銀の月
ぱちん、ぱちんと、乾いた音が部屋に響く。
手の中ものを人差し指と親指で挟んでかちかちと振れば、ぱらぱらと残骸が足の間のくずかごに落ちていった。
夜の跡部の自室は音らしい音がすることなく静かだ。ただひとつ音を立てているのは跡部が使う爪きりだ。
夕食をとうに済ませ宿題を片付け、わずかな自分の時間を過ごしベッドに入るまでちょっとした隙間、跡部は時折こうして過ごす。
他の同級生に比べて丁寧に手入れをしている方で、きちんとやすりをかけ表面も磨く。
ソファに座り込み爪を切るこの時間は跡部にとって空白だ。手に目を落とし無心になって手入れをする間は考えることを放棄できる時間で、それは自分の小さな気分転換になっている。
規則的にする、爪の弾け飛ぶ音をときどきぼんやりとした心で拾いながらこなしてゆく。
そこに無遠慮な音が割り込んだ。ソファの前にあるのローテーブルの上で、バイブ設定にした携帯電話が耳障りな音をさせて鈍くのたうつ。
目に付くところに置いておいたのは失敗だった。そう後悔するのは遅かった。跡部は舌打ちする間もなく、いまだ振動しメールではなく電話だと主張する機械を手に取った。爪きりは、ぽいとソファに投げ捨てる。
ちらちらと光をこぼす背面ディスプレイを覗くと嫌な予感は的中して、最近自分に付きまとう人物からだった。もちろんそんな奴のナンバーやらアドレスやらを跡部は電話帳に登録などしていない。ただ、かけてくる回数が多くて覚えてしまっただけだ。切ったってまた電話が鳴り出すだけだというのは分かっている。出るという選択肢しか跡部にはない。
「なんだよ」
乱暴に通話ボタンを押してぶっきらぼうに最初の一言を放つ。これが最近の対応だ。
「やっほー跡部くん、今日はいつにもまして無愛想だねえ」
笑いを含んだような明るい声が届く。これがこの人物の、当初から変わらない挨拶だ。
ノイズまじりの声が耳の奥で飛び跳ね、スパークしては跡部の心を毎回無闇にかき乱す。それはひどく落ち着かないものだ。今まで自分があまり体験したことのない、考えあぐねている、という状態に似ている。
「何の用だ、千石清純」
他愛もない会話には乗らず、ため息まじりに言った。千石清純、ごてごてした名前だと空でその字面を思い浮かべる。
嫌だなあ、そんな他人行儀みたいな呼び方はやめてよ、と本当に嫌がってるのかどうか分からない声が向こうに聞こえた。
「千石でいいよ、とりあえず」
何回も言ってるけどねと付け加えられる。今度はあからさまに千石に聞こえるように跡部は息をこぼす。
「だから何の用なんだ」
「用って、別になにもないよ」
あっけらかんとした物言いが返ってきた。その潔さに跡部はどこか感心しながらも、呆れと小さな苛立ちが表情に滲み出て唇がわずかに歪む。
「用のない電話はするな」
と少し強い調子で言うと居心地の悪い一瞬の沈黙を挟み、じゃあなんで切らないのと柔らかくそして小さな声が跡部の耳に届く。けれどそれに対して跡部が感情を表す暇はなく、
「あっ、用件あった。そうだこれ伝えるために電話したんだった」
掻き消えそうな声は本当に消えて、弾けるように千石が笑った。何だ、と先ほどから繰り返している言葉にまたひとつ心地悪さがのっかる。
「明日そっち行けないんだ。どうしても抜けられそうになくって」
