青き有機電燈列車よ走り続け・序
「俺、ちょっと旅に出ます」

跡部がその言葉にふと顔を上げると、控えめに笑った千石が顔は正面のまま、ちらりと跡部を見やっていた。
「……旅って、どこ」
一呼吸おいて出てきた言葉は、あまり気の利いたものとは言えなかった。
千石は、跡部の問いにんーと赤く染まった空に目線を滑らせ唸り、まあ、行けるところまでかなと曖昧に返す。
跡部は返事をしなかった。千石も、それ以上何も言わなかった。
夕暮れの中を歩く。
観客も、選手たちも、もうほとんど会場に残っていなかった。
朝にはエメラルド色に眩しく輝いていた緑の並木道も、今は薄い影をまとい、タイル張りの歩道に影を落としている。
つい何時間前まで、今日この日が終わるなんてことに気づかなかったように、自分たちがここでたったひとつの高みを目指し、他のものなんて目に入らないくらいにどこまでも行こうとしていたことが、すでに思い出のようだった。
いくつかの言葉を飲み込んでようやく、跡部は口を開いた。
「いつ、行くんだ」
「ん、明日」
先ほどの問いの答えとはまったく違う、それだけはずっと前から決めていたことのように、はっきりと確信をもった答えが返ってきた。
明日。
跡部はこっそりと口の中で何度か繰り返す。
「うん。明日、行ってくるね」
跡部の呟きに返事を寄越すわけでなく、自身に言い聞かせるように千石は言った。
ゆっくりと歩いていた速度をほんの少しだけ早くする。
そのことに気づいて、跡部は足を止めた。
だんだんと離れていく背中が、見慣れたジャージ姿なのに知らない者に見えた。
あんな背中見たことがない、見せたことがない、と思う。
ふたつめの問いをしたときに、広がっていった不安が心をざわりとさせる。
どこへ行くのか。いつ行くのか。
一番聞きたいのはそんなことじゃなかった。ただ確認して、返事をもらいたかった。
焦りのようなものを感じて唾を飲み込む。
みっつめの質問はついに飲み下してしまった。
けれど、

「俺も、行く」

千石の背中を掴むように、言葉が、勝手に動いていた。



跡部の言葉に、千石は二、三歩進んで振り返った。きょとんとした表情で目を瞬く。
「へ? 行くって、跡部くんが?来るの?」
俺と?と、千石は自分を指差す。そして息を吸って吐くだけの間沈黙し、何で、と告げた。
跡部を見つめた千石の瞳は、風のない湖のように静かだった。
冷たいと感じたわけではない、責められているとも感じたわけでもなかったが、跡部は怯むまいとするように唇を少しだけ噛み締めて、ずかずかと千石に近寄った。
そして千石の右頬を摘まんで強めに伸ばす。
「いてっ」
「うるせえよ。行くったら行くんだ。俺が、旅に出ようと思ってたところなんだよ。それなのにてめえが先に言いやがって、」
「うん、分かったから、痛い痛い、いたいって跡部くんいたい〜!」
降参のポーズのように千石が両手を上げてみせたので、跡部は鼻を鳴らすようにして息を吐き、手を離した。
痛いなあもうと千石がほんの少し涙目になりながら、でも跡部を見る瞳は千石らしく優しく微笑み、伸ばされていた頬をさすっている。
似合わねえ顔してんじゃねえよ。
こっそり呟いた跡部の言葉は、形をもって千石の耳には届かなかった。え何?と尋ねた千石に跡部は首を振る。
千石の、つままなかった方の頬に左手を伸ばす。
つい先ほどの行為を思い出し、千石は身を引きながら目をつぶる。もう勘弁してよ、と小さく抗う。
跡部の指先が頬に触れる。親指と人差し指、中指で柔らかく摘ままれる。
千石は少しだけ身体に力が入り肩を揺らした。けれど跡部はそれ以上の力を込めなかった。
気がついて目を、開ける。
今度は、跡部が水を湛えたように深い双眸で千石を見つめていた。
手が離れる。
跡部は開きかけた口を一瞬そのままにして、そして言葉を継いだ。

