「笑えよ」
彼は多くを望まない。貪欲に多くを欲し、それを既に手に入れているかのように思われがちだが実はそんなことはない。
それは彼の目立つ振る舞いや行動、育った環境から見る、思い込みや偏見だ。
付き合ってみれば周囲の者が変に気にかけていることに本人はほとんど執着がないのが分かる。ぞんざいすることはない。けれど案外無頓着だ。
慌ててエレベーターから降りた千石は、数歩行ってあたりを見回した。
搭乗時刻を知らせる放送が響き渡り人々が行き交う。大きなトランクを引いている人を多く見る。ここは空港だ。
忙しない雰囲気に飲み込まれそうになるのを呼吸を整えようとすることで、押さえ込む。案内表示をようやく探し見つけると、ったくここは広すぎると悪態づきながら人の合間を縫うように駆け出した。
こんな日に寝坊するなんて最悪だ。
それにしたって留学することは随分前から聞いていたにしても、発つ日を三日前にようやく教えるなんて俺に、恋人である自分に、突然どんな心の準備をしろっていうのだろう、と千石は幾度考えたかしれないことを思った。
彼は多くを望まない人だ。
でも、見送りはいらなかったからっていうのではさすがにないだろうか、恋人だし、と少しばかり思い当たらないでもない心を苦笑いで打ち消す。
長い間会えなくなるということに実感が湧かないままこの日が来た。
跡部は今日イギリスへ留学するため日本を発つ。
彼が、望むこと。
テニス。
それが彼の、ただひとつだ。
ずらりと並ぶチェックインカウンターをいくつか行き過ぎ、案内カウンターが見えてきたところで、北ウイング、で合ってるよな、と呟いて千石は足を止めた。
セキュリティチェックゲートのちょうど目の前のその場所には、多くの人が集まっていて、握手をしたり話しこんでいたり、時計を確認している人を多く見る。千石も倣うように腕時計を見やった。跡部に伝えておいた時刻より10分ほどは過ぎていたが大遅刻にならずに済んだことにほっとし、改めてきょろきょろと辺りを探すと一度だって間違えたことのないその後姿が振り返って、冴えた眼差しがこちらに気づきちらと瞬いた。
「ごめん」
頭をかき八の字の眉を下げながら駆け寄る。ほっんとごめん寝坊したと再び謝ると、怒って来ねえのかと思った、と柔らかな顔で跡部は答えた。
「そんなわけ、」
ないじゃんと続けたかったのに出来なくて、千石は息が切れたせいにした。
息を短く吸って頼りなげに吐く。
改めて見た跡部は、長袖のストライプシャツの襟を立てカーディガンを合わせた姿だった。
「長袖、暑くない?」
千石はジーンズにTシャツという出で立ちだ。
ここ最近、梅雨入りしたと思われるじめじめした天気が続いている。今日は雨の気配こそないものの、湿気を含んだ空気が肌にまとわりつくようなどんよりした空模様だ。空港内の空気もどこか蒸し暑さが感じられる。
お前は走ってきたからじゃねえのと跡部は自分の襟の端を摘まんでみせ、
「ロンドンはこの時期まだ肌寒いからな」
と目を伏せた。そうなんだと千石は納得する。
「あれ、荷物は」
「もう預けた」
跡部がチェックインカウンターを指差してから、財布だけパンツの尻ポケットから取り出して言った。
「……ほんと、怒ってねえのな」
そして少し安堵したように笑う。
「怒ってないよ」
跡部の言葉と表情が意外で、千石はわずかに眉を動かし息をこぼして表情を崩した。本当にそうだろうかとちらり自分の胸の内を探ったけれど、今更考えたところでどうしようもなかった。ただ、留学をすると話を聞き、跡部がそれ以上は何も言おうとしなかったとき、俺はきっと変わるけどと口火を切った自分はどんな気持ちだったろうか。
俺は、変わる。
君と離れている間、君がなりたい自分に近づくように、俺もそのために頑張るから、
俺は君が帰ってくるときは君の知らない俺かもしれない。
けどひとつだけは変わらない。
俺は、君が好きだから。
君におかえりって、言うから。
自分の顔をじっと見つめ黙って聞く跡部に必死で言葉を探しぶつけたあのときの顔は、確かに怒りに近いものかもしれなかった。
俺の怒りは多分あのときに全部、溶けてしまったんだろう。
「大丈夫。俺も、君も」
思い出して自分に言い聞かせるように千石が呟くと、ああと跡部は得意の、口の端をわずかに上げて自信溢れるあの顔で応えた。
それから他愛もない話を交わして、手紙をする、出来たらメールもといった見送りの締めくくりにふさわしい話を終えた後、
「そろそろ行くか」
と跡部が手首を持ち上げ腕時計の文字盤に目を走らせた。
気に留めていなかったアナウンスの声が瞬く間に千石の耳へ侵入し人々のざわめきも甦って周りを包む。跡部の肩越しに、数人がセキュリティチェックゲートの方へ歩いていくのを見る。
そうか、次いつ会えるのなんか、分かんないんだもんな。
急に人々の吸い込まれていくゲートの向こうがとても遠くに感じられた。あのゲートを通ったらもう二度と会えないような、そんな予感すらよぎる。
「じゃあな」
黙り込んだ千石に跡部が軽く手を上げて告げた。その口調も雰囲気も仕種も、いつもと変わらない。
うんと千石も目を細めて、ちょこっと唇の端を噛んだ。
「またね」
やけにはっきりと口にしてみたそれは、意外にも勇気や決心や切なさをともなうもので、何だ俺ちゃんと寂しいんだと分かって胸が痛くなった。
少しばかりためらいを見せた跡部がそれでもいつもの彼らしさを保つように颯爽と背を向けた。かつ、とロビーの床を跡部の踵が叩く。
ぐわりと胸をせり上げる感情があった。
何だよ、こういうのってゆっくり実感するもんじゃないのかよと苦々しげに心の中でこぼして、千石は俯き加減にジーンズのポケットのあたりを落ち着きなく撫で回しぎゅっと握り締めた。
引き止めたところでいったいどうするのだろうと思ったけれど足はすでに動いていて、数歩行ったところで先に跡部が歩みを止めた。何かに身体を引っ張られるように振り返る。