何故とか、どうしてそんなことを自分に言うのだとか、いちいち長くは尋ねない。これも口癖になっているように、だから何だ、と短く言ってそのまま電話を切った。千石が受話器の向こうで、南が煩くて伴じいがどうのとか来れない理由を勝手に並べている途中だったが、こんなときはもうしつこく電話はかかってはこない。千石の目的は、電話に出てもらうことと、わずかでも自分と話すことだというのはすでに分かっている。
ただ、後味の悪さを消すために、電話の後にはメールが一通決まって届く。予想どおり跡部の手の中で電話が震えた。開いて確かめると、思ったとおりもう覚えてしまったアドレスからのメールで、“行けなくってごめん。来週は必ず行くよ”と顔文字付きの千石らしいメールが入っていた。
望んでもいないフォローだ。携帯をたたんでふと心がざわめいたがソファに転がる爪きりを捉えて拾うと、大きく吐き出した息ひとつで気持ちを払って、立ち上がった。就寝までのわずかな時間はもう終いだ。爪きりを片付けて部屋を横切る途中、ベッド近くの窓に目を引かれた。
中途半端に閉められたカーテンが揺れることなく、蛍光灯の光を受け濃い陰をしわに落とし佇んでいる。ぴたりと締め切られた窓の向こうに人口の光ではないものがガラスの反射に埋もれることなく光っているのに気づき、跡部は見つめたまま近づいた。よく光るその正体はひとかけほどの月だ。星の見えないぺったりとした暗い夜空にひっかき傷をつけたかのように、細く鋭い三日月が浮かんでいる。
カーテンを掴んだ手の指先が、思いがけず軽く力の入ったせいか小さな音をさせて布地をこすった。
銀のナイフを思い浮かべる。古い洋画の食卓に厳かに並ぶ年代物の銀食器、または夜を彷徨う怪物の心の臓を突き刺す刃。地球を見下ろし続け気が狂いそうなほど長い年月の間に熟成された、怜悧さや聡明さが月の視線にはあるような気がしてくる。
静かに光を湛える月を見上げて目を瞬くと、跡部は見惚れるまもなくカーテンを引いた。電気を消してベッドへ潜り込む。暗闇の中で目を開けるとまだ慣れない目には何も映らなかった。
明るさに馴染んでいた部屋の空気がしんしんと深みを取り戻し、夜の空気へと染まっていく。静けさや冷たさを取り戻していく中で目が慣れ、耳が夜の気配を聞き分けられるようになった頃にはたいてい身体は夢に沈みゆく準備が出来ている。今日もその例に漏れず、ぼんやりしてきた思考と感覚を実感しながらゆっくりと瞬きした後、ぴたりと目を閉じた。
夢への入り口の狭間、夜に浸りきった跡部の身体の中で銀の小さな輝きが姿を覗かせたが、それを正確に捉えきる前に感覚はもう落ちてゆき、ちくりとも心をざわめかせることはなかった。


「跡部」
不覚にも、ぼんやりとしていたときだった。不機嫌そうな表情を作ってから顔を上げた。
1時限目の始まる前までのわずかな時間はどうにも教室の雰囲気が慌しい。担任教師がホームルームを終え教壇を離れると途端教室はざわめき始める。
特に今日、次の時限は選択制の語学で、ドイツ語以外を選んだ生徒は教室を移動しなければならないためにいつもよりがたがたと机と椅子のかち合う音、ロッカーを開け閉めする音や落ち着きなく教室を往復する足音がにぎやかだ。
跡部の席からは教室がよく見渡せる。窓際の後ろから2番目のこの席は肘でもついて手のひらに顎でも預けていれば別に見張っているつもりはなくとも、クラスメートの出入りなどすぐに把握できる。
