君の横顔は誰のものだったか。
「や」
片手を上げて、いつもどおり千石は笑った。
その笑顔には昨日のことを引きずった跡なんて微塵も窺えない。
跡部は、表に浮かび上がりそうになったちょっとした驚きを気づかれないように引っ込め、唇をわずかに噛んで薄く笑った。
少しだけ悔しくて、ほんの少しだけ腹が立ったが、こっそりと安堵の息を吐く。助けられた、と思う。
そして、ようやく覚悟が決まった。
「来ると、思った」
話がある、跡部がそう続けようとして、千石はそれを遮り、そう、俺も話があるんだとわずかに首を傾けて言った。
ああ、と頷く。
きちんと話そうと、跡部はあれからずっと考えていた。
俺のこと、俺の気持ちとか、昨日のこと、お前に見られた俺の顔、お前にさせてしまった俺の告白とか、全部、話そう。
来なければ自分から山吹に行くつもりだったけれど、こうなることを跡部はなんとなく分かっていた。
来るだろう、そんな気がしていた。
柔らかい眼差しで、跡部は千石を見る。
なあ千石、お前のことだから。
「来ると、思ってた」
そんなことは、とっくに知ってたんだよ。ねえ。
俺は、前を歩く跡部くんの後姿に心の中で語りかける。
氷帝を訪ねた俺を、跡部くんは意外にも穏やかに迎えてくれた。
出会い頭に殴られるんじゃないかって、冷たい顔で無視されるんじゃないかって、もう相手になんてしてくれないんじゃないかって、そう思ってた。
君が一番俺に見られたくない顔を俺は見つめて、その挙句、俺はまだ跡部くん自身が形にしたことのないものをやすやすと口にしたから。
「(だって俺は君の気持ちを、下手したら、君より先に知ってたんだ。)」
本当は、来たくなかった。
ぼんやりと思う。
でも俺が来なかったら、君が来る。
それは、分かっていたから、それなら、どうせなら、いつもらしく、俺が君のところに押しかけるっていうのを、例え最後でも、うん、最後だから演出したかったって言ったら、君は笑う?
振り向くことのない背中に、俺は笑いかける。
跡部くんは迷いなく進んでいく。
たまに振り返るようにして俺たちを見ていく氷帝の生徒や、右手に見える誰もいない広いテニスコート、そういったものに目もくれず気にも留めず、歩いた。
その後に続きながら、多分、部室へ行くのだろうなと思う。
今日は休みの日だけれど、部長の権限でどうにかなるんだろう。
どこ行くの。
そう尋ねるのはとても簡単だったけど、俺は後姿を見つめるばっかりで、何も言えずについていく。
最初は、その頑なな背中が好きだった。
ブレザーがとてもよく似合う、背中。
きっと草原だろうが砂漠だろうが、瓦礫の中だろうが、その凛とした立ち姿は様になる。
俺が君を見たのは1年の新人戦。
氷帝自体、全国大会強豪で有名だったし、俺は何気なく氷帝ユニフォームの一団が通り過ぎるのを見ていたわけだけれど、その大勢いた中で、君の背中が目を引いた。
背も体格も、今より全然だったけれど、ほどよく筋肉のついた背中は、こいつ出来るなってすぐに分かるものだった。
強い。
テニスだけでなく、きっとこいつは、強い。
背筋のぴんと伸びた、自分をどこまでも貫こうとしているその孤高なまでの後姿が、俺は、好きで。
好きになったんだ、と思う。
その後何回か大会かなんかで跡部くんの姿を見かけた。
後姿を見てばかりいるのも飽きたから、ほんのちょっとだけ近寄ってみたりした。
今思えばストーカー入ってるなとも思うけれど、君の席の近くを陣取ってみたりして、横顔を眺めた。
たまに拾えてしまう、誰かと話しているその声にもどきりとしたりして。
そしてその横顔に、落ちた。
もともと色素の薄いらしい瞳が太陽の光で明るく澄んで、意志の強さが窺える眉の下でいつもどこか遠くに視線を投げかけていた。
射るように強く、求めるようにしっかりと、でも、何にとも相容れない弱さみたいなものあって、
君の背中から感じたこと、そうでないことも見つけて、嬉しかった。
俺は、ラッキー千石だから、君がたまに笑ったり、多分周りの連中はちっとも気づいてない、ほろっと崩したような表情とか、君だって気づいてない横顔を見てたよ。
うん、そうラッキーだからさ、その視線の先に誰がいるかなんて、案外すぐに俺は気づいてしまったのだけれど。
「入れよ」
声がして、俺は俯き加減だった顔を上げた。
いつのまにか部室の前まで来ていて、跡部くんがすでに中へ入りドアノブに手をかけて俺を振り返っていた。
ここに来て初めてじゃないだろうかって思うくらい、真っ直ぐに跡部くんは俺を見ている。
ああもう、こんなときに君は、俺のことを見るんだなあ。
