階下へ取りに行っていたケーキとジュースを持って戻るとドアを開けた途端、テレビの左横にある窓際で振り返った。
目を瞬いて、千石はすぐに笑う。
「……何やってんだ」
座ってればいいのにと思った跡部は部屋へ入るとテレビの前のローテーブルにケーキなどを載せた銀のトレイを置き、ソファに腰を下ろした。
千石はうん、首を傾けるとあっさりと小走りにテーブルに近づいて毛の長い白のラグの上にちょこんと正座し、
「うわ! すっごい美味しそうなケーキ!」
と、白い大きな皿に載せられた宝石のようなケーキを覗き込んだ。
どれも手のひらより少し小さなサイズだ。
2個食べてもいい?と千石が訊くので、跡部は何個でもと笑って答えてやる。
「ええじゃあねえ〜 うーん」
組んだ腕をテーブルに載せ、乗り出すようにして千石はケーキを選び始める。
ふわふわのシフォンケーキに、つやつやに光る赤い苺のタルト、コーヒーシロップの味が舌で甦るティラミス、砂糖漬けの甘栗がのっかっているモンブラン、きつね色の焼き目が美味しそうなオレンジシブースト、カシスの鮮やかな赤が目を引くムース、バナナクリームを挟んだほろ苦チョコレートケーキ、溶けるような口解けのチーズケーキ。
どれにしようかなと歌いながらぐるぐると指でケーキを辿り、たまにその選択を採用しつつやり直しもしつつ、千石はようやくオレンジシブーストとチョコレートケーキの2つを自分の小皿に選んで取った。とりあえず2つ、らしい。
跡部は他に食べたいケーキを千石に尋ねてティラミスを取った。自分も千石にならって下へ腰を下ろす。千石がいただきますと同時にスプーンを差し込んで口に運ぶ。おいしーと頬をさするのを見、跡部も一口分すくって食べる。そうして紅茶の入ったポッドを取ってカップに注いだ。
千石には冷えたオレンジジュースが用意してあった。お茶を飲むことはあまりないと以前千石から訊いたからだ。
ごくごくとジュースを飲み干して、幸せそうに千石はケーキを口に運んでいる。
すると、千石がもぐもぐと口を動かしながら、
「雨止まないね」
と呟いた。そうだなと返した跡部はカーテンの閉まっている窓をなんとなく見上げる。
雨の降る小さな音だけが微かに部屋の中へ届いていた。
今日は雨で部活が中止になり、こうして千石が遊びに来たのだ。
「テニスしてえ」
跡部はティラミスを載せたフォークをくわえて千石を見る。同じくチョコレートケーキを頬張っていた千石と目を合わせた。
そこでお互いに少し笑う。
千石が自分のフォークで跡部のティラミスを指し示す。
「それおいしい?」
「シロップが美味い」
そう跡部は答えると、ざっくり一口分すくって、ほらと千石の前にフォークを差し出した。
「ひとくち」
口を開けるように跡部が促すと、千石は躊躇なくあーんと口をあけてフォークに載っていたティラミスをぱくっとくわえた。
味わって飲み込むと、美味しいという表現らしくうんうんと頷くようにした。
「跡部くんも一口いる?」
「俺はいいよ」
「今日さ、古典があったんだけどね」
「今、ケーキの話じゃなかったか」
急に話題が飛んだ千石に、跡部は本当にいつもこいつの話は突然で脈絡がないと思いつつ先を尋ねてやる。
でね、と千石は相変わらず自分のペースを崩さない。
「百人一首とか歌? 和歌やったんだけどね、問答歌ってなんていうか、フウリュウっていうか洒落てるっていうか面白いなあって思って、なんかこういうの、跡部くんが好きそうだなって思ったんだよね」
「俺が? 好きそうって何だよ」
「うん。ロマンチックっていうの? 歌でやりとりなんてステキでしょ」
話しながら千石はケーキをフォークで崩して小さく切ったりしている。
恋の歌か、とふとそんなことを思いながら跡部はいたずらに小さくフォーク揺らした。
「何か気に入った歌でもあったのか?」
ん、と千石が顔を上げた。
唇をなめてちょっと右斜め上を見、本当に少しだけ間を置いて、
「内緒にしとく」
といたずらっぽく千石は笑った。
その後、2時間くらい話をしたりして過ごし、夜が近くなっても雨があがらなかったので跡部は車で千石を送らせた。
明日も雨だろうか。
夕食も済み、風呂も済ませてベッドへ横たわり、読みかけの本に手を伸ばした跡部はまだ聞こえる遠い雨の音を聞き、思った。
ついでに、雨が伝い流れる車窓の内側からこつこつとガラスを指で小突き、声はなしに“じゃあね”とで笑っていた別れ際の千石を思い出した。
次はいつ会えるだろうかと気の早い考えがすべて頭に浮かんでくる前に本を片付け、明かりを消しベッドに潜り込んだ。
朝、まどろみから覚醒していく意識の中で耳を澄ましてみた。濡れる雨音は聞こえてこない。
身体を横に傾けて起き上がる。寝癖で少しばかり癖のついた後ろ髪を梳くようにして直しながらベッド脇の窓際に立った。
カーテンを開ける。レースのカーテン越しに降り注ぐ光に視界が一時白く霞む。
慣れた目で外を見やると空はくすんだ白の雲にほとんど覆われていたが雨の心配はもうまったくなさそうだった。
跡部はレースのカーテンも横に押しやり、鍵を開け窓に手をかけた。そこで手をとめ首を傾げる。
光の反射で最初はうまく見えなかった。窓との距離を詰め、身体を斜めに動かしてみるとちょうどいいポイントが見つかって動きを止めた。
普段なら磨かれて余計な汚れなどない部屋の窓ガラスにいくつかの筋が残っている。それは明らかに人が書いた跡だ。
あいつ。
すぐに跡部は昨日この窓の前で振り返って笑った千石を思い出す。
人がいないときに薄く水滴で濡れたガラスを指でなぞったのだろう。
自然と笑いが漏れた。こういうどうしようもない気づかれても気づかれなくてもいいいたずらを思いつくのに関しては千石は天才だ。
跡部はそのガラスに書かれた想いを目で追った。書き出しの前に部分に指でかき消した後がある。
何を書こうか、どんなことをどれだけ書こうか、迷った跡なのだろうか。そういえば和歌の話を昨日出したなと思い返す。
気の利いた、歌のような言葉でも残そうとしてやめたのかもしれない。
文字の形はもうない。濡れ落ちる水滴でもうそれは文字かどうかも判別できない。
けれどそこに、飾り立てない真っ直ぐ想いが浮かびあがってみえるようで、千石のいたずらが愛おしいかった。
目を細めて微笑む。
今度また雨の日があったなら。そのときはあいつの家に行ってそっと同じことをしてこようか。
気づいても気づかれなくても、本当のことがそこにあるように。
ガラスに残された想いが幻のように、朝の淡い光の中に霞んでいた。
fin.