今日ホームルームの始まる直前に駆け込んできたのは2人、そしてもう終わる間際にこっそりと入ってきたのが今こちらへ歩いてくる1人だ。
「やーあかんあかん。ギリギリやったわ」
いつもより少しはね気味の頭で、ペーンケースだけを掴んだ忍足が薄く上気させた顔でこぼした。急いで階段を駆け上がりでもしたのだろう。忍足は移動組のはずだ。遅刻寸前だったのだから余裕だってないだろうに、ロッカーへ行く道すがらわざわざ自分へ声をかけていくなんて律儀な奴だと跡部は思う。
一方、先ほどから優雅に席に収まっている跡部はもちろん残り組だ。普段からゲーテの詩集を原語で慣れ親しんでいる跡部は迷いなくこの教室で行われるドイツ語を選択した。
多くのクラスメートと違いすでに教科書やノートを机上に揃え、来月のトレーニングメニューの見直しのために部活用のノートを開き思案している最中で、後はチャイムが鳴り教師が入ってきたときにさっと席を移動すればよいだけの状態だ。
忍足が跡部の手元をさり気なく覗き込み、ああと一目見て内容を理解する。
「そういや、今日は来いひんの」
思い巡らさなくともそれは“テニス”という言葉から連想したのだろうけれども、突然の忍足の振りに跡部はかつかつとペンの先で机を小突いていたのを忘れてしまった。
忍足は跡部の横の窓を見やっていて、その方向は先ほど跡部が何気なく見つめていた方向でもあった。何だか居心地が悪くて、跡部はあえて同じ方を見やることはしなかった。
忍足の問いかけが誰のことを指しているのかはすぐに分かった。オレンジ色の頭と白の学ランのコントラスト、そしてあの調子の良さは落ち着きのない向日、覚醒した慈郎の次あたりに目立つから、部の連中は全員、その存在を知っているはずだ。
千石が何を目的で来ているかは今のところ自分しか知り得ていないと跡部は思っているわけだが何の確認をしたわけでもなし、面白半分に無粋な仮説やら噂のひとつやふたつ、特にレギュラーメンバーは話していそうだとも思っていた。
飄々としている忍足のこと、何か意図があるかと瞬きして見定めてみたが今回のはそうでもないようで表情や声の調子から深読みできるものは何もなかった。
それを瞬時にさらった跡部は気のないふうに、
「さあな」
と答えて静かにノートを閉じて終わりにした。
それに対し忍足は、ふうんと跡部よりさらに気のない反応を寄越すと後方へ去っていった。
自分の考えすぎに安堵する、その暇はなくすぐに思いあぐねているという自分の行動だけが浮き彫りになって跡部は自分にさえ気取られないように小さく息を吐いた。
教室のざわめきが収束に向かっている。大部分が移動して人数の少なくなった教室を、跡部は教科書の類を机で揃えて立ち上がりかけた。そこで自分を呼ぶ声を耳が拾って周囲を見回すと、まだ移動していなかったらしい忍足が教室後ろの出入り口から半身を覗かせていた。そして自分の頬骨のあたりに指をこつこつと押し当てる動作をした。何かを自分に教えているのは分かったけれど小さく辺りを確認して逡巡した後で、跡部は首をわずかに傾げ眉根を寄せた。
何だ、と投げかけようと口を開きかけると頭上から聞きなれた短い旋律が流れ、ぱたぱたと駆ける足音がそこここでし、忍足も焦った顔をして後でいうサインのように片手をあげ、扉の向こうに消えてしまった。
……何だ?
