逆境のスクリプト
「ねえねえ跡部何してんの〜」
しっしっと手で払うようにして、目線は手元の書類に落としたまま、気づいた箇所に文字を書き込む。
「部長引継ぎの用意やろ」
当たらずも遠からずといったところだったが、答えは返さない。
「あ! 跡部鼻の頭にシミはっけーん」
……シミ?
そこでようやく、跡部は顔をあげた。
どうにもすっきりしない空だ、とちらりと目の前にある窓の向こうの曇り空をとらえて思う。
残暑も終わり秋口に差し掛かった9月の半ば、この季節は夏と秋の狭間、置いてきぼりにされた日々だ。中途半端な天気ばかりだと、昨年の部活のことをあわせて思い出す。
そしてすぐさま、雲の覆う暗い天気と、落ち着かない室内の雰囲気にため息をついた。
ここは氷帝学園テニス部の部室だ。
先ほど跡部が書類片手に一人ここへやってきてから、ほとんど間をおかず転がり込んできた連中のお喋りやら何やらであっという間に騒がしい場所となった。
自分の鼻先に触れそうなくらい近づけたジローの人差し指をため息をついて、やんわりと払いのける。
ジローは跡部の作業する机の前の席から身を乗り出し、机に上半身預けるような格好で跡部を覗き込んでいた。
その横に立っていた向日が、ジローの頬を指差して、あ、ジローも、と目を丸くして見せる。
そのまま、ええほんと、いやだわー最近お肌が荒れちゃって、まあ奥さんも? などど二人で奥様ごっこのような遊びが始まって、跡部は再びため息をついた。
部室の隅の棚の前に移動していた忍足が振り返って跡部を見やると、自分の眼鏡をくいと押し上げて笑った。
「お、仏頂面やなあ。眉間に皺寄ってん」
三人とも何か目的があってここへ来たようには見えなかった。
跡部にちょっかいを出したり、ミーティングのときに飲むインスタントコーヒーの詰め替え用を缶に移してみたり、戸棚に並んだ試合を記録したDVDやビデオを並び替えて見たり、今でなくてもいいような用を見つけては好き勝手に騒いでいる。
まったく誰のせいだ。
跡部は即座に心の中でそう呟いたが、実際に口には出さなかった。
そして一言、
「うるさい」
とだけ告げると、また書類の文字を追い始めた。
どこまできちんとチェックしたか思い出せなくなって、跡部は束ねてあった書類を1ページ前に戻
す。書き込んだ文字がいつもより雑な気がして、跡部はなんとなくその文章の下に線を引っ張ってみた。
視界が、少しだけ暗くなる。
今度は跡部の横に立った向日が、何それ?とまた尋ねてしゃがみ込み、机の端に掴まるようにして
その大きな瞳だけを覗かせるようにした。
「これ当分先のメニューやん、自分早いなー」
いつのまにか跡部の後ろに回り、向日の反対側から書類を覗き込んだ忍足が感心した声をあげ
た。
そうなの、とジローが一段と乗り出して書類を見る。逆さで見づらいのか、首を傾げるようにしてい
る。ランニング、素振り、と忍足が内容を読み上げていくと、わーきっつそう、とくせっ毛の茶髪をがしがしとかいた。
「これちょっと今の1、2年にはきついんじゃないの〜」
向日が両腕を机の端に乗せ、首を左右に揺らした。肩の上でそろった赤い髪が揺れる。
自分を囲んでにぎやかに話し始めた三人に、跡部は気にせず作業を続けるつもりだったが、やはり集中出来なかった。
「お前たち、」
何しにきたんだ、とは言い難かった。
咎めるものでなく困ったような跡部の言い方に、それからすり抜けるように三人は急に話題を変え、そういやさっきいいもの見つけたという忍足に、向日とジローは立ち上がってついていった。
話し声が自分の近くから離れ、跡部は書類をぼんやり見つめた。
文字がにじんで広がって、形も意味も失っていく。白い紙を汚すだけの灰色のしみがぽつぽつと浮かんだ。
鼻の頭を薬指でそっとかすめる。
こん、こん。
固い音がふたつ、部室に響いた。しみだった文字が跡部の目に飛び込んでくる。
不自然に、室内が静かになる。
顔を上げることを一瞬ためらったが、ひょいと何でもないように首を起こしてみた。
奥の方で何やらやっていた三人が、背の順にまるで電車ごっこをするように連なって、跡部の前を横切っていく。じゃあ、俺たちはこれでと、さっきとは打って変わって、いそいそと背中をせっつくように歩き、一番前の向日がドアを開けた。
ほなまた明日と言い残した忍足の影から、ジローがひょいと顔を覗かせる。
「さっきの、シミは嘘だよ」
いたずらっぽい笑顔が、ゆるやかに閉じたドアの向こうへ消えた。
変な気を遣いやがって、そう跡部が表情を緩める間もなく、またドアが開いた。
人が一人、入ってきた。
遅くなったと謝る相手に、跡部はいや、と短く答えた。
確かに、5分ほど約束の時間を過ぎていた。ちらりと覗いた腕時計を見て、珍しく時間を把握していなかった自分に気づく。
跡部は、さっとその人物の出で立ちを見て、転校生みてえだなと微かに笑った。
チェックのパンツ、ブレザー、シャツ、基準服のどれを見ても新品のようにきれいだ。
きっちりと上までとめられたシャツに、ぴしりとネクタイが締められている。
普段の様子からうかがうとどうにも窮屈そうだが、跡部は似合ってるぜ、とわざと言ってやった。
すると、その人物は唇の端を少し噛み、額をかき、
「慣れないな」
と、やけにすっきりした笑顔を残して、言った。


