つまり、までの話をしよう。
それはいささか遠回りで日常の連続だけれど、わがままの一言で済ませるのは惜しいし、個人の名誉のために言っておくとそういう話でも、ない。
もちろん、愚痴とか告げ口とか文句ってものじゃない。断じて。誓って、ほんとうに。
珍しくあいつが俺と同じ時間に起き出して洗面台に並んで身支度をしていた。ああ、そういえば出かけるって言ってたなと昨日の会話を思い出したのはそのとき。
「今日どこ行くんだっけ」
音も控えめに朝のニュース番組を流しっぱなしのテレビをぎりぎりまで目で追い、切る。
「都内まで出ます。蔵書検索したらそっちにしかなくて」
振り向けば、珍しく目の覚めた顔。その横で、チン、とタイマーが跳ね上がる。
「急ぎ?」
カウンター越しに渡された皿ふたつ。きつね色に焼きあがった食パンのいい香りを思わず肩をすくめて吸い込む。
「いえ、まだ徹夜は回避できるレベル」
まだ寝癖のついた後姿が冷蔵庫を開けているあいだに、俺は用意したマグカップに湯を注ぐ。こぽ、とインスタントコーヒーとクリームの粉が空気と水分を含んで膨れて、もわもわと溶けほどける。
「黒尾さんは?今日どうです」
俺は会社へ仕事をしに、お前は図書館へ調べもの。まるでどっかのお伽話だ。帰りにどちらかが桃を拾ってこなくちゃならないね。
「やー今日は早く帰れるんじゃないかな」
つかそうする。笑って、俺はテーブルにつく。小さなボウルをふたつ持ってあいつがキッチンから出てくる。
「俺、行くの大学図書館なんで。けっこう遅くまで時間潰せますよ」
うん。ふわとろのヨーグルトが少し入ったボウルを受け取って。広いダイニングテーブルに並んだ、コーヒーにパン、ヨーグルトの簡単な朝食。
後はスーツを羽織るだけの俺と、まだ顔を洗っただけのあいつ。互いに座るはお向かい。すとんと顔を合わせたら、ほらと促すようにあいつが見目良く微笑む。そこまでされたら俺だって分かる。
「……“今日食べに行かない?”」
ぴんぽん、正解。
そういうふうに口の両端を上げてあいつは満足げに笑った。
「「いただきます」」
食事はなるべく一緒に。おはようとおやすみの挨拶も。
そうしたいと言ったのはお前のほうだった。どうしたって俺は会社勤めで生活サイクルがほぼ決まっているのだから、結局合わせてもらうしかなのだけれども、そのほうがうれしいって俺は答えたと思う。そうします。お前も頷いた。
仕事で徹夜をしていても変な時間に食事をとっても、食べても食べなくても同じ食卓につく。まあときには、ベッドで丸まる背中に俺が声をかけて、力なくその手が空を往復するだけの朝もある。
顔が見れる回数が多いのはうれしい。準備も片付けも一緒のほうがお互い楽。ふたりの生活で少しずつ出来上がる決まりというものは少し感傷的でほどよく合理的だ。
朝飯はいつもこんなもの。学生の頃は互いにスポーツ部だったから朝からがっつり食べてたけれど、社会人になるとそもそも自分で作るのが面倒で億劫になる。食べ盛りの息子を持つ母は誰しも偉大だ、と今ならよく分かる。
昨日の残り物に味噌汁、ご飯、そんな日もあるけど、たいてい準備の楽なパンの日が多い。休日の日はもう少しおかずも増えたりして、ブランチになる。要は、寝坊の日だ。
バター風味、と書かれたマガーリンをまだ熱いパンにすべらせる。それはじゅわっとすぐさま染み込んで、つやつやに輝いた。それだけで、少し塩っけのある香ばしい味わいが舌に思い浮かぶ。うさぎの形を模ったコショウ入れ。耳の部分を握ってがりがりと挽く。ふわ、と漂う香り。舌に残るぴり、とした感触がちょっとしたアクセントになるから、最近トーストはいつもこの食べかただ。
一口かじって、コーヒーに口をつける。
お前の顔、寝ぼけちゃいないけど身体は起き抜けといった感じ。もそもそとスプーンを動かしヨーグルトを舐めてる。
最初はパンにコーヒーが定番だった。けれど、いつしか一品増えるようになった。そのときどきのお気に入りで、今はこのヨーグルトらしい。プラ容器でなく袋入りのちょっと値段も高めのもの。
