引き波のように去っていく人ごみの気配と線路を滑る車輪の音を遠くに聞いて、その雑音の中よく耳に馴染んだ声を拾った気もしたのは自分が弱っているせいだろうか。
「こんなとこで何してるの、跡部くん」
「……座ってる」
どうやら気のせいではないらしい。幻聴を聞くほど人恋しかったわけではないことにまだ子どもであるはずの15歳は一安心して顔を上げる。
見れば分かるよ、と言いたげな少し呆れた表情を見せながら学ラン姿の千石が人影まばらのプラットホームに立っている。
つい先ほどこの駅を停車していった電車に乗っていたらしい千石は駆け寄ってくると、駅のホームに設置されたベンチの端っこに俯くように座っていた跡部の横を回り込み、隣に腰を下ろした。空っぽのホームのベンチには自分たち男子学生が2人。帰りを急ぐ夕方にはベンチに座って一息つく人間は少どうも少ないらしい。ここでいくつもの電車を見送ってきた跡部が得たわりとどうでもいい情報だ。
どうしたのと驚きがまじった声を、腿に肘をつき額を押さえた格好で跡部は目を閉じて聞いていた。そのうちまたそろそろと人がホームに集まって電車が滑り込んでくる。先ほどからずっと、いや本当は朝から夜までずっとここはその繰り返しだ。
「お前こそ、ここで、何やってるんだ」
「何ってこの駅で乗り換え。帰りの途中だよ」
「ああ、そう」
そういえば、と今更思い出した。どこかで見たことのある風景だと電車の中でぼんやり思ったのだ。ホームに降りてからはそんなことを考える余裕はなかったけれども、ああお前のことか、と呟く。顔を覗きこむような気配がする。
「じゃなくてさ、」
「ああいいんだ。お前、早く帰れ」
「そうやって邪険にする。……具合悪いんでしょ。大丈夫?」
すっと伸びた千石の手が、跡部の手をやさしくどかして額に触れる。その冷たさがこめかみの奥を這いずる鈍い痛みにじんわりと効くような心地良さを覚える。一瞬、ひどい頭痛の引き起こす吐き気のようなものがくらりと意識を持っていって、跡部は声を出せずに小さく頷いて返した。
やっぱりというように、千石がもう一方の手で跡部の背中をさすった。
「ずっとここにいたの? 身体冷たい」
今度は風邪引いちゃうよ、あ、風邪引いたのかな、と自分の上で一人ぶつぶつ言う千石の声が意識の近くに戻ってきた。吐き気が少し引いていったのに大きく呼吸する。
「家には電話した? つーか君ここの線使わないよね。普段は車でお迎えだし、どっか行くの?」
「……電話はした。取引先に行くところで、遅れて行くって」
言葉をところどころ、頭の中からゆっくりと締め付けるような痛みと口を開くときにふと過ぎる吐き気に遮られる。
「取引先?」
「いや、それは、嫌味で、」
「あそうだ。跡部くん薬飲んだ? もしかしてまだ?」
首を縦に振って、これでもだいぶ良くなったと告げたけれど、頭痛は飲んだ方がぜったい楽になるよと言った千石の声はさっきからいささか早口ぎみで、自分の声の小ささはまったく説得力がなかったようだった。背中から手のひらが離れたのを感じる。がさがさと横で千石がカバンの中をかき回す音がした。
「俺ね、風邪薬と腹痛止めと頭痛薬は持ち歩いてんの。母さんと姉ちゃんが持ってけっていうからさ」
あったと声が上がって、千石が立ち上がる。一瞬隣から気配が消えかけたのになんともいえない気持ちになったが呼び止める元気もなかった。すると、いつのまにか引き返してきたその気配が肩に手を置いて、
「ちょっと待ってて。戻ってくるから、そのまま待ってて」
と言ったもんだから心を読まれたような気がして跡部は自分自身に少し驚いた。いつもの自分だったら、額に手をあててため息をつくくらいに。ぱたぱたと小走りの音が遠ざかる。まさか駅員を呼びに言ったんじゃないだろうなと思ったがそうだとしたらもう手遅れだろう。顔を上げる気力はまだない。