 * * *


「いいぜ」
断れるはずは、ない。
頼まれた役目の重さを分からないほど、跡部は未熟ではなかったし、どっしり構えてゆらぎなく受け止めることのできるほど、早熟ではなかった。
それでも、放り投げることだけは出来なかったし、したくなかった。
自分の発したたった三つの音が果てなく、重かった。
跡部と、待ち合わせた人物は、あれから学校を後にしてストリートテニス場を訪れた。
見上げて、直に目に映した空はいまだ薄暗い。人々の活力を削ぐような色合いの雲が一面に広がっている。この天気では日が暮れても分からなさそうだ、となんとなく思う。
お前と試合がしたい。
その申し出は、少なからず跡部が予想していたものだった。
だから跡部は戸惑うことなく、正確には戸惑う様子を見せることなく、引き受けた。
そのときの相手の顔は、テニスの試合前に見せる気分の高揚したときのもので、随分久しぶりに見るような気がした。
1セット、3ゲームマッチ。審判はいないため、自然セルフジャッジとなる。
6ゲームでいいとコートに入り、ブレザーを脱ぎ、慣れないネクタイも外し、息をついたその人物が言ったが、跡部は首を横に降り、6ゲームならこの試合は出来ないと真っ直ぐに見つめて告げた。
下手に気を遣うようなことは言いたくなかった。
すると跡部が追随する前に、相手はあっさりと、そうだな、と笑って撤回した。
ラケットを手に取って、ガットの具合を見、グリップを握り直す。
跡部は、その姿に背を向け、口の中で吐けなかった呟きをかみ殺すと、自分もばさりとブレザーを脱ぎ捨てた。ネクタイを緩め、引き抜く。ばしりと、ベンチに叩きつけるように投げる。
一瞬汚い考えが頭に過ぎった自分が嫌だった。
集中しろ、と跡部はラケットを取り出し、ヘッドの縁を額に当て俯くようにする。
いつもどおりの試合を、と願う。
緊張してるのか、と問いかけた。心は黙って答えない。
それでいい。
いつもの試合前と同じ静けさを心は持っている。ほどよい緊張感は、すでにある。
重いか、とまた問いかける。
平気だとは、心は答えなかった。
関東大会に全国大会、今までの一戦一戦とはまた別種の重みに心が震えている。
何が違うものかと、吸い込む息で吹き払う。
覆っていた雲が遠ざかって、あらわになった掃天を思い描く。
高みを、想う。
最高の試合を。
氷帝テニス部、部長として最高の試合を。
跡部景吾の、最高の力を。
跡部は割目して、グリップを強く、音の千切れるほど強く、握り締めた。