なんだか大事そうに味わっているそばには放って置かれたトーストが1枚。少し冷めたものに塗るのが好きだということは一緒に暮らして知ったこと。溶け切らないマーガリンのかたまりがところどころ残るのが好きなんだと。
作りたてのまだふわふわしたパンはそのまま食べんのが好き。俺もそう。その日はちびちびとマガーリンをつけて食べるから、地味な取り合いになったりする。ナイフをもう一本出せばいいって? そういうところ、俺もお前も意外と面倒臭がりだ。
「待ち合わせ、どうする」
ボウルをすっかりからにして、お前が顔を上げる。バターナイフを手にとって。
「いつもと同じでいいですよ」
駅ね。いいよ。
壁掛け時計を見上げて咀嚼する速度を上げる。ちょっとゆっくりしすぎ。大きな歯形を残して噛みついて。トーストを口の中に押し込み、コーヒーで胃袋へ流し込む。銀色のスプーンの縁ででするりとボウルの丸みをなぞって、ヨーグルトをすくう。かちゃかちゃと少し行儀悪くスプーンを動かして食べ終える。
「じゃあ会社出たら連絡するわ」
「了解」
ごちそうさま。皿を重ねて席を立つ。赤葦の手元にはまだ食べかけのトースト。後ろを通りがけ、寝癖をなだめるように髪を撫でてから、シンクへ皿を下げた。
玄関へ急ぐ俺を足音が追いかけてくる。見送りは毎回だと気恥ずかしいけど、ときどきのさじ加減だと素直にうれしい。はい、と手渡されたのはチャコールグレーのマフラー。慌てて持ってきたのってこれ?
「今日晴れだよ」
さっきテレビで言ってたもん。そう言ったのに有無を言わさず俺の首にマフラーを引っ掛けて引き寄せる。ぐえ。踏まれたカエルみたい。面白がるようにお前は言いながら、作った輪の中にマフラーの端を入れて整える。お終いに、ぽん、とひとつ。
「はい、いってらっしゃい」
「いってきまーす」
ドアを開けその隙間をちらりと振り返る。ノブに手をかけるお前が声にはせずもう一度、いってらっしゃい、と微笑んだ。
かちゃん。ドアが閉まる。通路と平行に横たわる朝の景色。薄っぺらい冬晴れの日、冴えない青空に響く、小さく鳴く鳥の声とどこかの階で開くドアの音。急行、乗れるかな。腕時計を覗き込んで、俺は控えめに廊下を走り出した。
***
「天丼? まじですか」
電話片手に歩いていた俺は、エレベーターの呼び出しボタンを押し留まって、足をそろえる。そのままホールを引き返して、じゃあ待ってます、と軽快に通話を切った。そのまま報道部に向かわず、ひょい、と左に折れる。通路の途中にある休憩室。自販機にくたびれたいくつかのベンチ、おざなりの観葉植物、片隅にぶら下がった付けっぱなしのテレビはちょうど、午後から始まったワイドショーを流していた。
自販機に小銭を押し込んでブラックのボタンを叩く。がこん、と勢いよく出てきた缶を拾い、窓辺に寄りかかってプルタブを開けた。
そこに後輩登場。舞台上手から床を滑るような歩きかたをして、おっ気づくかな、さっき無視してったろ?って後でからかってやろうかと思ったら、気づいた。ちぇ、面白くない。
「あれ。先輩飯行ったんじゃないんですか」
まだ食べてないんですか。そういう顔をした。確かに昼飯には遅い時間。打ち合わせが随分延びてしまってようやく飯に行こうと思ったのがさっき。それがね、と俺。にっ、と笑う俺に誘われたかのように、後輩はベンチを迂回してこっちへやってくる。
「松本さんが奢ってくれるっていうからさ。戻り待ち」
「へええ」
いいですね、と言った顔は少し、物欲しそうな顔。いやいやお前食べたでしょうよ。そうツッコミを入れようと思ったら、その顔がぽつり、空気の抜けるような声をもらした。視線の先にはもう俺たちにとっては聞き飽きた感さえある報道。
「なんだかんだで圧勝でしたね」
「……だな」
しみじみ、といった感慨もなくぼんやりと呟く後輩に頷く。休憩室の窓辺に並ぶでこぼこの立ち姿たふたつ。もちろん、でこ、が俺で、ぼこ、が後輩だ。
日曜にあった選挙の件で俺たちもつい先日まで取材やら会見やらに走り回る日々だった。徹夜に午前様はわりと当たり前。でも今は、なんだこんなもんか、である。そう、テレビで一応話題にしてみてもとりあえず感が否めないくらいに世間の反応も、なんだこんなもんか、だ。
