君の帰るところ、君へ帰るこころ
下らないことでケンカした。

ちっちゃいほんと些細なこと。
いつもなら俺が折れるか、彼が打ち切ってしまうか。
それだけで片付いてしまうことなのに。

何で、今日はだめだったんだろう。

いつも引くところで後に引けなくて、彼も、ずずいっと踏み込んできて、
どっちも、お互いの心が許せなくて。

下らない下らない下らない。
下らない。
下らない。

……下らねえ。

下らないことで喧嘩した。
些細なことだ。
いつもなら、俺もあいつも慣れた手順で風化させてしまえることなのに。

何故、今日は出来なかったのか。

あいつがいつも引くとこでつっかかってきて、俺もつまらない意地を張った。
どっちも、お互いの余裕のなさに腹が立って。

下らねえ下らねえ下らねえ。
下らねえ。
下らねえ。

なのに、
その下らなさに呆れてため息が出るほどなのに、
世界の半分を失ったような、どうしようもないこの気分は。

仲直りの方法なんて、あっという間に世界最速のスピードでどこかに行ってしまったっていうのに。



「……出てく」
不毛な沈黙を破ったのは、居間に立ち、玄関付近で頭をかく千石を睨みつけていた、跡部だった。
ソファに脱ぎ捨てたばかりのコートを拾い上げ、大股に歩くと、千石の横を抜けてドアの取っ手を掴もうとする。
すると、その手が、吹きさらしの外の気温と同じ冷たさに包まれた。
「離せ」
帰ってきたばかりの冷えた千石の手を振り払おうと、右手を振り上げる。顔は、見なかった。
よく分かっていることだけれど、意外に強い千石の力は、それだけでは振り切れず、離そうとしない千石を結局跡部は見上げる。
奥歯を噛み締めたような、むすっとした表情の千石がいた。
「離さない」
……ようやく口を聞いたと思ったらこれだ。
子供のような、我儘さと強情さに跡部は眉間の皺を深くした。
千石は怒るといつもそうだった。普段は飄々と大人っぽい言動を取るくせに、こいうときだけ、我を張る子供に戻る。
「出てくんだよ。離せ!」
「嫌だ。跡部くんが出てくんなら」
そこでぐいっと千石は跡部の身体を奥に押しやり、ようやく跡部の手を離す。
何すんだよ、と跡部がいらついた口調で言う間に、千石は玄関に降りて散らかしっぱなしだったシューズを乱暴に履いた。
また、踵を踏み潰してる、ふと跡部はそんなことを思う。
「お前、」
「俺が出てく」
強い調子で言った千石の言葉に、顔を上げた。
「…はあ? 何言ってんだよお前、俺が出てくって、」
ドアに向かい合ったまま、振り向こうとしない千石の肩を、今度は跡部が掴んだ。
強く引いて、身体を半分ほど向かせた。真っ直ぐな視線が、跡部を射抜く。
その強さに刹那、言葉に詰まった跡部だったが、俺が出てく、と掴む力を強める。
「嫌だ。だめ」
「だから何だよそれ!」
跡部が肩に置いた手にさらに力を込めると、千石はその手を強引に引き剥がし、

「寒いから!」

と真剣な顔で言い残して、千石は、再び寒い冬の夜に飛び出していった。
かち、と、小さな金属音を立てて閉まったドアの後には、跡部と、夜に馴染んだ静けさだけが、あった。
千石の行動にあっけに取られ、目をぱちぱちと瞬いた跡部は、ふっざけ、と小さく呟くと、額に手をあてため息をついた。
玄関の横、小さな台所の前に据えた、小さなダイニングテーブルに、のろのろと歩み寄る。
キーホルダーの付いた鍵がその上にあった。
千石が、帰ってきてすぐに何気なく置いたものだ。
ためらいがちに腕を伸ばして、手に取る。
鍵に付けられているキーホルダーは跡部が千石にプレゼントしたものだった。
一緒に暮らそう。
勇気を振り絞って、とんでもない告白めいた真似をしてくれた千石への、せめてものお礼の気持ち。
細かい音を立てる銀の鎖に繋がれた、こげ茶色の品のいい、革製のプレート。
跡部は、自分の目線まで持ち上げてそれをしばらく見つめていたが、不意にぎゅっと手のひらで握り締め、唇の端を噛み締め、不機嫌な様をあらわにすると、野球なんてろくにしたこともなかったが、投手よろしく大きく振りかぶった。

「こんなときまで俺の心配なんかしてんじゃねえよ!」

がきん!

