心の糸が切れるほど強く抱きしめたなら
「跡部くん、大丈夫、起きて」
ゆるやかに、けれどしっかりと肩を掴んで、千石は苦しげな表情でうなされている跡部を揺り起こした。
跡部の様子に気づいたのはほんの少し前のことだ。押し殺すようにうめく小さな声に浅い眠りの中にいた千石は目を覚ました。すぐに止んだなら起こすことはないかと思ったのだが歪めた寝顔は戻る気配がなく、噛み締めた唇と何かから逃れるように首を動かしたのを見、急いで起こしにかかったのだった。
「跡部くん起きて」
名前を呼び身体を揺らす、深く息を吸い込み止めたのが聞こえ、暗闇に慣れた目にぱちっと目を覚ました跡部が映った。
跡部は瞬きをすると自分を覗き込む千石を捉え、お前、と口早に呟き息を吐いた。そして目を閉じ、意識するように何度かゆっくりと呼吸を繰り返す。
「大丈夫? うなされてた」
「……ああ」
少し落ち着いた様子で目を合わせた跡部に、千石はほっとしたように口元をゆるめ肩から手をどかせた。
「灯り点けるね。いい?」
上体を起こし跡部におおいかぶさるようにしベッド脇のサイドテーブルにあるランプの紐を引っ張っる。一瞬、視界が白の光の粒となって拡散したようになる。目の奥がじんとしびれるような感覚を眉根を寄せたり瞬きしてやり過ごし自分の下を見やると、跡部も眩しそうな顔をして手でひさしを作っていた。
目が明るさに慣れてくるとランプの淡いオレンジ色の光の下、くっきりと影が落ちたシーツや布団、そして跡部の顔が真夜中の部屋に浮かび上がった。よく見ればその額にはうっすらと汗が滲んでいる。まだそんなに暑い時期ではない。窓を開ける必要のあるほど気温は高くないし、春の夜風はひんやりと冷たい。
ちょっと待っててと千石は跡部をまたいでベッドを降りた。ここは跡部の部屋だ。暗闇の中、足元に気をつけながら備え付けのバスルームに行き小さな冷蔵庫に寄って戻ると、小さめのタオルと水の入ったペットボトルを跡部に差し出した。
「汗かいてる。あと水分補給」
身体を起こしていた跡部は小さく礼を言うとタオルを受け取って額と首筋のあたりを拭い、水をぐいっと二口ほど飲んだ。
そこでようやくすっきりしたように一息つき、千石を見つめた。
「どのくらいうなされてた?」
「いや、そんな長くなかったと思うよ。結構すぐに俺気づいて起こしたし」
ペットボトルを冷蔵庫に戻し帰ってきた千石はまた跡部の上をまたいでベッドの壁際に収まる。灯りはそのままに、跡部も布団へ入った。
何回か跡部の家に泊まりにきているがうなされている跡部を見たのは今回が初めてだった。跡部は、千石が意味不明な寝言を言っていたのを何度か夜中に聞いたことがあるらしかったが。
「どんな夢見たの」
仰向けに横たわる跡部を千石は身体を横にし布団を抱くようにして見た。横顔の輪郭の縁が明かりの境目を見失うかのように光に滲んだ。鼻の頭がぼんやりとオレンジ色に染まっていて、頬のあたりには薄暗い影が落ちている。額には柔らかな茶色の前髪がかかり、重力に従って流れている。
ああ。
息を漏らす密やかさで跡部は返事をした。
夜の闇を吸い込んで澄んだ瞳が揺れることなく、宙を見る。薄く口を開いた。空気を食むようにしてから一度閉じると、静かにまた開く。
「果てしなく、広い、荒野だった」
そこに跡部は一人で立ち尽くしていた。
乾ききった土が足元でざらざらと音を立てた。そこここに転がる、固まって石のように形を変えたものは足で踏み砕くと気だるげに割れて崩れ、元の砂に還った。雑草とも呼べないほどに形を壊し枯れ絶えたそれらが、身体を力なく風になびかせる様がぽつぽつと廃れたこの地に見て取れた。
