跡部くんは何も言ってくれない。
俺は、跡部くんが好きだ。だからそれを口にする。たくさん、精一杯。
笑顔にのせて。
ねえ跡部くん、俺の言葉、届いてますか。
「好きなんだ」
君は、照れて顔を背けてしまったり、バーカなんて言ってみたりする。そんな君も好きなんだけど。
君は何も言わない。言葉に、してくれない。
どうして言ってくれないんだろう。
伝わっていると思う。君の気持ちも伝わってくると思う。
それでも、ハッキリと言葉にしてほしいと思うときがあるんだ。
不安になるんだよ。
気持ちを疑ってしまうんだ。君は俺のことが好きなんだろうかって。
不安なんだよ。
* * *
山吹中の部活は3時15分から始まる。
掃除当番で遅くなった東方は、10分示した腕時計を覗き込み、
それでも急ぐことなくゆったりとした動作で部室のドアを開けた。
するとそこには最近ろくに顔を見なかった自チームのエース、千石清純の姿があった。
「なんだ千石、今日は行かないのか?」
珍しいな、という一言に、そのオレンジ頭が振り向く。
「お、東方じゃん。遅いよー」
自分のことは棚に上げながら、千石はユニフォームをかぶると、
「ここのところずっと練習出てなかったからさ、そろそろ南に殺されると思って」
と言って少し笑った。確かに、と千石の隣で着替えていた南を見て、東方は頷く。
ジャージに腕を通し、バッグからテニスラケットを取り出した。
いやあなんか久しぶりだなあ部活。ってこれよくないよねえ。
一人心の中で反省し、いかんいかんと千石が自分の頭を小突いていると、南がぽつりと呟いた。
「大丈夫か千石」
南は、心配そうな顔をしていて、事実心配しているのだろう、
けれど千石はその表情には気づかないフリをした。
「何それー? 南、俺に出て欲しくないの部活。そんなこというと遊びに行っちゃうよ」
「そうじゃなくて!」
「はいはい。今日からまじめに頑張るぞ〜っと!」
ひらひらと手を振りつつ、南をかわしてドアに手をかけた。
「千石!」
引き止める声が向こうに消えた。
ばたん。
申し訳ないなと思いつつも、自分はラッキー千石らしくない顔をしていたのかが気になった。
気をつけなくっちゃ。
苦笑いして、ドアにもたれかかる。
無意識にポケットに突っ込んだ手に、ケータイが当たった。
「彼」の顔も無意識に浮ぶ。
「(メール……しなくていいよね。
別に約束してたわけじゃないし、俺が勝手に押しかけてただけなんだし)」
氷帝の跡部と付き合い始めて約二週間が経つ。
Jr.選抜で運命の出会いを果たし(千石談)、それから特に障害も明確な告白もないままこういう仲になった二人だった。
ホントに一目惚れなんだよと、ことあるごとに嬉しそうに話す千石は、絶えず一身でその喜びを表していて、それは、週の半分も氷帝へ訪れるという形にもなった。
跡部の部活が終わるまで待って一緒に帰ったり、部活のない日は寄り道をして帰路につくという、何気ない日常を過ごしていたと千石は思っている。
跡部は千石が来ると必ず、「何だよ、また来たのかよ」と眉を寄せたが、結局本気で言ってはいなかっただろうとも千石は思う。
けれど今まで、千石からメールを送ったり、遊びに行くことはあっても、その逆は一度もなかった。
跡部のメールは本当に必要な用件だけだったし、そちらから訪ねてくることなどもない。
そういえば好きって言ってもらったこと、ないな。
好きだと常に公言している自分に対しても、跡部の態度はそっけなかった。
もちろん照れているのも十分分かっているのだけれど。
というか、本当に自分は好きだと思われてるのだろうか、そんなことが頭をよぎったのが昨日。
どうして何も言ってくれないのだろう。
……跡部くんは俺に会わなくても平気なんだろうか。
自分は浮かれていたのかもしれない。
目を閉じる。落ち着け。らしくないぞ俺。
びゅうと風が唸る。過ぎ去って、目を開けた。
今日は風が強かった。天気予報で、春の嵐が来ると言っていたのを思い出す。
まだ2月だというのにもう春か。今の自分の気持ちには不釣合いな季節だ。
どっちにしてもこんな気持ちのまま会いにはいけないよ、千石はため息をついた。
目を閉じる。何かを遮断するように、意識から締め出すように。
