家に童話全集なんてものがあった。
幼い頃、親が俺へ買い与えたもので、とりあえず一通り読んだ記憶がある。
童話は嫌いじゃなかった。
人生を簡潔に表したかのようで、嫌いじゃなかった。
人生の愚かさを、喜びを悲しみを、極端に表したかのようで、興味深いものだと思った。
例えば恋の話、シンデレラや白雪姫、眠りの森の美女、
ああいった白馬の王子様が迎えに来る、というような、女性が憧れる理想の恋の話は、
上手くいきすぎだと鼻で笑いたい気持ちもあるけれど、本質は、これに近いのではないだろうか、と最近は思う。
理想の恋、を決してしているわけではないけれど。
白馬の王子を待っているわけでもないけれど。
めためたになるこの心と、その、遺伝子に記憶された想いは、本物なんだろう。
まるで舞踏会のように騒がしく、人でごった返している駅前にもかかわらず、オレンジ色の頭はとても目を引く。
カーキ色のカーゴパンツに、鮮やかなブルーのTシャツという服装に見覚えもあった。
王子がシンデレラを見初めたその理由は、もしかしたら髪の色がとても派手だったからじゃないだろうか、
とそんなことを跡部は思う。
自分から声をかける前に、そのオレンジ頭がこちらに気づいて手を振ってきた。
ここだよ、と声には出さず、口だけ動かして呼びかけてきたので、跡部も同じように、知ってるよ、と笑う。
するとオレンジ色の髪の主、もとい待ち合わせ相手の千石が、待ちきれなくなったのか、ゆっくりと歩く跡部に駆け寄った。
「久しぶりだね〜会うの」
「そうか」
「そうだよ。三日前だからね最後に会ったの」
「たかだか三日じゃねえか」
・・・なんて、言えたもんじゃねえよな。
お互い地区大会が近いということで、なんとなしに会うのを控えよういう雰囲気になり、随分会わなかったつもりでいたのだが、三日後にもう約束を取り付けていた自分たちに、跡部は内心苦笑いをした。
今日は唯一部活が休みである日曜日で、お互い最近出かけていなかったから、とりあえず街をぶらぶらしようということで落ち着く。
「疲れたら、言って。俺は結構疲れ知らずだからいいんだけど、
跡部くんは、あんなたっくさん人がいる部活まとめてるんだし、俺より疲れてるはずだからさ。
だから、言って、ね」
千石は、歩き出した跡部を覗き込むようにして言い、
にっこり笑って、疲れたら俺んちに来てもいいし、と付け足す。
その言葉に跡部は一度だけ目を瞬き、そんなにヤワじゃねえよ、とだけ答えおいた。
そして千石より数歩先に出ると、
「俺靴欲しいんだよ。お前見立てろ」
と、その綺麗な双眸で千石を惹きつけた。
「勿論」
上機嫌な千石が、跡部の瞳に映った。
跡部の買い物は意外に時間をかけずに終わった。
いつも行くショップで、千石が見立てたものがすぐに気に入ったからだ。
二つの候補の前で少し迷いったが、人差し指で顎を撫でつつ眺めていた跡部に、
「どっちも跡部くんには似合うけど、今穿いているグレーのジーンズにはこっちのが合うと思うな」
と千石が言ったのが決め手で、革の質感と色が好みの、ダークブラウンのローファーを選んだ。
つま先の型がスクエアタイプで、ステッチがグレーで取られている点も洒落ている。
アーミーブーツを思わせる、ごつごつしたソールのデザインもなかなかに良い。
買い物に満足して店を出ると、千石は一瞬指を絡めるようにして、跡部の手から靴の入った紙袋を受け取った。
「・・・なんだよ」
「持つよ」
そう言って、跡部の手の届かない方に持ちかえる。
表情を崩して跡部はいたずらっぽい表情をする千石を見やった。
千石はいつもそうだった。荷物を持ったり、気を遣うのを忘れない。
さっと、跡部は持ち替えた手の方に回り込むと、紙袋を取り返した。
「甘やかされてるみたいで嫌だって言っただろ」
「だから、俺にくらいめちゃくちゃ甘えてよって答えたじゃん〜」
「たまになら、って、それには返したはずだ」
と答えると、千石は少し釈然としない様子で、そうだけど、と呟いた。
そうして当て所もなく、休日で人通りの多い交差点を歩いていると、聞き覚えのない声が二人を呼び止めた。
お互いに、自分の知り合いではないとすぐに分かったので、最初はその声を無視したのだが、
二回目もこちらの方に向けて、すいませーん、と声がかけられたので、
跡部と千石は一度顔を見合わせて、どちらの知り合いでもないことを目で確認すると、後ろを振り返った。
自分たちと同年代あるいは高校生くらいの、女の子が二人、立っている。
またか、と跡部は心の中でため息をついた。
自分の容姿が人より優れていることを、自分に酔うわけではけっしてなく、跡部は自覚している。