千石が消えた向こうを目指して、勢いよく鍵を投げつける。ドアに当たった鍵が、派手な音をぶつけて靴の隣に転がる。
は、と短く息を吐いて体勢を戻した跡部に訪れたのは、先ほどと同じ、やるせない静けさだった。



やっと1年。
まだそんなものなのか、と思う。
中学からその名を知って、2年生で顔を知って、それから、こういう仲に少しずつ近づいて、
大学合格を決めた昨年の春休みの間に、小さなアパートの一部屋を借り、お互い必要最低限な荷物を持ってこの生活が始まった。
もう知り合って随分長いのに、毎日顔を合わせているこの日々はまだそんなもの。
もっと、一緒にいるような気がしてたな。
跡部は、ぼんやりとそんなことを思うと、息を吐き、改めて千石の飛び出していったこの部屋を見回した。
本当に、小さな部屋だ。実家である跡部の自室ほどの広さもない。
小さな台所に、小さなダイニングスペース、二人がけのダイニングを置くのがやっと。
居間は居間で、小さな布張りの二人がけソファと折りたたみ式のテーブル、テレビ、その他オーディオ類や本、いろんなものが収まったラック、それだけでぎゅうぎゅうだし、
隣の寝室は跡部の小さな机とタンスだけなのだけれど、布団を並べて敷いたらもう他は何も置けない状態だ。
こんな狭い部屋で人は生きていけるのかと、失礼ながら跡部は当初思ったものだったが、なかなかに居心地が良かった。
もちろん、それは同居人に因るところが多いが。
一周見やって、自分が投げつけた鍵が佇む、玄関に戻る。
しばし見下ろして、口を薄く開きかけたがすぐにぎゅっと結び、跡部は目を伏せた。結局鍵は拾わなかった。
拾ってやるもんか。
下らない、意味のない意地だと跡部は自分でも思ったが、後ろめたくさはもちろんあって、何か理由を付けてすぐにでも拾いたくなる気持ちを牽制するつもりで、千石に押しやられた弾みで落としたコートを拾い上げる。
ばさりと大きく叩く。その揺れるコートの後ろに、鍵の姿が見え隠れしたが、跡部は最後に大きくコートを舞い上がらせ、視界を遮ると、はためくコートのように身を翻した。
そのまま居間に入り、コートをソファに投げ捨て、自分もどさりと身を投げ出す。
目の前のテーブルに読みかけの雑誌が開いたまま置いてあった。
……まただ。
跡部は顔をしかめた。昨日は自分の方が先に布団へ入ったから、夜中に千石が拾い読みでもしたのだろう。
そもそも跡部は読みかけのまま片付けないなんてことはしない。
これは、千石の癖、だ。
この暮らしを始めて、改めてお互いのいろんな面を知ったといえる。
出しっぱなしにする癖なんかは、千石の実家の自室を見ていれば、容易に想像できることでもあるが、
千石が怒ると子供っぽくなることは、この日々の中で初めて知ったことだ。
暮らし始める前までは、それほど喧嘩をすることはなかったし、学校も違う帰る場所も違う、会う時間が少ない中では、喧嘩をしても怒っている相手を目にする時間はあまりない。
毎日顔をつき合わせていると、良い発見だってするけれど、どうしたって良いとはいえない発見をするときも、ある。
そのときは間違いなく、遠慮なく、喧嘩をしてきた。
苦しくなるほど我慢しないようにしよう、それがこの生活を始めるときに決めた、唯一のルールだった。
でも、ほんとは、そんな重大な決め事をしなくても、一緒に暮らすことを大げさに考えなくても、時間を多く共有することで、特に大きく変わることなんて実際はひとつもなかった。
出会ったときから、二人でいる居心地の良さは、まったく変わっていなかった。
そのはずだ、と跡部は思う。
さっきまでは。
両腕を額に乗せ、跡部は背もたれに首を預けた。知らないうちに、またため息が一つこぼれる。
居心地の良い、と思う相手は出て行ってしまったじゃないか。
いや、俺が、最初にこの場所を手放そうとしたんだっけ、か。

……何が、悪かったんだろう。

俺か千石か。
お互いバイト帰りで疲れてたのだろうか。冬休み明けのレポートラッシュで寝不足続きだったせいか。
それともあいつ、一週間前に俺が雑誌の切り抜き捨てちまったこと、まだ怒ってるのか。
でも俺だった前に同じことされてきちんと許したってのに。
それとも、それとも。
他のことかな、もっとずっと前の。
この生活が始まる前のこと?
まさか。
この生活自体、なんて。
暮らしているうちに降り積もった、不満、とか。
居心地が良い、そんなことを思ってるのは、自分だけ、で。
まさか、そんな、な。

頭を振ってその考えを払おうとするが、消えなかった。
ぐんぐんと広がる雨雲のように、跡部の脳裏を覆う。

もし。
もしそうだとして、俺は、そしたら、何も、本当に何ひとつ千石のことを分かっていなかったんだろうか。
知らない部分がまだまだあることなんか知ってたけど、知ってるところだってあるんだって、
勘違いしてたんだろうか。
思い込んでいた?
ほんとは、まだ、何も知らなくて、千石は、この生活が、嫌なのだろうか。

