「もし、今戦争になってね」
お前はたまに仮定の話をする。
例えば、テレビドラマを見たときに、俺が戦争に行っても、なんて話し始める。。
「俺はきっと戦争へ行くことになるけれど、跡部くんはここで俺のこと待っててね」
そして最後に必ずお前は笑うんだ。
どうして笑えるんだよ。
どうして笑うんだ。
どうして、どうか。
どうか、笑わないで。
「今戦争になったらどうなると思う」
「「「「は?」」」」
正レギュラーだけで行われる部活前の簡単なミーティングが終わって、
席に着いた面々がちょっと雑談していたところだった。
机に肘をつき、手を組んだその上に顎をのせ、軽くため息をついた跡部が口にしたその言葉に、
皆はすかさず突っ込んだ。
雑談が始まるなり出て行った日吉と、ミーティングからずっと寝こけているジローをのぞいて、だが。
「なんだよ、いきなり戦争って」
意味がわかんねぇ、と跡部に一番席の近い宍戸が訝しげな顔をする。すると鳳が、
「そういえば、終戦記念日が近いから、最近終戦頃のドラマとか映画とかよくやってますよね」
と思い出したように言った。
今は夏まっさかり。ふと跡部はカレンダーを目で探した。今日は7月の、18日。
あ、俺この間蛍の墓見たぜと岳人が手を上げる。
はあ、とまた跡部が目を伏せてため息をついた。
「そうなんだ…… そのせいもあるってことは分かってるんだ」
「いや、だからなんなんだよ一体」
まわりくどい話がその性格からして宍戸は苦手だ。岳人も同様で首をひねっている。
それまでずっと黙っていた忍足が椅子にのけぞって、そやなあ、とのんびりした口調で言った。
「戦争になったら、な」
ちらっと跡部が気を引かれたように顔を上げた。
伸びをした忍足は前に乗り出す。
「今は徴兵制やなし、俺らはこの歳やし、戦争には行かへんやろな」
「……歳なんか関係ない場合は」
肘をつくのをやめ、跡部がその話に乗る。その流れに、机を挟んで岳人と宍戸は顔を見合わせた。
「んーそやね〜、そりゃ行くんやない?」
なあ、と隣の岳人に話を振った。不意打ちをくらった岳人は、ええ!と声を上げて頭を抱えた。
「うーん、行く、んじゃねえの? 俺たちそこらへんの奴よりは体力あるし」
「まあなあ、行けっつわれたら、行くしかないよなあ」
宍戸も頷く。
「ああでも、」
忍足が人差し指をピッと立てて、跡部を見た。
「跡部は行かないんとちゃう?」
片眉を少し上げて、跡部は息を止めた。
「……なんでだよ」
「そうだよなんで跡部だけ」
「だってそりゃ」
「金持ちだからだろ」
ん?と引き継がれた台詞に忍足は宍戸を見やった。
「なんや宍戸分かってるやん」
「ばーか、それこそ昔の映画かなんかでよくありそうじゃねえか」
「やろ。いいとこのお嬢様と神風特攻隊に入る平凡な青年の話とかやんな。悲恋やわ〜」
「いやそれは女の話だからゆーし」
「でもまあお前んとこの親父さん、なんとかして行かせないようにしそうだよな」
かぶっていた帽子をはずして、何気なく、宍戸は言った。
跡部はその言葉に、だよな……、と呟いたのち片頬を机に押し付けて、小さく息を吐いた。
その様子に、宍戸意外のメンバーが地雷をふんだような、なんとも気まずい表情をし、宍戸を見つめた。
「……なんやよう分からんけど、宍戸謝れや」
「そうだな、よく分かんないけど謝れよ」
「ああ?! もとはといえば、お前が言ったんだろ忍足!」
「言おうとしたけど、言うてはいない」
「宍戸さん、ここは……」
「何だよ俺一人が悪者かよ!」
一応、微妙なひそひそ声で騒ぐ外野に、跡部は起き上がると、
「ちげぇよ、そんなんじゃねえ」
と形のいい眉をひそめた。
「宍戸の言うとおり、俺の家は金があるからな。
そういうことになったら、バラまくところにバラまくだろうよ。宍戸の言うとおり」