この駅に降り立ったときがいちばん酷かった。頭痛のピークで、吐き気に身体が圧倒されて脚にろくな力が入らず、これ以上動くと崩れ落ちそうだとさえ思った。なんとかベンチに辿り着いて腰を下ろして、それから数分は石像のように微動だに出来なかった。俯いた自分の外の世界が、ホームへ滑り込み人を吐き出し過ぎ去っていく電車とそれに付随する人の流れの収束そして拡散、それだけで作られている、むしろ自分がその世界そのものになったような錯覚の中で何本もの電車を見送った。もしかしたら何十本かもしれない。
学校を出てからどれくらい時間が経ったのだろう。いつもなら気をつけて腕時計を覗き込むようにしているのに、慌てて校門をくぐったところで確認したのを最後に、もう記憶がない。出たときはそう、15時半だった。
「お待たせ」
ここのホーム自販機ないんだねー、とのんびりな口調とは裏腹に階段を上り下りしたせいか少し息が切れている。
「身体起こせる? 薬飲も」
跡部がすっかり固まった上体を起こすと、横に座った千石が冷やされたミネラルウォーターのペットボトルと薬を差し出して待っていた。
「……そのアホ面、久しぶりに拝んだ気がするぜ」
「なぬっ。って、ほんとにひさしぶりですよ。今日は初めてに近いね」
「ありがとな」
「いやいや」
水と頭痛薬だけを受け取って跡部は薬を流し込む。そういえば水分も取ってなかったなと思うと、喉を流れ落ちて潤う感覚がとても気持ちよかった。
深く息を吐くとその横顔を眺めていた千石が眉を寄せて顔を曇らせる。
「跡部くん顔色悪いよ。迎えに来てもらったほうがいいかも。歩けるなら俺送ってく」
それに首を振るとさらに千石の表情が曇る。さっきよりかは随分痛みもましになった。脚に力も入る。歩こうと思えば歩ける。
「顔、出しておかないと、面倒だからな」
「取引先?」
「そう、取引先」
そう言って跡部はやっと小さく笑った。
取引先とは跡部の親族や知人のことだ。今日は夕方からホテルのレストランで跡部家にはよくある食事会の日だった。愛想笑いをしてご機嫌取りをして接待して、営業マンが企業の取引先にすることと何が違うだろう。それを揶揄してときどき跡部は気の許した執事や友人の前で使った。雰囲気を聡く察して卒なく行動できるほどに大人ではあったけれど、上辺の付き合いを簡単に割り切れるほど大人ではなかったので、今日のような日はどことなく鬱屈だった。もちろん顔には出さない。そこが自分に少し腹の立つところだ。
「ふーん。じゃあ今日はその取引先と食事会で、学校から電車でレストランに行くところだったんだ。んで、電車の中で具合が悪くなってここで降りた」
「ああ。あの辺は、車混むから」
また一口水に口をつけた。だいぶ頭痛も落ち着いて会話の邪魔をしなくなっていた。薬が効いてきたのだろうかと思ったが、まだ5分も経ってないだろう。安心したんだろうか。
「お前にね……」
ボトルのキャップを閉めながらちらりと千石を見やると、メールを打っていた千石が顔を上げ小首を傾げた。
「何?」
「いや、今何時かと思って」
「えーとね」
ぱちんと携帯電話をたたんで、表面に小さく表示された時刻を確認する。
「4時42分」
「へえ」
1時間もここにいるのかと考えてそろそろ食事会が始まる頃だと思った。17時集合だ。ゆっくりと呼吸を繰り返してそっと辺りを見回してみた。どこかも確かめずただ電車の揺れから逃れたくて降りた駅だが改めて見れば見たことのある場所だ。トンネルを抜けたところへ谷間の下にあるような形の駅で、違う路線のプラットホームが2つ並んでいる。跡部の目の前にあるホームの線路は、左手から来るときはもうひとつの路線と平行にトンネルを抜けてくるが、この駅を過ぎるとゆるやかにカーブして右奥へ伸びていく。それぞれの路線が別のトンネルへ消えていくのだ。