嫌だ、という千石の言葉が脳裏をフラッシュバックする。
それに向けられたものではないと分かっているけれど、あの意思の強い瞳を一緒に思い出すと、痛かった。
千石。
喉の奥で呟いた名前は音にはならない。
出て行く間際の、千石の顔が思い浮かぶ。
この手を振り払って、勝手な理由を投げつけていったあいつ。
……ああ。
そうだ、これだけは、知ってる。絶対に、確実に、知っている。

あいつが、一緒に暮らしてないときでも今でも、どんなときでも結局最後は俺のことを気遣う性格は、絶対に知ってたじゃないか。

「ああくそ!」
叫んで跡部は勢いよく立ち上がると、頬をばちんと叩いた。
冷たい頬にぴりぴりした刺激が伝わる。ちょうどいい罰だ。ちょっとでも、自分と千石を疑った罰。
くそ、余計なことを考えるのはやめだ。
俺が知ってる千石を、喧嘩しているときに何だかおかしいとは思うが、信じてみようと思った。
『寒いから』
なんて理由で、自ら出て行く奴が、いるだろうか。
暮らす前でも今でも、どんなときでも結局最後は俺のことを気遣う性格は変わらなかった。
それは、信じよう。それを信じる。
でも。
謝るか謝らないか、喧嘩のことは別だ。
心配はするし、千石が俺のことを思ってるのも知ってるけれど、くそ、千石のことなんか知るか。
何で俺がお前のことでこんなに悩まないといけねえんだバーカ!
帰ってきたっていいけど、帰ってくんなバーカ!
自分でも矛盾しているとは思ったが、跡部は、短く息を吐いて気合を入れると、洗濯でもするか、とわざわざ声に出して、千石なんか知らないフリをするために、大きく頷いた。



「……せっけんがねえ」
大きく決心して行動を起こし始めたのはいいものの、最初の一歩で跡部はつまづいた。
洗濯は基本、交代制で、それが無理なときは時間がある方がやることになっていたが、跡部はお気に入りのシャツやら、自分で洗わないと気がすまないものは別に分けている。
千石はそういったこと気にすることはなく、何でも洗濯機へ放り込む。
型崩れも気にせずシャツさえ普通の洗濯ものと一緒に入れてしまうから、運良く跡部がそれに気づけば、千石に注意したり、わざわざ次のときに洗ってやるようにしていた。
いやあ別に一緒に洗ったってかわんないって、跡部がしかめっ面で千石のシャツを探し当てるたびに、千石は笑って言う。
そのことで口喧嘩もしたことあったな。
そのときはどうやって仲直りしたんだったか、跡部は記憶は手繰り寄せたが思い出せなかった。
さて、シャツだ。
手にしていたシャツに意識を戻す。
一枚の、青の細いストライプ柄のシャツ。
料理したときについたんだったか、袖口にソースのような茶色のシミが出来ていて、ついたときにすぐに洗ったのだが、まだうっすらと残っている。
後できちんと手洗いしようと思って除けておいたものだ。
そして今洗面台まで持ってきていざ、というときに、せっけんが見当たらないのだ。
いつも洗面台の端、せっけん入れに収まっているはずの四角いせっけんがない。
この間跡部が見かけたときに結構小さくなっていたのだから、千石が何かのときに使って切らせたのだろう。自分は最近使った記憶がない。
小さく舌打つ。
あいつ、帰ってきたら絶対文句言ってやる。何でもやりっぱなしにしやがって。
と、苦々しく心の中で呟きつつ、何言ってんだ帰ってこなくていいんだよ、と付け足す。
ああもうぐちゃぐちゃだ。
跡部は気を取り直して、洗面台の下の戸棚を開けた。続いて回れ右をして、台所の流し台の戸棚に、引き出しを確認した。
ぱたん。
最後の戸棚を閉めたところで、跡部はシャツを抱えたまま腕を組んだ。
非常に、困った。
些細な、いや今まで些細なことだと気にしてなかっただけだ。これはきわめて重要な問題だ。
こうして生活していくにはあまりに重大な問題に、初めて跡部は気づく。
人間はどこから来てどこへ行くのか、そんな無駄に高尚な問いよりこれを考えてみるべきだった。