「俺は、お前についていくんじゃねえよ。千石」

跡部の顔に射す夕陽の色が優しかった。
千石が何か返す前に跡部は歩き出した。ほら帰るぞと、ちらりと見やって言う。
その背中に目をやった後で千石はふと、会場の方に首を巡らせた。植え込みや休憩所の屋根に邪魔されてコートは見えない。
目に焼き付けておきたい、そんな感傷的なことを考えたわけではなかったが、どことなく心に引っかかるものを感じながらも、すぐに視線を外した。
跡部の後姿を見る。茶色の後ろ髪が、どうみても夕陽色にしか見えなかった。
何気なく自分の名前を読んでくれたのを思い返す。
千石はそっと微笑んで、歩調を合わせ肩を並べるために後を追った。



かちゃりとドアノブを回す音が部屋に響く。
跡部は洗いざらしの髪にタオルをのせるようにして、片手でがしがしとかきまぜながらソファにどさりと身を投げ出した。
背もたれからずるりと身体を引き下げて、だらしなく座る。
ソファの前に置かれたローテーブルさらに向こうの、電源の入れていない液晶テレビの暗い画面には普段ならしないような体勢の自分が映っている。
それを無意識に見つめながら、跡部は髪を拭く手を緩慢に動かしていた。
今日は、全国大会だった。
氷帝は準々決勝で青学に敗退した。
もともと一度は失ったと思った機会、それを開催地枠で獲得して、大会に出場出来ただけでも運が良かった。
もちろん跡部は、実力をもってしてその枠に選ばれたのだとも思っている。
そして、周りが何と言おうとも恥じない試合が出来たと思う。
後悔は、ある。
ないなんてかっこいいことは言えなかった。でも、出場できて、戦うことができて、それで良かったと思う。
山吹は2回戦で敗退した。千石の試合を見ることは出来なかった。
決勝で戦おうと話したことは、形にはならなかった。
駅のホームで別れた千石は、少し笑って、明日のことは後でメールするね、と告げた。
ローテーブルの上の携帯電話を見やる。まだメールは来ていないようだった。
身体をずり上げて、手を伸ばす。開いてみたがやっぱりメールはなかった。
画面を見ているうちに、指が動いていた。新規メール作成のボタンを押し、宛先を選び、電話帳を開く。
カチカチと名前を流し見るように送っていく。“あ”のフォルダの中に、ふたつの名前を見つけたそのとき、動きが止まった。
上と下、選択ボタンをしばし往復させて、決定ボタンに触れてみたときだった。
跡部は自嘲気味に一人笑い、クリアボタンを何回か押して待ち受け画面まで戻すと、携帯を横に放った。
どうして今日、このときに自分の手が動いたのか、考えると跡部は苦々しかった。
両親に、テニスの試合結果のことでメールをしたことなどない。
そもそも、テニスの話を親としたことなどないに等しい。
今まで一回もそんな報告のしたことのない自分が、一体どんな言葉で語るというのだろう。
悔しいとか、そんなことを話したいのでもないし、励ましがほしいわけでもないのに、慰めが、ほしいわけではないのに。
……違うのか。
そこで跡部ぽつりと思う。
しんとした部屋の静けさが、すっと耳の奥に入り込み、音にならない音として降り積もる。
心が、平らになったような気がした。
そうか、と跡部は軽く笑った。
結局自分が滅多にしないメールを両親へ送ろうと思ったのは、それこそ自分自身その感情を滅多に感じることのない自分が、一番安全圏だと判断した鈍感な両親へ、気づかれることなく懺悔をきいてもらおうとしただけの話だ。
返事なんて返ってこない。
そう分かっていても、もし返ってきたら、そう期待する自分がいて、それがどんなにそっけないものだとしても、
自分は、何がしかの言葉が返ってきたことに安堵しただろう。
勝手な懺悔の告白に、勝手に解釈した許しをもらったことで。
何てバカらしい。
口を卑屈に歪めると、引き締まった腹筋がくつくつと揺れた。声を出して笑おうとは思わなかった。
そんな行動を起こすのすら、惜しい。それほどに下らない、と跡部は思う。
ずずず、とわずかな振動がソファに伝わる。
息を吸い込んで笑いを収め首を傾けると、先ほど放った携帯電話の背面ディスプレイがちかちかとオレンジ色に瞬いているのを見た。
跡部は気づいたように目をみはると、急いで電話を手に取り、開いた。
新着メールを開くと、一番上の差出人のところに思ったとおり、“千石清純”の名があった。

