夏の午後ってそれだけでエロい、って笑って言ってみたら、俺のベッドの上でえらそーにあぐらかいて座ってる跡部くんは視線だけで一蹴してバカもアホも言ってくれなかった。
いや確かにここはエアコンばりばりに効いてて汗だくにもなってなくってですしね、えーとその。
嘘冗談だってって取り繕ってみようかとも思ったんだけど、そんなこと言える空気も隙もへちまもなくて俺は黙って床で座りなおした。とりあえず正座。っていうか部屋の主の俺が床ってどうなんだろう。
「……あのーそういう視線にはちょっと俺慣れてないんですけど」
そう言うと、さっきから氷点下の冷酷さで俺に視線を送っていた跡部くんは、
「へえ」
とまことに冷めた返事を寄越してくれた。無表情で。
ええと、すいません。
なんだか尻にしかれてるダメ亭主みたいだなあと思いつつ、俺は膝に手をついてちょこんと謝る。こういうときは素直にしておくのがいちばんだ。そうっと顔を上げてみると、息を吐いた跡部くんがさっきよりかは大分柔らかくなった瞳で、
「別に」
と言った。
あ、うん、そっか。
俺たちのたわいない会話なんていつもそんなもんだ。色気なんてひとつもありゃしない。まあ中学2年生の俺たちに色気なんてものを期待する方が無理っていう話でもあるのだけれど。
ねえねえと俺は口にしながらベッドに腰かけて跡部くんの横に収まった。あー、と気だるげな反応を跡部くんは漏らす。
ほんとは、次の日曜ヒマ? ヒマならどっか行こうよって続けるつもりだった。最近どこにも行ってなかったからさ。この人、俺が誘わないと誘ってもくれないわ、会いもしてくれないわ、つめてーのなんって。
でもそれよりも、まただって思ったら一応言わずにはいられなくて。
「跡部くん、血出てる」
「あ?」
俺がすっと指差すと跡部くんは素直に目線を落とした。結局どこだか分からなかった跡部くんは、どこだよ、とまた偉そうに言った。
ここ、と指を触れるか触れないか近づけたのは唇だ。すると跡部くんはああと忌々しげに呻いて、さっきもう乾いたと思ったのに、と呟いた。
ああ今日もだったのか、と俺は思う。跡部くんはたまに傷を作ってやってくる。今日はかなり軽い方だけれど、いつだったか明らかにボールが当たったとかで説明できるのでなく、人に殴られた痕をほっぺたに作ってた。今までの話を聞くところ相手は部活の先輩らしい。
こうやって学校で傷を作ってきたとき、だいたい俺の家に寄ってくことが多い。多分すぐには家に帰りづらくてちょっとした避難場所に俺んちはなってる。
俺は、それが少しうれしい。もちろん殴られない方がいいに決まってるけど、俺を頼ってくれた、そのことに安心してる。ここなら大丈夫って思ってくれてるってことだもんね。
母さんにいつも傷作ってるきれいな子大丈夫なのって心配されてるけど、まあ平気。最初は跡部くんのこと不良だと思ってたみたいだけど、ね、それも最近誤解が解けてきた。そう、跡部くんは基本的に外面がいいから。母さんにはものすごーく丁寧だ。うまく世の中を渡っていけそうななのになあと俺は思ってるんだけれど、まあそれはそれ、跡部くんでも上手くいかないことってあるんだろう。
跡部くんは中2でありながら、このあいだの夏の大会でシングルス2を任されていたりしていたし、先輩からのやっかみやらいじめってすごいもんなんだなあ。わりとのんびりな俺んとこのテニス部の雰囲気からじゃよく想像できない。
実力だけでなく、外見や言動も跡部くんは目立つだろう。
大丈夫? 今日はどしたのって聞いたら、
「殴られそうになったから避けたら、爪が当たった」
と不機嫌な顔で答えた。
避けたら相手さらに怒んなかった?って笑ったら、怒った、と跡部くんも笑った。
「でも痕つけられたら面倒だからな。活動停止なんて面倒なことは避けてえし。それは相手も分かってる」