俺は、今までせっけんがどこから来るなんて、考えてみたこともなかったのだ。

じゃあ誰がいつ買ってくるのか用意してるのか。答えは、ひとつ。
千石清純。
そうだ、そう、思い出した。
千石が実家から分けてもらうか、安いのを見つけて買いだめしたって前に言ってたことが。
「……ああもう、」
ついてねえ、そう頭をかきながら呟くと、跡部はシャツを置いておいた場所へ戻した。
そして、立ち止まって何か考え込んでいた様子だったが、コートを素早く着込むとソファの脇にあったバッグから財布を取り出した。
せっけんがないというだけで、自分の予定が狂わされるのも何だかシャクだ。
なんとなく後に引けない気持ちにせっつっかれて、跡部は靴を履き、玄関先に降りた。
かつ、とつま先に小さな固いものが当たる。
ん、と気づいて足元を見ると、すっかり忘れていた、鍵だった。
じっと見下ろす。
腰をかがめて、ガラスに触れるように一度指を伸ばして、やっと掴み上げた。
くそったれ、しょうがねえから雑誌の件はちゃらにしてやる。
そんなことを思いつつ、跡部は家を後にした。


千石の鍵を使ってドアに鍵をかける。自分のは財布の中に入っている。帰ってくるときはそれを使えばいい。
アパートの3階の一室が跡部と千石の住まいだ。小さなアパートだからエレベーターなどない。
外階段を駆け下りる。伝って上ってくる冷たい冬の風が跡部の頬を叩く。
マフラーをしてくれば良かった。
思いついたときにはもう1階へ続く踊り場で、戻る気にはならなかった。
出て行った千石のことをほんの少し思う。
そう遠くない寒い冬の夜の下にいるのだろうかあいつも。
どんな格好してたっけ。帰ってきたばかりだから、多分、コートもマフラーもつけてるはず。
なら、まだいいか。
どことなく安心して、跡部は1階へ降り立った。郵便受けの前を通りかかる。そうして握り締めた鍵を302号室の中に入れた。
万一あいつが帰ってきたとき、これなら気づくだろう。
入れる手段も残さず出てくのは、この寒空の下待たせるのは、あまりにも酷だと跡部は思った。
そして郵便受けを見つめたまま逡巡した末、結局左のポケットから携帯電話を取り出した。
新規メール作成を選択して、簡潔に用件を打ち込み、送信する。その後、電源を切ってポケットの奥に仕舞いこむ。
送った内容はたった一言、「鍵は郵便受け」、送信先はもちろん千石だった。
どこか不本意そうな表情で長く息を吐いた跡部は、足早にアパートのエントランスを出た。
街灯の光がぽつりぽつりと寂しく暗い通りを照らす。
ふと、出てきたアパートの、自分たちが住む一室を見上げると、カーテンの色が透けオレンジ色に染まる窓が見えた。
見慣れた、風景だった。
いつのまにか当たり前になっていた、一枚の絵のようなものだった。
あの光が、待ってくれている人がいる存在を証明する、そのものだった。
そこでようやく跡部は、自分らしくなく電気を消し忘れたことに気づいたが、それもこれもあいつのせいだと、千石のせいにすることで自分に弁解すると、冷たい風に首をすくめて、駅前の方へ足を急がせた。


 * * *


本当は、たったひとつだなんて、思ってなんかいない。

俺もあいつも、生まれた場所があって育った場所があって、お互い知ってる友人もいて知らない友人もいて、そういうのが当たり前に近く、在ることを、幸せなことだって思う。
なのに、
絶対破られない約束なんかじゃないって、知ってるのに、保証だって、ましてや実際お前と口で交わしたわけでもないのに、それを信じている。

