はじめて喧嘩をした。
事の発端はもうよく分からない。最初は普通に会話をしていただけだったのに、昨日や今日のことだけじゃないいろいろが複雑にこんがらがって、少しずつ掛け合いのテンポも言葉の温度も合わなくなって、ちょっとずつ互いに沈黙と我慢を混ぜだしたのがよくなかった。
気づけばじりじりと導火線の焦げついたような険悪な雰囲気が互いのあいだに張り詰めている。
「黒尾さんの寂しがり」
睨みつけて、赤葦はわざと低く出した声を投げつけてやる。すると今まで赤葦に対して怒りをあらわにしたことがほとんどなかった黒尾が少しはむっとした表情を作って甘さのない目元を不機嫌に曇らせた。へえ面倒臭がりな黒尾さんでもこういうのに乗っかるんだなと、赤葦は片すみでそんなことを考えながらすっと視線を持ち上げて黒尾の眼差しに受けて立つ。ソファに座っていた黒尾が前に乗り出して、ラグに座る赤葦に向けて重たげに口を開いた。
「この、」
語気の強さと違って詰まった言葉の先が宙にぷつりと途絶え、黒尾が何か変なものを飲み込んだような顔をする。赤葦が訝しげに言葉を待つ間に黒尾の目にあったほんのりとした怒気も引っ込んで、なぜだか黒尾は何かを考えるようにそのまま黙り込んでしまった。ゆるく握り締めた手を口元に当てているその様子は怒りを内に抱えて無視を決め込んでいるふうには見えない。
しかしこうやって喧嘩相手が急に黙り込んでしまうほど居心地の悪いことはない。面倒でも痛くても何かしら言葉を交わさなくては、喧嘩だって仲直りだって出来やしない。赤葦はまだ許してやる気などさらさらなかったが、少し下唇を突き出して不満気に顔をしかめ、目の前にあるローテーブルに肘をつき手を頬に預け斜に構えて黒尾を見やった。
「何か言いたいこと、ないんスか」
「……それがさあ」
その声はほとんどいつもの黒尾だった。話しかけられたのには気づいたのだろうが、声の不機嫌さにはもう気を払っていないなと赤葦はこちらを見る黒尾をもう一度睨みつけた。たぶん、効果は望めない。
「そもそもないんだよね」
「ないってなんですか。つうかそもそもって」
ふうっとためた息を吐き姿勢を戻して背もたれにぼすっと身体を預け、肩の力をすとんと抜いてあっけらかんと黒尾が頭をかく。
このひと喧嘩中だって分かっているのだろうかと思わずため息をつきたくなったがぐっと我慢して、あるでしょ文句のひとつやふたつ、と怒った顔を崩さずになぜか自分からダメだしを要求する形になる。もう半分くらいぐだぐだだ。
そんなことを言われてもね、と黒尾が唇を尖らせた。
「ないんだよ。思いつかないっていうよりは俺ん中にないのいっこも。お前の嫌いなとこ、探したけど見つからなかった」
「はあ」
意味の分からないこと言わないでくださいよ、と赤葦が眉間の皺を深くして座り直すと黒尾はぱたりとソファへ仰向けに転がってしまった。その据わった目のおさまる横顔を赤葦はじっとりと視線で舐る。
「俺は、黒尾さんに直してほしいところたくさんありますけどね」
「お前はそうだろね。知ってるよ」
はは、と笑って黒尾はソファの背に置いてあったクッションを拾って抱え込んだ。悪びれないその様子に赤葦は不満たっぷりに鼻から息を漏らす。いつのまにか黒尾は笑みを消して、うーんと小さく唸りながら言いあぐねるように唇をもそもそ動かす。そうして難しいものを食べたような消化不良の顔を天井に向けたまま、別にお前のことすげーいい人って思ってるわけじゃないんだけどさ、とのろのろと形になったものをこぼした。
「罵りたいとこなんてひとつもないんだよね。お前が俺に見せてくれたところで嫌いだって思ったとこ、いっこもない」
さらりと言って、黒尾は胸の上に置いていたクッションを掴み、まるで青空に鳥を逃がすように手を広げてぱっと空へ放つ。つられて赤葦も白い天井に向かって舞ったブルーのクッションを目で追う。このアホ!とか言ってもなあ小学生のケンカじゃねえし、と気乗りしないふうに呟いて落ちてきたクッションを黒尾が受け止めぎゅっと抱く。
口を謹んで大人しく黒尾の話を聞いていた赤葦は、なんだかもうため息をつく気もなくなっていた。さっきまで硬くて動かしづらかった顔がいつもどおりになってしまって悔しいけれどそれは黒尾のせいで、ぱちぱちとすばやく目瞬いてから立ち上がる。
傍にやってきた気配にすぐに黒尾も気づいた。ソファの肘掛に乗せた頭を少し動かして、ん、と上目遣いにこちらを見上げるのを赤葦は涼しげに見下ろしてから、座面の縁に膝をひっかけ黒尾の頭の横へ左手をついた。10センチもない距離に逃がしてやるものかとわざわざ思うわけではないけれど、逃れられないなんてもうとっくに知っていて、それを、この人は知っているだろうかとちらりと考えて押しやって、赤葦は真正面に黒尾の顔を見据える。にやっとその口元が歪む。
「なーに」
「遠回しなこと言ってないではっきり言ったらどうですか」
「そっちこそもう怒ってないんじゃない?」
黒尾の手が伸びてゆるんだ赤葦の唇をそっとなぞるのに、赤葦は、ふふ、と小さく笑って眠たげなまなこを細めた。
「あるんでしょ、言いたいこと」
「言ってもらいたいの?」
「そりゃそうですよ。言わなきゃ分かんないでしょ俺に」
また、紅を引くように口元をに触れていた黒尾の中指を赤葦は薄く唇を開けそっとつかまえた。黒尾の視線も同じように縫いとめて、指先を濡れた舌先でちら、と舐めてみせる。そんなことに黒尾が照れることはない。もちろん赤葦だってそれを期待してるわけもなくてただほんの少し待つあいだの暇つぶしだ。
黒尾が赤葦の顔を目に映して、その目元をやわらかな空気を含んだようにやさしくする。
「……ぜんぶ好きだよ」
ぜんぶね、と言った黒尾の瞳のなかにいる自分に赤葦は満足げに笑う。
「最初からそう言えばいいのに」
言うなり黒尾の手をはがして握りこみ、その瞳に吸い込まれるように顔を近づけて鏡のように合わせてから、黒尾の唇を自分のでゆるくふさぐ。すぐに黒尾の唇もほどかれて差し込んだ舌が温く絡まってとろけあう。ひたひたに濡れた音が互いの息遣いにかみ殺されて、耳と頭の奥にぼんやりとした熱をもどかしく落とす。もっとと呼吸する隙間を惜しんで深く唇を合わせた。
口の中に感じる境目のない体温に酔う赤葦の首筋に、大きな手が絡まる。くしゃりと後れ毛を撫ぜられたのに気づいて、赤葦はいっかい苦しげに笑んだ唇で黒尾の舌を押しとどめ、甘えたがり、と吐息とともに甘く黒尾をなじった。
fin.(2014.8.11)