そんなことを思いながら、うん、と短く返事して横を過ぎ中へ入る。
君のその眼差しは、俺に、向けるものじゃないのでしょう。
自嘲気味にちょっとだけ笑いを洩らす。ちらりと跡部くんの顔を見ると、思ったとおり不思議そうな顔をしていた。
「何でもないよ」
へらっと顔を崩して言うと、跡部くんは寂しそうに微笑んで、俺を追い越した。
今すぐ会議でも出来そうな感じに並んでいる長机に俺はカバンを置き、腰かけるようにもたれる。
前を跡部くんの涼しい横顔が過ぎる。
そう、その横顔は俺のものじゃなかった。
1年の頃から君と並んで有名だったもんね。だからこそ最初は君も気になったんだろう。
跡部くんについての浮いた噂なんてひとつも聞かなかったけれど、そんなの、聞く必要なんてなかった。
大会にくるたびに跡部くんが目で追っている先を見れば、一目瞭然だったから。
ジュニア選抜の合宿で、君の態度からそれは確定的なものになった。
俺からみればあからさまと言えるほどに、跡部くんは、俺が補欠から繰り上がった理由から俺に八つ当たりじみた発言をいくつかした。
その後だ、俺が跡部くんのところに押しかけるようになったのは。
決定打を決められても、合宿でようやく跡部くんと知り合いになれたのは嬉しくて、1年以上も横顔を見てきて、なんとなく君はその想いを口にしたり伝えたりしないつもりなんだということが分かっていたから、
うん、臆病ものは俺なんだ。ずるいけど、近づいたんだ。
大会で会うしかなかった俺は、同じく、大会で会うしかなかった相手を見つめる君の横顔しかろくに知らなくて、最初はね、それ以外の顔も見たくて、それと、その横顔がもう見たくなくて、君に会いに行ってたんだよ。
「コーヒーでいいか」
コーヒーメーカーやらティーポットが乗っているカウンターの戸棚を開けて、跡部くんが何やら出そうとしていた。
「いや、いいよ。……話、多分そんな長くないからさ」
君の話なんて聞くつもりないよ、そんなふうにとられないように柔らかく俺は告げた。
聞かないつもりなんて、本当にない。
いろんなことを話した方がいい気がした。でも、この話は俺が話しても、跡部くんが話しても、
遠回りに話すことはいくらだって出来ると思ったけれど、実は、とても短い言葉で十分足りるでしょ。
そのことが跡部くんにも伝わったみたいで、出しかけた紙コップを元通りにして戸を閉めた。
そうだな、と呟くように言って、カウンターに手を組み合わせて置く。
俺はそのやや視線が落とされた横顔を見る。
あのね跡部くん最近、やっと俺も分かったことなんだけど。
やっぱり、俺は君の横顔が好きなんだ。
ちょっとの間だけと俺の時間に君をつき合わせて、あの横顔以外にもいっぱい知ったけど、
やっぱりたまに思い出したようにあの眼差しとか、表情とか、跡部くんは俺にみせた。
無意識なんだろう、ふと、ほんとにふっとこう、一瞬さらわれるみたいに、あの横顔をしてみせた。
かなわないなとじゃ思ったけれど、悔しかったり、やるせなかったり腹が立ったりもしなかった。
だってさ君が誰を好きかなんて、君が、恋をしているってこと、昨日君が罪悪感たっぷりの顔で俺を見るずうっと前から、知ってたんだ。
俺が君で恋の名を知る前から、君が、恋してるってことを。
それでも俺は君が好きで。
俺は、君の横顔が好きでした。
うん、そう、君の恋してる横顔が好きだったよ。
君の横顔はすてきだった。
俺は、君に恋してる俺の横顔が、君みたいだったらすてきだなって思ったんだ。
自分もこんな (君みたいな、嬉しそうな幸せそうな、切なそうな) 顔をしているのかな、そう思ったら、
やっぱり、君が、好きだったよ。
俺はそっと沈黙でもって君に語りかけた。
話があるって言った俺の、実際に語る話はその一部分だ。
自己中心的、自己満足、ほんとは全部知ってほしいなとも思う。けど、俺だけしか知らない物語でもいいやって思う。
君の横顔は誰のものだったか。
うん、その答えはとっくの昔に知ってたんだ。
俺のものでなくったってよかった。
相手のもの、君のものにならなければ、誰のものでもなかったらそれでよかったよ。
わがままだろう、俺。
俺のものじゃないってとっくのとうに知ってたのに。
そうじゃなくっても別にいいやって。分かってたんだ。
俺も跡部くんも結構長い間何も喋らなかった。
最高とはお世辞にも言えないけれど、心地悪くはなかった。
俺も跡部くんとの出会いまで遡っていろいろ思い返し、心の整理というものを今更ながら、
ここに来る前につけてきたと思っていたけれど、君の顔を、改めて見て分かったこともたくさんあった。