あの灯りと、ちょっと情けない笑顔、お前の存在をそこに重ねて。



198円。

「……高いっつうの」
小さな袋をぶら下げて、まだ夕飯の買い物で賑わうスーパーから出てきた跡部は仏頂面だった。
手の中で握りつぶしたレシートを開いてみる。
どう見ても、ひとつ、198円だ。
店員に尋ねたのがそもそも運の尽きだったと、ため息をつく。
せっけんなど買ったことのなかった跡部は、スーパーで売っているのさえ見かけたことがなく、正確には、気にも留めていなかったせいで見落としていたのだろうが、どこに並んでいるのか分からず、手っ取り早くと、その場所を店員に訊いた。
洗濯に使うせっけん、液体でなくて、固形のものを、と尋ねた跡部を、中年女性のパートと思われる店員は、とりあえず跡部を下から上まで一通り見やった。
性差別だと思わなくもないが、自分が男であり、歳の若いこともあったせいだろう。
やや間があって、その店員は跡部を眺め終えると、ようやくその不思議そうな表情を引っ込めて、営業スマイルに戻すと、こちらです、とようやく案内してくれた。
……せっけん、だから、そうか。
案内された棚を目の前に、跡部は、今更ながら納得する。
液体の洗濯洗剤が並ぶ棚の一番端っこ、追いやられた本当に小さなスペースに固形洗濯せっけんはあった。
たった1種類、バラ売り1個と10個セットのものが並んでいるが、セットになったところで一つあたりの値段が安くなっているわけではない。
「これだけ、ですか」
跡部が商品を指差し、振り返りながら尋ねると、店員は少し困ったようなこの年齢特有の人の良さそうな笑みを浮かべ、
「はい、そうなんですよ〜 当店ではこちらしか扱っておりませんで、申し訳ありません」
と、首をかしげながら軽く頭を下げた。
そんな店員をちらりと見やり、跡部は棚に収まる商品に視線を戻す。
高いな、と思った。
こんな小さなものが、198円。いつもならお金をかけないものが、この値段だ。
液体の洗濯洗剤、詰め替え用だって、安くなれば200円程度で買える。
いやそもそも今欲しいのは固形のせっけんなのだから、比べる意味などないのだけれど。
でも、高い。
正直、気持ち8割は買いたくなかったのだけれど、わざわざ寒い中ここまで来た当初の目的と、
今横にいる店員にここまで案内してもらったということもあり、そして何より、何故か、自分がそのせっけんを手に取るまで見届けるぞといった様子で、にこにこと傍に立っている店員の視線に負け、手に取ってしまったのだった。
会計も済んでいないのに、ありがとうございました〜と会釈して行ってしまった店員に、跡部は愛想笑いを返し、せっけんを手の中でもてあそんだ。
結局それから、たったひとつのせっけんを引っ掴んでレジに行くのも、なんだか格好がつかないと思い、半額になった刺身をひとつ、夕食のおかずに1品足すかと刺身コーナーへ寄った。
ここの刺身はなかなか美味しいと千石が言ってたな。
カゴも使わずそのまま手にした、たまに千石が買って帰ってきたのと同じ中トロのパックと、せっけんに目を落とす。
普通のせっけんの場所を聞けばよかったか、そんなことをちらっと頭が過ぎったが、多分これと大して値段は変わらないだろう、そんなふうに思いなおして、レジに並んだのだった。
レシートを見ながら、スーパーでの出来事を思い返していた跡部は、顔を上げると、またぐしゃぐしゃとレシートを丸め、ビニール袋に放り込んだ。
刺身は、半額でさんきゅっぱ。ま、いつもより少々高い刺身を買ったと思えばいい。
袋の取っ手を手首にくぐらせ、跡部はコートのポケットに両手を突っ込み、背をほんの少しかがめて歩く。
マフラーをしていない跡部の頬に、夜の冷えた風が遠慮なく吹き付ける。
通りを歩く主婦も会社員も、学生も、皆、風が吹くたびに、同じような姿勢をとって歩いていた。
ちらちらと、通り過ぎてゆく人々に目がいく。
少し前を行く、黒のダウンジャケットを着た人の姿が視界に入って、とっさに跡部は口を開きかけた。
がしかし、すぐに跡部は目を逸らし、一瞬だけ、眉をしかめる。
何気ない動作で顔が窺えたそのダウンジャケットの男は、背格好と見逃し難いオレンジの髪だけはよく似た、見ず知らずの赤の他人だった。
跡部は早足でその男を追い抜かし、交差点にさしかかったところで、足を止めた。
身をすぼめて、青信号になるのを待つ。
隣に、夕飯の買い物帰りと思われるの母親と男の子が並んだ。男の子は、コートにマフラー、帽子、手袋と完全防備だ。
それでも手袋をはめた手をこすり合わせて、寒いねと母親の顔を窺うように見上げている。今日はあったかいもの作るからね、と返した母親とのやりとりを横目で見ながら、跡部はそっと笑みを零した。
交差点を忙しくテールランプの光りが走っていく。
オレンジと赤のその光りが、目立つような時間になると、なんとなく家に帰る時間なんだなと思うのは自分だけだろうか。
ふと、交差点の中央付近で、ウィンカーを出し、跡部の右側にある路地へ左折しようとしている車に目をとめた。
夕暮れの暗さでもよく分かる、綺麗に磨かれたまるで黒鍵のような車だ。
……あいつ、財布持ってんだよな。
跡部はどこか釈然としない気持ちも抱えつつ、遠回りなんだよな、と口の中で呟くと、青に変わったと同時に横断歩道を駆け出した。