宙ぶらりんになった言葉はどこにも行き場がなく、すっきりしない心で跡部は忍足がしていた動作を真似て密やかにそっと頬を撫でてみたが何も分からなかった。
すぐに教師がやってきて、ざわついている教室を諌めるように号令を促して授業が始まった。教科書に沿って授業は進み、教師が説明を加えてポイントを板書していく。
予習を済ませている跡部はそのまま書き写すのではなく、ごく簡単に自分にとって必要なことだけをだいたい教科書に書き込んで済ませている。耳はなるべく教師の声に傾けながら、今日宿題となりそうな2ページほど先の設問に取り掛かる。部活に明け暮れる跡部にとって、優秀な成績を収め続けるには常に先へ先へと動いておかないとあっという間に綻びができるに決まっていた。何より跡部は部長という役職だけでなく生徒会長も務めている。まさに時は金なりだ。
問題を読み、ノートへドイツ語の文章を綴っていく。
窓から朝の白い光がさわやかに差し込み教室は明かりをつけなくてもよいほどだ。光の降り注ぐ音がやわらかに聞こえてきそうな中で教師の声だけが響き渡る。たまにチョークで黒板を叩く音もする。ちらと窺うように目だけを上げると、黒板の前に立つ教師の後姿がまず目に入る。ついでに辺りに目を配ると、首を上げ下げ真剣にノートを取っている者や、始まったばかりだというのにもう欠伸をかみ殺している者、だるそうに片肘をついて俯き加減になっている者などクラスメートの様子はさまざまだ。その背中や、机、床は光の粒子に包まれたように色を儚くしている。
時節が大事だと言う教師の言葉を拾い頭の中で反芻して、跡部は赤のペンで教科書の例文から時節部分を拾い出して二重線を引っ張った。見落としはないかとざっと眺めながらペンを握り直す。やわらかに、皮膚を押しやる感触が手のひらをかすめた。眉間に一瞬しわが寄る。おもむろに手を開いてみると、薬指の爪だけが昨日見上げた薄い薄い銀の三日月のように清んで在った。
あっ、という小さな驚きと咎めはかろうじて口の中で抑える。昨日切り忘れたのに間違いはない。あいつから電話が、と思った瞬間、思いがけず手に力が入り、爪が本当に小さく食い込んで薄赤い半月のような痕が浮かび、すぐに消えたものの、密やかに胸の内を引っかかれたような心持ちがした。
そこでようやく先ほど忍足が何を伝えようとしていたのかに気づき、さっさと口で言えばいいものを、と独り心の中で愚痴る。
気にしつつもペンを走らせてみた。一度気に留めてしまった違和感は何故か忘れられなかった。騙し騙しいくつかの文字を書いて手を休めた。
ふいに教師の目を盗んで見やった方向は窓の外だった。教室の中心寄りのこの席からはさっき望むことのできたテニスコートは見えない。
しかし木々のあふれる緑の淵にコートを囲うフェンスだけがちらほらと見え隠れしていた。そこは訪れるたびに千石がにぎやかしている場所だ。あそこから最初にあいつは投げかける。決まっていつも、俺に。
誰かの気に留まる前に跡部は視線を戻した。ノートを取るのに集中しているかのように姿勢を正して俯いた。下を見つめたまま、静かな呼吸をゆっくり繰り返した後で苦い顔を作る。
切らなくては、と思った。
忘れられた爪を見下ろし隠すようにその手を握りしめた。
自分の中の三日月が切っ先を心の縁に引っ掛けて危うげにゆらゆら揺れているのを思い浮かべる。その三日月を、俺は、ちょいと押して壊してしまうことだって出来るのに、そう片隅で考えながら跡部は昨日の短い電話のやりとりを思い返していた。
やがて唇にわずかな力を入れ目を伏せると、振り払うようではなくやわらかに、首を振った。

fin.
跡部は爪の手入れには気を遣ってそうだと思うので、本当は爪きりじゃなく爪やすりでこまめにお手入れしてると思います。話の都合上、爪きりにしましたが。手品師の人も爪きりは使いませんって言ってたなー。
わたし、“一歩間違えたらストーカー”みたいな千石書くの好きだなって思いました……すっみません。千石が跡部に付きまとう、みたいな出会い話よく書いてます。なんだろう、跡部から千石に近づくというより千石から跡部に近づく、という出会いがどうにもしっくりくるみたいです。
趣味、女の子ウォッチだし……まあいいかという気持ちになるのかもしれない。失礼。
千石は、本当に嫌がってる相手には近づきもしないんじゃないかと思うので、跡部に邪険にされてもへこたれないのはそういうことなんだろうなと思います。打たれ弱そうですがめげることはなさそうですね千石。
This fanfiction is written by chiaki.