ちょうどどちらのホームも電車が発車したばかりであまり人気がない。自意識過剰か、1時間もホームのベンチで過ごしていれば自分を変に窺っている人もいるだろうかと思ったがそんな素振りの人もいない。皆メールを打ったり、何か考え事をしてるふうに、ホーム描かれたマークの近くに立って次の電車を待っている。とぼとぼと階段を下りてくる人がホームに列を少し崩したような固まりを作っていく。
目をつぶった。レールを引っかく音が遠く遠くに聞こえる。
「歩けるうちに帰ったほうがいいよ。風邪かも」
「もうちょっとしたら、行く」
「行くって」
「そう」
はあ?と盛大に隣でため息をつくのが聞こえる。何言ってんの、と怒気を含んだ声がして跡部の手の中の水をひったくっていく。
「具合が悪いんだから帰って寝なきゃ! 仮病じゃないんだから誰も怒ったりしないでしょう」
むしろ心配してるよと何故か拗ねるように言って喉を鳴らして水を飲んだ。
「欠席できなくはないんだけどな」
「だけど、何だよ」
「面倒の一言に尽きる」
そう、欠席できなくはない。自分がいてもいなくてもそれこそ子どもに用のある大人などああいう場所にはいないのだから、本当はさして問題はない。けれど顔を揃えるということが大事であったり、何より最悪自分がいないことを理由にまた余計な食事会が催されることになったらと思うとぞっとする。とりあえず欠席しておけば後々困らない、そんなことは学習済みだ。
黙り込んだ跡部の表情から自分が救い上げられない部分を感じ取ったのか、千石は食い下がることはしなかった。けれど、今度はどことなしに傷ついたような顔をして、
「かわいくないやつ」
と言って唇を尖らせた。
「そう、可愛くない子どもなんだ」
「ほんとだよ。子どもは風邪引いたら大人しく家帰って寝るもんさ」
不覚にもどう答えていいか分からなくなった。それを跡部は千石から水を奪い返すことでやり過ごす。やがてホームへ進入してきた電車が大げさなため息をついて乗客を吐き出した。皆一瞬堅苦しさから解放されたような顔をして、けれどすぐに違う顔を作って跡部と千石の前を行き過ぎていく。発車ベルの音、人の流れの向こうでがたがたとドアが閉まり、乗客を十分に飲み込んだ重たい身体はすぐにスピードに乗りカーブの向こうへ消えて言った。それを見送るまでにはもうホームに残る人影はまばらでまた2人、夕方の隙間に取り残されるような形になった。
ぱちんと音をさせて千石が携帯を開く。少しいじってすぐに閉じる。少し前から出てきた涼しい風にオレンジの髪を整え時間を確認する。1時間くらい遅刻したって怒らないよ、と静かに言ったのを、跡部はその気持ちを推し量りながら頷く。
でも、あと15分くらいはこうしててよ。
子どもっぽさの含まれた声音に千石を見る。心配だという気持ちを押し殺さずに千石も跡部を見ていた。
「まだ薬効くような時間経ってないでしょ。俺の知らない駅でふらついてホームに落っこちたって俺は、助けにいけないんだからね」
「……分かったよ。あと15分はここにいる」
「俺も、一緒にいる」
そう言うと千石は自分の学ランのボタンを外しはじめた。おいおい、と跡部がたしなめるのも聞かずに手早く脱ぐとふわりとそれを広げて、すとんと跡部の肩にかけた。
「寒いでしょ」
微笑む千石の、ようやく秋らしくなってきた今日この頃とはいえ涼しい風のある夕方に長袖のTシャツ1枚の姿は頼りなくみえた。ばかお前が寒そうだよと自分の肩を掴んで学ランを返そうとすると、伸びてきた手が学ランの襟をぐっとかき寄せる。