「……そんなんじゃねえって言ったわりに、やけにつっかかるじゃねえかお前」
「気にするな。八つ当たりだ」
さらりと跡部は言ってのける。
この、と拳を握り締めてわなわなと震える宍戸を、鳳がまあまあと宥めに立った。
そんなことは我関せず、跡部は続ける。
「金持ちってことを嫌だと思ったことなんかねぇよ。
与えられたもんだからな。
十分にそのことを利用すればいいと思ってるぜ俺は」
そこで一息つくと、考えあぐねているといった感じで、首筋をさすった。
「……だから、そのことはいいんだよ。関係ないんだ」
「じゃあなんだよ跡部ー」
岳人が口を尖らせる。
その場にいた全員が、有無を言わさないといった顔でじっと跡部の言葉を待った。
跡部は、そんなメンバーを見回したあと、左上の宙を睨んで少し考え、
「やめた。お前らに話すのは面倒だ」
と横暴ぶりを発揮した。
うわあと瞼を伏せがちに忍足が目を逸らす。岳人は信じらんねーと抗議した。
宍戸の顔に青筋が浮かぶ。そして、跡部に掴みかからんとする勢いで、食って掛かる。
「お前なあ!! ここまで引っ張っておいてそれか!!! 面倒だと! それはなあ、意味がわからねぇ話に付き合わされて、悪者扱いされて、あげく話の内容が分からないまま終わらされたこっちのセリフだ!!!」
「し宍戸さん落ち着いて!」
「そうだそうだ、言ってやれ宍戸ー!」
「そうやけいちゃん、いくらなんでもめんどいはないやろ、めんどいはー」
「うるさい。面倒なものは面倒なんだ」
「……おーまーえーなー……!!」
つーんとそっぽを向いた跡部に宍戸は食い下がる。
そんな騒ぎの中、跡部と宍戸の間に入っていた鳳がふと洩らした。
「でも、話戻りますけど、」
「「ああ?」」
「いえあの」
左右からの睨み上げに、鳳は一歩引きながらも、その先を話す。
「さっきの、部長の話じゃないですけど、
もし戦争になって、例えばこの中の誰かが神風特攻隊とかに入ることになったりしたら、
やっぱり哀しいですよね……」
「……」
「……そう、だな……」
自分で言っていて何やらしょんぼりしてしまった鳳に、宍戸は呟くように言うしかなかった。跡部も押し黙る。
皆も感化されたのかしんみりしてしまい、跡部と宍戸のじゃれあいもそこまでとなった。
「さー部活行こかー」
「おー!」
忍足と岳人の掛け声にメンバーが続々と席を立った。
ほら行くぞ、と宍戸が大きな鳳の背中を押してやる。
樺地がやってきて、いつも通り寝惚け眼のジローを背負って運んでいった。
跡部もラケットを担ぐようにして、ゆるりと立ち上がる。
まだ椅子に座って腰をひねったりしていた忍足が、他のメンバーが出て行ったのを見計らって、こそっと跡部に話しかけた。
「なあ跡部」
「アーン? なんだ」
振り返った跡部に忍足はようやく腰を上げた。
「あれやんな。その話の出所は千石、やろ」
「そうだ」
案外あっさりと跡部は言い放つと、さっさと歩き始めた。飄々とその後を忍足はついていく。
「今までの話を統合すると、もし戦争になったらて千石が言ったんやろ、
で、俺は戦争に行くことになるけど、
お前は金持ちやから行かへんねや、っていうような話を」
「そんなことは言ってねぇよ」
部室を出たところで、跡部はほらと忍足に鍵を突き出した。
ああと受け取って鍵をかける。盗難防止のために部活中は鍵を閉めておくことになっているのだ。
「ほいよ。じゃあなんて言ったん?」
投げ返すと、跡部は指にひっかけてくるりと回した。
「……自分は戦争に行くから、俺に待ってろってよ」
「なんや大して変わらんやんか」
「バカ、お前の言い方だと大分違う」
せめてアホいいや、と忍足が大阪人らしいツッコミを入れる。
すると跡部は、腕を組み、右手を顎へ持っていくと首を傾げたのち、あーだからそんなこともどうでもいいんだ、と少しイラついたように呟いた。
