あくびをする
跡部くんの家は床暖房だ。
だから腹の底から冷えるような冬の日でもあったかい。
ほんとなら靴下ごしにだって遠慮したくなるフローリングの床が、じんわりと日向の温もりを伝えてくるんだからふしぎ。
つい転がりたくなる。
そうしてよく俺は跡部くんに足蹴にされるというか、ひどいと踏まれるのだけれど。
跡部くんが、俺みたく寝転がってるのなんて見たことない。そもそもうたた寝してるとこなんて見たことあっただろうか。
そんなことを思ってたある日、俺は跡部くんちに遊びに行くことになった。
景吾様はお部屋です、と出迎えてくれた執事さんにお礼を言ってたんたんと階段を上がる。
跡部くんの部屋は左手に曲がって、奥から二番目の扉。
ノックは、一応する。控えめに二回叩いた後、返事を待つことなく開けてしまうからあんまり意味はない。
こんちはって、小さく声に出してみて部屋に入る。これはもう意識してなくても勝手に出る癖みたいなもの。
今日はなかなかに良いお天気だ。ほのかにあったかい日差しが部屋の窓からレースのカーテン越しに明るく降り注いでいる。
電気はついてなかった。たいてい付いているのだけど、今日は確かに必要ない。
壁の白が眩しいくらいに光っていてソファの紺も少し霞んでみえる。
跡部くんのアンティークっぽい机はぴかぴか光っていて琥珀ってあんなのだろうか、とふと思った。
ん?
そうやって光でいっぱいの部屋を見回して気づく。肝心の跡部くんの姿がどこにも見当たらない。
約束してるのに出かけるなんてこと、あるはずないし、何より執事さんが部屋にいるって教えてくれたのに。
おかしいなあと耳の後ろあたりをかきながら足元のフローリングに目を落としたときだった。
俺はドアの近くに立っていてそこからは、右手には机、左手には大きなベッド、目の前にはオーディオセットとソファが見渡せる。
そのソファの足元の影から、冬の褪せた陽を吸い込んで透けた柔らかい茶の髪の端が床に着くか着かないか、先をちょろっと覗かせていた。
これってもしかして。
俺はそうっと腰をかがめ音を立てないように抜き足差し足忍び足、ソファへ左側から回り込むように近づく。
フローリングの床が水面のようにきらめいている。目の奥がほんの少しぼうっとしてちかちかする。
陰から、覗き込む。
跡部くんがソファに背を向け、身体を横にしてフローリングの上で眠っていた。自分の左腕を折り曲げて枕にし軽く身を丸めている。
ローテーブルの落とす影がうまく跡部くんの顔に落ちていて眩しくはないらしい。
何でこんなとこで寝ちゃったんだろ。
床に転がるな踏まれても文句言うなよ、なんて俺に言ってたのに。俺は堪えて少し噴出して笑った。
ちょこんとソファの横、跡部くんの頭の上あたりに正座してみる。そしてすぐに崩すと俺もごろりと横になってみた。
足はドアの方へ向けて身体を横にした。
顔はよく見えないけれど跡部くんの頭のてっぺんは見える。きれいな茶色の髪が空気を含んだみたいに柔らかそうだ。触ったら気持ちいいだろうな、と思ったけれど手は伸ばさない。きっと起きてしまうから。
早く起きないかな。
そう思っていると、小さな毛玉がふわふわと宙を待っているのが目に留まった。よく見ると、小さなほこりが白い光の中で星のようにきらきら光って舞っている。光の雨だ。毛玉が、音もなく茶の髪に落ちる。俺は身体を滑らせて跡部くんに近づく。跡部くんの顔を逆さまに覗き込む。
ゆっくりと動いていたローテーブルの影が跡部くんのまぶたのあたりから退いて、差し込んだ白い光が睫毛に伸びていた。毛先がつんとしてる。まぶたの縁がぴくっと動いた。開きかけそうな唇からは聞こえないくらいか細く、息が漏れているようだった。普段は凛とした顔立ちが子どもっぽく見える。そんなことを本人に言ったらこーんな顔、されちゃうだろうな。想像して俺は笑った。