きっと跡部くんもこの時間でいろんなことを考えていたのだろう。
もしかしたら、俺との時間のこととか、そういったことも考えていてくれたかもしれない、そう思ったら、
それこそ今更だけれど、いいや、まだ、十分嬉しかった。
跡部くんの透きとおる瞳が、意を決したように静かに光る。
微かに胸が上下する。小さく息を吐いたみたいだった。
跡部くんは俺の方を見なかった。
フェアじゃないな。
そう思ったけれど、真正面から見つめられたらそれはそれで、俺はきっと、きっと自分勝手に君を殴りたくなっただろうからそれでいい。
向けられる相手は、だって俺じゃないでしょう。
耳を澄ますようにして、目を閉じる。
言葉だけは、どこまでも真っ直ぐに、君が力強く告げた。
「俺は、手塚が、好きなんだ」
……ああうん、やっぱり君は、俺のものじゃない横顔で、俺の前に在るんだなあ。
結局盗み見るようにしてそっと目にした跡部くんは、変わらずにすてきだった。
悔しいのか、哀しいのか、もしかしたら、嬉しいのか、もうそれすらも分からなくて、俺は、うん知ってると、俺がここに来て発したかった言葉をひとつ、口にした。
* * *
“好き”という言葉は、優しくて、まぶしい。
心が柔らかなものに包まれたみたく、くすぐったい気持ちになる。
きらきらしていて、照れくさくて、顔をほんの少ししかめたくなる。
なあ、そんな気持ちになるって一体どういうことだろう。
* * *
知ってる。
俺のやっとの告白に静かに千石が答えたのに気づいて、俺は今更驚くこともなく、そうかとだけ返した。ゆっくりと目を閉じた後、首を巡らせ千石を見た。
千石は小さく声を出して、もたれていた机から離れると、俺を見てほんの少し笑った。
「そうなんだ、俺ね、それでも跡部くんが好きだったんだ」
だから跡部くんが、そう言いかけて千石は次の言葉を迷った。中途半端の開きかけた口で、1回小さく息を吸い込み、唇を湿らせると、
「君は、なんていうか、何も気にしないで」
と言って困ったようにわずかに俯いた。
俺は、君が好きだったんだから。
独り言のように千石が呟く。
俺は、カウンターの置いていた手を強く固く握り締めた。
思えば、最初から千石は好きだという気持ちを俺に対して隠さなかった。
俺が最初に千石を知ったとき、ジュニア選抜合宿の頃から、こいつは人懐っこかったし、それから俺の学校に押しかけるようになってからは“好き”という言葉を躊躇なく、臆面なく告げてきた。
俺はそれを。
どう感じていたのか、なんて、愚問だ。
なあ千石、お前の“好き”は、いつだって真っ直ぐで目をそらせなくて、優しくてまぶしかった。
絶対に俺はそういうふうにはなれないと思っているし、そうでなくてもいいと思っているけれど、本当にたまに、お前みたくなれたら、そう思ったこともあるんだ。
手塚に想いを伝えようと思ったことなんて一度もない。最初から告げるつもりなんてないんだ。
けれど、もし万が一そんな機会があったなら、お前のように。
そんなふうに、なれたら。
最低なんだ俺。
残酷だ。
ずっと気づかないふりをしていたけれど、俺が、お前をそばから本気で離そうとしなかったのは、ずるずるとお前と一緒にいたのは、結局“好き”って言葉が聞きたかったからだ。
握り締めていた手で、ボトムのポケットのあたりをぎゅっと掴み、俺は千石の前に立った。
千石が顔を上げる。そして俺の顔を見つめると、先に口を開いた。
「手塚くんに、恋してるんだね」
柔らかく言い含めるように言ったその言葉は、俺のためでしかなかった。
お前は優しかった。気を使う一言も、別れの言葉も、お前のはいつだって優しかった。
「ごめん」
視線が合うか合わないかの間に、俺は目を伏せて頭を垂れた。
正確な答えではないと思ったけれど、そうせずにはいられなかった。
振り回してたのは俺の方だ。姿勢はそのままで呟く。
すると、顔上げてよ、と柔らかい声が響き、俺はゆっくりと千石と相対する。
千石は真っ直ぐに俺を見ていた。瞳に宿る輝きはひたむきだった。
少しだけ硬い声で千石は告げる。
「俺は、君が好きだから会いにいってたんだよ。分かってて、それでも好きで会いたいから、会いにいってたんだ。俺がなんだ。他のひとのこととか、関係ない。君に会いたいから。だからかわいそうでも何でもないし、君が謝ることなんて、ないよ」
俺は頷くしかなかった。
かわいそうだなんて思わなかった。ただ、言えるなら、俺の方がお前より何倍もずるくて汚くて、わがままなんだと言いたかった。
千石は俺の頷きに、うん、と自分も声にして頷いた。その声はもう硬くなかった。
「最後に、」
ちゃんと、1回だけ言っていい?