「病人は大人しく!いや子どもらしくかな?」
「かっこつけんなよ」
「こういうときにつけなくてどうすんだよ」
「その、Tシャツのセンスで言われてもな」
「あ、そこ今言うかなー」
能天気な英文の書いてある千石の胸元を指差して小さく笑ってやる。読んですぐに訳した文章が頭に浮かんだがそれは教えてやらなかった。千石らしくてこれはこれでいい。
何か話そうか、うるさい?と千石が訊くので、どちらでもいいと答えた。
「じゃ適当に相槌だけして。俺隣で話してるから。いらなくなったら手上げて」
歯医者みたいだなと跡部は心の中で笑ったが短く返事をしてそれ以外はいらないんだと思った。頭痛のせいではなく、千石の気遣いのおかげで。
千石にはいろんな話があるようだった。用がなくてもときどきメールも寄越してくるし、自分も返信をすることがあればお互い電話もした。この前に会ったのは確か2週間ほど前で、跡部にしてみればそれほど連絡を取らずにいたつもりもないのだけれど、次から次へと千石はあんなことがあった、これはどうだったとか、話題は尽きることがない。
千石の話を聞いていると本当にときどき、自分はうっかり世界の何かを見落としてきているんじゃないかと思う。千石より多くのものを。この世界にはもっと見るものや感じることがあって、自分は鈍磨してるんじゃないかと疑って、ほんとは、分かち合うことが好きな千石を少し尊敬すればいいだけの話なのだけれど、そんなところはまだどうやら子どもらしい。そうだな、と相槌を打つふりをして跡部は微笑んだ。
上ずったような少し甘ったるい声に耳を傾けながら向かい側のホームをぼんやり眺める。すっかり陽の落ちて薄暗くなった辺りに反比例して、ホームや駅舎など建物に点る蛍光灯の明るさが目に付くようになり、間延びした人影が明るく照らされたホームをゆらゆらと歩いている。ガラス張りの短いエレベーターが連絡通路に垂直に伸びていた。キラキラした箱がすうっと上がっていくのを目で追いかけると、駅を見下ろす谷間の上に20階はありそうなマンションが大きな窓を並べて建っていた。ほとんどの窓にはやはり明かりが灯っていた。明るさの際立つ白っぽいのもあれば、心落ち着くまどろんだ淡い橙色のもあり、それは似ているようで少しずつ形が違った。同じものはないのに、そのことにどこかほっとするというのも不思議だ。
長方形の建物を彩る明かりのひとつひとつがドット絵のように何かの形に見えやしないかとしばらくぼんやり見つめてみたが、結局それは何の形にも結びつかなかった。
千石の声がほんの少し前に止んでいた。区切りのいいところで一息ついた千石は隣で携帯を気にしている。時間だ。
「千石」
「……んー」
「帰る」
二度俺の顔を見返しているに違いない、そう思って千石を見やるとやはりこちらを向いて瞬きしていた。
「取引先じゃなくて?」
「おう」
家に帰る、ときちんと口にしてみせると千石はほっとした顔を寄越して笑った。残り少ないペットボトルを飲み干せという意味で差し出す。千石が手を伸ばしてボトルを掴んだのを見て、そのまま上から手を握り込む。俺と、掴んだ俺の手を三度くらい見比べているに違いない。
何て言おうか、とっさに何も見つからずに思わずあの建物を見上げた。今、新しい明かりがひとつ灯る。2人で肩を並べて、多分千石も今同じものを見上げているだろう。
「……帰るか」
やっと見つけたと思った方の言葉は夜気を吸い込んだ胸のうちにゆっくり引っ込んでいく。微動だにしないで掴んだ手をそのままにしているやさしさが心地よすぎてどうしようもなかった。
帰ろう。それしか言えない自分に、うんと頷くだけの千石もどちらも、子どもだ。
なあ千石。
帰る家がある、今日ほど俺はそのことを切なく思ったことはないんだ。
fin.