跡部くんの髪の毛に引っ付いてゆらゆらしている毛玉に小さく息を吹きかけてみる。なかなかに健気なそれがやっと舞い上がってどこかへ消えたと思えば、跡部くんがきゅっと目元のあたりに力を入れて眉を寄せたような顔をしてみせ、ぱち、と目を開けた。
そして眠気の残った顔で瞬きを繰り返してテーブルの脚をぼんやり見つめていたが、急に顎を上げた。音がするみたいに瞬きした後、目を見開いて俺のことを確認する。
「おはよ」
って俺が言うとやっとぎょっとしたその表情を戻し、なんだお前かと大きく息を吸い込んで、わふ、とあくびをしてみせた。なんだはないでしょと俺が笑うと、いつ来た、と問いが飛ぶ。
「ついさっき」
「ふうん」
……まだ眠たそうっすね。
俺が見つめている間、跡部くんはなんだか動かしにくそうに下敷きにしていた右手を頭の下から退かそうとして、いてえとしかめっ面してる。ずっと頭を乗せてたから重みで痺れたんだろう。
「ねみー」
らしくなく、かったるそうな声で跡部くんが呟く。頭上からだと表情がよく見えないけれどまばたきのスピードがとってもスローだ。
「昨日寝てないの?」
「あーあんまり」
逆さまに跡部くんの髪の毛を触って梳くのはなんだかいつもと勝手が違って変な感じだ。でも怒られない。いつもならさりげなくどかされるのに。
あったかい、と跡部くんが心地よさにうっとりするように呟く。床でごろりとするのもいいもんでしょと笑うと、あくびまじりの返事でゆっくりと頷いた。
「約束、今度でも良かったのに」
くるくるくると跡部くんの前髪を人差し指に絡めてみる。離すと、ぴんと弾かれて元に戻る。跡部くんがその、目の辺りにかかった髪をさらと払った。
「……お前が珍しく来るの早いから」
ごもっとも。
今日はいつもより早めに来ちゃったんだった。久しぶりに会えるから。そっか、だから跡部くんも断らないでくれたんだ。
メンゴねと謝ると、別にと跡部くんは答えた。
堪え切れなかった大きなあくびをまた、わふと空気を食むようにする。
まるで唄を歌うみたい。大きく口を開けて元気良く歌う子どもみたいな。
無防備でかわいい。
そんなことを思ってたら、耳のあたりがぼうっとするような感覚に襲われて、わふ、俺まであくびをしてしまった。あれ俺眠くないのにうつったのかななんて考えていると思考を読んだかのように、
「うつったな」
と跡部くんが笑って言った。
え? うつるの?
「そ。あくびってのはうつるんだよ。やさしい奴に」
跡部くんが小さなあくびをかみ殺す。
「わがままな幼児にはうつりにくいんだとよ。共感性っていうやつが育ってないから」
へえと俺は感心する。右手が伸びてきて、場所を確かめるように動かして俺の頭をぽふぽふとなでた。されるがままになって黙っていると、跡部くんのまぶたがゆるやかに閉じていく。そうして、よかったなおまえ、と独り言のように言うと俺の髪に触れたまま小さな寝息を立て始めてしまった。
……えーと、ね。
なんていうか、やさしいって言われた手前、無理矢理起こすなんて出来ないんですけど。巧く丸め込まれたような気がする。そう思いながら俺は首筋のあたりを何気なく掻いてみた。心地よく夢の世界へ戻ってしまった跡部くんを引っ張り戻すのはやっぱり出来ないって。
ま、いっか。
髪にからんだままの跡部くんの手に自分の右手を伸ばして指先だけ絡めた。うつってしまったあくびを、大きくして、穏やかな寝顔の跡部くんを見る。
これも十分幸せだ。わふ、と柔らかに冬の空気を食む。どうか目覚めるのは一緒でありますように。

fin.
小さな子があくびをするのってなんだかかわいいなあと思ったものの、跡部と千石はそこそこ大きいですね……
あくびはうつるもの、小さい子にはうつらない、と聞いて面白いなあと当時思ったものです。
跡部はテニスが好きで仕方なさそうですが、たまにはこうやって家でのんびり、特に何もしないで2人きりで過ごしてるのも、せんべは平和でいいな。
This fanfiction is written by chiaki.