「もうちょっと粘ってくれっかと思ったんだけどなあ」
「ですねえ」
まあ、時期も悪かったですね、と後輩が知ったような口を利く。まあ少しは知ったふうじゃないと一記者としてまずい。でもその台詞が似合うにはまだまだだな。笑って、こっそりと自分を戒める。
1年ほど前政権をひっくり返した野党がまた、野党に戻った。短い天下だ。少しは風向きも変わるかな、と淡い期待を抱いてたのに。
意気揚々と出向した船は結局行き先すら分かっていなかった感もあって、いよっ!新大陸発見!と戻ってきたら引き返してきただけだった、というまさに出オチ。それっすね、と人差し指がこっちを向く。やめろよそれ、塗り壁がニヒルな顔してると思ったら噴いちゃうだろ。
野菜ジュースを買って戻ってきた後輩が、一息ついてから口を開く。
「先輩、休みいつでしたっけ」
と、ぼこ。
「俺? えーっと明後日」
と、でこ。
ちょー久しぶりって感じしますよね、とここ最近の忙しなさを思い出したのか、いささか大げさに肩で息を吐く。お前ほんと“ちょー”とか似合わないな。変なとこにいたく感心して俺は、うん、と頷く。
「たまにはどこか行きたくなりますよねえ」
「あれ? お前旅行行くやつだった」
「いえ。だからたまに、と言ってます」
ああ、だよね。出張でそこそこ出かけてるんで旅行はいいです、って言ってたのお前だったよね。ま、その気持ち少しは分かる。出張の後の休みに遠出したいとは俺もあんまり思わない。子どものころは新幹線や飛行機があんなに珍しくて、その姿を見るだけでわくわくしたし、乗りに行くこと自体が特別なことだったのに。それが今じゃ、交通費結構嵩むななんてことがいちばんに頭を過ぎる、ただの移動手段だ。
子どものころに憧れたものは、少しずつ、そのもののかたちではなくなっていく。ほんとうのすがたに気づいていくんじゃない。それは大人こそが正しいと思っている詭弁だ。人は少しずつ歳を取って知識を得て増やして、何かを何かに換算していく。何かを何かの価値ではかろうとする。分かりやすくしよう、とすること自体がたぶん、ものすごくつまらないということにあまり気づかない。
新幹線は速い、かっこいい、年に一度の楽しみだ、それでよかった人は、きっとたくさんいる。子どものころの特別を、なんだこんなもんか、にするのは大人だと自負する大人の何か、だ。
ああ、意外と出不精のあいつは、今でも新幹線に乗ることを楽しみにする。面倒で毎回シューマイ弁当買っちゃう俺と違って、駅弁ひとつ選ぶのだって真剣だし、何度も乗ってる俺が窓際の席を譲ると外をじっと眺めている。まあ、それは乗って30分も持たない。
あいつにとってはまだ新幹線は特別で、俺にとっては、そんなあいつと新幹線に乗るのは特別。いっこなくしたと思ったら、少し違った形で返ってきたりする、それも人生の道理だ。
「休み、何かご予定は」
うん。まーね。新幹線には乗らないけれども。
「近場だけど久々にさ、普段行かないようなとこにでも行こうと思って」
エレベーターホールからばたばたと騒がしい足音が駆け込んでくる。忙しなさには慣れっこの俺も後輩も、顔を見合わせることなく視線だけを送った。現れたのは、スーツの端をはためかせて走る待ち人の姿。
あ、松本さん。
ぽろりと口にすると、それに気づいたわけではない眼鏡のずり落ちそうな四角い顔がこちらを向いて、でも駆け足は休めず、通る声を遠慮なく俺たちにぶつけた。
「おいおい何のんびりしてんだよ」
来たぞ、の一言に窓際ですっかりのんびりしていた俺たちは松本さんを慌てて追いかける。そのまま報道部に三人して飛び込むと、窓際の席に陣取る部長にフロア全体の目線が注がれている。受話器片手に部長が真剣な面差しで耳を傾けている相手は、きっと例の議員に張り付いていたやつだ。おう、ああ、うん。頷いて、答えて、手元のメモに走り書きして、部長が顔を上げた。出入り口近くでじっと固唾を呑んで見守っていた俺も、すっと背筋が伸びる。
「誰か現場行ける奴!」
部長の言葉に、はい、と松本さんと俺。重なった声に顔を見合わせると、目配せした松本さんが頷いて手を下げた。そうだ、松本さんは今もって帰ってきたネタを原稿に起こさなくちゃならない。