「じゃあなんだって言うん」
忍足がため息まじりに言うと、その切れ長の目がすっと忍足を斜めに睨んだ。
叩かれると、一瞬忍足は警戒したが、意外にも跡部は殴ることなく、
なんともすっきりしない顔で独り言のように言った。
「あいつはそういう話をたまにするんだよ」
「どんな」
「いつでも俺ひとりが生き残る話」
そうして、跡部はすたすたとコートへ行ってしまった。
残された忍足はそりゃあまた、と心の中で呟くだけでかける言葉のひとつも見当たらず、
所在なげに頭をかいた。
あれから跡部は部活を淡々とこなしていた。
筋トレに走りこみも終えて、あとのメニューは正レギュラー同士での打ち合いということになっている。
「あーとーべー! 一緒にやろうよー」
いち早くコートに入っていたジローが観客席にいた跡部に声をかけた。
「ああ」
と返事をすると、跡部もコートに入った。
他の正レギュラーも適当に組んで練習を始めた。跡部たちの隣のコートは鳳と宍戸が使っている。
球をジローに投げ渡して、跡部は口の端を持ち上げた。
「サーブはお前からでいいぜ」
「やった!」
じゃあいっくよ〜と張り切ってジローがボール上空に投げた。
サービスライン手前に落ちて跳ね上がる球を跡部は勢いよく打ち返す。
気持ちのよい、空を抜けるような音が交わされる。
その音を跡部はひとつ外側の意識で聞き、目で追い、勝手に動く足と手に任せて、
奥の方にある、もう一人の自分とでも呼ぶべき意識で、考えごとに耽っていた。
もし、で始まり、笑顔で終わるその話に、俺はいつだって困る。
「今戦争になってね」
力強く、ボールを打つ。
「俺は戦争へ行くけど、跡部くんはここで待っててね」
振り払うようになぎ払うように、音を、立てて。
「俺が死んだら、」
「俺が死んでも、」
どうしてお前は笑顔で言えるのか。
「俺が死んだら、」
「俺が死んでも、」
それでも俺は生き残らなければいけないのか。
いろんなことが、言いたいのに。本当は。
でもいつだって言葉に詰まって、胸が詰まって、俺は何も言えない。
大きく振りかぶって、頭上に上げたボールを打ち下ろす。
パァンと気持ちのよい音が駆け抜けた。
死んだらなんて言うな。
いなくなるようなことなんか、言うなよ。
本当のことみたいに、俺は想像してしまうから。
でもお前の優しさも、分かるんだ。
死んでも、その先の気持ちがあることを言ってるんだろ。
知ってる分かってるよ。
その、「もし」に俺を連れて行かないのは、
お前が、俺を、
「跡部!!!」
遅れた。
その声を認識するのに、普段の倍はかかった。およそ3秒のロス。
奥まった意識を最前線に引き出す。
目の前のジローが右をちらりと気にして、自分に視線を戻した。
その顔は驚いたような慌てたようなそんなもので、何か叫んだが、
聞き取れるほどの集中力は跡部に戻っていなかった。
瞬間、
空気の迫る音と気配がして、右へ身体ごとずらした。
そして、気づく。
視界がくらりと揺れた。
ジローは「あぶない」と叫んでいたのだろう。
「跡部!!大丈夫!?」
「部長!!!」
「跡部!!」
「跡部さん!!!」
皆が口々に名を叫びながら跡部に駆け寄った。近くにいた、ジローに宍戸、鳳がいち早く駆けつける。
跡部は、前のめりに倒れそうになったところを、何とか手で支え、片膝をついて、コートに崩れた。
その横をジローの打った球が失速して静かに転がっていく。
「跡部平気!?」
ジローが膝を折って、跡部の肩に手をかけた。微かに跡部が頷いたのを見て、宍戸を見上げる。
「よし、じゃあ保健室へ運ぶぞ」
「跡部さん俺、すみません……!」
泣きそうな顔をした鳳を後からやって来た岳人や忍足が必死で慰め、宥めた。
どうやら、鳳のミスショットが当たったようだ。