岩なのかコンクリートの残骸か判別しがたい大きな塊がでこぼこした地面にいびつな影を落としている。自分の身長の何倍もある塊を見上げ、これはどんな建物の一部だったのだろうかと思ったが風化してしまって何もかもが摩滅していた。
砂埃が舞って視界を遮った。つぶてが顔に当たって、その取るに足らない痛みと不快感に目をつぶり、腕で顔のあたりを覆い隠した。
不意に冷たい風が横から吹きこんだ。さあっと水の流れのように清廉に砂と埃を払い地面を撫ぜ、肌を滑ってそれは駆け抜けた。
風が荒野を洗い流し、すべてが見渡せるようになった。
「……それでも、何もなかった」
暗い天井を見つめて、跡部がぽつりと言った。
「おとぎ話や映画なんかであるだろう。砂漠や荒野で彷徨っていると、砂嵐が止んだ向こうにオアシスやら場違いな宮殿を見つけたりなんて話」
首を傾けて自分を見た跡部に千石は控えめに相槌を打つ。
だから、そういう何かを期待していた夢の中の俺はひどく落胆した、と跡部は続けると顔を真上に戻した。
「だけど俺は行かなければならなくて、先に、進まなければならなかった。喉は乾くし、砂に足を取られるのも肌に埃がまとわりつくのも嫌だったけど、前に進むしかないのだけは分かってた。目指すものが見えなくても、果てしない荒野に、たった一人でも」
眠りに入るようにすっと目を閉じる。音もなく呼吸をしてまた目を開けると、つらい夢だ、と跡部は表情もなく漏らした。
そうして数度瞬きをすると、今度は何事もなかったように顔を柔らかくして、
「面白くねえ夢だろ」
と千石に静かに笑いかけた。
とっさに何と答えようか迷った千石は、続きはと尋ねたが、それで終わりだ、とさらりと跡部は答えただけだった。
「さて、もう消すか」
身体をひねってランプに手を伸ばす。けれど急に自分の身体にかかった重みに跡部が動作を中断する。どうした、とその原因に問いかける。
「そんな夢、独りで見ないで」
くぐもった声が右肩のあたりでした。千石が跡部の肩に額を押し付けるようにして腕を掴んでいる。
千石には一人で荒野をゆく跡部を思い描くのも、静かにぽつりと夢の話をする跡部を見るのも、どちらもひどく心がかき乱された。
無性に何かを伝えたくなって、ただただ抱きしめたくて左腕を跡部の身体に回した。
「さみしいよ、そんなの」
ぎゅっと手に力を込めて身体を引き寄せるようにする。
暗い夜の淵に独りぼっちで跡部がいるような気がして、それを、跡部が自ら選んでいるような気がして切なかった。
さみしいよ、と千石がもう一度漏らすと、じわりと布越しにお互いの体温が伝わっていった後に跡部は、そうだな、と小さく納得したように呟き、
「さみしい夢だ」
とかすれる声で言い直した。
その言葉の持つ響きが本当にさみしいと、なんて心が千切れそうなんだろうと千石は強く跡部を抱きしめた。

fin.
スピッツの曲の一部なんです、と教えていただいたこの言葉。
スピッツの歌詞って空想的ですてきなので、イメージに合っているかどうか心配なのですが……
ちょうど荒野を行くような映画を見た後に書いたような記憶があります。何の映画かは忘れてしまった。
『天空の城のラピュタ』の鉱山跡の洞窟でおじいさんがパズーたちに石の話をしてくれるシーン、『紅の豚』で眠れないフィオがポルコに何か話をしてほしいとせがむシーンの余韻が好きで、話終わった後の間、話し手が聞き手が、それぞれ一瞬しん、となって静かに息を飲んで何も言えなくなるような、そういう間がとても好きでした。
何か、邪魔できない、侵してはいけない、触れてはいけない、そのままにしておかなければいけない、一瞬の雰囲気。
思い出とか夢とか、そういうかけらのあるものは他人がやすやすと踏み込んではいけないような気になります。
This fanfiction is written by chiaki.