「あっついねー!」
「自分で誘っておいて文句言うな。アホ」
ベンチにもたれかかり天を仰ぐ千石に、跡部はさらりと非難を含めて食事を取る。
イタリア製の高級オーダースーツに身を包んだ人間が、街中にある野外カフェがあるわけでもない普通の公園で、上品に箸を使いながらベンチでコンビニ弁当を食べる様は違和感がある。ていうか見たことない、と千石は思う。
それを目の当たりに出来たのは自分の誘いに因るのだけれど、違う意味で選択を間違ったな、とこめかみから流れてくる汗を一筋感じながら後悔した。
「駅前のパスタランチにすればよかった……」
座り直し、がっくりうなだれて膝の上の弁当を掴む。
例年どおり地球温暖化の影響で暑さのきつくなった夏場、何を思ったか久しぶりのランチを外で食べようと提案したのは千石だ。
お互い忙しくて休日も会えないことが多かったから、せめて昼休みにとこうして会ったのだがこう暑くては会話も弾まない、と思うのは千石だけで、
「俺は中学、高校とテニス部だったからな。練習で慣れてる」
と、上着を脱いだ跡部は、公園の木陰の下でそこだけまるですずしげな避暑地の風が流れているかのような佇まいだ。
「ところでお前、何部だったっけ? ああ、占い部か」
「ばっか違うよ、何言ってんの同じテニス部だったでしょうが」
「ああ、そうだったか」
「……ねえ今の本気? 冗談? ねえ冗談だよね、ねっ」
「バーカ、冗談に決まってるだろ。対戦もしたじゃねえか」
にじり寄ってきた千石の横面をぐいと押しやりながら、暑苦しい、と跡部は顔をしかめる。
だって跡部くんの冗談てたまに本気に聞こえる、とこの歳になっても直らない口癖を使って、千石は食べかけの弁当をつつく。
「アホか。占い部は趣味だろ。知ってる」
「確かに趣味だけど、部活動にはしてなかったよ俺。部員一人とかめっちゃ寂しいじゃん。すげー寂しいじゃん」
「お前のその肉寄越せよ」
「うっわあ聞いてないし。いいけどじゃあなんかちょうだい。交換」
「俺が?」
「君と、俺の他に誰かいたら教えて欲しいね。あ幽霊意外ね。幽霊は数入らないよ」
街中の公園は人気もなく、静かだ。周りはわりと賑やかな商店街だというのに、小さな噴水と木立の目立つ公園は街から切り取られた空間のようだ。逆に言えば、その静けさが子どもを遠ざけているのかもしれない。
会話ほどもったいつけた様子もなく、跡部が自分の弁当から一品、箸でつまんで千石の弁当の端っこに置いた。
千石も自分の弁当から肉を分けてやった。それを跡部はきれいな箸遣いで口に運んで咀嚼する。
こういうとき、自分と同じものを食べているのにどうしてこうも見え方が違うのだろう、と千石は思う。
「跡部くんて口開かなきゃいい男なのに」
「そっくりそのまま、いや訂正する。半分、お前に返すぜその台詞」
「ほら、すぐ余計なこと言う」
笑うと、跡部も笑む形に口を作った。
蝉の鳴き声がわんわんとあたりでこだましている。大きな音のはずなのに、ずっと聞いているとひとつの音が延々と続いているような、そんな果てしなさを覚えるから不思議だ。
「こんな暑い中、毎日のように朝早くから日が暮れてもずっとテニスしてたんだよな」
ぽつりと、跡部が思い出すように言った。
箸を下ろして、木立の向こうを見やるようにしている。
そうだね、と千石もゆっくりと返事をした。
高校を卒業して大学に入学した一年目、テニスに明け暮れた暑い夏をもう過ごすことはないんだと感じた初めての夏の切なさ、それさえも今は遠い。
遠いと思うことを、あの頃の自分たちは考えただろうか。
「……あの頃の俺はすごいね、きっと外で弁当食べても文句言わなかったね」
「いや、お前は昔から暑い暑いってうるさかった」
茶化して千石が言うと、切り替えるように跡部が表情を崩し、また箸を取った。千石もそれに倣う。
ねえ跡部くん。
お前のその台詞は何かあるときだよな、と今度は跡部が茶化す。
「まーあるといえばあるけど。今度の日曜日、空いてる?」
「多分」
「元テニス部、ラケットとか一式もう持ってないってことはないよね?」
「……全部ある。たまに、クラブ行くからな」