「行けます」
俺が手を上げると、部長が頷いてまた電話に戻る。少しフロアの緊張が解けて止まっていた皆の手が動き出す。と同時に、席を立ち次の部長の言葉に先回りする面々も。かちゃん、と受話器の置く音。
「よーし、明日のトップ差し替えるぞ」
それでスイッチが入る。はい、とか、おーし、とか、よーい、みたいなそれぞれ気合の入った皆の掛け声ならぬ返事がして、さあ始まるぞってな雰囲気に変わるこの瞬間が、俺は、嫌いじゃない。誰か写真部、と叫ぶ部長に手招きされて駆け寄った。午後にやろうと思ってたあの件は後輩に頼んでいこう。
「天丼なしになっちゃったな」
机に戻ってくるなり、隣の席に座った松本さんが言った。
そうだった、俺、まだ昼何にも食ってない。やーいいっすよまた今度で、って言ったけれど、空きすぎた腹はへこみすぎて鳴く元気もない。
今日晴れてるけど風あるぞっていう松本さんの言葉に相槌を打ちながら、カバンを肩にかけてマフラーを巻く。
「じゃ行ってきます」
背中にいくつかの掛け声を受け取って俺はカメラさんと報道部を出た。さっき見ておけばよかったな、足早に歩きながらスマートフォンを取り出した。受信は1件。電車に乗ってる最中にでも送ってきたんだろう。あいつは出先でのほうがメールをしてくる。本を読む気分じゃないとき、読むような時間もないときの暇つぶし。
“今日はおでんが食べたいです”
唐突。え、おでん? そうなった。まじか。俺おでん嫌いじゃないけど、ごはんっていうより酒のつまみとして食うものってイメージがある。おでんかあ。思わず声に出た呟きに、エレベーターをカメラさんが不思議そうな顔で振り向く。や、いえ、何でもないっす。
ああ腹減った。今は食い物の話はどれも腹にくる。点滅しながら上ってくるエレベーターランプを見上げながら、自然とありつけなかった天丼を想像してしまう。返信を選択して手早く簡潔に。送信ボタンをタッチする。
“俺は今めちゃくちゃ天ぷらが食べたい”
あいつ、どんな顔してこれ見るだろう。しかたないなってちょっと笑って? ないない、そんなことはない。ふうん。そういうふうにもったいぶった顔で眺めてそれから小さく笑って、それで、うん、たぶんそうなる。
やっぱ政権は与党だ。
チン、とエレベーターの到着した音にそれは重なった。俺は野党だなんて、ひねくれるほどじゃないけどさ。
今さらっすねえ。
ここぞとばかりに入ったカメラさんのツッコミに、俺はですよね、と苦笑いした。
***
というわけであの日の夕食はおでんだったし、今は山に来ている。海じゃなく。
順を追って話せば、あの日の風は冷たかった。寒風吹きすさぶとはこのこと。俺は降り立った駅のホームでまず思った。結局仕事が終わったのは8時半を過ぎたころ。少し遅くなるよ、って連絡したら、待ってます、って返事来たから9時に駅前で待ち合わせた。
改札口を出た柱の陰で待つのをすぐに見つけて、肩をすくめるようにしてマフラーに埋もれるあいつの顔を見たら、あったかいもんにしようって口にしてた。
「ですね」
冷えた身体から白い吐息がこぼれ出る。コーヒーでも飲んでたらよかったのに。そう言ったら、さっきまでそこにいましたよ、とあまり当てにならない声音が答える。
「持っていってよかったでしょ」
見かけだけは器用そうな指が俺のマフラーに触れた。あとで聞いたらこの日は夜からこの年いちばんの寒波が来ていたらしい。天気予報で言ってましたよ、って、店のカウンターでおしぼりで手を拭き拭きしれっとあいつが話した。
柔らかい湯気の立つおでん屋のカウンターに並んで座って、氷みたいに冷え切った頬をあったかさにびりびりさせながら、はふはふと頬張る味のじーっくり沁み込んだ大根のうまさってなんて言ったらいいんだろう。箸を差し込んで崩したときの、じわ、と旨みがかろうじてかたちを保っているような、舌の上でほどけるのが容易に想像できるあの感じ。
うん。
「おでんで正解だわ」
ついぽろっと言っちゃった。隣を見たら、へへ、ってほんの少し、ちょっぴり得意げに微笑むあいつの顔があった。うん、そんな顔されちゃったら、何も言うことはない。