「遅くなっちゃってごめん!
もう疲れて寝てたりとかしてない、よね(汗)
今日はお疲れさま〜(俺もだけど・笑)
んでさっそく明日のことなんだけど、旅っていってもちょっとした遠出くらいの予定。
俺今お金ないからさ!(涙)
ほんとは傷心旅行とかいって(あれ意味違う?)北海道くらい行きたいんだけどね〜
明後日は俺も部活あるし、帰ってこないといけないもんなあ。
だから遠出。日帰り旅行かな? 予算は一万円で!ぴったしかっきし一万円ね。
それ以内で往復料金とか、その他諸々も足りるようにするから。
他はなんにもいらないよ。
資金だけあれば後はなんとかなるっしょ!(笑)
あはは計画者がそんなにアバウトでいいのかー!って跡部くん怒りそうだなあ。
でもだいじょぶ。
身ひとつ(資金もだけど)で来てね。
待ち合わせは××駅に9時!
ちょっと早いかなって思ったんだけど、出来るなら、行けるところまで、いろんなとこ、行ってみたいんだ。
じゃあまた明日! おやすみ!」

跡部はゆっくりと、2回ほどのその文面を読み直してから、返信のために新規メールを開いた。
何か文字を打とうとして、幾度かその手がとまる。
どうしようか、と迷った末、「明日××駅に9時な。お前こそ寝坊するなよ。早く寝ろ。じゃあおやすみ」
とごくごく簡素なメールを返した。
送信して、そのまま携帯を手にしたまま、跡部はソファから身体を起こし、立ち上がった。
ソファを迂回していく間に、携帯をベッドに投げる。
そうして行き過ぎると、部屋のドアへ続く廊下の入り口まで進み、壁に取り付けてある内線も使用できる電話の受話器を取った。
さっさとボタンをプッシュする。
ちらりと、オーディオセットの上、壁にかけられている時計を確認した。まだ石岡はいる時間だ。
ツーツーと受話器の向こうで音がして、すぐに落ち着いた声が出た。
「石岡か。明日、8時頃に出かける。……、ああそうだ、車はいい。うん、ありがとう。おやすみ」
短い通話を終えて、跡部は受話器を置く。
いつのまにか肩にかかっていたタオルをソファの背もたれに引っ掛け、そのままベッドへ向かい、身体を投げ出してマットに沈んだ。
きし、と静かに抵抗の音がする。
うつ伏せに倒れこんだ跡部は、壁に向けていた顔を浮かせ、反対側に動かした。
所在投げにある携帯が目に入る。手を伸ばして掴む。開くことはせず、握ったままにした。
そして千石からのメールをぼんやりと思い返した。
ゆっくりと閉じた瞼の裏に、いくつかの言葉が小さな点のように明滅する。
……あの、あの文章を打ったとき、お前もその手が止まったのだろうか。

“出来るなら、行けるところまで”

千石に他意はほとんどなかったと思う。ほとんどではなく、まったく、かもしれないが跡部は、
その文章に自然と今日のことを重ねて想っていた。
本当は、返信に俺も行けるところまで行ってみたい、というようなことを書こうとした。
でもそれこそ今日の試合のことを、そのまま表しているようでやめたのだった。
出来るなら。
行けるところまで、なんて。
その言葉が何度も頭の中で浮かんでは沈みを繰り返す。
今日のことではないんだ、そう思おうとしても、打ち消そうとすればするほど、その思いが胸を締め付けた。
堪えるようにぎゅっと携帯を握り締める。
そういう意味なんかないって、特に意味のない言葉だって、そんなこと分かってるのに、ああどうして今この弱い心は。
なあ俺よ、そんなことは知ってるじゃないか。
今更だろう?
どうして、弱いくせに敏感な心はそれを目ざとく見つけて、なあ。
なあ、俺は。