少し、頭を冷やそうか。
白と、青に黒のラインが入ったジャージをきた一団がテニスコートの回りを走りこみしている。
放課後のテニスコートは、さすが200人もの部員がいる氷帝テニス部、といったところだろうか、部員の掛け声がそこここでしていて騒がしい。
そんな中、ひときわ強く大きく、叱咤する声がある。
「なんつーか、跡部、荒れてない?」
忍足と向日は、目の前のコートで後輩をじきじきに相手をしている跡部を眺めていた。
オラちゃんと打てだの、何やってんだよアーンだの、いつもの口の悪さにさらに磨きがかかっている。
当社比2.5倍だなという岳人の言葉にうんうんと忍足は頷いた。
「でもまあ、あれや、理由なんて分かりやすすぎるほど、分かるけどな」
「え何々、なんか知ってんのゆーし」
「何って決まってるやん。この間までよう来とったやろ、せん……」
「忍足!」
その声に、あちゃあという顔をして振り向いた忍足の前には、コートから上がってきた跡部の姿があった。
タオルで流れ落ちる汗を拭いながら、眉間にシワを寄せ、ギロリと忍足を睨み、向日を見やる。
「こんなところで油売ってんじゃねーよ。そんなヒマあったら走ってこい。特に岳人、お前な」
「さっきもう走ってきたんだよ!」
「そうや。今コートの順番待ってるとこなん。宍戸と鳳んとこな、ほなもう少しで終わりやで」
忍足が顎で示したほうには、確かに宍戸と鳳がラリーを続けていて、ボードの数字からもう少しでゲームに決着がつくのが分かった。
ちっと小さく舌打ちすると、跡部はどかっとベンチに腰を下ろした。
そして俯き、頭にやっていたタオルを乱暴に取り払った。
するりとそれは滑って下へ落ちたが、跡部は拾おうとしなかった。
機嫌の悪い跡部に、向日は居づらくなったのか、ちょっと俺様子見てくると言ってその場を離れた。
触らぬ神にたたりなし、だ。
忍足は少し呆れた顔をして、落ちたままになっていたタオルを拾うと、俯いたままの跡部の頭にかぶせてやった。
息を整えている跡部はそのまま動かない。
「……あいつどうしたんやろな」
「あいつって誰だよ」
やけにはっきりした口調で跡部は返す。
忍足は、やれやれ、といったふうにため息をつくと、隣に腰を下ろした。
「あいつはあいつに決まっとるわ。千石! 千石キヨスミ! 三日前まではよう来とったやん。週の半分はおったよなあいつ。それがぱたりと来いへんようになって、自分が不機嫌になっやのもそんくらいやし、誰でも何やあったんかって思うわフツー」
「……俺はアイツに来てほしいなんてこれっぽっちも思ってねェよ」
「あ、何自分、来いへんから不機嫌やの?」
「…………」
図星なのか押し黙ってしまった跡部に、忍足は、ははと笑って続けた。
「で、連絡は? メールとか来てへんのん? つーかしてへんの?」
「…………してねェ」
何で俺が。
誰にも見えないタオルの下で、小さく呟く。
約束なんかしてねェのに、そうだ、約束なんか、してない。
何故俺が、物欲しそうな真似など出来ようか。
「はあ!?」
思わず大声を上げた忍足に、跡部はタオルを投げつけた。ああ悪い悪いと忍足は座りなおすと、
「連絡なし? つうかマジでしてへんのメールも電話も」
と跡部の顔を覗き込んだ。
跡部は首をわずかに動かして、右目だけで忍足を不機嫌そうな目で見上げた。肯定、のようだ。
忍足はため息をつき、足を投げ出す。
「ああそれはいかんよ、景ちゃん。自分悪いわー」
「景ちゃん言うな」
ぴしゃりと跡部が言うのも気にすることなく忍足は、いやあヤバイって跡部れは、と呟いた。
「あんなにメールしてた千石が、連絡もなしに急に来いへんようになった上、今もメールはなし、もう三日経つなんてありえへんよ!? しかも跡部メールしてへんなんて痛! 痛いってそれは」
忍足が大げさな身振り手振りで話すのを、跡部はずっと俯いたまま聞いていたが、しばらくして呟くように言った。
「……そんなこと出来るわけねえじゃねェかよ」
そう言いながらベンチから立ち上がる。
大方サボリすぎて南とかいう部長につかまっているのだろう。
そう考えて、はたと、あいつが来ることに少しでも期待を持っているのかと思うと、少し、ほんの少し悔しかった。
一体なんなんだくそ!