で、山にいる。もう一度言うけど、海じゃあない。
すっかり葉が落ちて紅葉の見ごろは終わってしまっていたけれど、夏の青々とした緑とは違う針葉樹の葉の色は、冬の風のささやきにほんのりと色褪せた影をまとっていて、雪が降り積もる前に似た深々とした空気が山の中には立ち込めていた。吸い込めば、すっと喉を濯ぐ木の香りと、しっとりとした土の邪魔にならない匂い。何か、普段の生活にはないものをたっぷりと身体にしみこませたような気分になる。
かなり前に買ったトレッキングシューズ。引越しのときにどうしようか迷ったけど取っておいてよかった。他は、ネットで冬の登山の服装を調べて持ってたもので間に合わせた。初心者コースだからさほど道も険しくないし、目立って登りづらいような箇所もない。柔らかくぬかるみのあるところを踏むのはちょっと心許ないけれど。
振り返る。少し遅れたところに、あいつの姿。ニット帽のてっぺん。くせっ毛にまあるい形の頭、浅めにそういう帽子を被ると、しゅるん、と外れるのが面白くて、家で散々からかって遊んだらそのあと機嫌直してもらうのがもう大変だった。
「だいじょぶ?」
立ち止まって声をかけた。あっちもいっかい足を止めた。耳が隠れるくらい目深に被った帽子の下で、ちらり、と目が動く。平気です。少し息の切れた声なのに、なんでもないっすみたいな口元。ほんと負けず嫌い。あと三分の一くらいだってさ。少し、ゆっくり行こうか。後からやってきたご婦人がたに先を譲ろう。
お二人? はいそうです。
お先にごめんなさいね。いえいえ。
若い人にはまだ負けないわよ。いやいやまだお若いじゃないですか。
細い山道の少しへこんだところに身を寄せて、挨拶と雑談を交わして等間隔に並ぶ三つの背中を見送った。ついつい、無口になりがちなあと一息の道すがら。会話は励ましと笑顔をくれる。
全長2時間もないコース。帰りは途中からだけど、リフトにケーブルカーも使える。登る前は下りも徒歩で帰るろうかなんて言ってたけど、やっぱり乗って帰ろうよ、そんなことを言いながら最後の坂に足をかけた。はい、とわりと素直な返事。
ふくらはぎと腿の裏側が張って重たくなってきたのをひしひしと感じながら、一歩ずつ確かに足を差し出して、肺を押し上げるような息苦しさに鼻で浅く息を吸い込んでは吐く。
「あかあしー?」
ついてきてる? ……ん、あれ?
「います、よ」
息を整える分の沈黙を使って、背後に聞こえる呼吸に掻き消えそうな語尾。可笑しくて少し声こぼしたら、人のことは笑えない運動不足の身体が肺をよじらせて、喉がひきつった。ひゅう、と音をさせて深呼吸。発熱して発汗する火照った身体に入り込んだ、山に底流する冷えた空気の冷たさに背筋が伸びる。
あともう一息。急勾配だった山の背が少しなだらかになった。道を薄暗く染めていた木々の影が、少しずつほころびをみせる。葉の寄せ合う隙間から落ちる陽の光がところどころ足元にこぼれはじめて、顔を上げた。ああ、もう頂上だ。開けていく木々先には、遮るものが何もない空がぽっかり見えていた。
赤葦、もう、すぐそこだよ。
数日前のことだ。久々にやってくる今度の休み、日帰りでちょっと遠出しようかって話になった。
「海に行こうか」
俺は言ったよ。そしたらちょっと考えたふうをみせて、あいつが言った。
「山がいいです」
そう来たか。来ましたね。お互い不敵に笑い合って、腕相撲、した。決まりなんてものじゃない。ただの遊び。だってそこまで体格の変わらない俺とあいつじゃゼロ行進の攻防戦が続くようなもので、あまりの動きのなさに笑いが込み上げて試合無効になるばっかりだ。そのときも筋肉痛になる前にと、さっさと水面下で合意した。
海なんていつでも行けるでしょ、とかそういうことをあいつは言わない。山の良さを切々と語るわけでもない。つうかあいつがそんなに山好きだとは俺も思ってない。
ただ、山がいいな、と思わせぶりに呟いてみせる。反則。お前はほんと俺のことよく分かっていらっしゃる。たまには山の空気吸ってみるのもいいかと思って。理由はそんなもの。こういうときお前のとろんとした目って含みがあるようにみえるから得だよね。つい、いいよって言っちゃう。