そうだ千石。……お前だって俺だって、出来るなら、行けるところまで行きたかったんだ。

すとん、とそこへ想いが辿り着いてしまうと、跡部の身体にぶるりと震えが訪れた。
肩をすくめて、足を無理矢理縮こめる。
吸い上げる息が苦しくなる。息が詰まった。
喉を鳴らして、どこか酸っぱいような苦い唾を、急に痛みだした喉の奥へ押し込むように飲み下す。
そうしているうちに、じりと目尻に縁に、涙が、滲み出た。
ただ悔しかった。
何でもない一文にひとり感傷的になっているようで腹が立った。
そして後悔したってしきれないそのことを、本当に、心の底から悔しいと思う。
行けるところまで行きたいなんて、そんな夢が叶う奴なんてのはほんの一握りだと知っているのに、
行きてえ。
まだたったひとつ、そう思う。
「う……、……、ひっ、」
ぎこちなく肩が震えて、堪えきれない涙が視界を奪っていく。
目を瞬くとたやすくぽたぽたと布団に雫が落ち、染みを作った。
頬を伝って涙が耳を濡らしたが、その不快感に気づかず、小さく低く嗚咽を洩らし続ける。
携帯を離して跡部は鼻をすすり、目元を手の甲で拭った。
すぐにまた涙が視界を覆ったが先ほどよりかはましになった。
ふと、小さな光を見る。
それは滲んで、まるでろうそくの灯火のように優しい。
跡部はもう一度鼻をすすると、冷えた空気を吸い込むようにたよりなく何度か深呼吸をし、落ち着かせるようにしながら、携帯を取った。
この携帯は新着メールや不在着信を確認しないままだと、時折背面ディスプレイのランプが光るようになっている。
おもむろに携帯を開けると、メールのアイコンが待ち受け画面の端に表示されていた。
操作しメールを確認する。ふやけた視界に、“ありがとう。明日ね!”とだけの文面が映った。差出人なんて見る必要はなかった。
「…………、ははっ」
涙を改めて拭って、跡部は少し声にして笑った。
強張っていた顔が、それでも硬かったとは思うけれど、微笑むようにできた。
長ったらしい、押し付けるような後悔の言葉を送らなくて良かったと思った。
俺が行きたいから行くって、あのときも言ったじゃねえか。お礼なんて、言うこともねえのに。
読み直してまた笑う。何故だか、ほんの少し心が軽くなったような気がした。
涙が、いつのまにか随分治まっていた。しゃっくりをひとつして、またしゃくり上げそうになる喉で、何回か意識して呼吸をする。
痛む喉をさすり、跡部は身体を起こしてベッドの端に腰かけた。
サイドテーブルのティッシュに手を伸ばし数枚引っ掴むと、涙を拭い、鼻をかみ、そうしてようやく一息つくように、ふうと息を吐いた。
そこで一日の終わりの合図のように、急に疲れが身体全体を重くしたようだった。
少しでも、泣いたせいか瞼がはれぼったく、頭の隅が鈍い痛みを訴えて始める。
跡部はごろりと横になり、布団にも潜り込んだ。
寝よう。
そして明日、行けるところまで行こうと、薄暗いところへひた落ちる意識の中で思った。


fin.
ここの部分だけは、今、書いておきたかった。今じゃないと、意味がないと思ってペンを走らせて。

予告編みたいなもの。全国大会の後、氷帝が青学に敗退し、青学が優勝を決めた場合の、話、です。
原作がそうなる可能性は割合高いと思いますが、一応、まだなのでこっそり書いときます。(これはこっそりなのか)
This fanfiction is written by chiaki.