あとで忍足のヤロウ見てろよ、とりあえずそう心に決めて、
跡部はいらついた気持ちを抑えるためにコートを出た。
走ってもおさまらないと分かっている心を抱えて。
取り残された忍足がはあ、とため息をついているところに、宍戸たちのいるコートの方から帰ってきた向日が戻ってきた。
コート空いたぜ、と告げると、傍らに跡部がいないのに気づく。
「あれ、跡部は?」
「意地っ張りつうかなんつーか、あれはバカやな」
跡部のいなくなった方を見て、一人呟く。
「何だよそれ」
そのひとり言に向日は首をかしげた。いや何もあらへんて、と言って忍足は立ち上がった。
「ほな、やろか」
「おう!」
似たもんどうしやな、忍足はふとそんなことを思った。
* * *
俺に言いたいことがあるんだろ。
あいつはいつも笑っている。俺のことを好きだといつも言いながら。
でも時折、寂しそうに、ためらうように、小さく笑うことがあるのを俺は知ってる。
何で言わないんだよ。
好きだって言うくせに、何でほかの事は言わねぇんだよ。飲み込んじまうんだよ。
してほしいことがあるなら言えよ。
好きって言うくせに。
世界でいちばん大切なひとのように、お前の言うことぐらい、何だって叶えようと思っているいつも。
それなのに、俺には言わないんだろ。
何で我慢してるんだよ。俺の前で。
不安になるんだ。
降り積もる言葉が、嘘なんじゃないかって。お前にとっては軽く言える言葉のひとつなのかと。
不安、なんだ。
* * *
何故付き合うことにしたのかと問われれば。
「好きやからやろ」
もうすでにジャージに着替え終えた忍足が、片手に持ったラケットで自分の肩を叩きながら当たり前のように言った。
跡部はため息をついてソファに身体を沈めた。
忍足をはじめ、レギュラーメンバーは各々それなりに、千石が来なくなったことに関して気にしているようだった。
今も、岳人とジローにどうして千石は来なくなったか、というようなことを忍足が説明している場面に、生徒会の集まりがあって遅れて部室へやってきた跡部が出くわして、なあと相槌をもとめられたところだった。
ここまでおおぴっらに聞かれるともう、跡部は怒る気も失せた。
勝手にしろと言わんばかりに吐き捨てる。
「お前に分かってたまるか」
「そんなことあらへんて。意外に第三者の方が見てわかることあるもんやて」
忍足は幾分か真面目な顔をして言った。
そんなもんかよ、と少し顔を逸らしながら、跡部は返す。
二人のやりとりを見つめていた岳人は、イマイチよく分からない、といった表情で口を挟んだ。
ジローはというと、さっきまでは忍足の話を聞いていたようだが、今は跡部の斜向かいのソファの上で夢の中だ。
「で結局さあ、どうして千石来ないわけ?」
頭の上で腕を組んで、片足をぶらぶらさせた岳人に、跡部と忍足は顔を見合わせた。
そして忍足はラケットで叩く真似をすると、
「俺があっんだけ説明したやろ! なんで分からへんかな岳人〜!」
「ええだってさー難しいよ、細かいことばっかり!」
「ざまあみろ」
二人の知らないところで跡部はぼそりと呟く。
頬を膨らませた岳人が、細かいことはよく分からないけどさ、と前置きして続けた。
「千石また遊びに来ればいいのに。俺あいつ嫌いじゃないよ」
途端、忍足が吹き出して、笑い出した。
「な、なんだよ侑士! 別に来なくってもいいんだけどさ!」
「いやいやそうやあらへんて」
涙を拭いながら、忍足は跡部のほうへ向き直った。
「なあ跡部、お前こうやって千石に素直にゆったらええよ。いつも本当のこと、言わずに隠してへんで、ゆったらええ」
「何を、言わないって」
苛ついた跡部が下から忍足を睨む。それでも忍足はいつもの飄々とした表情を変えない。
それが余計に跡部の機嫌を悪くさせるのを承知で。
「だから、俺らにも本当のこと、なかなか言ってくれへんやろ。泣き言とか、グチとかな。そういうことも含めて、本音とか、言ってないんやろ千石に。それを言ってまえ、っていうてんの」
「何でお前にそんなこと言われなきゃなんねぇんだ」
跡部がソファから立ち上がる。その拳は固く握られているように見えた。
