「うーん、まだ、あるねえ」
千石の手が離れ、濡れたタオルが代わりに額を覆った。
熱を持った身体に額に残された冷がじんわりと染み入る。
跡部は浮ついた感覚に囚われる中、けだるげに手を動かしタオルに手を乗っけた。
皮がつっぱりそうなほど熱くなっている手のひらが水分を吸収しているようで気持ちいい。
ふう、と息を吐く。
胸までかけられた布団が大きく上下した。
布団の横に行儀よく正座し、その様子を見ていた千石が、
「さっき熱さまし飲んだからね、そのうち下がると思うけど」
冷えピタもういっこ買っておけばよかったな、そう言いながら、掛け布団の端を軽くめくって持ち上げた。
微かに頷いて、跡部は額にやっていた手を中にしまう。今度は小さく息をついて目を閉じる。
そして千石は丁寧に布団をかけなおしてやった。
「少し寝る?」
その問いかけに跡部はうっすらと目を開けると何か言いたそうに口を開きかけた。
千石が耳を寄せる。
「……正月早々、ついてねえ」
かすれ気味の声で苦々しげな様子で跡部が言った。
今日は1月3日。
忙しかった年の暮れの疲れがどっと押し寄せたのか、跡部は元旦から風邪を引き、文字通りの寝正月を過ごしていた。
最初に比べればかなり落ち着いてきたが、熱もまだ時折思い出したかのように上がることがある。
自己管理がなってないせいで自分が風邪を引き、ずっと寝て過ごすことになるのはいい。
けれど、それに千石を巻き込むことになったのが跡部は心苦しかった。
千石は跡部の看病に付っきりでたまに買出しに外へ出るくらいだ。
友人と初詣なりなんなり好きに行ってこいと跡部も言ったのだけれど、俺は正月はのんびり過ごすタイプなんだよねと巧くかわされたかのような答えが返ってきて、跡部の布団の横にこたつを引っ張ってきて小さめの音量でテレビを見て過ごしたりしている。
風邪のときってなんだか心細いでしょとの千石の提案で、跡部の布団は居間に敷かれていた。
確かにただ眠って時間が過ぎるのにもいい加減飽きてきた頃だから、
ぼうっとテレビを眺めたり、それを見て笑う千石の横顔や、千石がぱたぱたと家を歩き回っている姿、家事をするのを見ているのは意外と飽きず、ほんのちょっとだけ風邪を引いたことに跡部は感謝した。
それにしても、四六時中病人とそばにいてよくうつらないなと跡部は思う。
「その台詞、もう何回目か分かんないよ」
跡部の呟きを訊き、零すように笑った千石はよいしょと膝に手をついて立ち上がった。
台所に行き冷蔵庫を開ける。ポカリのペットボトルを取り出すと、えいと足で戸を閉めた。
すると見られてることに気づいたのか、跡部を振り返り首をすくめた。何度か跡部に注意されたことのある癖だ。
跡部はバーカ、と口だけ動かして応えてやった。
そうして千石は今度は冷凍庫を開け、洗っておいたストロー付きの水筒に氷を一掴み入れた。液体の注がれる音と氷がからからとぶつかってぱきりとひびの入る音が止むと、千石が跡部の横に戻ってきた。
枕の横に置かれた小さなお盆に水筒を置く。汗をかいたように水滴が胴をつたい落ちた。
千石は、あのね、と膝に両手をつき、身を乗り出した。
「俺はそばに居たくているんだから気にしないでよ。一緒に暮らしてるんだからこういうときこそ俺の出番だし、正月早々二人っきりでラッキーとも思ったりもしてるし、初詣、行きたいなーって思ったけど、」
そこで千石は跡部の額に手を伸ばし、乗せていたタオルをひっくり返した。
「どうせ行くなら、跡部くんとが一緒がいいわけで」
と、片目をつぶって笑った。
それに跡部は目を細め、そうだな、と答えると千石が頷いて、でも早く治るといいね、と跡部の頬に触れた。
千石の手は冷たくて心地良い。無意識に跡部は目をつぶりその手に頬をすり寄せた。
「ばあちゃんが言ってたんだけどさ、旧暦の正月は来月なんだって。だからそのときに二人で、ねー」
指先で優しく押して触れるようにし、千石の手が離れる。
「じゃあそろそろ夕飯作ろっかな。もうおかゆじゃなくても大丈夫だよね? 雑炊でいい? あんま変わらないか」
あははと千石は声に出して笑いながら立ち上がる。
跡部が雑炊でいいと告げると、千石はよしと張り切って台所に向かった。
腕まくりをするその後ろ姿を見、まったく面倒見のいい、と跡部は思った。
旧暦のお正月、か。
来月に入れば大学も休みだ。人込みもなくていいかもしれない。
ちょっと遠出でもしようか、鎌倉なんてどうだろう、と跡部はぼんやりと考えた。
ゆっくりと息を吸い込み、長く吐く。頭の奥がぼうっとしてきて、跡部は目を閉じた。
台所の方から小さな鼻歌が聞こえてきている。
遠慮がちのその旋律はうまく跡部の方へ伝わってこなかったが、千石が歌っているのを耳にしたことのある曲だった。
何度かその曲名を尋ねようと思ったことがあるのだけれど機会に恵まれたことは一度もない。
今日もお預けだ。途切れがちになる思考の片隅で思う。
野菜を切り刻んでいるらしい包丁の、まな板をこつこつ叩く音がする。たまに手を休めているのか、しばし止んだりもする。
ぱたんと冷蔵庫の方から、ぱたんと戸棚の方から、戸を開け閉めする音がきこえる。
火にかけられた鍋の湯がくつくつと煮えている音もし始めた。
時折その合間から拾える鼻から抜けるような優しい音符と、こつこつ、ぱたん、くつくつ、ことこと、柔らかい料理の音が合わさってまるでひとつの温かい唄のようだと思った。
その優しい唄を聴きながら、跡部はゆっくりと訪れたまどろみに意識をゆるやかに任せた。
fin.