ふうっと、溜めていた息を吹き放つ。摘まんで持ち上げていたたんぽぽのわたげがぷつぷつと形を崩して、見えない空気の流れに乗っていく。
いい天気だな、なんて思いながら、春の暖かな陽気とよく晴れた青空に映える白の落下傘たちを眺める。たよりなく揺れてまばらな列を作って流れゆく先を首を巡らせて追うと、俺の斜め後ろにいる人物と目が合って、
「人の方に飛ばすんじゃねえよ」
と俺がちらっと笑いかける前にきれいな顔が悪態を吐く。
俺のせいじゃないよ、と少し下唇を突き出して答えながら土手の斜面に手をついた。
「跡部くんが風下にいるから悪いんじゃん」
自分の目の前を流れ去るわたげを避けるように身体を引き、膝を立たせて座りしかめっ面をしている彼を見る。何でもっと前に来ないのかなとも思ったけど、男二人並んで腰かけているのを想像して随分間抜けというか、どうにもしまんねえなあと思ったので言うのはやめた。そもそも授業をサボってこんなところにいる時点でゆるゆるだ。
俺は今日4限が終わって南とかと下らない話して弁当食べた後で、学校を抜け出した。昼休みっていちばん抜け出しやすいと俺は思ってる。先生たちは皆のんびり職員室で休憩中だし、昼休みも半ばを過ぎれば食べ終わった連中がサッカーだの何だのって校庭へ出てくる。ごちゃごちゃと生徒が校庭で遊んでいるのに紛れて、一人カバンを持った生徒が校門に向かってたって見咎める人はいない。
別に何かしたかったわけじゃなかった。あえて言えば、抜け出してみたかっただけ。サボりの理由なんていうのはそんなもんだ。
「いい天気だねえ」
今度は声に出して言ってみた。顎を持ち上げて空と向き合ってみる。快晴とはいえないけれど、十分に解放される気分になれる澄んだ空が広がっている。絶好のサボリ日和だねえと呟きながら、わたげのなくなってしまったたんぽぽの茎をひょいと後ろへ放り投げた。
「こんな日は教室でじっとしてるのもったいないよねえ。出てきて正解」
ぐーっと伸びをする。頭と耳のあたりがぼわわんとしてるその間に、何か跡部くんが言ったみたいだったけれど、よく聞こえなかった。腕を下げてから、何、って聞き返して振り向くと、
「そんな理由でサボったのか、って言ったんだ」
とあまり波のない調子で跡部くんが洩らした。ここに来たときから跡部くんはずっとこんな感じ。居心地悪そうな顔している。
そんな理由って言われてもなと思いつつ、俺はこっくり素直に頷いた。すると跡部くんは相槌ともため息ともつかない曖昧な返事を寄越して、それ以上何も言わなかった。どうやらたいした答えは最初から期待していなかったらしい。
前に向き直る。じっと足の間を見下ろして頭をかき、それなら俺だって訊きたいんだけど、と思う。確かに俺は学校をサボろうって決めたときは誰も誘うつもりなんかなくって、気ままに一人でぶらぶらしようって思ってたのに、門をくぐった瞬間、ちらっと跡部くんの顔が思い浮かんでダメもとでもいいやってメールしてて、君が呼び出されてのこのこやってくるなんてこれっぽっちも思っていなかったし、こうやって付き合ってくれるなんて思ってもみなかったわけで。
び振り向いて跡部くんを見やった。跡部くんは俺の方でなくて反対方向へぼんやり視線を投げかけていたけれど、そのうち俺に気づいて、なんだってふうに俺を見て実際にそういうふうに口が動いた。
俺はただ君のことを見る。あ、また不機嫌っぽくなった。
そうだよ、君、つまんなさそうじゃん、べつにこんなとこいなくてもいいって顔してるじゃん。なのに。なのにさ。なぜか、君はここにいる、それってどういうこと?って、俺思ってるんだけど、と心の中で語りかけてみたって跡部くんには伝わらないそんなこと分かってる。
おかしいだろ、君。俺が誘ったからって真面目で生徒会長やってて、今まで一回も授業サボったことのなさそうな坊ちゃまが俺のとこ、来てくれるなんて変だって。
さっきの質問だって君、俺が、君と一緒にいたかったって言ったら納得するのかな。
「……ねえ跡部くん、何で君ここに来たの」
たっぷりの沈黙を守って焦らしてやっと口にしたことは、ちょっと意地悪かなと思う。
さてどんな答えが返ってくるかと俺はそれなりにどきどきしたけれど、予想は外れて跡部くんは恥らう影もなく、あのまま不機嫌そうな顔のまままで、
「てめえがメールで呼び出したんだろうが」
とさらに眉間のしわを深くして言った。いやーん怒った、とは口に出しては言わないでおく。きっとぜったいもっとすごい顔されるから。
いやあ、まあはい、そのとおりなんだけれどもと、苦笑いする。ちぇーって心のどっかが落ち込む。あれ、ちぇってなんだ。
「ねえ、また誘ったら来る?」
ちょっとかわい子ぶって首を傾げつつ尋ねみたら、即座にわかんねえ、って返ってきた。……あれれ、来てくんないの?