一触即発なぴりぴりした雰囲気に、岳人はどうしていいのか分からないといったように忍足と跡部を交互に見つめた。
跡部がが忍足に近づく。忍足はやはり構えもしない。
掴みかかるか、と思われた瞬間、
「ふわぁあぁぁ〜」
と大きくを伸びをしてジローが起き上がった。
「おはよー」
「…………おはよーさん」
「…………おはようじゃねえ」
寝惚けなまこをこすりながら微笑むジローにあっけに取られて、二人はつい返事をしてしまった。
あのさあ、とあくびまじりにジローが話し始める。
「忍足はさ、本当のこと言ってもいいよって、言ってるんだよ。グチとか俺らに言えばいいのにってさ。言わなきゃ、俺だってどうすることも出来ないよ跡部。千石も、そうなんじゃない? 言ってほしいことがあって、跡部は、それを言わなきゃダメなんじゃないの」
言い終えるとジローはまた大きなあくびをして、あーまたねーむくなってきたーと身体を倒した。
黙って聞いていた忍足と跡部はしばらく突っ立ったままだったが、ふと目が合うと、跡部はそっぽを向き、座っていたソファの方へ戻って鞄を拾い上げた。
そして、ジローの顔を覗き込み、ジローと呼びかけたがもうまともな返事は返ってこない。
小さく舌打ちして額を小突いてやる。
今度ポッキーでも奢ってやるか。
「……おい忍足」
「んー?」
「今日は部活休むって監督に言っとけ」
すれ違いざまの跡部の言葉に、忍足はこっそりと笑った。
「あいあいさー」
「それから岳人!」
「何?」
「樺地を呼んで、ジローをコートに運ばせろ」
「おっけー分かった」
ぴょんと跳ねて、岳人は敬礼をとってみせた。
出て行こうする跡部を忍足が呼び止める。
「お礼に今度俺の悩み聞いてや」
「やなこった」
そうしてドアの向こうに消えていったその人は、もういつもの跡部だった。
「なあさっきのワザとだろ」
ドアが閉められたのを確認して、楽しそうに笑いながら岳人が忍足を肘でつつく。
忍足はふーと息を吐くと、
「まあ怒ってもうて少しでもスキッリすればええかなと思うたんやけどね」
一本取られたわ、そう言って、眠りについてしまった一番の功労者を二人は眺めた。
「南……」
「部長……」
「…………分かってる。何も言うな」
東方、室町、そして南の目の前にかれこれ30分、部室のパイプ椅子に座って机に肘をつき、ぼうっとしている千石がいた。
明らかに、心ここにあらず、といった感じだ。
今日も風が強い。
普段のにぎやかな山吹の部室なら、亜久津が壊した窓が揺れてガタガタと騒がしい音を立てても、
大して気にはならないが、今日の、正確には一週間前から様子が少し違った。
ムードメーカーでもある千石の雰囲気が部員に少なからず、伝わっているのだろう。
普段どおりの千石のときもあったが(それでも分かる人には無理をしているように見えたが)、
時折、あんなふうに意識を飛ばされると、部内はやはり静かになる。
三人は再び顔を見合わせると、
「あんな調子になってからもう一週間になりますね、千石さん」
「何かあったのかな」
東方がうーんと考え込むのを尻目に、残りの二人は額を寄せる。
「やっぱりあれが原因なんだろうなあ……」
「ですね。そもそも千石さんがこんな長い間我慢してるなんて、ありえない話ですよ」
「だよなあ。真面目になったかと思えば、こうだし。来ても身が入ってないんじゃあなあ」
「ケンカでもしたんですかね?」
「え、ケンカ? 我慢してるとかなんの話?」
南と室町は、数秒間東方をじっと見つめていたが、また何事もなかったかのように話し始めた。
「うーん、ケンカってわけじゃなさそうだよな。だったらもっと落ち込んでる気がする」
「ああ。それかもっと無理矢理に明るいフリとかですよね」
「そうそう」
「落ち込んでんの千石」
もう東方の発言は二人の耳にとまることはない。
「やっぱりあいつに我慢させるのはよくなかったか…… でも部活だって大事なんだけどなあ。はあ」
「でも、あれじゃあやってるうちに入りませんよ」
「だよなー」
「だから我慢ってなんの話だよ」
