「こんばんは」
「ああ」
大人に対してとても丁寧な言葉遣いと振る舞いをする姿を知っているとときどきなんとなしにそれが思い返されて、俺に対するその差を可笑しく感じたりする。
俺の小さな笑みを跡部くんは見逃すはずなんてなくて、何だよ、と息を白く凍えさせながら言った。冬の澄んだ夜空の下を汽車の蒸気みたくそれは消えてく。
隠れるようにしてたんだけどなと俺はマフラーに指を引っ掛けて笑みをこぼしてみせた。
「いやいやなんていうか、こんな夜中に会うなんてないでしょ。だから楽しくて」
じゃ、行こうか。
背にしていた方へ身体を向き直して歩き出す。ほどなく跡部くんが横に並んだ。
俺たちが待ち合わせしていたのは大通りの交差点。その角を曲がる。
住宅もあまり並んでいないその道はいつもはこんな時間人通りなんてないはずなのに、今日だけは違う。大勢の人たちがあったかい格好をしさざめきあってそろって同じ場所を目指し、道に人の流れが出来ている。当然俺たちもそれの一部だ。
人が多いのと寒いのとで跡部くんとの距離はとても近い。
どきどきするよねなんか。お祭みたい。
俺がささやくように言うと跡部くんはちらと俺を見やって、お前はほんとこういうの好きだよなと白い顔を柔らかくした。
濃紺のマフラーの端が木枯らしにからめ取られるように揺れる。
ウールのパンツにカシミヤのダッフルコート。あったかくしてきたねと俺が尋ねると、お前こそ、とすかさず返ってきた。
「俺? 俺もばっちりだよ。ホッカイロも装備してるもんね」
「まあ、見れば分かる」
と、今一度俺の出で立ちを見た。
うんそうだろうねえ。トレーナーにボアの裏地のコートにええとまあ、俺たくさん着てもこもこだから見れば分かるよね。
徐々に人の流れが歩く速度をゆるめてそのまま列になった。俺たちの後ろを歩いていたほとんどの人もどんどんそれに連なっていく。
こんなに人がいても、やっぱりお前のオレンジは目立つな。そう言って、跡部くんは俺の髪の端を引っ張った。すぐに、冷た、と手をポケットに押し込んでしまう。
「あと何分」
跡部くんが列のずっと先を窺うようにしながら尋ねる。
えーと、と俺は腕時計のランプを点ける。あと、15分。
「今年も終わりか」
「早いねえ」
流れが止まって足を止めた俺たちは、呼吸をするたびに白く霞む空気の向こうにお互いの顔を見る。
しゃらんしゃらんという鈴の音が遠くにいてもよく聞こえた。
俺たちは初詣に来ている。
中3のときは跡部くんの予定が入っていてだめだったから、今回こうして俺の家の近くの神社にそろってお参りに来るのははじめてだ。
今年最後の日。大晦日ももうちょっとで終わりの12時45分。
他愛もない話をぽつぽつ交わして合間合間に腕時計をちらちら気にして、足踏みするように列は少しずつ進んでいる。
境内は明るかった。照明が用意され参道の脇にぽつぽつ置いてあったし、境内の横の広くなっているところでは火も焚いている。
すごい人だな。
跡部くんが前と後ろ、終わりの見えない列を見て呟く。
「甘酒がね、もらえるんだよ」
「甘酒?」
「そ。境内の横にね、テントがあって甘酒タダでくれるの」
それがいつも楽しみなんだと言うと、跡部くんはへえ、と笑う。
参道の石畳を踏むとこつこつという硬い音と、平たい石の感触のせいか靴底から足裏にひやりとした冷たさが伝わってくる。
鳥居をくぐる。皆がめいっぱい鳴らす鈴の音があたりの空気を震わせる。
境内の右手の方に白い町内会のテントが見えた。
やっぱりいつもどおり甘酒を配っていて、火を囲み何人もの人が暖を取りつつ一息入れ、炎に顔を赤く染めながら話し込んでいる。ぱちぱちと火の瞬く音と煙の匂いがこちらにも届いた。甘酒のなんともいえないあまったるいような、なれないお酒っぽい匂いも漂ってくる。
跡部くんもそれに気づいてテントの方を見た。
「ね、跡部くん甘酒飲む?」
「あーわかんねえ」
「嫌い?」
「じゃねえけど」
「飲まなくてもとりあえずもらってね。俺が飲むから」
曖昧なふうに跡部くんは返事をしてくれると、あれ結構あまったるいんだよなと独り言のように言い、お前が好きそうだと続けた。
「あ、跡部くん、もう一分前になるよ」
俺の腕時計はばっちり時報に合わせてきた。かっきり正確のはずだ。周りもほんの少しだけおしゃべりがおさまった感じで、皆時計確かめているのだろうか。
列は鳥居をくぐって後5組ほどといったところ。
「10秒前!」
時計を見せるようにして俺は跡部くんを見る。
跡部くんは俺の時計を少し覗き込むようにして小さな声でカウントダウンし始めた。
9、8、7。
俺も。
4、3、2。
「1」
長針、短針、秒針がすらりと重なる。
どこかで携帯電話のアラームがそれぞれに鳴るが聞こえた。
それと同時にまるでさざめきのように“あけましておめでとう”が広がっていく。まるで波のように、輪みたいに。
「あけましておめでとー」
「あけまして、おめでとう」
おめでとう。おめでとう。