千石が笑った。
最後に。
俺は心の中で小さくそれを反芻する。
「俺は、跡部くんが好きだったよ」
太陽の光が急に当たったときのように、まばゆく、千石が笑う。
最後に、こんな気持ちになるってどういうことだろう。
ああ、どうして、千石の言葉の余韻に最後だって感じて、俺は、胸が締め付けられるような気分になるんだろう。
今までお前をそばから離さなかったのは、どういうことだろう。
せんごく。
お前の気持ちで、こんな気持ちになれることって、
一体、どういうことかな。
今更のように気づいたことを、もう尋ねることなんて出来るはずもなかった。
それはただただ残酷だ。
千石の“好き”は優しくて、まぶしかった。
目をつぶってしまいたかったけれど、最後だと思ったら、余計に顔をそらすことは出来なかった。
そんなふうにいつもお前は笑っていたんだろうか。
もう遠くなってしまった記憶から引っ張り出すのは難しい。
多分、そうだったのだ。
ただ俺は気づくのが本当に、遅くて。
そう思ったら急に、
ああ本当に、お前は、いつだって優しくて、まぶしかったんだ。
翌日、授業が終わって、跡部は青学へ来ていた。
一昨日突然帰ってしまったことを、手塚に直接詫びるためだった。
跡部が走って青学を飛び出したその後、手塚から簡素だが心配する旨のメールが跡部の携帯に入った。
家に帰って大分心も落ち着き、その時点で千石のこと、そして手塚のことに自分の中できちんとけりをつけようと決めていた跡部は、そのメールに、大丈夫だと返し、後日謝罪に行くとも加えておいたのだ。
けりをつける。
そう決めたはいいが、会ってどうなるのだろうという思いが心の中にある。
想いは伝えない。そうはじめから決めていたし、それを変えるつもりもないと思っていたから、会って明確に言えることなんてほとんどないのだけれど、でも会えば何か見つけられるかもしれない、そうも思っていた。
バスから降り立ち、校門の前で校舎を見上げていた跡部は、意を決して中へ足を踏み入れた。
今日訪ねることはメールで伝えてある。
時間を取らせるのは悪いから、テニスコートの横で少し話が出来れば、と申し出た。
俺はそれで構わない。
返ってきた手塚の返信を思い返して、跡部は少し緊張していた気持ちを緩ませる。
いつも真っ直ぐだ、そう思いながら、ほんの少し千石に通ずるものがあるとちらり考えた。
青学の敷地内は放課後特有の騒々しさに満ちていた。
校庭では念入りに準備体操を行っている陸上部の姿があった。体育館の方や、その向こう、テニスコートのある方から、かけ声やボールを打つ音が聞こえてくる。
校門の前や今跡部が歩いている間に、帰り支度を済ませたらしい多くの生徒とすれ違うのをみる
と、まだ部活が始まって間もない時間なのだろう。
跡部は腕時計に目を落とした。3時40分。
ホームルームが終了したと同時に教室を出たのだが、まあどんなに急いだってこれくらいはかかるか。
仕方ない、微かにため息をつき、ふと顔を上げるともうそこは男子テニス部のコートの前だった。
まだ氷帝の制服姿の自分に気づく気配のないコートの中の、軽くラリーを続けている部員たちをぐるりと見回し、そのまま、コート脇の水のみ場まで見やったところで、跡部は視線をわずかに戻した。
水のみ場前のフェンス近くに、コートを見つめているレギュラージャージに身を包んだ手塚の姿がそこにあった。
跡部が声をかけようとしたそのとき、手塚がふと首を巡らせた。華奢なフレームの眼鏡越しに、目が合う。
「跡部」
しなやかに響く声で手塚が呼ぶ。跡部は、軽く手をあげた。
これが最後だ。
そう決めてしまうと、もう心が振れることはなく、すっと心の芯が引き締まるような気がした。
いつものように背筋をぴっと伸ばして歩み寄る。手塚がゆっくりとこちらへ身体を向けた。
今度は手塚が何か言いかけるその前に、跡部は身体を前に傾け頭を下げ、
「先日は、すまなかった。悪い、突然帰ったりして」
と視界に入った手塚の白と黒のシューズに、目を伏せた。
そうして姿勢を元に戻すと、少なからず驚いている手塚の顔を見、顎を引いて、本当に悪かったと再び謝った。
「いや、跡部」
その様子に手塚が少し慌てたように、自分の胸の前に手をかざした。