樺地と宍戸の二人が、跡部を両脇で支えて立ち上がらせた。
その回りで、ジローがあたふたと跡部の様子を窺っている。
跡部は、ぐわんぐわんとこだまする頭で、皆の声を遠く遠くに聞いていた。
その中でやっと、気にするなと鳳に告げる。
不謹慎だから罰が当たったのだろうか。
「じゃあ連れてくぜ」
と宍戸が言うのが、やけにはっきりと頭に響いて残った。
力の入らない体で、引きずられるようにして歩く。
頭にボールが当たったせいだろう、視界はぼやけて、世界がはっきりしない。
何も見えないなら、分からないなら、目をつぶっても同じだった。
少し、涙が滲む。
……ああそうか。
それでもたった一言、「連れていけ」と言えたなら。
俺はきっと、微笑むことが出来たのだろう。
* * *
大きく息を吸い込む。
消毒液の匂いが鼻先をかすめた。冷たいシーツと、重い布団の感触。
保健室、か。
細く息を吐いて、跡部は重い瞼を持ち上げた。
白っぽい天井、薄い黄色のカーテンでその空間は遮られている。
頭の右奥がまだずきずきと痛かった。
「あ、目覚めた?」
ちょっと寝とったみたいやで自分、という聞きなれた声に視線を動かすと、カーテンから安堵した顔を覗かせた忍足がいた。
そうみたいだな、と小さく返事をしておいて、また目を閉じる。
童話の眠り姫も、自分と同じように目覚めは最悪だったに違いない、と跡部は思った。
その後、忍足が消えたと思ったら、どうやら部の方へ目が覚めたことを言いに行っていたようで、
ジローに岳人、樺地、宍戸、そして鳳を引き連れて戻ってきた。
カーテン越しにそっとドアが開く音がし、気を遣って小さな声で失礼しますという声が複数したのが聞こえ、跡部は身体を起こした。
揺れたカーテンからジローが顔を出す。
「跡部? ・・・大丈夫?」
「ああ」
思ったより平気そうなこと分かると、ジローがまず跡部に駆け寄り、岳人も続いた。
「軽い脳震盪だってよ。こぶが出来てるだけだってさ」
「……そうみたいだな」
跡部は岳人の言葉に、自分の頭を擦ってこぶになっているのを確かめた。
そして、宍戸に付き添われて入ってきた大きな身体を縮めて落ち込んでいる鳳を見上げる。
俯いていた鳳が、半泣きの顔を上げ、そして地面につかんばかりに頭を下げた。
「すみません! 跡部さん、ごめんなさい! 本当に……俺のミスショットで……すみません……!」
「鳳」
「は、はい」
はっきりとした口調に、鳳は慌てて頭を上げた。
しかし鳳が見た跡部の顔は怒っているものではなく、むしろ柔らかい表情だった。
「もう気にしなくていい。……俺も少し気が散ってたからな。こっちにも非がある」
「そんな、」
「だから気にすんなよ。俺の怪我も、怪我ってほどのことじゃねぇし。大丈夫だ」
「はい……すみませ」
「だから、もう謝らなくていいって」
跡部が少し笑う。鳳も少し涙を浮かべた顔で笑い、元気よく、はいと返した。その背中をぽんぽんと宍戸が叩いてやる。
そうして場が和んだのち、跡部は口を開いた。
「岳人、鳳、お前ら先に部活戻れ」
「ええー」
「ええじゃない。あと二時間きっちり練習してこい」
「ジローと宍戸と樺地は? あ、そういやゆーしどこ行ったんだろ」
「三人には今からやってもらうことがある。鳳、岳人がサボってないかちゃんと見張っとけ」
「分かりました!」
「なんだよそれー」
頬を膨らませた岳人だったが、それでもお大事にねと残して鳳と仲良く保健室を出ていった。
礼儀正しい鳳の、失礼しますという声がして少し経ったところで、宍戸が跡部に向き直った。
「で、やってもらうことって?」
「ああ。
宍戸、お前今日はもう打ち合いを止めて、鳳と一緒に筋トレと走りこみをやれ」
「いいけど、なんでだよ」
「なんだかんだ言ってあいつは引きずる方だからな。気分転換だ」