正直、山ねえ、と思ってた。せっかくの休みなんだし近場でのんびりすればいいじゃんって、そこそこ今も仕事で走り回ってるとはいえ、昔より体力に自信はない。行けども木と草と坂の山道を楽しんで? 山頂から見える絶景に心洗われて? ほどよい疲れが心地いいなんて、なんだかぴんと来ない。
と、思っていたんだけれども。
ぽつぽつと枕木の横たわる頂上までの数メートルを登り切って、俺は振り返った。こちらを見上げていたその顔に笑いかける。
「到着」
瞬いた目が少し柔らかくなる。膝に手をつきながら大股で数歩、最後の一歩というところで、手を差し伸べた。は、と笑みのにじんだふうな吐息を大きく落としながら、お前が手をがっちりと掴む。遠慮なく体重をかけられて、いやあやっぱり重いわ。ぐいっと引っ張り上げて、ふたり、頂上に立った。
「腹減りました」
着いた途端、お前らしいね。朝早くに家を出て、もう太陽が天頂に上る時間。昼食にはちょうどいい。握ってきたおにぎりとポットに入れてきたあったかいお茶と、買ってきたのり弁、思わず手が伸びたコロッケとでご飯にしよう。
と、その前にまずは頂上からの眺めを。
「……一望って感じですね」
「うん」
冬晴れの柔らかな日差しと、緑に洗われたそよ風の心地よさ。それを胸を張るようにして深く吸い込み、肩を下ろして吐く。満足げな横顔がそうしたのを、俺もそっくり真似た。あれだね、二人並んで山頂の絶景の前で深呼吸なんて、CMで見そうなくらい定番なやつ。でも、分かる。定番っていうのは、はずれがないってことだ。
あそこから登ってきたんだっけ? それが信じられないくらい、深い森に覆われた山肌と裾野。指差したほうをあいつも顔を寄せて、えーどうっすかね、たぶんあの辺じゃないすか、なんて適当に指差してる。森の切れ目の向こうにあるのは、霧がかっているわけじゃないと思うんだけど、え?排気ガスじゃないかって? ……お前ほんとそういうところ、雰囲気もへったくれもない。
薄靄って言ったらいいんだろうか、横たわる淡い大気の重なりに霞んだような都会の街並みが、両手を広げても足りないくらい遠くまで広がっている。湖の水面みたいに静かな空の色にそれはほどよく同化して、空の底に沈んだ海底都市のように見えてくる。
車の音も、騒々しい人ごみも、街中に溢れる作られた電子音も、何ひとつここにはない。あるのは木々のざわめき、風のそよぎ、小鳥の小さなさえずりに、自然を楽しみに来た人々のささやき。無理に頑張ってるものや、変に自己主張してるものなんてひとつもない。そんな場所から、いくつものビルが聳え立っている騒々しさの消え失せた静かな街並みを眺めている。性質のまったく違うものが何気ない顔して隣り合っている、そのことがなんだかとても不思議だ。
「写真撮ろうか」
せっかくだもん。そこに立ってて、とあいつを残して俺は後ろへ下がった。カメラを持ってくるなんて俺たちにしては珍しい。もう最近じゃスマートフォンで撮るばかりか、出かけて帰ってきて、あ、そういえば1枚も撮りませんでしたね、なんてときもある。まあ今日も登りはじめに数枚シャッターを切って、既に忘れかけてたんだけど。
横で絶景を写真に収めているおばさまが目に入った。撮りたくなりますよね、なんて心の中で話しかけたら、構えを外して俺見てにっこり。
撮りましょうか。そう言われて、口ごもった。せっかくだし二人のほうがいいわよ。そう言われたら、お願いしますってカメラ渡してた。駆け寄って戻ったときに見たあいつ、照れ隠しに肩すくめて、ふふ、って笑ってた。見ず知らずの人の親切ってこうやってくすぐるみたいに気持ちを柔らかくしてくれる。ぜんぜん上手くなんか笑えなかったけど、久々にふたりで撮った1枚。いい記念だ。
帰りはやっぱりリフトに乗った。疲れた足、ぷらぷらさせてさ、どんどん近づいてくるよく見慣れた街の形に手が届きそうになって、ちょっとつまんないなって残念な気分になって、やっと地に足ついたようなほっとした気分にもなる。ゆるやかに横へ流れていく深い森。少しの物悲しさを感じる仄暗さが冬の山の色。そしてそれは、長い冬を受け止めてじっくりと春を待ちわびる色だ。