「今日はたまたま四限終わりで、コート整備の日だったからな。俺はサボる気ねえし」
「……はあ、そう」
思いがけずがっくりくる。そうかあたまたまだったのかあと俯いて呟くと、そうだ運がよかったなお前、と跡部くんがここに来てはじめて楽しそうに言った。
ああうん、それはどういうフォローですか。
もしかしてもしかしなくっても、お前が呼んだからとか言ってほしかったんですか俺、と思い当たるとまさしくそのとおりといった感じに、胸のあたりがそれなりにどよーんと重くなる。なんだ、俺のために授業サボってくれたわけじゃないんだと分かったら結構寂しくなった。これが早とちりというやつか。
ちぇっ。つまんねーの。
何がだというとこには自分でもあまり深く考えないでおきつつ、俺は自分の隣に置いておいた鞄からペットボトルを取り出してぐいと一口飲み干した。やけ酒を呷るおっさんの気分てこんなのだろうか。
「なあ」
不意にわき腹をつつかれひゃあと飛び上がる。言わずもがなの犯人を振り返って、
「なにすんの!」
と睨めば、跡部くんは変な声と一言だけ感想を述べた。
そして、寄越せ、と俺のわき腹をつついた指でちょいちょいと、俺の持つペットボトルを指す。
「……これ?」
「それ以外何がある」
「でーすーよーねー」
跡部くんの不遜な態度にわざとらしく接してみても、本人に効き目はない。いやもうこれは出会った頃から分かってることなんだけどね。
俺は断るわけにもいかずじっと手元に目を落として、これを跡部くんが飲むってことはそういうことになっちゃうんだよねえとかしょうもないことを考えてから、うん、と返事をして差し出した。
跡部くんはそっけなくそれを受け取ると、何にもためらう素振りもなく、喉をこくこく鳴らしてポカリを飲んだ。
あー口つけちゃったな。
なんだか跡部くんをだましているような複雑な気持ちでボトルの飲み口を見つめて思う。すると跡部くんが、何だよ、と俺の視線に気づいて不思議そうな顔をした。
いやいや何でもありません、とぶるぶる首を振る。そんな間接キスだなとか、うん、……なんで俺そんなこと考えてんだ。
「ん」
「あ、どうも」
悶々としながら、返されたボトルをまるで後輩みたいに恭しく受け取った。そもそもお礼を言うのは跡部くんの方なのであって、ああうんまあいいや、要求したところで結果は目に見えてる。
手渡されたペットボトルを見つめて、数秒間このまま鞄に仕舞おうか迷ったが、えい、と心の中で気合を入れて口をつけた。甘酸っぱいポカリの味はいつもと変わらなかった。
はあ、と深いため息をついてうなだれてみる。俺はいったい何を期待してるんだろう。
どうしたんだよ、と後ろでする声に促されたわけではないけれど、もうひとつため息をついた。
「俺、君のことわかんないよ」
あと自分のことも。
「はあ?」
そういう声が返ってくると思ったよと返事をする。口にはしないけど。
するとちょっと間があってから、
「俺もわかんねえけど」
とあっけらかんとした声が聞こえて、ああそれも予想通り……じゃなかった。
がばりと顔を上げた。今のスピードにはF1だってついてこれないに違いない。
「何がっ」
何を、何で、どうして、いろんなことを聞きたいのをぐっとこらえて、俺はその一言に力を込めて跡部くんを見る。
跡部くんは、勢いよく振り向いた俺を目をぱちぱちさせて見返して何気なく口を開く。
「お前のこと」
くるくる表情変わって、一人でじたばたして、楽しそうかと思えばふと考え込んでるし、ほんとよくわかんねえ。
そう並べ立てて、跡部くんは今までうんざりするほど考えたのにわかんなかったって言いたいみたいに、博士のようなしかめっ面をした。
その顔がおかしくて俺は少し笑う。さっきまでこんな気分になるなんて思ってなかったのに、なんか急にほどよく力が抜けた。
そっか、君も俺のことわかんないんだね。それじゃおあいこかなって思う。だって俺たち、もしかしたら同じ理由で同じことが分かんないかもしれないじゃない。
えへと笑うと、ほらそれがわかんねえ、と跡部くんは土手に後ろ手をついて呆れたようにため息をついて、空を見上げた。
「跡部くん」
呼ぶと、ああ?と喉に響かせて返事をしてくれた。
ねえ、少しなら、いろいろ期待したっていいよね。
「やっぱりまた会おうよ。ちゃんと休日に待ち合わせとかしてさ」
俺の願いと期待を込めた誘いに、跡部君がかくりと首を戻してこちらを見る。その顔に俺は笑いかけた。
跡部くんは一瞬何かを言いかけようとして唇を動かしたけれど、その何かは飲み込んでしまったみたいで、ふ、と小さく息をこぼした。
そして多分、頭の中で何度も俺の言葉を繰り返したんだろうなと思われる後で、やっぱりの語法が間違ってるとぶっきらぼうに言ってみせたけれど、行かない、とは言わなかった。
そうだよ、こんな気持ちになるのはお互い、“君”のせいなんだからさ。
一緒にいれば、いつかすっかりこの謎が解けるかもしれないだろ?
「また、会おうよ」
俺の得意な有無を言わさない笑顔で言うと跡部くんは酸っぱそうな顔をして、そういう顔が、とやっぱり一人ごちただけだった。
fin.