「え、そうなの。俺もビジター程度だけど、本当にたまーに行くよたまにね」
へえ、とお互い社会人になって数年、付き合っているのに知らなかった事実に感心しながら顔を見合わせる。
知らなかったと声を漏らして笑い出した跡部に、千石もははは、と笑った。
「マジで? 知らなかった、あそっか、俺たち通ってたクラブ違うもんね」
「お前も前のところ行ってるのか。そりゃあ知らねえよなあ」
中学、高校時代ならば、テニス部に入っていればあいつはどこのクラブに通ってるだのという噂が入ってくる。
そんなこともない今、逆にお互いが一言も告げずに一人テニスをしに行っていたのがなんだかおかしかった。
「隠してるつもりはなかったんだけどな」
「言うのもなんか変かなって思ってたんだよね」
脇に置いてあったペットボトルに口をつける。まだ冷たい水分が喉を潤し、滑り落ちる。
ぷは、と一息つくと汗が乾いたわけでもないのに、気分がよかった。
見上げると木立の葉が重なる薄暗い陰の中で、一部分、空を覗ける明るいところがあった。
夏の日差しに透かされた、淡い緑色の葉っぱが青を背景にぴかぴかと光る。
眩しい、夏だ。
ねえ、と隣にいる跡部に声をかけようとすると、それよりも大きな声に丁度かき消された。
「跡部主任!」
声の方を二人揃って見ると、公園の出入り口からスーツ姿の男性がこちらへ駆け寄ってくるところだった。歳は働き盛りの40代といったところだろうか。
「太田さん」
跡部は食べかけの弁当をさっと脇に置いて立ち上がった。こういう動きも無駄がない、と千石は思わず跡部を観察してしまう。
太田さんもお昼ですか、とそつなく跡部は尋ねた。はい、と汗を拭きながら太田と呼ばれた男性は微笑んだ。温厚でやさしそうな人だと千石はちらりと窺う。
主任も公園でお弁当食べたりするんですね、と悪気のない男性の一言に千石は心の中で謝りつつ、ほんと跡部くんてこういうの似合わないですよね、と思わず話しかけたくなった。
千石に気付いた男性の会釈で、跡部が千石を紹介し、名刺交換など一通りの挨拶を済ませる。
明らかに跡部が年下に見えるが、跡部が上司で太田という男性が部下という関係のようだ。
主任って呼ばれてたし、跡部くんならこの若さで社長でもおかしくないもんな、と家柄に性格、才能の部分も考えて千石は一人納得する。
「主任、プロジェクトの件で確認したいことが」
「では、後ほど社に戻りますのでそのときに」
その会話で話は終わり、40代の部下は千石にも会釈してその場を去っていった。
様になるとはこのことだな、と上司としての振る舞いを目にして、はーとため息をつく。
おい空気が洩れてるぞ、と言われて初めて自分のため息に気付いた。
「いや、なんかもう、すごいね」
「何が」
「23歳でおじさまの上司かあ。しかも違和感ないとこがすごい」
「違和感あるだろ。仕事出来る人だからな、俺は余りあるほどにある」
それでも苦になる表情を浮かべることなく跡部は言うと、ふと忘れていた暑さを感じたのか、肩を使って小さく息を吸って吐いた。
残り少なくなった弁当を拾ってベンチに座る。
「日曜日、空けとくからな」
「うん? 日曜日?」
千石も隣に座り直して、最後の一口を押し込んだ。味わいながら、じっとりした視線で自分を見つめる跡部を見返す。
お前が言ったんだろうが、と呆れた口調で言って跡部は食べ終えたゴミをコンビニの袋に仕舞い始めた。
千石のゴミもさっさと回収して立ち上がる。
そうして目の前に立ち、あの頃から変わらない笑みで、ぱちぱちと目を瞬く千石を見下ろした。
「仕事、明日には終わらせる」
空けとけよな、と念を押すようにしてから跡部はくるりと後ろを向いて歩き出した。
その後姿に、あの頃見慣れていた制服姿やユニフォーム姿を今、ふと思い出すことは少ない。
背も体格も、ずっと近くにいた自分は今と昔でそこまでの違いを感じることもない。
あれが今の彼だ、というのに相応しく、ぴったりに仕立て上げられたそのスーツは跡部によく似合っている。跡部の隙のなさをよく表しているかのように。
君のプレイと同じだ、と遠くない日のことを思うように千石は、背筋の伸びた後姿を眺めていた。
fin.