跡部が気づいて顔を上げると、手塚がコートをちらりと見やって、小さく咳払いした。
ん、と跡部もそちらに目を放つとラリーをしていた部員のほとんどが手を止め、こちらを窺っていた。
跡部が見回すと途端その視線を外す。どうやら注目を浴びていたらしい。
「その、なんだ、畳み掛けるように謝られるようなことではないと俺は思ってる。だからもういい」
そんなに頭を下げられても困る、と手塚は困惑したように言った。
跡部はその顔を正面から見つめ、変に注目を浴びせてしまったのも詫びるつもりで、悪い、とばつが悪そうに口にした。
ああ、と頷いた手塚は、小さく息を吐くと、確かに多少驚きはしたが、と前置きして話し出した。
「コートに寄ってもらったのも、話し合いのついでだったわけだし、俺は迷惑などかけられていない。
あの直後、一応連絡も取れたことだしな。まあ、生死に関わるような問題に巻き込まれたわけなではないのだと分かって良かった」
最後のは手塚なりのジョークなのだろうか。そう思いながら、跡部は笑いを洩らし、すまなかったと返した。
そして笑いを収めると、理由、と口の中で一度呟く。
急に帰った理由、それを説明しなければいけないだろうか。
急用だったんだ。一言、言えば済むことなのに、今更それだけを言うのはわざとらしい気がして、だからといって、何も言わず説明しないのもそれはそれで怪しまれるんじゃないか。
自意識過剰だ。
けれど、なんだかそこから何か感づかれてしまいそうに思う。どうすべきか、跡部が俯き加減にぐるぐると考えていると、コートに向かって手塚が声をかけたのに、跡部の意識が引き戻らせられた。
手塚がこちらに顔を向ける。
「また、用のないときにでもゆっくり見ていってくれ」
ああわざわざ別の日にしなくても、時間があるなら今日でも構わないか、と続けた自分の言葉に、手塚は少し表情を崩す。
「……急用」
手塚の言葉に引っかかりを覚えた跡部は、怪訝な顔をして小さくその言葉を呟いた。
「ん? ああ、お前が帰った後、千石が戻ってきて伝えてくれたのだが、違うのか?」
首をかしげた手塚に、跡部は目を瞬き、息を吸い込む分黙したままでいると、そう急用で、となんとか返事をした。
バカだな、と思った。
俺が走って逃げ出したあの日、千石は俺を追いかけて、追い返された後、青学に戻ったっていうのか。そうして自分の恋敵に、俺のことを誤解しないように急用だと、俺の伝言として説明して。
なんてバカだろう俺は。
跡部は遠くなってしまったと思っていた記憶から、あの笑顔を思い出していた。
何が随分遠く、だろう。こんなにも、近くにあったんじゃないか。
唇を噛み締めるように、わずかに微笑む。
「……そうだ、忘れてた」
呟いた跡部の言葉を、手塚は自分の問の答えだと思ったのか、なんだそれは、と苦笑いした。
「千石とはよく会うのか」
何気なく手塚が会話を続ける。跡部は、息を吸って吐き、背筋をしゃんとさせると、まあなと答えた。その問は、本当はもう過去形で問われるべきものだったけれど。
「昨日も、会ったな」
そっけない別れ際だったとは口にしなかった。
本当に、千石の“最後の言葉”は最後だった。
さよならも言わずに、千石はそのまま部室を出て行き、跡部も残された余韻に浸ることなく、ただ千石に追いつかないようにするためだけに部室へとどまり、学校を後にした。
千石の後姿は見なかった。別れの背中など見たくなかったなど、それがどういう心なのかいまだ言葉には出来ない。
「そうか」
ちょっと意外だというふうに跡部は跡部を見やった。先日の反応からそう感じたのだろう。
跡部はコートを眺めていた。球を追う部員の姿、駆け抜ける打球音、自分が見ていることを意識してか妙に気合の入った下級生がいて、その様子に少し笑う。
それを見た手塚は、
「やっぱり、お前たちは仲が良いんだな」
と悪気のない、屈託のない顔で言った。
ちらり、と跡部は手塚の横顔を盗み見る。
それはいつもの手塚で、いつもの、強い眼差しでテニスを見つめている手塚で、青学の部長のものだった。
ああ俺だってとっくの昔に知ってたんだ、手塚。
お前がテニスしか見てないってこと、そして俺がその眼差しが好きだったていうこと。