今までも何度もこういうことはあったし、こうやって声をかけてくる女の子の眼は同じだ。
ちらりと、千石を窺う。
特に二人で街にいると声をかけられることは多い。二対二なら、声もかけやすいということなのだろうか。
それに、惚れた贔屓目で見なくても、千石も容姿は悪いわけではないし、何より見た目からして明るそうに見えるのだろうと思う。
一緒にいて楽しそう、と思われるタイプと言えばいいのか。
そんなことを考えていると、髪の長い、目の大きい女の子が跡部を見て口を開いた。
「ごめんなさーい、いきなり声かけちゃって〜」
「二人ともかっこいいなって思って〜!」
ショートの女の子が胸の前で、指を組み合わせたり外したりして、にこにこと笑う。ね、と二人で顔を見合わせてまた笑った。
愛想笑い云々の前に、特に何の表情も作らない跡部に対し、千石はいつもの穏やかな微笑みをたたえ、
「ははは、ありがとう。で、何か用ですか?」
と慣れたようにあしらった。
女の子は、えーと、と可愛らしく小首を傾げると、
「良かったらこれから一緒しませんかぁ〜?」
とやたら語尾の伸びる口調で言った。私たちヒマしてたんですよう、と今度は長い髪の子が付け加える。
やっぱり、と跡部は思う。今度は横を向いて小さめに息を吐いた。
自分の容姿のことも、よく見られることも、よく分かっているつもりだが、こうも毎回同じ文句を聞くと少しうんざりする。
そんな跡部の様子を千石は覗くように見やり、それにつられて跡部の方を見た女の子たちに声をかけると、
とどめとばかりに笑顔を満開にさせて、
「ごめん、恋人とデートなんだ」
と言い切った。
跡部はぎょっとして目を見開き、変な声を発しそうになったが、その前に、
「そうなんですか〜 これから待ち合わせだったんですねー」
「わー残念!」
と女の子が勝手な解釈をしたのを聞いて、ほっと胸をなでおろした。
そして名残おしそうにする女の子たちに見向きもせず、じゃあと言って歩き出した千石を、跡部は追いかけた。
「おい、」
腕を掴んで、こちらを向かせるように引っ張る。
「何〜」
「何、じゃねえ。
お前な、変な物言いするなよ。あっちが勝手に勘違いしたから良かったけど」
きょとんとした瞳を跡部は睨む。すると千石は少し目尻を下げて、どことなく寂しそうに笑った。
「えー勘違いされたのか。残念」
は?、と跡部が聞き返すまもなく、千石はまた跡部の手を撫でるようにして紙袋を奪う。
「だってデートでしょこれ」
違うの、と確認するように見つめられ、跡部は戸惑って少し歩くスピードを落とした。
「・・・お前そういういこと、真顔で言うんじゃねえよ」
わずかに顔を赤くさせてようやく返す。
千石は鮮やかに笑って返し、次はどこ行こうか、と髪を揺らした。
それから一時間ほどうろうろしただろうか、少し早い時間だったけれど引き上げようということになった。
時刻は四時前、一向に人の減る気配のない駅前の人込みをすり抜けて、駅へと向かう。
ここへは二人とも電車で来ていた。この時間はどちらかというと上り線がラッシュで、乗り込んだ下り線はあまり混んでいない。
扉付近の端に寄り、他愛もない話をする。
学校が違う二人は、会えばこういった話が尽きることはない。
同じだったならわざわざ話す必要もないことも、相手の日常を知る特別なひとときと言えた。
千石は跡部より三つ手前の駅で降りる。その駅名を車掌が事務的に繰り返した。
会話を中断して、無意識に揃って車内の案内表示板を見上げる。
「それじゃあ、また、今度ね」
「ああまたな」
電車がゆっくりとスピードを落としていくのを感じつつ、顔を見合わせる。そのまましばらく見つめ合った。
「・・・・・・何だよ」
先に口を聞いたのは跡部だ。
「ん、別に」
つっかかるような跡部の口調に千石は何でもないように笑った。
電車が停止する。
その駅は降りる者も、乗る者も少ない。
二人がいたところからは、千石一人がホームへ降り立った。
「じゃあね跡部くん。また連絡入れるから」
「バーカ。当分入れられない、の間違いだろ」
と、跡部はからかうように笑った。千石もそうだね、と同じような顔をした。
なかなか扉が閉まらない。時間調整でもしているのだろう。
その間を埋めるように、またね、と再び千石が微笑んだので、跡部は頷いて返した。
ようやく、発車ベルが響き渡る。
飛び降りたらどうなるだろう、と一瞬跡部は思った。
千石が背を向けずにそのままホームで待っているのも、それを待っているんじゃないだろうかと。
そもそも、奥へ引っ込んでしまうことだって出来るのに、そうしない自分もいる。
どうしてだろう、なんて。
ドアが閉まった。