「つーか俺思ったんですけど」
「何室町くん」
「フツーこういうときって、相手が心配して見にきたり、会いにきたりしないんですかね?」
「相手ってケンカの?」
そこでしばし沈黙が訪れた。勿論東方の的外れな疑問に呆れたわけではなく。
「あー……」
「うーん……」
『あの人だもんな……』
二人で唸ったあげく、キレイにハモった。
「部長、ここはやっぱり……」
「そうだな。分かった、部活も大事だけどその前に元気になってもらわないとな、ウチのエースに」
「ですね」
「なんかよく分かんないけど、そりゃあ千石が元気な方がいいよな」
うんうんと分かったふうに頷く東方とともに、南と室町も頷く。
その頃千石はというと、いまだにこの三人が喋っている内容にも気づかず、
ぼうっと中空を見つめたままっだった。
ぐるぐると、考えごとと言えるような言えないような、そんなことを思い巡らす。
ああもう一週間経つんだなとか、こんなに長くて。でもよく思い出せない日々もなかったなとか、
今日もメール来なかった、こっちからしてみようか、今更?、うわーしにくいよホントとか、
いきなり押しかけて謝っちゃうなんてどうよ?、いやでもなんで俺謝るんだろう、とりあえず部活部活!とか、
とにかく今日はやめよ、また先延ばしになっちゃうなあ・・・とか、
ああもう一週間になるのか、というふうに、最初に戻る。そしてため息をつく。その繰り返しだ。
「千石」
「んあ?」
運良く、思考が途切れた瞬間に声をかけられた千石は気づいて振り返った。
「何南〜、ん、皆さんお揃いで」
へらりと笑って机に伸びる。南は改まってごほんとひとつ咳払いをした。
「千石、あー……、今日は部活出なくていいぞ」
「え、なんで? 普通に練習日だろ今日」
突然の話で、千石は起き上がった。
「いやあのそうなんだけど、お前最近元気ないだろ、それって……」
「そうかなあ」
「跡部のことが気がかりなんじゃないのか」
千石は目をぱちぱちさせ、室町が頷く横で、東方はあとべ?と首を傾げた。
「気になるんだろ。ここ一週間、お前ずっとそんな感じだしな」
「……そんな感じって?」
「ぼうっとしてて、いつもため息ついて、練習してても上の空、笑顔も空回りしてる。千石らしくないよ」
そう言われて、千石は顔を伏せると小さく、そっかーと呟いた。
「ホントらしくないよねー……」
うなだれたその姿に南は慌てて近寄ると、肩を叩いて明るい様子で言う。
「い、いや、なんていうか、我慢はよくないぞ! 部活出てくれるのは嬉しいけどさ、でも千石が元気じゃないと! みんな心配してるんだ」
「……うん」
そっか、俺元気ないんだ。
皆に分かってしまうくらいに。
跡部くんがいないと俺ダメなのかな。
そんなにも跡部くんに俺、会いたいのかな。
……跡部くんもそうだろうか。
そう考えると、ほんの少しだけ元気と勇気が湧いた。
俺の気持ちの十分の一でもいい。同じ、気持ちがあるのなら。
「よし!」
勢いよく千石は立ち上がった。ぱちんと自分の両頬を叩く。
「お、行く気になったか」
「とりあえず電話してみる」
「……そうか」
ほっぽってあった携帯を掴むと部室を出た。
番号をプッシュして、待つ。
その間、心臓の音がやけに耳についた。鋭く深く、息を吸い込む。
彼は出てくれるだろうか。
* * *
出たら、謝ろうと思った。
いや、自分のことだから真っ先に怒鳴ったとは思うけれど、お前何考えてんだよって怒ったあとは、謝ろうと思っていた。
それなのに、
「(何で通じねぇんだよ!)」
跡部はむなしく鳴り続ける電子音をボタンを押して遮った。
くそっ、と近くにあった石を蹴り上げる。
やっと決心して会いに行こうと思って、とりあえず電話をしてみればこれだ。出鼻をくじかれた気分だった。
俺からの電話だと、あいつはすぐに気づくはずなのに。
「俺」からだと分かるからこそ出ない、のか。
そんなことを考えていた跡部に、ふと、別の嫌な予感がした。
「(まさか……女にかけてるんじゃねぇだろうな)」
あいつなら有り得る。
この一週間、街中でナンパなんかしてたから来なかったってのか?