運良くチャイムがなったからな、と跡部くんはふんと鼻をならす。
跡部くんは自分が手を上げることはしないらしかった。理由は簡単で、もしこの件が公にでもなれば部活動停止は免れないからだ。
テニスが出来ない。
その1点だけはぜったいに避けたくて、自分は手を上げず、相手の暴力が極力ばれないように努力しているらしい。もちろん痛いのは嫌いだから最近は適度に避けたりなんだりしているみたいだ。
「呼び出されるのも減ってきたしな」
自分の足首をつかんで跡部くんは目を落とした。まつげが2度3度上下する。
「あいつらも陰で卑怯なことしても、もうだめだって思ったんだろやっと」
ぐい、と顎をあげて、跡部くんが俺を見つめた。
「あと少しで、必ず俺の時代がやってくるんだ」
そしてさりげなく、唇をなめた。
そうだねと俺は静かに同意する。ほんとその通りだろう。この人は強いから。
思いながら俺はそのまま手を伸ばし親指で跡部くんの唇に触れた。
跡部くんはきゅっと唇を結び、逃げはしなかったけれど少しびっくりしたようで目を少し大きくし、やがて気後れすることなくじっと俺を見つめてきた。
ぐっとわずかに親指に力を込めてみる。じわりと、てらてらと艶やかな血が玉になってにじんだ。
いてえ、と小さく跡部くんが薄く唇を開け、顔をしかめて漏らした。
あごめんごめん。
指の力は弱めたけれど、離すことはしない。そして自分の指の腹を浮かんだ朱に浸して、すっと横に滑らせた。うすく、跡部くんの湿った唇に紅がのっかる。
てらてらと光る唇を本当にうすく開けたまま、跡部くんはまだ俺を見つめている。
何で瞬きしないの。
尋ねると、跡部くんはわざとゆっくりと俺をなぶるみたいに喰らうみたいにゆっくりとしてみせた。深みを増した瞳の奥が光る。
促されるように俺はもういっかい跡部くんの唇に親指を押し当てた。跡部くんが俺を試すように見やって、思わせぶりな唇を開いてゆく。生暖かい息が、俺の指をなぜる。ちらりと生き物のように覗いた赤の舌が柔らかい粘膜の温かさで俺の指先をそっとくわえて、肌を逆撫でた。
……うわわわわ!
びりびり電流みたいなのが俺の背中を駆け巡る。跡部くんはそんな俺の顔を見て、ふ、と笑った。
俺はそうっと跡部くんの舌、そして唇から指を離す。いや、逃げたって言った方が正しい。
そうして跡部くんは今まで見せたことのない顔で、
「気は済んだか」
と流し目で微笑んだ。
な、
な、
な、ん、だ、それ!
目を大きくして驚いてる場合じゃなかった。
もしかして、跡部くんはこんな台詞、殴ってきた先輩に言ってるじゃないよねってふと思った瞬間、よくわかんないけど運命のゴングが鳴ったような気がした。よくオンナノコが言ってる、かちんときたというやつに似ているかもしれない。
俺のことなんてすべてお見通しなんだぜって顔をして、それがほんとにほんとだとしたら、飛んで火にいる夏の虫って気もしたけど、ここで飛び込まなきゃ虫いやいや男じゃない気がした。
さっきまで跡部くんの唇と遊ばせていた親指を俺はわざとらしく口に持っていって見せつけるようにちゅっと音をさせた。視線は、跡部くんを見つめたまま。
俺はこの後、乱暴に跡部くんの顎に手を伸ばすだろう。肌の感触を確かめるように触れてなぜて、指でやさしくいたぶるようにしたら、激しく掴み寄せるだろう。跡部くんはきっと俺の手を振り払わない。逃げない。立ち向かってくる瞬きしない瞳で。俺はその双眸に、同じような視線で触れる。
恨むなら、こんな気持ちにさせた自分を恨んでよねって、君はそんなことを思いもしないだろうけれど。きっと君も待ってんだろうと俺は思ってる。喧嘩好きな君のこと。
そして言うんだ。
野蛮な光を込めた目、喧嘩を売るような目つき。
君の唇をちょうだいよ、ってね。
fin.