動き出した電車の先の方を見つめて千石は呟いた。
「行っちゃった、」
そして楽しそうに、去りゆく電車を背景に佇む跡部を見た。
「いいの、降りちゃって」
「・・・お前が降りてほしそうな顔してたからな」
少し迷った様子を見せながら、困ったような顔し跡部は言った。
千石は、
「うん。当たり」
とさらりと言いのけ、誰も居なくなったホームで跡部にしか見せない顔で笑った。
当たり、はどっちだろうと、それこそ千石の笑顔に当てられて跡部は、ばかと呟くしかなかった。
千石の家には誰もいなかった。
チャイムを鳴らしても一向に出迎えのない様子に、千石は自分の鍵を取り出した。
「三人で出かけたのかな〜」
独り言のように洩らして鍵を開け、玄関へ上がる。
そして、先に部屋行っててと残して、自分はリビングの方へ消えた。
跡部は律儀におじゃましますと告げ、靴を揃えて上がりこむ。
リビングをちらっと気にしながらも、言われたとおり階段を上がって千石の部屋へ向かった。
・・・相変わらずだな。
とりあえず、いつもと同じ感想を抱く。
机の上はかろうじてノートが広げられるほどのスペースしかなく、ベッドは置きぬけのままぐちゃぐちゃだ。
その上には、出てくるときにとっかえひっかえしたのか、何着か服が無造作に投げ出されていた。
床に腰を下ろそうにも、ところどころに雑誌やら何やらが散らかっていてどうにも落ち着かない。
もう結構千石の部屋を訪れているが、綺麗だったことは一度もなかった。
まあ自分と同年代の野郎の部屋などこんなもんか、と最近跡部も諦め気味だ。
さてどうしたものか、と跡部が考えあぐねていると、
ようやく千石が麦茶の入ったグラスを二つ手にしてやってきた。
「っと、ごめん。今どかす」
ドアの近くで立ち尽くす跡部を目にして、机の上にグラスを置くと、ベッドに散らばる服を適当に畳んで端っこにまとめた。
そうして千石が机の椅子に収まったので、跡部は一応片付けられたベッドに腰かけた。
グラスを手渡される。一口飲み干すと、ひんやりと喉が潤った。
からりと、グラスと氷が響きあって音を立てる。
もう一度視線を落として、跡部はグラスを揺らしてみた。
静かな部屋にひとつ、転がり落ちる。
すると返事をするように同じ音が後を追った。
ちらっと跡部が目をやると、千石が麦茶に口をつけたところだった。
そして目が合うと微かに笑って、
「ね、その靴履いてみて」
と、跡部の足元に置かれた紙袋を引き寄せた。
膝の上に箱を乗せ、玩具の包みを開けるような顔をして、丁寧に箱を開ける千石を見、跡部は目を和らげた。
「店で履いてみせたじゃねえかよ」
「これ、すごい似合ってる。もっかい見せて」
靴を取り出すと、それを直に下へ置いたので跡部はすかさず、汚くなる、と咎めた。
渋々千石は机の上を引っ掻き回し、いらないと判断した学校のプリントを探し当てて、靴の下に敷いた。
立ち上がって、椅子を机に収め、跡部の前に跪く。
なんとなく、これから千石がやろうとしていることに気づいたが、それでも跡部は尋ねた。
「・・・・・・何やってんだよ」
「んー」
千石は曖昧な返事を寄越すと、片っぽの靴を左手で掴んで、右手を跡部の右足に伸ばした。
「どうぞ、おみ足を」
・・・・・・まったく、心拍数が上がって困る。
でも抗えず、そんな理由も見つからず、跡部は目を伏せて頷く。
どうしてこいつは、これを、ここで、言えるんだろう。
眩しすぎるほどの笑顔と、心臓を鷲掴みにする言葉の数々に俺の心はめためただ、と思う。
そして心よりももっと深く、身に染み込むようにあるそれが、その心をさらにだめにする。
奪われたままでいい、だなんて、
最後まで囚われていたいだなんて、
まるで、遺伝子に組み込まれたような想いが、心すら凌駕する。
千石は跡部を上目遣いに見上げ、素足を軽く持ち上げた。
丁寧に足を差し込ませ、滑らせる。
まるで硝子の靴のようにぴったりだった。
「やっぱり似合うね」
目尻を下げ幸せそうに笑う千石を見て、跡部は、女性がシンデレラに憧れるのがなんとなく、分かった気がした。
いやきっと世界中の人々が、最期も一緒に灰になりたいと、ちりちりに焼け焦がれた細胞の端々に思うのだろう。
灰燼に帰してもずっと一緒だと、心が願うまでもなく、細胞の端々が叫んでいる。
それは、誰の中にもあるシンデレラだ。
ふと、千石が一度上目遣をし、優しい目で跡部を見つめた。
どうやらこの状況から、跡部と似たような連想をしたようだった。
口元を綻ばせ、求めるように手を差し出す。
「このまま、俺の元に来てよ」
・・・・・・ちりりと、細胞のやけ焦がれた音がする。
シンデレラに、なりたかった。
fin.