有り得る。
「くそっ! 女なんかにうつつ抜かしてんじゃねぇよ!」
苦々しく呟くと、跡部は足早に学校を後にした。
* * *
「出ない……」
何回聞いたか分からない呼び出し音をようやく千石は切った。
この時間ならまだ部活始まってないと思ったんだけどな。
じっと携帯を見つめる。
電話帳に表示された跡部景吾の名。
跡部くんあんまりケータイ使わないって言ってたよね。
めんどくさいって。
……それだから俺にメールも電話もなかなくれないわけだけど。
「(誰と、話してたんだろう)」
めったに使わないケータイで話す相手。
まさか……お、女の子とか?!
…………まさかね。
自分の考えたことに苦笑いして、打ち消すように頭を振る。けれど一度抱いた疑惑は消えない。
俺が連絡しなくなって、一週間しか経ってないのに? (いや一週間経ってると言った方がいいけど)
だから俺に連絡しないし、電話に出る必要はないぜ、みたいな?
もう用なし、みたいな。
何かが千石の中でぶちっと音を立てて切れた。
……千石くんにだってねえ、我慢の限界ってもんがあるんですよ!
勢いよくドアを開けて部室に戻ってきた、明らかにさっきと雰囲気の違う千石を、南たちは手を止め、見つめた。
机の上に置いてあったカバンをひったくるようにして、千石はまた外へ出て行こうとする。
それを南がそっと呼び止める。
「あの、千石?」
「南」
「あ、はい」
やたら強い千石の語気に南の口調は思わず丁寧なものになる。
「俺跡部くんに会ってくる。今日部活休むから」
「あ、うん、それは構わないけど。電話、通じたんだな」
「通じなかった。だから行ってくる」
にっこり笑うと千石は風のように去っていった。
「え?」
あっけに取られた南を始めとする部員の中で、一人室町がもはや他人事と言うように呟く。
「どうでもいいんですけど、千石さん、目笑ってなかったですね」
「う……東方、いつものくれ」
「おっけー」
千石のかわりに今度は南が机に突っ伏した。
大事にならなきゃいいがとか、ああ何でウチはこうとか、ため息まじりの呟きが聞こえる。
室町は、人知れず、まったくようと心の中で呟いた。
駅のプラットホームから、階段を駆け下りる。
何度か来たことのある駅前はロータリーになっていて、そこから山吹中へ行くバスも出ていたが、跡部がバス停に目をやると、待っている人はまばらで、バスが行ってしまったばかりなのがうかがえた。
しょうがねぇ歩くか。
駅から山吹中はさほど遠くはない。15分もあれば着く。
自然と、足が速くなった。
行ってどうなるのだろう、そういう思いが時折過ぎった。
行ってどうするのか。
そもそも、会えるのだろうか。
「(・・・そんなの分かんねぇよ!)」
靄を打ち払うように、跡部は舌打つ。
ただ、会えるだろうと漠然とした確信だけがあった。
次第に早く流れていく人込みの景色の中、捜す。目的は見つからない。
どうして俺が、あの太陽のような髪の色を見逃そうか。
「何やってんだよ!」
「うわあ!!」
植え込みの向こう、公園の外からした思いがけない大声に、千石は飛び上がった。
運悪くバスが行ってしまい、千石は走って駅へ向かっていて、近道と公園の中を突っ切っているときだった。
今まさに会いにいこうとしていた人の声が自分を呼び止めた。
千石がそうっと振り返ると、ずかずかと大またで公園に入ってくる跡部の姿が目に入る。
「あ、跡部くん!」
眉間にシワを寄せ、明らかに不機嫌と見て取れる跡部だったが、息が切れていて、大きく息を吐き、呼吸を整えている様を見ると、どうやらここまで走ってきたのが分かった。
一方跡部も、千石の息が上がってるのを見、焦った顔に汗が光るのが見え、襟元をゆるめているのに気づき、ああこいつも走ってきたのかと思った。
久しぶりの再会はこんな感じで最悪な状態だったけれど、お互いの顔を見て、元気そうで良かったと少しほっとしていた。
息が整ったところで、跡部がようやく口を開いた。
「……お前何で、一週間も連絡よこさねぇんだよ」
謝るはずが出てきたのは責める言葉。待ってたのに、その言葉も飲み込んでしまった。
千石は、何も答えないかわりに俯く。
「あんだけぎゃあぎゃあうるさくまとわりついてたくせに、何だって言うんだよ。
人がこうして来てみれば別になんてことはねぇみてえだし」
ひとつ跡部はため息をつく。
千石は俯いたままだ。言おうとした文句は何ひとつとして出てこなかった。
自分だって連絡くれなかったじゃないか。
俺だって部活あるんだよ。
さっき、話し中だったでしょう。
全部、跡部の顔を見たらもう言えなかった。
ずっと、俺はこうなんじゃないだろうか。
俺たちは何も変われないんじゃないだろうか。
そんなことを考えた。
「……黙ってねぇで何か言ったらどうなんだよアーン?」
跡部の声が遠くに聞こえる。唇を血が滲みそうなくらい強く、噛み締めた。
ああもう、終わってしまうのか、そう思うと苦しかった。
「おい、聞いてん……」
千石は片手を突き出すようにして、跡部の言葉を遮り、拒んだ。
そして、
もう別れよう
とぽそりと言った。
突然の別れの言葉に、跡部は言葉に詰まる。
そうして何もいえないうちに千石が顔を上げ、出来る限りの笑顔で言った。
「別れよう、跡部くん。もう俺ダメだよ。……じゃあね!」
その笑顔が跡部は引っかかった。時折する、寂しそうな笑顔だった。
どうしようもなく、腹が立った。
踵を返してこの公園から出て行こうとする、千石の手を掴む。
「待てよ! 何でお前こんなときまで笑ってんだよ!
