」
「それは、アーマーンにか、それとも貴公にか」
ぎりぎりの発言に、柳は思わず荒げた小さな声で弦一郎、と後ろから呼びかけた。
真田はそれを手で牽制する。
たっぷりの沈黙が跡部と真田、交わる視線の間に落ちる。
表情を変えたのはほぼ同時だった。
跡部の答えは、傲慢に持ち上げた唇にすべて表れ、それに真田は感情を抑えることなく眉を寄せた。
「……そうか。それが貴公の選んだ答えというわけだな」
「俺は、随分この同盟ももったものだと思っている。思っていたよりも長く、な。しかしぬるま湯に長いことつかっていると、どうにもよくない。風邪を引いてしまっては元も子もないだろう?」
跡部は自分の言葉にくくっと喉をならして笑った。ぎり、と真田は湧き出る怒りに歯を噛み締め、拳を握り締めた。そして盛大に息を吸い込み、跡部を真正面から見据えると、
「和議の場を持つまでもない。……同盟は破棄だ!」
と吐き捨てるように言葉をぶつけ、アーマーンにはこちらから使者を出すと感情を押し殺した声で付け加え、身を翻した。
濁った足音を呼び止めるように、真田公、と跡部の声がはっきりと響いた。
真田は、最後に目にすることになるかも分からない、盟友だった男の顔を見るつもりで首を巡らせ振り返った。
玉座からおもむろに跡部が立ち上がる。そして顎をわずかに上げ、初めて見る顔で声を張り上げるように告げた。
「ぬるま湯につかっているとだめになる。……貴公も血に浸かる覚悟をきめるといい」
その双眸は真っ直ぐに、真田ではなく、その背後にある国でもなく、未来を射抜いていた。
真田は今までの跡部からは想像すら出来ない、認めたくもない、真摯という言葉を跡部に感じ、気圧された気分で見開いた目を眉根を寄せて崩すと、無言で背を向けた。
そうして謁見の間を後にする中で、自分の後ろについている柳を見ずに、
「……戦の準備だ。国境軍を増強しろ」
と硬い声で告げ小さな躊躇いの後に、無意味な平穏はいよいよ終わりだと、誰に言うわけでもなく呟いた。
fin.