「サーブは、やる」
準備をしてコートへ入った跡部に、ネット際まで歩いてきた相手がボールを投げて寄越した。
ひょいと宙でさらうように受け取った跡部は、アーン?と不敵な笑みを浮かべると、
「後悔したって知らねえぞ」
と、コートで二、三度ボールをついた。
構わないと背中で答えるように、左手でラケットを担ぎ、中途半端に上げた右手をひらひらさせ、相手がサービスラインまで下がっていく。
擦れるゴムチップウレタンの地面が鳴って、振り返った。すっと、構えの姿勢をとる。足を開き腰をかがめラケットを持って、跡部を射抜いた。
違う、とすぐに跡部は感じる。
その瞳は、まだサービスエリア内にいる自分ではなく、ベースライン際で高々とボールを掲げ、渾身の力を込めてラケットを振り下ろすイメージとしての自分を、映している。
自分の先に、すでに戦う俺の姿を、見据えている。
跡部は奇妙な震えを笑んだまま奥歯で噛み締め、抑え、行くぞと自分に覚悟を言い聞かせるように口にし、颯爽と、背中を見せた。
今度は俺の番だ。
ベースラインの縁を目でなぞり、顔を上げる。途端、自分の視界へ相手の眼差しと静かに燃え上がる闘志が飛び込んできたような気がした。
跡部も、見る。
向かってくる球を捉え、必死さで歪めた顔で受け止め食いつき、押し切るようにラケットを大きく振るその姿が脳裏に瞬く。
やるじゃねえの。
予言なんてまったく信じる性質ではなかったが、きっと現実になるだろうその幻影に、跡部は目を細めた。
ぎり、とかかとが地をにじり、指先からボールが離れる。右腕をぐいと伸ばすように振り上げ、ボールを叩いた。ガットの振れが、柄に伝わって、手のひらに重みとして残される。
はっと息をついて、反動を利用して前に大きく踏み出した。
1ゲームは相手が粘りこそしたものの、跡部が危なげなく取った。
相手は動体視力が良いために、どんなボールでも食らいつき、サーブのレシーブ率も高い。
やりづらいとは思わないが、テニスはサービスゲームが俄然有利なスポーツ、ここまでよくサーブを返されると舌打ちのひとつでもしたくなる。もちろんそれは、相手の実力を買った上で、さらに自分を奮い立たせるものだ。
あくまで、サーブは俺の武器であって、切り札などではない。
かつんと一度コートに軽くラケットのヘッドを打ち付けて、両手でしっかりと握り締め、前方を睨むように、構えをとった。
相手のサービスゲームだ。
確か、奴のサーブは打点が高めのはず。
瞬時に記憶を目の前に引き出して、再生する。
跡部は氷帝テニス部の部長として、常にシングルス1を任され、その実力ですべての部員に一目置かれている。しかしそれは実力だけの評価でなく、末端の部員の名前もよく覚えていて、特に、少しでも良いと感じた者のテニスを忘れることがなかったからだ。
相手とは数回、練習試合といった形で対戦をしたことがある。
それを跡部は覚えていた。
なかなかに切れ味のあるサーブだった。
相手が、サーブのモーションに入る。
ボールを高く上げて、落ちてこないうちに地を蹴って腕を振り上げる。
そのフォームが、跡部の記憶しているものとわずかにずれてぶれた。腕の伸ばしが足りない、とっさに跡部は思った。ちくりと喉元だか胸元だか、よくわからないところがうずいてわだかまる。
しかし囚われている暇などなかった。
インパクトの音が弾けると同時に、ボールが空気を裂いて、滑り込んでくる。鋭く、しかしわずかに失速しカーブを描き、浅めにコートへ落ちた。
見誤ることなく、少し深めにラケットをさらい、穿つように端を狙って返す。足りないと、インパクトの瞬間手に感じた重みを捉えて思う。
取られると予想したが、そこそこのスピードに乗った球は相手のラケットに邪魔されることなく、地面をついて、フェンスを叩いた。
相手は反応こそしていたが、駆け出しが少々遅れたようだった。追いつけず、コートの隅で転がるボールのそばで歩みを止めると、跡部の方を見、リターンエース、と笑ってみせ、ラケットのヘッドを使って器用にボールをすくって手にした。
次のサーブは、球威は落ちれど、以前見た切れ味が大分戻っていた。
コートの端、サービスラインぎりぎり深くまで入り込んだボールを移動し、たっぷりバウンドしてきたところで両手持ちで受け止める。上半身の回転をきかせて、対角線上へボールを振り払う。
と、そのコースは見破られていて、相手は予測した地点を目指し走り出していた。
そうこないとな。
跡部は滑り込み、自分の右バックコートへ返ってきたボールを打った。
来る、ととっさに思う。脳裏にジャックナイフの体勢をとる相手の姿が浮かんだ。
スピードに乗った、まさに切れ味の良い刃のごとくすっと身に切り込むそのボール。
すばらしいジャックナイフだった。
それが、来る、と思った。見れば、すでに相手は前に出ようとしていて、サービスエリアでボールを返そうとしていることは明らか。
左手をラケットに添え、バッグハンドに構える。相手の動きが跡部にはとてもゆるやかに、まるでスローモーション再生のように見えた。
食らいつけるか。
分からずとも、跡部の足は考えることなく駆け出している。
追いつけるか、そんなことは愚問だ。追いつかなくてはならない。追いつかなければ、意味はない。
……追いつく!
すらりと抜き身のナイフが放たれる。相手が一本足で飛び跳ねるようにして、体重を乗せた球がフォアコート内ぎりぎり、サイドラインを狙う。
捉えた、と跡部は確信した。少し浮く打球にはなるだろうが、ラケットを伸ばし、力を込めて持ち上げれば返せる。
しかし一瞬の見極めの後、伸ばしかけた手を跡部は引っ込め、足もやがて止めてしまった。
バシュ、といななく。
ウレタンの地面を叩いたボールの振動が、足の裏にびりりと伝わってくるような気がする。
弾かれた球は、力なくコート外に転がった。
頬に伝ってきた汗を手の甲で拭いながら、その方を見やる。跡部が口にせずともそれは明らかで、相手もあれほど好機を狙って打った球だ、いちばんよく分かっている。
それでも、跡部はすぐさま明言するのを避けた。
一呼吸おいて、口を開きかけたそのときだ。
「アウト、だ」
振り返ると、相手がそうだろ、と表情で語りかけるようにして、跡部を見ていた。
惜しかったなあ。
跡部が何か言うのも待たず、呟くように言ってくるりと背を向けると、もう次のサーブのためにベースラインまで下がろうとしている。
その後姿で、相手が左手で右肘をふとさするようにした。見てはいけないものを見てしまったような気がして、跡部はぎゅっと睨みつけ、ぐいと視線を逸らし自分も背を向けた。
勢いで、首を上げて空を見た。
西方の雲の幕がうっすらと、夕暮れを待つ静かな落ち込んだ水色を透かしている。
俺は、あと数歩ゆけばこの感情を、消し去る。
そう自分に言い聞かせた。感情をコントロールするのは難しく、また容易いことだ。
いっとき集中することが出来れば、なんてことはない。
数歩ゆけば、必ず。
それが出来る、と確信している跡部は深呼吸をした。
気のせいかもしれなかったが、視線を落とす間際に、淡くほんのりと朱にそまった空を薄雲に重ねて見たような気がした。
あと、一歩。
サービスラインを踏み越す手前、世界が張り詰めた空気に変容するそのとき、跡部は恥を知りながらも、ばかやろうと誰にも聞こえないように叫んだ。