「……なるほどな。わーったよ」
宍戸は了解すると、カーテンに手をかけた。そして、何かに気づいたように振り返り、
「跡部もう帰るんだろ今日は」
と聞いた。跡部はふうとため息をつくと、髪をかきあげた。
「まあな。こう頭がいてぇと集中できねえし」
「だろうな。じゃあま、お大事にな」
皆には伝えとくぜ、と宍戸はドアの開閉する音とともに消えた。
「俺は俺は!俺は何すればいい?」
はしゃぐジローの頭を落ち着かせるように撫でてやり、跡部は樺地とジローの二人を見やった。
「樺地、お前は俺の荷物を取ってlこい。制服もだ」
「ウス」
「ジローは、小池先生を呼んできてくれ」
小池先生とは保健教諭のことだ。いつも笑顔を絶やさない中年女性で、優しいことから皆に好かれている。
「真理子ちゃんね、おっけー!」
はーい、と手を上げてジローが小走りで保健室を出て行った。樺地ものっそりとそれに続く。
急に静かになった。
跡部はベッドから降りて、剥いだ布団を直すと、カーテンを開けた。
机に置かれた記録カードをめくると、自分の名前がすでにあり、ジローの字で他の欄もきちんと埋めてあった。
ふと喉の渇きを覚えて、隅にある洗面台へ行き蛇口をひねる。
手で水をすくうと二口ほど啜って、それから顔を洗った。
鏡に自分を映して、それほどひどい顔をしていないのに安心する。もっと落ち込んだ顔していたかと思っていた。
かかっていたタオルで顔を拭い終えたところで、ガラガラとドアが開いて、ジローと白衣を着た女性が入ってきた。
「跡部ー小池先生呼んできたよ〜」
「あら、もう起きて大丈夫なの?」
「はい。もう大丈夫です。ご迷惑をおかけしました」
「そう、良かったわ〜 ごめんね、ちょっと外せない会議があって、またすぐに戻らないといけないのだけど」
「いえ」
「お家には連絡を入れたわ。目が覚めたら迎えに行くって仰ってたけど」
もう帰れる?と、優しく小池が笑った。はい、と丁寧に返事をして樺地に荷物を取りに行ってもらっていることを告げる。
「電話お借りしてもいいですか」
「いいわよ〜」
一言断って、跡部は電話に手をかけた。自宅の電話番号をプッシュする。
ジローがひょいと跡部の顔を覗きこんだので、ぴんと軽くその額をはじいてやる。へへ、とジローが笑った。
呼び出し音が途切れて、執事が出た。
跡部が名を告げると、安堵した声ですぐに迎えを寄越しますので、と返した。
「いや、いい」
と短く跡部は答える。そして心配する執事に、歩いて帰るからと半ば一方的に話して電話を切った。
見上げたジローが、首を傾げる。
「歩いて帰んの?」
「ああ。そんなに痛みはひどくねえし、……頭冷やして帰る」
「ふうん」
そう納得して、跡部の頭へ手を伸ばし労わるように撫でた。
「早く治るといいね」
「……ほら、早く部活戻れ」
跡部が柔らかい口調で、目を細めながら答える。
ジローはうんと頷き、明るくまた明日ねと手を振って出て行く。
小池がちらりと壁掛け時計を見上げ、跡部に声をかけた。
「跡部君、私も行くけれど、大丈夫?」
「ええ。着替えたらすぐに帰ります。ありがとうございました」
「いいえ、お大事にね」
「はい」
ぴしゃっとドアが閉められると、また保健室は静かになった。
樺地が来るまでと椅子に腰を下ろす。
と、一息ついたところにまた扉が開く音がして目をやると、忍足がや、と手をあげて立っていた。
「サボってねぇで、てめえもとっとと部活行け」
「つれないなわ〜 人がせっかく部長の様子見に来よったいうのに」
「うるさい。早く帰れ」
「あ、ところで跡部帰りは車?それとも歩き?」
「何がところで、だ。……歩きだよ」
「そりゃ珍し。でもま、そっちのがええわ
急に思いついた案にしてはなっかなかのもんやでー! さっすが俺やなあ」
「何の話だ」