輪唱のように人から人へそれはうつってくみたいだ。
この瞬間って不思議だよね。なんだかはじめて会ったみたいにちょっと照れるね。
「だからだろ」
「うん?」
「新しいものを迎えるんだから、少し緊張するくらいがちょうどいい」
ああうん、そうだ。
俺が感心したように言ったら跡部くんはちょっと困ったようにして笑った。
鈴とお賽銭箱はもう目の前。用意したお賽銭はもう二人とも手の中にある。
前の人がお参りする後姿を見つめているとすぐに俺たちの番が来た。お賽銭を景気よく投げて、後ろにまだまだ人がいるんだろうなあと思ったから自然と二人で鈴を盛大に鳴らして、なんだか俺はちょっと結婚式なんて思い浮かべたりして、うわあごめんなさい神さま仏さま。
手を合わせて目をつぶって、願い事は3回呟いた。
俺が目を開けて右手を見ると跡部くんもちょうど目を開けたところで示し合わせたように列から抜け出た。
たたたと軽く駆けて跡部くんを追い抜くと俺はこっちこっちと手を振ってテントの方へ誘う。跡部くんは歩を早めることなく、ついてくる。
町内会のテントの中には知ってる人はいなかった。そういえば小学校のときの知り合いとかに会っても不思議じゃないのに意外に会わないもんなんだなあと思いながら、おめでとうございますって返して紙コップに入ったあったかい甘酒をもらった。
テントから少し離れたところで振り返ると跡部くんも甘酒を受け取っていて、あ、よそゆきの顔してると思ってるのが俺顔に出てたのか、跡部くんはすっと顔を元に戻し、そっちと顎で火の焚かれた方を示した。
息を吸い込むと木の燃え焦げた煙の匂いが鼻の奥に広がった。廃材の放り込まれた一斗缶が3つほど固まって置かれていて、赤々とした炎を吹き上げていた。
俺たちは空いているところへうまく人をかきわけて収まる。少し焚き火からは離れていたけれど、十分あったかい。人影から火がゆらゆらと顔を覗かせる。
湯気をたてる紙コップで両手の暖を取りながら周りを見回してみた。火を囲む人たちの顔に夜の闇が深く落ちて炎のゆらめきが踊っている。火が、跳ねた。音ともにぱらぱらと灰が炎の中から浮き上がり、ふらふらしてる白い煙と空を目指す。
つられて空に目をやると炎に淡く照らされた、星なんて見えない明るい夜空が広がっていた。
そのまま視線を下げて一斗缶からグラデーションになっている明るい炎の影を追い、跡部くんを見た。
甘酒に口をつけているところで、あち、と小さく呟きながら一口飲み干すと俺と目が合って、甘いと口だけ動かした。
俺もコップに顔を近づけ甘酒のいい匂いをいっぱいに吸い込んでから、ふうと息を吹きかけ、そっと一口飲んだ。
「あったかー……」
喉を、熱い液体が通ってゆくのが冷えた身体だとよく分かる。
風にさらされていた頬が焚かれた火のおかげであったまってきた。ちょっと皮膚が引きつるような変な感じ。顔だけ火照るようになる。
跡部くんがぽつりと口を聞いた。
「俺大晦日にお参りに来たこと、あんまねえかも」
「そうなの?」
「ほらクリスチャンだからな」
えっ初耳知らなかったって驚いてみせたら、嘘、と一言返ってきて、ああだよねと俺も笑った。
この時期は旅行に行ってるのが多いからと跡部くんはにやりとしたふうに俺を見る。
跡部くん、随分機嫌がいいみたい。
「今回は行く予定なかったの? 旅行」
「まあな、お前との予定も入ってたし」
ここで火を囲んでいる人も列に並んでいる人も、誰も一人で来てる人なんていない。皆、家族や友だちなんかと来ていて、寒さを紛らわせるためか俺みたくやたらにうきうきする気持ちを抑えきれないのか自分たちのおしゃべりに忙しい。
「無理して来たわけじゃねえよ」
俺が口を開く前に跡部くんはさらりと付け加えた。いつものそっけない顔だ。でも炎の色が映って、あったかい顔。
こういう気の遣われ方ってすごく好きだ。
うん。
俺はそれだけ返しておく。
年明けの瞬間も跡部くんといられて、寒いけど焚き火囲んで甘酒飲んで一緒に過ごしてるなんて、いちばんしあわせかもしんない。
そんなことを一人、あったかいのをすすりながら考える。
「……今年もよろしくな」
ん?
今俺はテレビ何見てた?って聞こうかなって思っていて、はにかんだような言葉がぽつり耳に届いたのに、俺は随分間抜けな顔をして跡部くんを見てしまった。
跡部くんの顔はきれいだった。淡いオレンジにそまった頬やおでこ。炎が下から照らして鼻やまつげの影がこまかに揺れてる。
きらきら光る瞳の中に炎が宿る。
来年もきみのそんな顔見れるかな、そう思いながら俺もしゃんとして、
「俺こそ、よろしく」
とちょっと照れて返した。この“よろしく”も跡部くんが言う、新年にぴったりな言葉だ。だってこんなにもすっきりした気分になる。
跡部くんは火照った頬を動かしにくいみたいにゆっくりと動かすと少し甘酒をなめて、余りはお前にやると舌をちょっぴり出すようにした。
炎の熱が風に乗って頬に触れる。
そのくすぐったさに似た感覚が俺の心を柔らかに撫ぜた。
fin.