「ただいま」
今の暮らしを始めてから、出迎えてくれる人がいてもいなくても帰ったときはこうやって言うようになった。
今日は外から窓の明かりを確認したし、夕食の準備をしているだろういい匂いが廊下に漂っていたから、跡部くんが帰ってきていることは分かってる。
「ああおかえり」
ほら、すぐに返事を寄越してくれた。
声の方に顔を向けると玄関脇にある台所に跡部くんが立っていた。
朝見た品のいいスーツはとっくに着替え、普段着のTシャツにジーンズ姿で視線は落としたまま、深めの鍋をお玉でゆっくりとかき回している。
いい匂いの発生源は間違いなくここだ。
ウチの奥さんは、嘘嘘、ウチの跡部くんは料理が上手だ。正確には上手になったというべきで、二人暮しを始めた当初は俺しかまともに家事が出来なくて(それでも俺の方がましという程度だったけれど)、本人は少なからずそのこと、“できない”ということがクツジョク的だったみたいでこっそりと執事さんに教わり今に至る。
和食はあまり作りたがらない。(俺はそっちのが得意。)
跡部くんちの食卓を見れば分かることだけれど、シチューとかの煮込み料理、手軽に作れるパスタなんかを今では自信満々にふるまってくれる。
……、今日のはビーフシチューかな。
部屋に満ちる温かな匂いを改めて吸い込んで、俺は靴を脱ぐ。
小さなシューズストッカーにその革靴を押し込んで家に上がった。
食べられるぞ、という跡部くんの言葉を背中で聞いて、すぐに行くと合言葉のように答える。台所、居間を通り、隣の寝室にとりあえず引っ込む。
一足踏み入れた途端、小さくため息が出る。
っと。
思わず、手の甲で口をおさえた。
外のことは家に持ち込まないって決めてる。別に跡部くんと決めたわけではないくて、俺の見栄って言っていいかもしれない。
勘のいい跡部くんにはすぐ分かってしまうから余計心配かけたくないっていうか。そう、だって俺にとってもつまらないことは、跡部くんにとってもっとつまらないことだから。
帰り道の途中ですでに脱いで手にしていたスーツを、まず放り出したカバンの上に置く。
部屋の一番奥にある窓の近くには、小さいながら洒落た書き物机が置いてある。俺は机なんて必要なかったけれど、跡部くんは何かとちゃんとした机でする方が落ち着くらしく、大学生の頃からこの部屋にひとつだけあった。
その机の椅子を引いて、よいしょと小さく声に出して腰を下ろす。とっくにゆるめていたネクタイをぐいっと引っ張って、するすると解いた。それも適当に丸めてカバンの近くに放る。
全身から力を抜くように息を吐いた。開いた膝の上に肘を置いて軽く手を握り合わせる。
うつむいた肩にじんわりと淀んだ空気のような重いものが覆い被さる。目をつぶって鼻で息を吸い込み、吐く。
うっかりと、瞼の裏に浮かび上がる出来事から、慌てて頭をグーとパーで小突いて気を逸らすようにする。
あーもーばかばーか。
思い出したって仕方ないのに。暗くなったって、仕方ないのに。
へこたれんな。がんばれって。
覇気なんてまったくない言葉を唸るように心の中でつぶやく。
悪い空気が心の中で膨れていくみたいに、胸のあたりをもやもやとさせる。
つられてごわごわしそうになる顔をほぐすように、ほっぺたを手で伸ばしたりつまんだりさすったりしてみる。
「……何してんだ」
「へ?」
突然した声に顔を上げると、部屋の出入り口に寄りかかるようにして跡部くんがこちらを見ていた。そして吹き出して笑う。
「お前何その顔」
「えっ、あいや、あはは」
頬をつまんでいた手を慌てて離す。
まずったな、一人で百面相なんて変だよなあ。でも暗い顔してたのを見られるよりいいかな、とそんなことを思っていると、跡部くんがゆっくりと笑いを収めつつ部屋に入ってきた。俺が脱ぎ捨てたスーツをひょいと拾い上げる。
