思い出したら、じわりと目尻に涙が滲んだ。
これはどんな気持ちが溢れたせいなんだろう。
怒りか、悲しみか、悔しさか、それとも。
千石はやりきれない思いを口の中で小さく呟くと乱暴にごしごしと目元を擦った。
遠回りだけど土手の方を選んで良かったと思う。
いつもの表通りを歩いていたら余計な注目を集めていたに違いない。
会社帰り学校帰りの人間が多い時間なおのこと人目を引いただろうし、何より足を急がせる大勢の中、独りとぼとぼと情けない背中で歩くのは自分をより惨めにさせただろう。
良かった。
ほんの少し安堵して、大きく長めに息を吐く。
白く染まった息が夕闇の風に流れる。
久しぶりの大きなケンカだった。
確か二回目だ。
千石は鼻をすすり上げると赤く冷えた鼻の頭をマフラーに埋めた。
土手の斜面に生える雑草がざわざわという音とともに風を運び、マフラーの端をゆらゆらと揺らす。熱を持つ目の縁に触れる。
跡部のバーカ。
ケンカの相手の口調を真似て心の中で呟いてみる。
何もあそこまで言わなくったっていいじゃないか。
確かに俺もすごいこと言ったけど、でも何もあんなこと、俺だって言ったけど、でも。
言われた言葉に言った言葉、それを思い出してまた心にもやがかかったような気分になる。
千石は片手でぐしゃぐしゃと自分の頭をかき回した。
ああだって、俺、そんなこと君に言われたら世界にひとりぼっちみたいじゃないか。
情けない、そう反射的にそう思いもしたけど、また喉の奥がきゅっと締まるような、何ともいえないあの気持ちがせり上がってくる。
ひときわ強い風が川面をさらい、千石の身を吹き上げた。
その勢いに千石は固く目をつぶり、足をとめて止むのを待つ。
過ぎ去って、何気なく後ろを振り返った。冷たかった。冬の冷たさだ。土手下の広場にも土手にも誰もいない。ただでさえ寂しい電灯の明かりはまばらに配置されているせいで千石から大分離れた後方にぽつんとあった。
遠く遠くに、電車の走る微かな音と間延びしたクラクションが聞こえた。
……ヘコむなあ。
やるせなくなってその場にしゃがみ込む。
どうして、こんな寂しい風景の中を自分は孤独に歩いてるんだろう。
こんなときに誰一人として自分の傍にいてくれなくてほんとに、まるで世界にたったひとりのような気分になるなんて。ああなんで。
膝を抱え、額を膝に押し付け唇を噛み締める。制服の布地に沁み込む温かい感触があった。
何であんなこと言うんだよ。俺だって分かってるよ。分かってる、俺も、ひどいこと言っちゃったって、分かってんのに。
今ぐらい、あの想いをどこかに置いておきたい、と思う。君が好きだなんてこと今だけ忘れられたら、ただ何も考えずに怒ったり泣けたりしたら、どんなに楽だろう。
千石は少しだけ顔を上げた。膝を抱えた腕から目だけをこっそり覗かせる。
涙でふやけた視界は、川面に反射して光る街灯の光を反射させて、眩かった。
君は、今どうしてるかなあ。
ゆっくりと目を閉じると瞼の裏に跡部の姿が浮かんだ。
いつかの、土手に独りで屹立していた跡部の姿。あのときの跡部は泣いていた。独りで泣いていたんだった。
「……ああ、俺のバカ」
途方もなく自分が情けなくなって沈み込む。そして勢いよく顔を上げ涙を拭って大きく深呼吸して、ポケットに手を突っ込んだ。
――――♪
静まった夜の帰り道に似合わない明るい着メロがポケットに入っている自分の携帯から鳴り響く。
「お、わっ」
あまりに絶妙なそのタイミングに千石は危うく携帯を取り出し損いながらも驚いて立ち上がる。
その音楽の出所はもちろん千石の手元で、一人慌てふためいた様がなんだか気恥ずかしく周りを挙動不審に窺ってから相手の名前も確認せずに電話を取った。
「はい」
「……、俺」
やや躊躇いがあって聴こえた声はたった今脳裏に思い描いていた跡部だった。
「あ、とべくん」
一度携帯を耳から離し通話画面を確かめる。電話帳に登録されている番号と“跡部くん”と自分が入力した彼の名前があった。
急いで耳にくっつけ直す。
「えっと、あのね、俺も、今電話しようとしててね」
「悪かった」
「え?」
まくし立てようとした千石の言葉を遮って跡部がはっきりとした口調で一言告げた。
鼻で、細く息を吸う音が電話越しに聞こえる。
「さっきは言いすぎた。悪い、……ごめん」
最後の音が、喉を飲み下す音に重なる。
ああごめんね。
千石は心の中で噛み締めるように呟いて目を閉じた。
「う、うん、俺こそ、ごめんね。ごめん。すっごいきついこと言っちゃった」
出だしの一言は詰まってうまく言えなかった。
跡部の声はいつもより低く掠れていた。それはきっと跡部が自分と同じだっということだった。
ごめんね。
跡部が向こう側で、いや俺も悪かったと千石の心の声に重なるようにして謝る。
見えるはずもないのに千石はぶんぶんと横に首を振った。
ううん、ごめんね跡部くん。
俺さ、さっきまで世界にひとりぼっちみたいな気分だったんだよ。君ももし、そうだったとしたら。
ごめんね。
涙の影が見え隠れする跡部の声を聞きながら千石は鼻をすする。
泣き声を洩らすまいとして出来なかった声が跡部の耳に届く。
「もう泣くなよ。……おまえどこにいるんだ。家じゃないよな」
行ってやるからそこで待ってろ。
そう言った跡部の声は意外にももうしっかりしていて千石はかすれた声で笑った。
「今ね、土手だよ」
「土手? ああ、いつものとこか」
「うん」
「じゃあ一旦切る。すぐに着く」
「ん、どこにいんの今」
「お前んちの近く」
「え」
驚いて、思わず千石は振り向いて自分の家の方向を見やった。さすがに跡部の姿は見えない。
「じゃあ切るぞ」
「えっ、あ、ちょっと待った!」
「何だよ」
慌てて千石は電話にすがりついた。ざわざわとした雑音が跡部の声にかぶる。早足で歩いているようだ。
「あのさ」
ぴんと姿勢を伸ばして立つ。息を深く吸ってはく。電話の向こうが静かになった。跡部が足を止めたのだろうか。
「もう俺は君を、独りにしないからね」
決めたんだ俺。
言い終えて震えた喉で一息つくと、やがて柔らかい吐息のような相槌が小さくひとつ、電話の向こうでこぼれた。
fin.