わらえよ。

小さく振り絞った声が耳に届いて、千石は目をしばたたかせゆっくりと近づいた。
優しさを限りなくこめた声音でもう一度、跡部が口にする。
それは、別れの言葉ではなかった。
「笑えよ」
今にも泣きそうな千石の苦い顔を鏡のように映して、跡部はかすかに顔をゆがめた。
なんてささやかな、と千石は我慢しきれなくなって堪えてから目を逸らし、跡部の心臓の上をとんと拳でひとつ叩き胸元のシャツをぐしゃりと掴んだ。
いつだったか、よく笑うと跡部が楽しそうに自分を褒めたのを思い出す。
待ってろってわがままのひとつくらい言えばいいのにと跡部の性格をよく知りながら、いっそ清清しく思う。
彼はけして多くを望まない。
顔を上げたら、あのとき跡部が笑ったくれた顔で、長い長いお別れをしようと千石は思った。

fin.
テニスのために留学する跡部。(テニスするのに英国がいいのかどうかさっぱり分からないのですが・汗)
とにもかくにも、いつか2人はこういう別れ(一時的なものでも)が来るんだろうなと思います。
テニスのためでなくても自分の将来のため、跡部は留学しそうな気がする……
跡部が帰ってきたそのときに、2人の仲がどうなるかは意外と千石次第なんじゃないかなあと思っています。
待ってろ、なんていうのは束縛してるようだから言わない、というのが跡部で、待ってろって言ってくれたら何年だって待つのに、というのが千石。
待つよって千石は結局言ったけれど、跡部はそうでなくてもかまわないと思っている。
責任の果たせない約束、無理かもしれない願い事はしない、という跡部は随分聞き分けの良い子どもな感じ。それに対してもっとわがままでもいいのになーと思う千石、っていう2人の図はわりと好きな関係性です。
This fanfiction is written by chiaki.