 * * *


終わってみれば、やはり跡部の圧勝だった。
3−0。
反応し切れなかった相手の横をボールがすり抜けていった瞬間、決着はついた。
最初の方はそれなりの調子だった相手も、時間が経てば経つほど動きは鈍っていくしかなかった。
最後、ネット越しに握手をした相手の顔は、いつのまにか暮れていた夕陽の逆光の中でよく分からなかったが、握った手はラケットを手にしたときのように力強く、何の変哲もない、テニスプレーヤーのものだった。
似合わない掠れ声で肩越しに残された一言が頭に響く。
片づけをして先に相手が出て行った後も、その言葉が、自分へ向けられたものとして受け止めることが出来ず、跡部のそばで宙ぶらりんと漂っている。
……追ってくるんじゃねえよ。
コートを出、広場へつながっている幅広い階段を下りながら、跡部は自分の右即頭部のあたりに腕を振り上げ、何かを追い払うような仕種をした。そして乱暴に腕を降ろすと、そのまま、どさりと階段に腰かけた。
くそ、と呟いて膝に肘をつき、重ねた手に額を押し付ける。
足の隙間から見る階段のコンクリートが、乾ききってやけにざらついているように見えた。
変だ、と跡部は苦々しく思う。
あいつはようやく振り切ったっていうのに、俺が、どうして。
ついで自嘲気味に薄く笑ってみた。
本人が断ち切ったことを、自分が代わりに背負って気にかけているようで、情けなかった。
代わりなどと、偽善者のようで腹が立った。
「俺は、なんだ……?」
声に出して呟いてみた問いが、耳の辺りにごわごわとわだかまった。