疲れたあ、って呟いた。並んで座るあいつが俺の顔を覗き込む。
正解でしょ、ってきっと笑ったね。だから俺もこう答えた。今聞かれても同じように答えるだろう。
前言撤回。
「山、サイコー」
***
つまり、こういうことだ。
繰り返すけれども、全部あいつの思い通りになるとかわがままなんだっていう話じゃあない。
今日、担当さんとの打ち合わせに出かけたあいつから最良のタイミングで電話がかかってきた。こっちに出てきません、って分かりやすいお誘い。俺だって給料日後だし、退社時刻ぴったりに仕事を終えられる上機嫌も手伝って断る理由がない。奢ってもいいかなってくらいの軽やかな気持ちで普段は使わない在来線に飛び乗った。
連れて行かれたのは、雰囲気のある割烹。
教えてもらったんです、とあいつは照明の落とされた店内に紛れるようにささやいた。床も壁も土間のようなしっとりした、光をすべて吸い込み打ち消してしまうかのような、黒。通路の端、薄い溝の隙間から浮き上がる淡い光の道。ところどころに配された和紙を使った間接照明の、柔らかに透かされた灯り。着物姿の仲居さんにしずしずと案内されて、店の中央、コの字型のカウンター席に通される。目の前で天ぷらの揚がる様が楽しめる席だけれども、調理台とはほどよい距離が保たれて変に気を回す必要はない。周りにある格子壁で遮られ目隠しされた先にはいくつかの個室。
照明の薄暗さ、見えそうで測れない距離感に、声の大きさを気遣う細やかさが自然と生まれるのに、それがちっとも窮屈じゃあないし、横にいるお前の声が何か秘密を持っているように艶めいて聞こえたりする。
鱗模様のような槌目の銅鍋、ほんのり煌きに色づいた油の泡立つ音、どこから聞こえるのか分からない小さな談笑の声、きれいに拭き上げられた木のカウンター、磨がれた包丁の、きらりと光るその切っ先。
誰に訊いたの、って耳打ちしたら、担当さんが予約してくれたんですよ、と肩を小さくぶつけて答えた。なるほど、こっちの編集さんなら美味しい店いっぱい知ってそうだもんな。食べるのが趣味だから、とあいつ。ああ、食べ歩きが好きって言ってたあの人か。取り寄せグルメで話が盛り上がるっていうあの人。
「天ぷらって言ったら一度はここ食べておいたほうがいいって」
「へえ」
最初に出されたのは揚げたても揚げたての海老。つい数秒前まで、そのちょっと先でぶくぶくと細かな泡をまとって、白っぽかった衣がひかえめな黄金色に照らされるのを見ていた。懐紙の上に横たわる、海老天の慎ましさ。海老天に今までそんなこと思ったこともない。ふわりと鼻先に立ち上るほのかな香ばしさが温度を伝えて、空きっ腹に訴えかける。添えられた塩をぱらぱらと振って、一口。さくっ、と軽い音と一緒に衣がほどけて、ぷりっとした海老の身に歯を立てて噛む。舌の上に広がる海の香りのする甘み。
「うまい」
頷いて横を見ると、あいつもうれしそうな顔で同じふうにうんうん首を振っている。目が合って、あいつは笑った。その顔に、俺の顔色を窺うようなものなんてない。どうだって見せびらかすようなものもない。ただ、美味しいものを食べて、美味しいというふうに笑う。何かのサインなんてふうじゃなく。
ほらね、そういう話じゃないって言ったろ。
好きなものを大事そうに食べる癖はいつでもどこでも一緒だ。二口食べ終えたところで、そういえば、とあいつが口を開いた。
「ソファのことなんですけど」
ああこのあいだ買い替えようかって話したんだっけ。
今リビングで使ってるソファは俺が1人暮らしのときから使ってるものだ。引越しに間に合わせて買った大きなものといえば、ダイニングテーブルとベッドぐらいなもので、あとは互いの家から寄せ集めて間に合わせた。ほんとお互いそういうところ、考えなしっていうか楽観的っていうか、まあ新婚ってわけでもないしじっくり時間をかけて二人でいろんなものを見に行くっていうのがただ単に気恥ずかしかっただけかもしれない。