それを分かってて、だから何もお前には告げないって決めてたんだ。
でも、ちょっと、これは正直こたえてた俺でさえ。
跡部は、気づかれないように小さく、口の端っこに寂しさをのせ、
「まあな」
とようやく、自分の想いを断ち切る答えを告げた。
* * *
ただ残酷であれ、俺の心。
半端な躊躇など捨てて、身動きの取れない見栄なんて捨てて、
今更、何が恥だろう。
何が、恋だろう。
ただ残酷に、まっすぐであれ。
* * *
日常が過ぎ去っていくのは、意外にも、早い。
千石が跡部の元へ押しかけ氷帝に訪れていたのが途切れてから一ヶ月ほど、その日常はそれ以前の日常に埋没し、跡部が千石のことをテニス部の生徒に聞かれることもなくなっていた。
「なんか、最近跡部あやしくねえ?」
向日がテニスウェアから首を抜きながら、隣で同じく着替えをしている忍足に話しかけた。
今日は学校の諸事情で閉門時間が早いために、いつもより大分早くに部活が終了した。
まだ外は明るい。周りは皆、帰りにどこへ寄っていくか、寄り道の相談で忙しい中、向日は跡部の最近の動向についての考察を続ける。
「二週間くらい前からさ、部活ない日は絶対一目散に帰っちゃうし、ある日でもすげえ急いで用意してさあ、出てくときあるだろ」
なーんか変だよねえ。
さり気ない跡部の日常の変化に気づいたのは、何事にも好奇心旺盛な、少々いろんなことに首を突っ込みすぎる気もある向日だ。
うんうん、と肩の上で切り揃えられた髪を揺らし、頷き自分で納得する向日に、忍足は素っ気なく返事をしながら、いいからはよ着替え、といまだ腕あたりに引っかかっている脱ぎかけの向日のウェアを指で示しながら言った。
忍足は、あとネクタイをしめ、ブレザーを羽織るだけの格好だ。
あ、うん、と向日は一応答え、それでも話しながらゆっくりとした動作で着替えを進めていく。
「ぜぇったいなんかあるって。このあいださ、他校の女の子でも追っかけてんのーって聞いたら、何にも答えてくんなかったんだぜ!」
「はいはい〜 岳人、手え動かしてな。先行くで」
すっかり着替えも終わって忍足は屈み込み、荷物をスポーツバッグにぽんぽんと放り込んでいく。
わー待って待って! と向日が慌しく行動し始めた。ボトムに勢いよく足を突っ込んで、シャツに腕を通す。ふと忍足を見やると、バッグの中を整理しながら、忍足がぶつぶつと独り言のように何か言っている。
「あの跡部がねえ…… そもそも女の尻追っかけるなんてせえへんと思うけど」
「わっかんないよ! ぜったい振り向かせたい女の子、いるかもじゃん」
「やーそういう問題じゃなくてな。意外にお堅い跡部がそんなこと、っと」
そこで忍足は、気づいたように目を斜め上に逸らして、自分の口を手のひらで塞いでみせた。
向日を見上げると、唇をいーっと広げるようにして、その前に人差し指を立てた。
は? と首をかしげて向う日が振り返ってみると、跡部が部室へ入ってきたところだった。
りょうかい。
そろりと向き直って、忍足と目を合わせた向日は声に出さず言うと、またしても止まっていた手の動きを再開した。
顧問の榊に呼ばれていた跡部は早足で部室へ滑り込んできた。
ちらと壁にかかっている時計を確認して、まだ平気か、と小さく呟く。
素早く自分のロッカーまで移動して、手際よく着替え始める。あっという間にテニスウェアを脱いで制服姿だ。
その様子をしばしそっと窺っていた忍足と向日は、揃って同じタイミングで顔を合わせ、頷き合った。
「跡部ー」
「なんだ」
間髪入れず、返事が届く。忍足は、これは急いでるなと口の端を少し緩めて、向日を見る。
よいしょっと立ち上がって、眼鏡をくいと指で押し上げた。
「急いでるん?」
「ああ? まあな」
跡部は面倒くさげに答えながら、鏡を覗き込んでネクタイをしめ、髪を整え、身だしなみの仕上げにかかっている。
どっこいくのー、と向日が大きめの声で尋ねると、跡部は鏡を通してそちらを見やり、さあな、と意味ありげに少し笑った。
「この前もそうやってごまかしたじゃんかー!」
頬を膨らませて向日が近寄ると、跡部は振り向きざま向日をさっとかわし、すでにバッグを手にして出入り口の方へ急ぎ足で向ってしまった。
逃げんのかこらーと追っかける向日の声に足を止めることなく、一瞬だけこちらを見やる。