跡部が寄ったのはアパートから少し離れたところにある駐車場だ。
そこに先月二人でお金を出し合って買った、黒のワーゲンがある。
いつも12台ほどとまっているそこは、今は半分ほど出払っていてなかった。
黒のワーゲンは、先日跡部がとめたまま、ほんの少し左に斜めに曲がった形でスペースに収まっている。
なんだ、使わなかったのか。
どことなく安心した気持ちで跡部は車に近づく。暗い車内を、それでも身をかがめて覗く。中も何も変わったところはない。
冬の車内で寒さをやり過ごしているとは思わなかったのだが(今日のこの気温では凍え死ぬことは確実だ)、
もしかしたら車を使ったかもしれないと考えたのだった。
鍵も持ってることだし。
千石はいつも財布に車のキーを入れている。バッグも持って出て行ったのだから、それこそ、行こうと思えばどんな手段で、どこにだって行けるわけだ。
跡部は姿勢を戻すと、ぐるりと駐車場を見渡し、隅の、2台車が残っている方へ歩いていった。
ひょいと、シルバーの車の陰を覗く。つぶれた空き缶がひとつ転がっていた。すきま風に揺られて、ころころと小さな音を立てている。
無造作に、頭をかく。
そんなところにいるはずがないと分かっているのに、何やってるんだ、と自分でも思った。
ただせっけんを買いに出ただけだというのに、街往く人々の顔が気になって、遠回りして駐車場まで来て、物影まで見やって。
自分は、千石を探しに出てきたわけではないのに。

…………、帰ろう。

今度こそ真っ直ぐ帰ろうと心に決める。
そうしないと今度は公園のゴミ箱の中でさえ覗いてしまいそうだ、と少し大げさなことを考えた。それだけは勘弁したい。
軽くため息をつきながら跡部が踵を返すと、シルバーの車のヘッドライト付近の脇に、30代ぐらいの見知らぬ男が不審な表情を浮かべて立っていた。
跡部は、瞬きして、自分が他所様の車の横にいたことに気づくと、何か言われないうちにその横をそそくさとすり抜け、慌てそうになるのを抑えながら、小走り気味に駐車場を左に出た。
少し行ったところで、右折する場所にさしかかり、曲がるついでに視線を来た道に滑らせると、先ほどのシルバーの車がちょうど駐車場を出たところで、跡部とは反対の方へ走っていった。
その後姿を認めて、安心したように跡部は息をついた。
遠回りになるといっても、駐車場から家までは5分程度で着く。
住宅街を歩いていると、時折ぽつぽつと会社帰りだと思われるスーツ姿のまとまりとすれ違った。同じ電車だったのだろうか。
夕飯のいい匂いがふと鼻先をかすめていく。
深い濃紺の夜空に、給湯器から出る湯気の白が映える。白いインクを吹き付けたみたいだった。
住宅街を抜けると、小さな児童公園が右手に見えた。
視線を向けただけで、跡部はそのまま行き過ぎる。と、公園の出入り口を2、3歩過ぎたところで、不自然なステップをふむようにして、結局引き返し、たたたと公園に駆け込んだ。
小さな公園だから、視線を一巡させるだけで全体が見渡せる。遊具にも、ベンチにも、誰もいない。
跡部は、斜めに突っ切って公園を出ると、呆れたふうに、自分の頬をグーでぺちっとパンチしてみた。
「……何、そんなに心配してるんだ、俺」
とぼとぼと歩きながら、目を伏せ、声だと判別できないくらい小さく、俯き加減に呟く。
千石だって子供ではないのだ。
着の身着のまま出て行ったわけではなく、携帯電話だって持っているし、お金も持っている。
あの性格のおかげか、友人だってたくさんいる。実家にだって、電車を乗り継げばすぐに帰れる。
宿無しになることはないのだ。
こんな寒い冬の夜を、一人で過ごす理由も要因もどこにもない。
寒さと孤独をやり過ごす場所は、他にもある。

この家じゃなくったって。

足を、止めた。黄色に沈んだ蛍光灯の光が、横から足元に伸びてきていた。
顔を上げ、その先を辿ると、見慣れたアパートのエントランスが目に入る。当たり前だが出てきたときと何の変わりもない。
そんなもんだよな。
なんとなく気が抜けて、跡部は三階をふと見上げた。跡部と千石が住む302号室は、右端から二番目になる。


「…………は」


間違えた?
と、一瞬跡部は考えた。
後ずさって、敷地の出入り口にあるアパート名を確認した。ばっちり、記憶している名前と一致する。
そしてエントランスを始め、建物の外観を確認した。やっぱり、先ほどまで平穏に千石と暮らしていた、あのアパートだ。
間違いない、はずなのに。
もう一度3階を見上げる。ポケットから手を出し、人差し指を立てて右端から二番目を数え確認する。
何回数えても、二番目は二番目。
手を落とす。跡部は、薄く開けていた口を、奥歯をぎゅっと噛み締めるようにして閉じた。
鼓動がどきり、と耳の奥に響く。
ふと、こうして家に帰ってくるときのくせで、見上げれば、いつもと同じ見慣れた自分たちの家が出迎えてくれるはずだった。
それが、なかった。
見知らぬ、他人の家を見上げているような気分だった。
まさか、なくなったのか?
そんな、ミステリ小説のようなことが実際現実に起きるはずがないと思っていても、心は落ち着かない。
大きく息を吸い込み、一歩踏み込んで、エントランスへの階段も飛び越し、郵便受けを覗いた。
一瞬、目を見開くようにする。
左のポケットを探って財布取り出しながら、そのまま階段を三段飛ばしで駆け上がっていく。

