大きな古時計は何月だったっけ。
俺は頭の中でひらがなの歌詞が印刷された色とりどりのプリントを思い出す。
俺が通ってた幼稚園では月ごとに練習する歌が配られた。それが俺は楽しみで、先生の手書きの文字と絵が書かれた歌詞は母さんがファイルしてくれてたのを今も大事にとってある。
4月はちょうちょう、7月はアイスクリームのうた、12月は赤鼻のトナカイ。
「うーん6月だったかなあ。古時計の歌は」
ぼやきながら、どっしりとした大きなダイニングテーブルにぺたっと頬をくっつけた。上半身をテーブルに預け両腕はだらりと脇にぶら下げぷらぷらと右足を揺らす。
今、俺はいわゆる待ちぼうけを食っている。待ち合わせはここ、跡部くんちで、今日は二人ともテスト最終日で午前中終わりだから会うことにしたわけなんだけど、ケータイに連絡が入って、遅れる、だって。生徒会の用事だから仕方ないといっちゃ仕方ない。でも、もうどれくらい経つんだろう。結構待ったよね。
頬を押し付けたのはそのままに、目線を動かして大きな柱時計が見つめた。
俺はこの古時計が気に入ってる。だからここでこうやって時計を見ながらぼーっとしてるのは嫌じゃなかったりする。……お腹はかなり減ってきたけど。
文字盤を読み解くともうかれこれ一時間ほど待ってるらしい。
お腹空いたよねと心の中で話しかけると、ぽーんぽーんと往復させている振り子が頷いているように思えた。腹の虫も返事をするようにぐうと鳴る。
いつもなら跡部くんの部屋で待たせてもらうんだけど、ちょうどお手伝いさんが掃除を始めるところに俺がやってきたからリビングに入れてもらった。プールのある庭に面した大きな窓、光の差し込むそこには豪華なソファセットがあって、おっきなテレビと他のオーディオセットもばっちし揃ってる。
「いい天気だなあ……」
時計の針のかちかち動く音が相槌を打つ。
俺が座っている8人がけのダイニングセットの隣には跡部くんのお母さんの趣味らしい、きれいな食器が飾られた飾り棚がある。その横に柱時計も並んでいる。
この時計はアンティークなんだそうで、随分古そうだねえと言ったら、跡部くんがそう教えてくれたのだ。
時計の頭は反り気味に三角屋根の形をしていて、屋根の端っこはくるりと丸みを帯びたデザインになっている。全体の色は深いこげ茶色。周りにある家具と同じような色だ。
淡い金色の細かい細工の施された文字盤は白のドーナツ形で、一部切り取られた部分から文字盤の裏に重なった円盤が覗くようになっている。時間を刻むのと一緒に右回りで少しずつ回り、そこには昇る太陽、沈む太陽、浮かぶ月、きらめく星々が描かれ、一日の様子が表されてる。
今はほぼてっぺん、12の数字の真下に顔のついた太陽がある。
ガラスの扉が付いた胴体の中で、黄金に光る先のまあるい振り子がおじいさんみたいに落ち着き払った様子でゆったりと振れている。
時計の大きさは俺の身長よりちょっと高いくらいで、かなり大きく、俺が両腕でようやっと抱えられるくらいの立派なものだ。
金の矢印がぴったりかっきりの時刻を示すと、広がるような優しい鐘の音が鳴り響く。
その姿は、古時計、っていうのがぴったりだ。
大きなのっぽの古時計ってね。
この時計を見るといつも思いだす。俺はこの歌が好きだ。幼稚園で習ったそのときからずっと好き。言葉だってあんまり知らない、幼い俺がこの曲を聴いたときでさえ小鳥のような胸がきゅーっとしたもんね。
それくらい、いい曲だ。うん。
「……まーよーなかにーべるがーなあったー」
テーブルにくっつけた耳がごわごわする。一応人の家のリビングなので呟くように歌う。
特に三番は今でも歌うたびにちょっと切なくなる。いや、少しは俺もオトナに近づいたからこそ、なのかな。
命をまっとうしたおじいさんに、皆が寝静まった静かな夜、天国からお迎えがやってくる。
時計はお別れの時間が来たのを知って、時の鐘をそっと叩く。