「明日はいつもどおりメニューだ」
じゃあな。
短く告げて、そのまま振り返りもせずに跡部は出て行った。
部室にいたレギュラーメンバーが口々に返事と挨拶をする中、向日はむくれた顔で立っていたかと思うと、がーっと意味もなく叫んでみて、忍足にずずいと迫る。
「なにあれ、ちょっとくらい教えてくれたっていいよな! けちー跡部のけちー!」
「はいはい落ち着いてな〜 まあでも、結構重要な用件ってこっちゃな」
ふむ、と忍足は顎に手を添えた。
意外と本気なのかもしれへんな、向日に聞こえないほどの声でぽつりと言ってみた。
「へ? なになに?」
「自分……、はよベルトしめてネクタイもせえ。ほんまにおいてくで」
忍足はいくら考えても分からない跡部の件を早々に放り出して、一向に進まない向日の出で立ちをため息で見つめたのだった。
向日と忍足の予測は、あながち外れでもなかった。
跡部にとって日常となりつつあるその行為は、相手にとっては非日常、当初は驚くばかりで我が目を信じられなかったが、ようやく最近慣れてきたようだった。
「よう」
「おわ」
校門の陰から姿を現した跡部に、何の注意も払わずに歩いていた千石は飛び跳ねるように、よろめいた。
何やってんだ。
スポーツバッグを肩にかけ、ポケットに手を突っ込んだ跡部は、息を零すように微笑む。
「や、だって今日部活でしょ? だから」
あたふたと千石は制服のあちこちを触ってみる。メールしてくれたらよかったのに、と言うと、
「そういえばそうだな。急いですっかり忘れてた」
と、跡部が気が付いたようにブレザーのポケットをぽんと一回叩いた。
行こうぜ。
続けて、柔らかな表情をして言ったのに、千石はスポーツバッグをかけ直してうんと答えた。
跡部も千石も、千石が氷帝を尋ねたあの日がすべての最後だとは思っていなかった。
今生の別れだとはみじんも思っていなかったけれど、まさか自分が以前の千石のように、山吹を訪ねてるようになるとは、千石より誰より跡部自身が考えてもいなかったことだ。
二週間前、校門で待っていた跡部を、千石はぽかんとした表情で迎えた。
一緒に帰らないか。
跡部が静かに、なるたけ普通の表情で言うと、戸惑いをみせながらもいいよ、といつものように千石は笑った。それから、跡部の新しい日常は続いている。
手塚には何も伝えなかったこと、きっぱり断ち切ったことは簡単に話した。千石はそっか、と返事をしただけだった。
時折、千石が跡部の表情を盗み見るようにして、何か尋ねたそうな顔をする。口を、開きかけたりする。千石がしたいだろう問いを、跡部は分かっていていまだ自分から切り出せずにいる。
けれどそれも今日までだ。
跡部は、他愛のない話をして横を歩く千石をちらりと見やった。
千石の話はいつだって変わりない。学校のこと、友だちのこと、テニスのこと。
跡部の元へ千石が遊びに来ていた頃と、何ら変わりのない日常の話を千石はする。
跡部も、あのときと変わらずに適当に相槌を打つ。歩いて、ときどき笑い、そしてじゃあねと別れる。
心地の良い日常だったと跡部が思い出し、気づくのに時間はかからなかった。
それでも、いざ口に出すのは覚悟がいる。
でも、そんな俺の罪悪感に似たものや、卑怯さなんて、今更なんだ。
そう跡部は思う。
取り繕おうとするなんて、なんてちっぽけだと、それならいっそ残酷にまっすぐであろうと、跡部は、足をとめた。
「どうしたの?」
あ、今日はそっちから表通り出る? と千石が急に止まった跡部を振り返る。
山吹から最寄の駅まではほとんどの生徒がバスを使う。
けれどたいてい跡部と千石は歩いて最寄駅へ出ることにしていた。
その帰り道の間しかこうして話すことができないとなんとなく二人は思っていたし、駅に着いたあと、どこかへ寄り道するのは気が引けた。
道はいつも適当に千石が選んで通っている。跡部はいつも導かれるままに歩いているだけなので、いまだによく道を覚えていない。
このあいだあそこの花がきれいでねとか、喉かわいちゃったなあ自販機ないかなとか、そんな千石の気分ひとつで道は変わった。
今日はふと気づけば、土手の横の道路で跡部は立ち止まっていた。