郵便受けに落とした鍵は、なかった。



「千石?!」
「うわあ!……あ、跡部くん?!」
焦っていつもより少々手間取った末、勢いよく開けた扉の向こうには、出てくるときと何の変わりもない部屋の様子がそこにあった。
そして、玄関のすぐ横、小さな台所の前には、エプロンをつけようとしていた千石が、突然飛び込んできた跡部に驚いた様子で立っている。
千石は、ドアの取ってを掴んだまま固まった跡部に表情を崩すと、苦笑いに似た顔で、やや言葉につまりながら、びっくりしたあ、と言った。
「そんな勢いよく、へ? ……わっ、ど、どうしたの?」
靴を脱ぎ捨てた跡部が、手にしていた財布もビニール袋もその場に放り投げ、大股に歩み寄り千石に抱きついた。
首に手を回して、その身を寄せる。やがて、ゆっくりと扉が閉まる音がした。
か、ちゃり。
千石は、状況が飲み込めずなすがままにされていたが、その音が止むと、跡部の背に手を回した。
「……跡部くん、さっきはさ、ご」
「千石」
強い調子で跡部は千石の言葉の先を遮る。
そして、少し間を空けて、蚊の鳴くような、こうして身を寄せていないと分からないくらい小さな、頼りない声で、


もう、帰ってこないかと思った。


と告げた。
それを訊いた千石は、跡部の背後に転がる、中身のちらばった財布と、放り投げられたときに何か潰れるような音がした袋を眺めて、どうして、と優しく尋ねた。
「何で、そんなこと思うの。ここは、俺の家だもん。帰ってくるよ」
「……、そうだけど」
その声はまだ頼りなかった。
「家を、間違えたかと思ったんだよ」
「へ? どうして?」
「窓の、灯り。いつもの、オレンジ色じゃなくて、」
「あっ、そ、それ俺! ご、ごめん!」
「はあ?」
がばっと、千石が跡部を引き剥がして、慌てて謝った。そうして視線を窓にやる。
跡部もつられて見ると、窓には綺麗なスカイブルーのカーテンがかかっていた。
窓の脇には、外されたオレンジ色の布地が畳んで置いてある。
その状態から何故自分が勘違いしたか、跡部はすぐに分かった。
カーテンの色、だ。
今窓にかかっているスカイブルーのカーテンのせいで、見慣れたオレンジ色でなく、窓は薄い青色に染まっていたのだ。
あのね、と切り出しづらそうに話し始めようとする千石の声も遠く、冷静に考えれば処々の事態が予想できたわけだが、それでも、こんなときに紛らわしい真似しなくてもと、跡部は怒りの一言をぶつけてやろうかと思った。
けれど、その新しいカーテンに覚えがあって、ふと記憶を辿る。
「覚えてるかな。前にさ、ほら、駅前の店で見たでしょ二人で」
千石の言葉に引き戻されて、跡部は思い出し、千石と目を合わせた。
にこ、と千石は笑う。
「跡部くんあれ気に入ってさ、ラグの色と合うからって。でも結構高くて諦めたじゃん」
それが今日安くなっててね、と千石は話した。
家を飛び出した千石は、駅ビルや駅前近くの比較的大きな百貨店をうろうろして、寒さから逃れていたらしい。
そして偶然、先日跡部と二人で寄った店に入ったところ、セールになっているカーテンを見つけたとのことだった。
持ち合わせもあったし、買っちゃったよ。
いたずらっぽく言った千石に、跡部も少しだけ笑う。
「それで店出てぶらぶらしてるとこに、跡部くんからメールが来て、
……俺の方こそ、なんか心配になって帰ってきたんだからね」
最後、少し唇を噛みしめたように言った千石が今度は跡部を引き寄せて、首に手を回し、抱きしめる。
「鍵は郵便受け、だなんて短い一文だけ寄越して、メールしても返信来ないし、電話しても繋がらないし、
俺だって、もう、跡部くん、帰ってこないのかと思った」
ぎゅうっと力を込められた腕から温もりが伝わる。跡部は、千石の背を何度か優しくさすった。
「……悪かった。ごめん」
「ううん、俺も、ごめん。カーテン勝手に代えちゃって」
千石の腕の中で微かに跡部は首を横に振る。
それは、もういい。
呟くように言ってもう一度、もういいんだ、と言った。
「一瞬な、帰る場所がなくなったかと思ったんだ一瞬。俺は、今は、いろいろと行く場所はあっても、実家だってあっても、ここが一番に帰る場所だって思いつく。……俺は、」
一回そこで言葉を切る。跡部の望んだ答えはすぐに返ってきた。
「俺だって、そうだよ」
耳のそばでささやかれる言葉が、吐息のせいだけでなく、くすぐったかった。
しばし静かな時間が訪れた。二人とも何か言葉を探し当て、戸惑っているような微妙な空気が流れる。
口を先に開いたのは千石だった。
「……、ごめんねー」
「あ、何でお前が先に謝るんだよ」
「え! 何で俺潔く謝って怒られるの」
「……今度こそ俺が先だと思ったのに」
「あははそれか」
「……、ごめん」
「うん」
千石が、首に回していた手を背中に回した。こくりと頷いた千石の顎が、跡部の肩に触れる。コート越しにも人肌は温かかった。
そ、と跡部は足をわずかに動かした。足の先に何かまとわりつくものがあって、頭を動かす。
千石が腕の力を緩めた。くっつけた身体の間を空け、二人で足元を見下ろすと、千石が取り落としたエプロンが落ちていた。
「あ、そうそう、夕飯の用意しようかなって思ってたんだ」
家にあるもので適当に作るけど、それでいい?
拾い上げながら千石が言った。
ああ、と短く跡部は返事をし、千石が身体を起こしてエプロンを首にかけたところで、千石の肩に手をかけ、
背伸びするようにして耳の後ろの骨に食むような口付けを落とした。
そして、
「ただいま」
と言うと、何事もなかったかのように、ああ小銭が、とぼそりと独り言をもらして財布と、ばらまいた硬貨を拾い始めた。
千石はこっそりと喉の奥の鳴らして笑い、おかえりと投げかけると、放っておかれたビニール袋を拾った。
中をのぞくと、せっけんと、それがぶつかってへこんだ刺身のパックが入っていて、千石は首をかしげる。
「ね、跡部くん、何でこの組み合わせなの?」
笑いを含んだ声に、ん、と振り向いた跡部は、千石の手元を見やり、そういえばと自分が出かけた目的やその経緯を思い出すと、少し目を泳がせて、何とも言えない複雑な表情をし、
「……後で説明してやる」
と告げ、せっけんって意外に高いんだなと独り言のように言って居間に入っていった。
え、そうなの、と呑気な千石の声と、がさがさとビニール袋を開ける音が背後に聞こえ、跡部は、夕飯の後にでも話してやるか、と思った。
あいつは笑うかもしれない、そんなことを考えて、千石の情けない笑顔を思い描き、跡部は口の端をわずかに緩める。
あのときは、ほんと結構本気だったんだけどな。
……そういうことも、話してやろうか、と思う。
お前のことを何度考えたか分からない、ケンカの後の話を。