「なんやまだ着替えておらへんの。まあ、そやな、終わった頃にはもう着くやろ」
「だから何の話だよ!」
痛む頭を押さえながら、話が見えず怒り出した跡部に、忍足は先程とは違う表情で言ってのける。
「ん、だから、生き残るって話、やろ」
にっこり、微笑んだ。
……ちくしょう。はめられた。
校門までの道のりをじりじりと焦がされる思いで、早足で跡部は歩いていく。
いや本当は、校門に辿り着きたくなどないのだが。
ちくしょう。覚えてろよ忍足。
頭痛がするのはきっとこのこぶのせいだけではないだろう。
あの、門の影から覗く、見覚えのありすぎるシルエットに原因が、大いにある。
夏の暑い日ざしに照り輝くオエンジ色の髪、
アスファルトの熱を反射する白い制服。
どう見ても、どう考えても。
くそっ、あいつは不良海軍将校か。
明らかに影響された悪態をつきながら、どうにかしてスポーツバッグの陰に隠れてみる。
必死に見ないフリをして、そ知らぬフリをして、顔は伏せがちに、そっぽを向いた。
無論、意味がないことなど分かっているのだけれど。
「あっとべくーん!」
……やっぱり、見つかった。
跡部は、無視し続けてもどうせ事態は一向に進展しないのもよく分かっていたので、
呼ばれた方向にしかめっ面で顔を向けた。
千石、がいた。
自分と同じようにスポーツバッグを担いで、慌ててやって来たのか、いつもより髪も服装も少し乱れた感じで、
心配そうにこちらへ駆け寄ってくる。
「跡部くん大丈夫?! もう俺びっくりしちゃってさ、あ、忍足くんから電話が来てね教えてもらったんだけど、頭にボールぶつけたって聞いてもう、いても立ってもいられなくて、ね大丈夫?
平気? 吐き気とかしない?」
「ああ、大丈夫だから、もう少し小さい声で話せ……」
「おっと、ごめん」
ため息をついた跡部に、千石は口元を片手で一旦隠すと、普段よりトーンダウンした声で優しく話した。
「忍足くんから来ること聞いてたんだね」
「……ついさっきな」
「あ、部活の方はご心配なく。今日ウチは終わるの早いんだ」
着替え中に電話かかってきて良かったよホント、そう言って千石は安心したように微笑む。
跡部は特に何も言わず、その場から動こうとしなかった。
えーと、と千石が困って沈黙を破る。
「迎え、来るの?」
跡部は小さく、いや、と唇だけを動かして答える。それを確認して、千石は今度は嬉しそうに笑った。
「それでは、どうか家まで送らせて下さい」
人通りの多い街中の道を避けて、跡部は閑静な住宅街の中を歩いていく。
千石はこのあたりの土地勘はまったくないから、大人しく跡部についてきていた。
しかも文字通り、大人しく、イコール無駄話をせずに、だ。もちろん跡部を気遣ってのことだろう。
ちらっと、跡部は静かに隣を歩いている千石を見やる。
初めて歩く道をたまにきょろきょろと見回しながら、千石は退屈そうではなかった。
珍しいこともあるもんだ、そんなことを思いながら眺めていると、その視線に気づいたのか、
「なあに?」
と小首を傾げた千石が優しい声音で尋ねた。
「何か話したいこと、あるんじゃない。会ったときからなんかあるな、って思ってたけど」
「……別に何も」
「嘘〜 ……なんてね、忍足くんからちょっと聞いたんだ」
「何を」
「自分がどっか行くときはあいつかっさらってけ!」
ぐっと拳を握り締め、眉間のあたりに力を入れて、
慣れないエセ関西弁と、そのときの忍足の雰囲気まで真似て、跡部に向かって千石は言った。
跡部は目をぱちくりさせ、足を止める。
「ってね、跡部くんが怪我したってのを聞いたあとに言われて、すぐに電話が切れたんだよ」
優しい、声音が千石に戻る。
「だから余計急いで来た。この間言った俺の話を跡部くんが気にして、って大丈夫跡部くん!」