視線を上に上げる。土手の向こう側の空が薄いオレンジ色に染まっている。
淡い夕陽が沈みかけているのだろうと跡部は思い、千石が追いかけて自分を抱きしめた日のことがふつと蘇った。
「ほらほら、先行っちゃうよ〜」
身体を少し前に折り曲げるようにして、千石は笑いながら後ろ歩きでとてとてと進む。
足踏みするように向きを変え、跡部に背を見せた。土手の影が落ちてその優しい顔が急に消えたかのようにみえる。
残酷っていうのはこういうことなんだろうか、そんなことを一瞬、思い描いた跡部は、ぎゅっと胸が押しつぶされたような気がした。
「お前のこと、……好きになってもいいか」
後姿に、跡部は振りしぼった声をやっとの思いでぶつけた。
しん、とすべての音が黙したようだった。跡部は動かなかった。
千石が、ぴたりと歩みをやがて止める。ゆっくりと足を地に付け、跡部が息を呑む間をたっぷり使って、振り返った。
俯き加減の顔にかかったオレンジの髪がふると揺れた。
千石が顔を上げる。みるみるうちに表情が曇っていく。
「……、ずるいよ」
跡部くん、君はずるい。
そう言って千石は、唇を噛み締めるようにして、言った。
よく見れば、いつのまにか握っていた拳が力が込められて震えている。
「俺は、言ったでしょう。君が、好きなんだよ。君が手塚くんを好きだったとしても、君のことが、好きなんだよ」
ねえ、それがどういうことだか、君、分かってるの。
今にも泣きそうな顔で千石が跡部を睨む。
分かっていない、と正直に跡部は思った。千石を見つめてから、首を横に振る。
千石は立ち止まって動かなかった。一度を顔を俯いたが、すぐに上げて悔しそうに跡部を見る。
跡部が意を決して踏み出す。窺うように、一歩そして、二歩ゆく。
千石が、ずるい、と必死な声で続ける。
「君が好きなんだ、そんなのさ、すぐに、消したりできるはずないじゃないか。簡単に、忘れるなんてなかったことにするなんて、できないよ。君が叶わないって諦めた恋の横で、自分勝手だけど、まだ俺のは続いてるんだよ。ねえ、そんな残酷なことって」
うん、と跡部は何度も頷いた。ゆっくりと近づいて、千石の前で止まる。
ぎこちなく感じる手の動きを確かめるように、手のひらを開いて、閉じる。
伸ばそうか迷った。途中まで持ち上げて、ぎゅっと拳を握った。
「ごめん」
顔を伏せて小さく謝ったその言葉が千石の耳に届く。
ああ。
詰まったように、千石が洩らす。
君って、ほんとずるいよ。
うん、残酷だ、跡部は手のひらを自分の額に押し付けて、自嘲気味に答えた。
そうして目線を上げると、千石が何かまぶしいものを見るように目元を、わずかに細めて跡部を待っていた。
「ねえ、跡部くん、ずるいよ君は。ほんとずるい、ずるいよ。だってさ、俺は、君に、そんな好きになってもいいかなんて聞かれたら、いいに、決まってるじゃない。俺は」
そこで千石は跡部の腕を取って、自分の方へ引き寄せた。
ぐいと引っ張られて千石の身体に跡部は倒れこむ。
「俺の答えは、今でもひとつだよ。……、君が、好きです」
本当に、自分は卑怯だと、跡部はじわりと目の縁から滲み出てきたものを感じて思った。
ついこの間まで他の人間を好きだった自分を、まだ好きなのかと、好きならば自分もお前が好きなのだと、ここまできて、結局試すような言い方をした自分はなんてずるいんだろう。
けれど千石は、二度と離すまいと跡部を抱きながら、子守唄をうたうように、いいよ、と繰り返した。
君は、今、俺のことが好きなんだから、いいよ。
俺も、君のことが好き。
ぽんぽんと、背中を撫でられる。どちらかというと涙声の千石に自分がしてやることではないだろうかと跡部は思ったけれど、ごめんと謝る代わりに、跡部は強く強く抱きしめ返した。
それでも足りない代わりに、好きだ、と跡部は口にした。
千石の手が一瞬止まって、その後、跡部の背と後頭部に手を回して本当に包み込むように抱いた。
すき。
かすれて聞き取りにくかったけれど、そのきらめきは何も変わらなかった。
好き、とはなんてまぶしい想いだろうと跡部は思った。
それをまっすぐにぶつけてくる千石はいつだってまぶしかった。
跡部は、もう一度、好きだとささやいた。
口にしたそのまぶしさが、怖いくらいに、すてきだった。
fin.