お前はいつもそうだ、笑ってばかりで、俺もそうだけど、お前こそホントのことは何も言わない。
好きだなんてよく言えたもんだよないつもいつも! 肝心なことはいつも笑ってごまかしてきたくせに!
今日だって俺に何か言うために走ってきたんじゃねぇのかよ!
なのに、出てきた言葉が別れようだと? バカにすんな!」
そこまで一気にまくし立てると跡部は一息ついた。そしてキッと千石を見据えると、
「……最後くらい、本当のこと言って別れようぜ。心の底から嫌いになって、それから別れようぜ」
と言って、手を離した。
自由になった手を千石はぎゅっと握り締めた。
「嫌い」という言葉がやけに耳に残った。
肺が千切れそうに痛くなって、気がついたら叫んでいた。
「何言ってんだよバカ跡部! 嫌いなんて一言も言ってないじゃないか!
嫌いになんて……なるわけないじゃないか!」
跡部はびっくりした顔して、目を大きくして千石を見つめていた。
「ああそうだよ、俺はいつも笑って、肝心なことは何も言えないよ!
今日だって君に会ったらぶちまけてやろうと思ってた。
何でメールも電話もくんないんだよって、何で電話出ねぇんだよって、女にうつつ抜かしてんじゃねえって、いろいろ言うつもりだったよ! でも・・・・・・君の顔見たら言えなかった。
俺が君に何も言えないのは、君に、嫌われたくないからだ」
急に自分の気持ちをさらし始めた千石に驚いた跡部だったが、我に返ると自分も負けじと言い返した。
「っなんだよ! いつもそうやって言えばいいだろ! 何だよ、嫌われるのが怖いって!」
「君が好きだからだよ! 君に好きでいてほしんだよ!
だからほら、俺はこうやって好きって伝えてるのに、君は好きって言ってくれない。
ホントに肝心なことを言わないのそっちじゃないか!」
「・・・好きに決まってるだろ! だからこうして来てんだよ! 好きじゃなきゃ、走って、必死になって捜すかバカ!」
「こっこんなときだけ好きって言うなよバカ跡部! 俺はいつも言葉にしてほしいんだ!
君の言葉がほしいんだよ!
俺は!