 * * *


「跡部くん」
座り込んでいたのはほんのわずかな時間だったのだろうが、随分と長い時間こうしていたように感じられた跡部の背中に、よく知った声が届いた。
振り向かなくたって、声の主はすぐに分かった。
だけれど、跡部は弾かれたように顔を上げて立ち上がり、階段を一、二段上り下りするようにして、よろめいたように振り返った。
白い学ラン姿に通学カバンとラケットを肩にかけた千石が、階段の一番上から柔和な顔をして、ささやかに手を振っていた。
千石、と呼ぶまでもなかった。
たんたん、とゆっくり千石は階段を下りる。オレンジのくせっ毛が夕焼けを映し、焦がれる。
途中で、ん?と首を少し傾げ足を止めた。
何でこんなとこに、という跡部の表情を見て取ったのか、ちょっと打ちたくなって、と眉を下げ頭をかいた。
「いや、ガッコの近くにもコートあるんだけどね、なんていうか、部活仲間に見られたら
気まずいかなーとか、ちょっと変な気を遣わせちゃうかなって思ってさ」
全国大会終わった後だしね、と言った。
細かい、お前こそ変な気を遣ってるじゃねえの、と跡部は今更千石の性格を認識しながら思う。
「……それで、お前、今日」
打ってたのか、と続けようとして、跡部は口をつぐんでしまった。
もし千石がコートを使っていたなら、近くのコートのいたのなら、自分の試合を見られていたかもしれないと思うと、何故だか尋ねるのを躊躇した。
見上げていた顔を千石から逸らして、片手で口元を覆う。
なんでもない、と言おうとして、手を外し顔を上げると、口を開いた千石に先を奪われた。
「試合、見てたよ」
ふと何でもないことのように、自然に告げられて、跡部は開きかけた口を薄く開いたまま千石を見つめた。
再び、千石は柔らかい表情で頭をかいた。
「コート行ったら、跡部くんが氷帝の子と試合してて、ごめんね、覗き見みたいだなって思ったんだけど、多分、跡部くん声かけられるの嫌だろうなって思ったし、相手の人知らなかったから俺も声かけづらかったし、なんかすごく真剣な試合だったから」
すごかったね、あのスイッチブレード、と千石は笑って、ぴょんとその場でフォームの真似をして飛んでみせた。狭い場所でバランスを崩しかけ、うわ、と近くの手すりに掴まる。その拍子で何段か階段を下りて、跡部に手を伸ばせば届くところまで近づいた。
「途中から見てたんだけど、特に、相手の人の気迫がすごくてさ、目が離せなかった。
……あの人、もしかして肘、悪いの?」
臆せず尋ねる千石に跡部は、言い表すのにぴったりとは言えないかもしれないが、どことなく安堵した。
いつもと、何一つ変わらない千石だと思うと、かすかに、眩しさに少し顔をしかめるように笑んで、跡部は階段の真ん中に伸びる手すりに寄りかかり、ぽつりと話し始めた。
実力差を言ってしまえば、跡部は正レギュラーであり常にシングルス1を任されてきた身、一方相手は、多くいる準レギュラーの中でこそ一目おかれる力の持ち主ではあったが、正レギュラーには数回なったことがある程度だった。
テニス部にはお互い初等部の頃から所属していて、一回も同じクラスなったことがなく、部活でもろくに話はしたことがなかったが、なんとなく相手のことを気にしていたと思う。
納得がいかないが、時折人から似ていると言われることがあった。もし、本当にそうなら、自意識過剰でなく、特に相手は自分のことを意識していたに違いなかった。
肘を痛めたのは、全国大会の一ヶ月ほど前だ。小学生の頃にも同じ箇所を故障して以来、癖がついていたこともあったが、練習試合中のその事故で、本格的にテニスを続けていくことを断念せざるを得なくなった。
急に、幕を引かれるということは、どんな気持ちだろう、と思う。
あいつは、一生テニスを続けていこうと思っていた者だということを、跡部はよく知っている。
そういうテニスをしてきたことを、跡部は少なからず見てきている。
それが、自分の意志とは違うところで、ひょいといとも簡単に取り上げられるということは、どんな。
「基準服」
「え?」
脈絡のない単語に、黙って聞いていた千石が浮いた声を発した。
跡部は千石をちらりと見やると、ふ、と表情を崩した。
「ウチは制服じゃねえからな。この基準服で通わなくてもいいんだけどよ、たいていの奴は普通にこれ着てる。でもあいつは、いつもバーバリー一色で決めてる。基準服着てるところなんてほとんど見たこともねえ」
筋金入りの坊ちゃんだからなあいつ、とそこで可笑しそうに笑ってみた。
そうして、やがて息を吸い込み笑いを収めると、細く長く息を吐いた。
「そんな奴が今日はきっちり、シャツのボタン一番上までとめて、基準服なんて着てきやがって、珍しいなってからかってみれば、なんて言ったと思う」
からかうように言ってやることしか、出来なかったのだ、と跡部はあのときのことを思い返した。
もう心の整理は出来たのだというふうに、さっぱりした顔をした相手に、もしかしたらそれは、強がりだったのかもしれなかったがそれならなお、跡部はいつものようにしてやることしか、出来なかった。
誇らしげにさえ見えたそのときの笑顔が、脳裏にちらつく。