「いまは、もう、うごかないー おじいーさんのー とけいー」
おじいさんとずっと同じ時間を過ごしてきた時計は、一緒に天国へ行く。
おじさんと一緒に頑張ったから、おじいさんが、とっても大切にしてくれたから。
だから時計はもう動かない。
……やばい、ひもじいのが拍車をかけてほんとに泣きそう。
我慢しろ俺ーとテーブルに突っ伏し目を閉じて心の中で唱える。腹が減るといろんなとこが弱る。へこんでしぼられるような感覚を訴える腹をさすりながらよいっしょっと上体を起こした。
相変わらず静かな佇まいである古時計は長針と短針をちくたく言わせ、振り子を悠々と揺らしている。
肘をついて、顎を手の上に落ち着けると、俺は振り子の動きをちらちらと左右に目で追った。……あ、だめだ今こんなことしてると酔う。確実に酔う。ぱちぱちと目を瞬いて気をそらす。ちょっとぼんやりと、遠くに見るようにする。
「お腹、空いたなあ」
何気なしに独り言をもらす。
そうですねえというようにゆらりと振り子が一往復した。
「跡部くんまだかなー」
遅いですねえとまた振り子が往復する。
「会うの久しぶりだなあ」
ぽーんと振り子が振れて頷く。
「あとべくん元気かなー」
ぽぽぽーん。
だよねと俺は笑う。わりとあの人はいつも元気だ。
「今日のお昼はなんだろなー」
ぽーんぽぽーん。振り子が優しい頷きをくれる。
「ああーとべくーん、」
ぼーん、ぼぼぼーん、ぼぼーん。
「うわっ」
突然部屋に鳴り響いた音に驚いて椅子から飛び上がってそのまま立ち上がってしまった。がたたっとひと暴れしてから音の余韻が残る中で気を落ち着かせると、ぼうっと見やっていた柱時計が12時を指し示したことに気づいた。
「あーなんだもう、びっくりしたー」
「一人で何やってんだ」
「わあ!」
今度は後ろからした声に俺は椅子の背もたれをがしっと強く掴んだ。
押してしまって、テーブルと他の椅子までもが音を立てる。
声の主は噂をすればの跡部くんだった。振り返ると、呆れた顔で学生カバンを手にしたまま俺を見てる。
「お前は一人でもにぎやかな奴だよなほんと」
「なんだよもう、跡部くんまで俺のことおどかさないでよ」
テーブルを引っ張って元の位置に直す。
そうしてはっと気づくと、俺は時計と跡部くんを交互に見やって時計を指差した。
「ていうか今すごいよ、俺が呼んだらぼーんって鳴った!すごいタイミング!」
ちょっと興奮気味に話すと跡部くんはますます呆れたような顔して、俺が乱してしまった椅子を揃えながら、バーカと言った。
「アホか。偶然12時になって鳴っただけだろうが。喜ぶなよそんなことで」
「えーちょっとした奇跡じゃんかこういうのって」
返事してもらったみたいで、しかも君がちょうど帰ってきて。この古時計が準備してくれたみたいじゃないかと思いつつ俺は唇を尖らせる。時計に人の名前付けてんじゃねえよなと椅子をきちんと整えた跡部がため息交じりに言う。
「聞いてた?」
「この“跡部くん”はお前に時間を教えてくれるくらいしかしてくれねえぞ」
からかうように跡部くんが笑いながら俺を見る。何話しかけるつもりだったんだよ、とわざとらしく俺を見つめて顎をなぞる仕草をする。
「あれは、何か続きがあったんだろ」
「……いやいや何も」
確かに、ベルが鳴らなければ続きはあったんだけれども、こう変に期待されてる中じゃそれはなんだか気恥ずかしい。
すると、救世主のようにぎゅーっと俺の腹の虫が鳴いた。
「えっと、とりあえず、ごはんにしない?」
そしたら後で言うよと頭をかきながら付け足すと、意気地なしと足癖の悪い跡部くんらしく脛あたりに蹴りが飛んでくる。もちろん、本気ではなくて。
ううん、どうしようか。お腹がいっぱいになって君が上機嫌になってちょっと油断しているときに、さりげなく君に言うかもしれない、ってことで許してくれないかなあ。
fin.