いつも、君の言葉がほしいんだよ……!」
「……言ったな!」
広い、誰もいない公園で、ひとり叫ぶ千石の、最後の方の言葉ははっきりと聞こえなかった。
あふれ出る涙を千石はごしごしと手の甲で拭う。
跡部は嗚咽を洩らす千石の手を引き寄せると、距離を縮めて、額を寄せた。
お互いの体温が溶けるように熱い。
そうして跡部は千石が待っていた言葉を何度もささやいた。
喉の奥が痛かった。
何も見えなかった。
世界には、跡部の言葉と、この幸せな痛みしかないように千石は思った。
「……さっきみたいに言いたいことは言えよ。してほしいこと、ちゃんと言えよ。俺は、こんなだから、なかなか言えねぇけど、でも、言うようにするから、無理して笑うなよ」
目を閉じていた千石は、跡部の詰まった声に気づきそっと目を開けた。
「……泣いてるの?」
「うるせ、」
少し咳き込んだ跡部を見て、千石はくしゃくしゃになった顔で笑った。
「……跡部くん俺、かっこ悪いよ〜……」
今度は跡部が笑う。
「バーカ! 最初から知ってんだよそんなの」
「えへへ……ほんとかっこわる……俺たちかっこ悪いね」
「バーカ」
お互いの温もりが手の中にあった。どうしてもっと早く手を伸ばさなかったのか。
それでも、今ようやく気づいたことが嬉しかった。
二人ともしばらくの間、そうやって涙のまじる声で笑い合っていた。
* * *
跡部にもらったティッシュで盛大に鼻をかむと、千石は大きく深呼吸した。
もう声が震えることはなかった。
目と鼻の頭が赤くなっていることを考えると、家へ帰るのが少し億劫だったが、今一緒にいるひともそうだと思うと可笑しかった。
「何にやにやしてんだお前」
帰るぞ、と公園を出て行こうとする跡部を千石は追う。
ふと、出たところに、自動販売機があるのを見つけて跡部を追い抜かして駆け寄った。
ポケットをまさぐる。
「おラッキー! ちょうど120円」
コインを入れて、うーんどれにしようかなと迷っていると、横からすっと手が伸びて、コーヒーのボタンを押した。
がこん。
「ああー!」
「うるさい。お前が遅ぇんだよ」
缶コーヒーを取り出しながら跡部が面倒くさげに言う。
「ひどいよー俺こまかいのそれしかなかったのにー!」
そう千石が言う間に、跡部は自分のコインケースから硬貨を取り出すと、自動販売機に入れる。
さっさとボタンを押し、もうひとつ缶を取り出す。
「どうせお前はこれだろ」
ほらよと投げ渡すと、跡部は缶コーヒーを開けて歩き出した。
千石は手元に残された缶に目をやると、それはロイヤルミルクティの缶でちょうど迷っていたうちのひとつだった。
なんだか嬉しくてぼうっとしていると、随分先に行った跡部が大声で自分を呼んだ。
待ってよと、余韻に浸りながら、慌てて千石は追いかけた。
駅へ向かう道を二人してゆっくりと歩く。
その道のりで、先ほど繋がらなかった電話の原因はお互いだったということに気づいて、顔を見合わせて笑った。
「でもメールすればよかったんじゃ……」
「めんどくせえ」
「……あっそう」
少ししょんぼりした千石に跡部はため息を吐きつつ、返す。
「つーかそういうてめぇは何でしなかったんだよ」
「……思いつかなかった」
「バーカ」
「ひど! でもこういうの以心伝心っていうの? 同じときに電話しちゃうなんて運命だよね!」
元気よくぴょんと跳ねたせんごくの横で、
「すれ違ってちゃあ意味ねえけどな」
とさらりと跡部が呟いた。がーんと千石が言ってみせる。でもすぐに笑って、
「でもこうやって本物の声が聞けてよかった」
と言って、ミルクティをすべて飲み干すと、近くにあったゴミ箱にシュートした。
からんと音を立てて缶は収まる。
ラッキーと千石は呟いた。
「千石」
その様子を見ていた跡部が呼びかけた。千石が軽い足取りで振り返る。
「ん?なに?」
跡部は少しうろたえた表情で、それでも真っ直ぐに千石を見据えて言う。
「お前、部活、ちゃんと出ろよ。休みの日とか、時間作ればいいだろ。会えないときはメールすればいいし。もう、サボったりするな」
最後の、優しい口調に千石は眩しそうな笑みを漏らした。
「……うん。俺テニス頑張るよ。でもすっごく会いたくなったら、行っちゃうかも。そのときは許して」
その言葉を受けて、跡部も困ったように笑った。
「ねえ跡部くん」
「何だよ」
「俺たち、お互い同じものが欲しかったんだね」
跡部は、少しの間黙っていたが、思い直したように、そうだなと小さく返した。
その様子に千億は満足な表情を浮かべると、
「跡部くん大好き!」
と大きめの声で言ったので、跡部は恥ずかしがる間もなく、千石の頭をカバンで叩いた。
その後で、千石を追い越す瞬間に呟いた跡部の言葉は、千石に届いただろうか。
振り返った跡部は、夕日に照らされて一層赤い千石の髪、そして顔をくしゃくしゃにして笑う千石を見て、自分も最大限の笑顔で応えた。
本当の恋が始まるなら、それは今だと、跡部は思った。
fin.