けじめをつける日だからな。

そのとき自分は、どうしたものかと動揺を気取られないように、上手く、何でもない普通の顔をすることが出来ていただろうか。
跡部は目をつぶると、心の奥底から振り絞るように静かに、続けた。
「そんなことを言われて、まったく、笑えねえ。笑えるか。それくらい、あいつには今日が他の日とはまったく違う日で、わかれ道だったんだ。あいつは、テニスのことが好きで、真剣で、一番だったん
だ。決別する日に、精一杯の正装をして、敬意を表すほどに」
自分もいつかそんな日が来るだろうか、と跡部は思った。
別れを告げなくてはならない日。
想像しても、それはその域を出ず、今日の日のことを思うことしかできなかった。
「……そっか」
千石が、しみじみと頷いた。自分を納得させるように、うんうん、と繰り返すと、そのまま階段を下りていく。跡部の横を過ぎ去って、振り返らずに言った。
「じゃあ、最後にあんないい試合できて良かったね、その人」
あっさりとしたその言葉に、跡部は手すりから離れ千石の背中をはっとした表情で見た。
「だってさ、きっとその人はこれからもテニスが好きでしょう」
だから、やめなきゃいけないのは悔しいし辛いと思うけど、でも、だからさ、あんな試合が出来て嬉しかったと思うよ、絶対。
言い終えて、千石が振り向く。
「ああ、……そうだな、そうだったら、」
夕暮れの逆光を受けて、わずかにかげった千石の優しい顔を見、跡部は呟いた。
千石の言うとおりだと思う。
あいつはテニスが好きだから、心底好きだから、きっと振り切ってなんぞいない。
やけにさっぱりしたと思った笑顔も、誇らしそうに見えたあの顔も、最後ありがとうと呟いたときも、悔しくてやるせなくてどうしようもない気持ちを、どうにか押し殺していたのだろう。
決別なんて出来るはずもない。
そうだ、あいつはこれからも。
「テニスが、好きだ」
俺は、と小さく付け足して、跡部はしっかりと千石を見た。千石も、俺も、と返した。
「ねえ跡部くん」
手すりに掴まりながら、千石はそろりそろりと後ろ向きに階段を下る。危ねえぞ、と跡部が言うと、大丈夫、と下を見ながら器用に足を運ぶ。
「もし、跡部くんがテニスをやめるときはさ」
その言葉に、跡部は一瞬どきりとした。千石は俯いていてその様子に気づくことはなかった。
俺が、最後の相手になるよ。
顔を上げ、くしゃりと笑う。
そうしてひょいと背を仰け反らせて赤みがかった空に目を放った。
跡部もつられて目をやると、薄い雲は引き上げていて、木々の開けた目の前から一筋、落ちかける太陽の鋭い光が投げかけられていた。
「あの人、これから」
跡部に背を向けたまま、千石が言いかけて、その先はやはり言わなかった。
沈黙することだけは出来ず、跡部はさあなとだけ答えておいた。
そのときは問いかけの内容が分かったところで、答えなど一向に見えてこないものだったが、秋も深まった頃に、彼が新たな進路を選び取ったことを、風の噂に聞くのをまだ知る由もない。
跡部は瞬きもせずに千石の後姿を見つめていたが、やがて一度まぶたを下ろしてから、背筋を伸ばすように今一度空を仰いだ。
俺はなんだ。
自分は、テニスをするために生きていく者だ。
そしてあいつは、テニスをするために生きていくことが叶わずとも、テニスを好きでいる者だと思う。
それは、なんと酷く辛いことか、ちらりと、魂の端っこを焦がし続けるような怒りとともに、そうも跡部は思った。
最後は、俺と。
千石の言葉を思い出し、自分の道さえも途方なく、思い描くことなど出来なかったが、眩い光で滲んだ空に孤高の英雄の姿を独り、見たような気がした。