話の途中で盛大にため息をついてしゃがみこんでしまった跡部に、千石が焦った。
「忍足……あいつ絶対シメる」
しゃがんだ途端、頭を抱えた跡部の不穏な発言を耳にしてしまった千石は、苦笑いして、いやえーと、と言葉に詰まった。
その間に、すっくと跡部は立ち上がると、すたすたと三歩ほど歩いて止まった。
「跡部くん!」
千石も立ち上がって、戸惑いながらも呼び止める。
「あの話だけど、」
「言うな」
強く、言い切る。
新鮮な気持ちを取り入れるように、息を吸う。
頭の痛みなど吹き払うように、
迷いを取り去るように。
跡部は振り返って、びしっと人差し指を千石に突きつけた。
驚いた千石は、その指先と跡部の顔を交互に見やる。
「いいか、一回しか言わないからよーく聞け。頭を打ったからおかしくなったとでも勝手に思えちくしょう」
「あ、あの跡部くん?」
「いいから聞け」
「……はい」
急に饒舌になった上、普段と大分様子の違う跡部に千石はうろたえた。
しかし跡部は口を挟むこと許さず、はっきりとした口調で続ける。
「お前の、もし、の話、あれに俺も連れて行け」
「えっと、」
「分かってる、そう言ってもお前は俺を連れてかないんだろ。俺はいつでも生き残る方にいなくちゃいけないんだ」
「だからそれはね、」
「分かってるって言ってるだろ。それも分かってるんだ。何が何でも俺を連れていかない理由、それ知ってるんだよ。俺にだってそれくらい分かる。それはお前が、俺を、」
好きってことだから。
蚊の鳴くような小さい声で、最後の一言を跡部は告げた。
真剣な跡部の表情に、千石が恥ずかしくなって顔を赤くした。それは裏を返せば、跡部が自分を、という意味以外の他はない。
少し経って、跡部もなんとなく千石の照れた意味に気づき、つられて急に体温が上昇した跡部は、口元を手の甲で隠した。
「人より先に照れてんじゃねえよ! 俺が先だろフツー」
「ご、ごめん」
勢いに流されて謝ってしまった千石に、跡部はがしがしと頭をかいた。
「あーもう、だから、分かってるんだよ理由なんか。でも、俺はそれでも、勝手に生き残らせるんじゃねえよって言いたい」
「……うん」
「というわけで、これからも、もし、の話をしたっていい。その、俺が生き残る話、で構わねえよ」
「いいの?」
「別に。多分嫌だって言ってもお前はうっかりしそうだしな」
「ははは、笑えない」
「ただ、」
そこで一区切りすると、ズボンのポケットに手を突っ込んで、千石を見据える。
なあ千石、千石、千石。
本当の本当の理由、それだって俺は知ってるんだ。
心の中で何度も千石に呼びかける。
この想いが伝わるように。
「お前はこれだけ分かってればいいんだ。本当に、これも一回しか言わねえからよく聞いとけよ。
もし、の話が現実になったとしたら、俺は絶対ひとりで生き残ってなんかやらねえ。
絶対お前についていく。
お前のもし、を絶対にジャマしてやる。
俺はいっつもそう思ってんだ。それだけ忘れんなよ。いいか絶対だぞ、覚えとけ」
言い終えると、跡部は満足そうに一息ついた。耳がまだ赤い。
千石が、あっけに取られた顔を崩して、弾けるように笑った。その声が、高く青い空に届く。
「おっけー!」
そう言って、今度は千石が親指を立てて、跡部の前に突き出し、片目をつぶってみせた。
そして、跡部の上品な振る舞いを思い出して、夏の爽やかな風に乗るように、
誇らしげに、右の手のひらを手前に滑らせ、優雅な礼をした。
跡部は昔読んだ絵本の挿絵を思い出して、まるでおとぎ話のようだと思い、温かい感情が胸をふさぐのを感じた。
なあ千石、知ってるんだ俺。
ほんとは、連れて行かなくても、連れてっても、どっちだっていいんだろ。
お前は、俺が本気で言ったなら、何だって、
千石、
それならどうか、お前の、
「君の望むままに」
fin.