せっけんがどこから来るかなんて初めて考えた、独りのときの話を。


fin.
……とっても生活感満載な感じだな!(笑顔)と、何度読み返してみても思います。
や、でも、刺身ってせめて100円引きくらいになってないと買う気になれないじゃないですか!(力説)
跡部には悪いですが、198円の洗濯せっけんは私は買いません。詰め替え用を買いなさい。
えーと、ほんとはそんな生活感を一番に書きたかったわけではなく(笑)(でも書きたいところではありました。)、当たり前のこととしてではなく、帰る家があるということと、ふとしたときに実感してしまう、失くしたものの存在について、そのふたつが書きたかったのでした。
跡部は、幸せです。カーテンは違っていたけれど、でも、見上げたらちゃんと灯りがついていたんだもの。
千石も、幸せです。知らないだろうけれど、何度跡部は君の事を思い出したか。
帰る家がないっていうのは、その家に二度と灯りがともらないのを実感したときなんだな、と思います。
たまに、買わなければならなくなったせっけんや、ポケットティッシュを見て、そのことを思い出すことがある。
同じ灯りがともってないことはとうに分かっているのだけれど、違うカーテンがかかってたら、それはそれできっと泣きたくなるから、もう何年もそこを訪れることが出来ない。
そういう思いを、いつか彼らもするんだろう、と思います。
でもだからこそ、今帰る場所があることや、それが絶対的なものじゃないこと、人が待っていることの温かさ、失くすかもしれない不安を、覚えていてほしいな。
当たり前じゃない、って、どんなに辛く、幸せなことだろう。
そうそう、ケンカの原因ですが、特に作中では触れてないのですけど、多分ほんと下らないことだと思います。(笑)
この間俺が風呂掃除したとかしないとか、片付けろよ分かってるよみたいな、売り言葉に買い言葉、痴話げんかって言ってもいいかもしれない。

6000Hit、藍川そらこ様からのリクでした! ありがとうございました〜

2005.2.13
This fanfiction is written by chiaki.