夕暮れの影に潜んで、お前は多分笑っている。
燃え尽きようとしているかのごとく紅い太陽を背にしている千石の顔はよく見えない。口の端に浮かんだ陰影だけで判断しただけだ。
寒さで澄んだ空気はやけにしん、としている。遠くの車の排気音、木々のざわめき、そんなものだって微かに聞こえるのに、俺たちがいるこの場所だけ、どこかひとつ隔てたところにあるような不思議な感覚に襲われた。
圧した空気が降り積もっていく。
「ねえ」
けしてその雰囲気を壊さずに千石が声を発した。
何だ。
俺もなるたけ言葉が浮き上がってしまわないように小さく答えた。
千石の白い制服が日没の寂しさをまとってぼんやりと薄暗かった。
逆光がそれとは対照的に目を圧迫し、不意にいたたまれなくなってそっと顔をしかめ自分の足元へ目を逸らす。
制服のウール地の毛羽立った部分がきらきらと光っている。茶の革靴がつややかにあった。
長い、長い影が伸びている。
千石をかたどったその黒の人影は俺の靴のつま先に届こうとしている。
足踏みした。つま先が、その端に引っかかる。
「跡部くんはもう決めてるんでしょう」
「……そうだ」
「そうか、だよね」
俺の返事を当然のごとく予想していたような千石は簡単に頷くと身を翻して歩き出した。
千石の影がのそりと動き出す。
夕焼けの紅を鈍く反射させるアスファルトの上を這いずる影を目で追うと、千石の硬い背中があった。
どれくらい、前になるだろうか。
何ヶ月前だっただろうか、そんなことはよく思い出せないが似たような夕暮れの日、受験のためなんて見え透いた嘘をついてしばらく会わないようにしようなど言い残した背中のことは鮮明に覚えている。
今俺に向けているその姿と同じ、頑なだ。
1回目の背中を俺は追わなかった。それを後悔に似た感情で今日まで心のどこかで引きずってきた。
躊躇は、する。
確実に離れていく影のそばで足踏みを何回かした。
それでも一歩踏み出せばまだ逃がさずに済む距離で二度目の背中を見据える。
くそったれ。
俺もお前も、まだ何にも肝心なこと、言ってねえだろう。
足を一歩分運ぶとやけに軽い音が響く。それに少し安心して俺は背中を追って歩き始めた。
意を決して息を吸い込む。
「お前」
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、」
突然、変わらない背中がはっきりと通る声で話し始めたのに少なからず俺は驚く。
「何だいきなり」
「もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは」
「方丈記だろ。それが、」
「イエス、正解あたり」
一体何だって言うんだという問いは千石の言葉にかき消された。
何がしたい、と唸るように言ったのに千石は答えず、
「じゃあ次これは」
と、笑いを含んだ楽しんでいる声音で振り返らずに言った。
「わたしたちは、今は、鏡を映して見るようにおぼろげに見ている」
「だからお前さっきの、」
「しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう」
「パウロ! 聖書だ」
「イエス」
自分の声が苛立ちで震えるのが分かる。それでも千石の態度はみじんも変わらない。
それがますます癇に障る。
「進学、しねえのか」
こんな会話をしたかったはずではないのに。
「我思う、故に、我あり」
「デカルト。何したいんだお前」
「山路を登りながらこう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」
「……夏目漱石、草枕」
「イエス」
「お前、聞いてるのか」
いらいらする。
背中にもかすかに揺れ動く影にもどちらにもなかなか追いつかない。
唇を噛む。
「夢は全く見ないか、面白い夢を見るか、どちらかだ」
「千石、」
「起きている時も同じだ、全く起きていないか、」
「千石」
「面白く起きているか」
「ニーチェだ! 千石、」
「この道より、われを」
「テニス、やめるのか」
ぴた、と千石の歩みが止まった。俺もそろりと足をそろえて止まる。
睨むように千石の背中を見ていた。太陽が眩しかった。
危ないなあ。
本当に小さく、千石が言ったのを聞き俺は訝しげに眉を寄せ顎を引く。
「……それ以上近寄ったらだめだって」
「は?」
影に濡れた背中がいっそう堅くみえた。何物にも触れさせない、そんな不可侵がある。
何だよそれ。
そう言いながら詰め寄ろうとした。その瞬間、千石が音もなくこちらを振り返った。
振り返りざまのその顔に、呑み込まれる。
「影、踏んじゃうでしょう」
やんわりと笑ったように見える表情はその実何も映していないとしか思えなかった。
耐えかねて、顔を伏せる。
黒い影が俺のつま先にがりりと爪を立てていた。
fin.