「まったく、しわになるから脱いだらすぐかけろって」
そう言いながらスーツをはたき形を整えながら、机の横にある本棚の隣、ステンレス製のラックからハンガーを取り出した。
俺は座ったまま、跡部くんを目で追っていたのだけど、
「今日、ちょっと遅かったな」
と、その作業をしながら跡部くんがこちらを見ずにぽつりと言った。
どきっとする。そう?ってとっさに返したけれど、余計なことがバレちゃったかもしれない。
俺が何て言葉を続けようかと迷っていると、スーツをハンガーにかけてラックに収めた跡部くんが俺を見た。
「駅からお前メールしただろ、それからやたら時間かかってたから」
跡部くんは表情に特にこれといった変化はない。
俺が見る限りその顔はいつもの跡部くんで、どことなくほっとしてちょっと笑った。
「いや、コンビニ寄ろうかどうしようか考えてのんびり歩いてたから。そんだけ」
それは本当。憂鬱な気分が手伝ったこともあるとは思うけれど。
跡部くんは、ふうんと気のない返事を寄越すと、放り出されて倒れていた俺のカバンをラックに立てかけ、
「早く着替えて来いよ。冷める」
と言い残して部屋を出ていった。
はーい、とそれに答えて、俺はようやく腰を上げた。
着替えて居間に行くと、台所のすぐ目の前にある二人でかけるのには十分なダイニングテーブルに、湯気をたてて熱々のシチュー、サラダ、そして席についていた跡部くんの前にはパンが、俺の席にはご飯があった。
ちらりと目で促されたのに気づいて、メンゴメンゴと謝りながら俺も椅子に腰を下ろす。
「いただきます」
「いっただきまーす」
スプーンでまずシチューをすくって口に運ぶ。あち、と小さく口の中で叫ぶ。熱くて熱くて美味い。
肉もほどよくとろけていて、舌で転がすとたまらなかった。
あーうまいな、てんごくだな。
おいしいよ、と口にしながらシチューをすすっていると不意に跡部くんが食べていた手を止めた。
「段々涼しくなってきたな」
うん?と皿から視線を外すと跡部くんは俺の肩越しの向こう、居間の奥のベランダに面する掃き出し窓を見やっていた。
俺はわずかにその方を振り返り、帰りのことを思い出す。
満員電車の中は蒸し暑くて、だから駅に着いてすぐスーツの上着を脱いだのだけど、だらだらち月も星も見えない空をたまに見上げながら歩いてきたその帰り道に吹くゆるやかな風は心地よかった。確かに、外の空気は秋の気配を含んでいる。
「……うん、そうかも」
ぺろりとスプーンをなめながら同意すると、跡部くんは俺に視線を戻した。
「そういう季節になってくるとあったかいものってさらに美味く感じる」
目を少し伏せるようにして、跡部くんはシチューをやさしくスプーンでかき混ぜるようにした。
そうして俺を柔らかく見つめると、どうだ?と言って笑った。一口分すくってじっくり味わい俺が頷くと、なら大丈夫だとひとり言のようにして微笑む。
「ま、ゆっくり味わえ。日々の糧だ」
と笑って跡部君が一口シチューを口に運んだ。完璧と自分で褒めて少し口角を上げる。
俺は目を瞬くと目線を下げ、ちょっと真似てとろりとシチューをまぜ、にんじんをつついてみた。
なんだか顔が上げられなかった。
まったくこのひとはもう、全部分かってるんだ。
そう思うにはさっきの言葉で十分だった。まいったなあ。
俺はほんの少し笑いを洩らしながらまたシチューを食べ始めた。野菜もってまた言われるから、サラダも。
その後、時折ぽつぽつと言葉は交わしたけれど、基本食事は黙々とする跡部くんは特に何かに触れるわけじゃなかった。
食事のときも話題を振る俺が今日はおとなしかったから、食卓も当然割合静かになって、でも、それは嫌じゃなかった。
いつもと変わらず、跡部くんのシチューは美味しかった。
跡部くんはやっぱり料理が上手だ。
そして何より、彼は、俺を救い上げるのが上手だった。
fin.