暮らし始めれば、丁度いいかと思っていたものがちぐはぐだったり不便だったりして、その都度買い換えたり処分した。持ってきたときはまだ使えたソファも最近シミが目立つ。濃いベージュ色した布張りのカバーにはいくつかの穴も空いていて、でも最強かな無印、シートはぜんぜんへたれてない。カバーだけ買えないかな、っていう俺の呟きは聞いてないフリされたけれども。
「黒でしょ」
と、一応言ってみる。案外すぐに、うん、黒で、って返ってきた。白って言うかと思った。そしたら、首を横に振った。白は汚れます。言われて納得。
ソファは黒で。それは一緒。
「でも、小さめので」
そう言った。最後の一口、パリパリに揚げられた海老の尻尾を味わっていた俺は、思わずごくり、と飲み込む。え、ぎゅうぎゅうに座んの? 俺たち180越えの大男なんですけど。
そしてら、いいです、って楽しそうに言うんだよ。その声音は内緒話のように俺にだけ届く。部屋が広く見えるほうがいい、ってあいつは付け加えた。それってどっちに重点を置いてる? 気になるけど無粋だからそれ以上は聞かなかった。ほんとはその横顔に唇押し付けて返事の代わりにしたかった。
うん、いいよ。
小さいやつで、いいよ。せっまいですってけたけた笑って文句言うことになっても俺知らないよ。お前が言ったんだよ。遠慮なく腰にて回すけどくすぐったいって文句言うなよ。
それでもいいなら、小さい黒のソファ、今度見に行こう。
美味いもんを味わって少しの酒を楽しんで、帰宅ラッシュも過ぎた帰り道を歩く。最寄駅から山の方へ向かう家までの道のり。中心部を離れていくにつれて人影もまばらになって、あの長い長い坂に差し掛かるころには車の少ない道路に、足音はふたつだけ。小春日和だった夜の風にほろ酔い気分も少し冷めた。街灯のまあるい灯りの中を並んだ影がゆるやかに時計を逆回りして、暗い夜道にまた溶けていく。お前と、ふたり。
誰も見てないね。
言い訳するように呟いた。手をつなごうか、とは言わないのはきっと俺のずるさ。それでも何も言わないのは、お前の聡明さだ。
触れた指先を引き寄せて絡ませる。わざと目を合わせることはしない。あいつも俺のほうを見たりはしない。俺の手の甲を掴む指の確かさや、坂にかこつけてやたらにのんびりしたお互いの歩調が、たぶん、それでいいと許してくれる。
風のない穏やかな夜。合わせた手のひらの体温に今さら驚かない。俺もこいつも昔から外の気温をそっくりうつすのが得意で、残念ながら暖を取るなんてまねほとんど出来たことないけれど、冷たいと笑い合ってそれだけのことを何度も確かめてきた。同じだ、それだけのことを、何度でも知りたいだけ。
「どうしたんですか」
「んー。いいや、なんでも」
そう、なんでもない。なのに、今はこうやって笑って家に帰ったらもう覚えてないようなことほど、俺はときどきふと思い出したりする。仰々しいかたちでない、すこやかな相応のゆたかさとして。忘れてなんか、ないんだよ。覚えてないわけ、ないだろ。きっと、大事だからって奥のほうに仕舞いすぎなんだ。だから思い出すのに時間とタイミングがいったりする。
「あかあし」
「はい」
行儀の良い返事。まあるく呼んだときの答えはだいたいこれ。いつか同じようにお前の名を呼んでその返事がしなかったとき、俺は今日のことを思い出すだろう。耳をくすぐる柔らかな響きのこと。砂時計に降り積もる粒みたいに、なんでもないことがそうして俺のなかに満ちていく。おでんのことも、マフラーのことも、山のことも天ぷらのことも、ソファのことも、今さらいちいちお前に尋ねたりなんかしないけど、訊いてもきっと笑うだけだからしないけど、これくらいはせめて先に、俺に、言わせてよ。
「これからも一緒にいてよ」
そうしたら何でもない日々がこうやって続いていくだろ。握る手に、少しの力をこめた。あいつはおとなしくそれを受け止めてくれた。乾いて澄んだ夜気に、す、と息を吸い込む清冽さが小さく染み込む。
いいですよ、とあいつが言った。
・・・
「ずっと一緒です」
うん。それ、正解。
惚れた弱みかもしれない。言ってしまえばそれだけのことなのかもしれないのだけれど。
赤葦は正しい。
たいてい、いつにおいても。
つまり、そういうこと。
fin.(2015.3.6)