fin.
出だしの部分を、「もしかしてこれ、千石?」って思われるように書きたかったのですけど、ちょっと無理があるなあと書いてて思ったので名残がある程度、になりました。一応そんな試みをしてみたかった……
日記でたまに呟いていましたが、本当に、最後の試合なんだな、このひとにとって、と思うと、なかなか書けなくて、辛いというか、跡部と同じような気持ちになってきて、果ては「どうしてわたしが、このひとの運命を勝手に決めていいっていう道理があるんだろう」とか、よく分からなくなってきて、ほんとうに。
もし、跡部と千石の最後の試合を書くことになったら、どうなるんだろう。

跡部がはじめて、“テニスをやめる日のこと”を考え、想う、話でした。
いつかはどんな形であれ、その日は目前にやってくると思うのですが、その前に必ず、よぎる程度でも“その日のこと”を痛感することがあるんじゃないか、と思っています。
跡部は最後、自分と、テニスをやめるしかない相手の間に線を引いている。
“テニスを続けていくことのできる自分”と“テニスを続けていくことのできない相手”と、線引きをしている。
“テニスをこれからもずっと好きでいる者”として、一緒に自分と相手をくくることはしなかった。
そこが、結局のところ、眼前につきつけられなければ分からない壁だと思う。
それでいいと思うし、そう潔く線引きをする跡部は強い。
千石は多分、“テニスをこれからもずっと好きでいる者”として、自分と相手をくくる方なんだろう。
悪い言うことは出来ないけれど、とても、千石らしいな。

逆境のスクリプト、という題ですが、詳しく表すなら、逆境の(怒りを知る)スクリプト、だと思います。
逆境の淵で思うことってなんだろうか、と考えたとき、やっぱりいちばん最初は怒りだろうなと思う。
自分のあずかり知らぬところで運命が決まってしまうなんて、どうしようもない。
腹が立って仕方なくてやるせなくって、神さまどうしてですか何か悪いことを自分はしてきたんでしょうかって、
今まで信じてもいなかったものに叫んでみたりする。
でも本当は、逆境にならいつも人は立たされている、とも思います。
“人は常に誰かを蹴落としてそこにいる”と、別のSSでも書いたけれど、蹴落とし蹴落とされ、思い通りの人生など誰一人として送れていることはなくて、みんな、心のどこかで「こんちくしょう」って思いながら生きてる、そんなものだろうと思う。
跡部だってきっとそうで、だからこそ偽善者のように、感化されたんだろう。
心の奥底でくすぶるように怒る。
みんながそうして、どうにもならないけどどうにかしたくて、脚本なんてない人生を生きている。最前線で。
逆境のスクリプト、という題でもうひとつくらい書いてみたいと思っています。

久しぶりの更新で、随分と嬉しいです。
ここまで読んで下さってありがとうございました!

2006.5.28
This fanfiction is written by chiaki.