人は歩みを止める。時折、いくつかのあいだ、また歩き出すまで。
どこかが違って見える冬空の下、マフラーの隙間から漏れる吐息は東京よりも随分と低い気温のせいですぐに真白へ変わる。降り積もる静けさが石畳に染み込み、叩くブーツのかかとが冷たさを音に変えた。
何もない階段で俺は足を止めた。何にそうしたのか、分からないままで。
珍しい苗字を街中で呼ばれたことはそう多くない。ましてや、見知らぬ土地では誰一人として俺のことをきっと知らない。呼び止められることなんてあるはずがない。それなのに、あのひとだったらよかった、俺はありもしないことを心の片隅で思った。
寂しいね。
俺が出発する前、あのひとはそう呟いた。ひとりにはやっぱ広いわ、と少しだけ整理整頓しておいた部屋を見回して小さく笑った。
10日なんてあっという間です。だって移動に半日かかるんですよ。俺はすっかり準備の終わった、スーツケースを眺めて何気なく答えた。
そうだね。
言ったあのひとの声が慰めるようにやさしかったのは、今思えば勘違いでもなんでもなかったのかもしれない。
寄りかかるものがないままに、異国の風が吹く。
知らない街の匂いがした。
絵葉書を送っても着くのは俺と同じころになるだろう。置いてけぼりになる手紙は書かないけれど、書く予定のない手紙はいつだって胸にある。
俺は今、チェコに来ている。
プラハの春と呼ばれた変革運動、そしてチェコ事件とよばれる歴史的大事件の舞台となったその都市。歴史専攻でない俺には空で語れるほどの知識はないから、それってなに、なんて横から茶々を入れる相手がいないのは助かったと胸を撫でおろすところだろうか。歴史ならたぶん、あのひとのほうが得意だ。
事件からおよそ50年、街並みは歴史の趣を残したままだ。何事もなかったかのように、なのか、何かを伝え残すようになのかは、この地に住む者でない俺にはよくわからない。
おとぎの国だと、誰かが言った。赤茶色の屋根の連なる石造りの家。素朴な民族衣装に身を包み髪を編んだ少女が窓を開け、ひょっこりと顔を覗かせそうな絵本の世界。おもちゃのようにぎゅうぎゅうに立ち並ぶ家々の隙間を、石畳の路地が誘うように行く先を曲げる。ことこと、と響かせた靴音とドレスの端の影が向こうに消えるのを見るような気さえする。地図片手でも、もう既に迷ったような気分だ。
さっき、旧市庁舎の天文時計台の上から市街の景色を眺めてきた。まだ三時半だというのに暮れはじめたチェコの早い一日の終わり。冬の淡い夕日を三角屋根の片側に受けて、染み入るような影を街がほんのりとまとっていた。花びらのような薄い色をして彼方の空は色づいて、冬のしんとした夜の気配に薄雲は翳る。家々の合間から聳え立つ尖塔の繊細な細工と装飾、彩る陰に見る荘厳さ。街自体が世界遺産に登録されているプラハは、百塔の街とも言われてる。珍しく、写真を忘れなかった。次は一緒に来よう、そんなことを思ってシャッターを切った。
誰かが、俺を追い越していく。
その手にはホットドッグが握られている。広場のほうではいろんな屋台が出ていて、薄い生地にキャラメルフィリングの挟んだワッフル、喉をほんのり焼くようなスパイスの効いたホットワイン、棒に生地を巻きつけ砂糖とアーモンドをまぶしたトルデルニークという焼き菓子、そして炙ったプラハハムなんかが売っていた。時計台に上る前に俺も我慢できなくてホットドッグをいに収めた。厚い皮が弾けて肉の旨みが溢れ出るソーセージ。ふたりだったら、何も気にせずビールも一杯やってただろう。
黒のからだを細く細くとがらせた街灯が、ぽつん、ぽつん、と階段の終わりまで続いている。ここはあまり人通りの多くない道だけれど、理由もなく足を止めているのは俺と、その街灯だけ。
時は、動いている。
石畳の底冷えをうつして足元をすくう風、斜陽に取り残されていく街の薄暗さに人影がまぎれこむには早すぎて、誰もが自分そっくりの黒の道連れと足を急がせる。屋根を染めていた西日もここからは見えなくなってしまった。吸い込んだ空気は氷を含んだように深く、静まって、喉を凍えさせる。息を、吐きつけた。浮かび上がった白い影はほどなくして、そよぎに消えた。
とどまっているものなんか、どこにもない。それなのに時が止まったかのように感じるのは、きっと街並みだけのせいじゃない。訳も探せずに、疑うことすら出来ずに、人はさみしくなったりする。その感情を認識するためだけのささいな理由に拠って。
たとえば、風が吹いたから、というような。
“――――”
呟きは、言葉の違う国では記号か吐息か、はたまた雑音だ。誰の耳にも残らない。
臆病風が吹く前に。
俺はようやく歩き出した。
***
「……ただいま」
それでもこの言葉は口をついて出る。癖だ。真っ暗闇にそっけなく跳ね返された声が他人行儀に耳に残る。自分の声のかたちをしんみりと聞くのは久しぶりだ。昨日そんな話をしたら、電話越しの声がもう知っているというふうに笑っていた。
あいつが仕事で海外に行った。
海外行きの三分の二くらいは、3ヶ月前に翻訳した本が無事出版されたご褒美みたいなもんだ。本の作者が完成をたいそう喜んで、会ってお礼がしたいと招かれた。チェコって言ったらカフカだ。チャペック兄弟も有名ですよとお前が本棚から持ってきた絵本はそういえばまだ、読めていない。
お互いあんまり仕事の話はしなかった。互いが書いたものに目を通したりはするけれど、討論会みたいなことはしないし、たまに尋ねあう進捗だって、どうです、ぼちぼち、そんなくらいだ。
次の仕事もお願いしたいって言ってくれたんです。
そう報告してきたお前は飛びつくように俺に抱きついた。仕事に関することでちょっとテンションが上がったふうになったお前 を見たのははじめてに近かったね。だからそのとき俺が少しびっくりしたこと、きっとお前は知らない。自分のことみたいに嬉しかったから、けっこう力任せにぎゅっとした。痛いです。そう笑って仰け反った喉にキスをひとつ。楽しんで来いよ、ってそのときも出発するときも俺は言ったね。
そう、10日くらい大丈夫、何の問題もない。独身のころは何でもひとりでやっていたんだから。
ようやく明かりの灯った我が家は、少しばかり丁寧に片されたままを保っている。仕事から帰ってきたら飯食って風呂入って寝るだけが続くと散らかす暇もない。ペンダントライトのオレンジ色の光が落ちるダイニングテーブル。今日はなんだか上手く回らなくて忙しいときより変に疲れたから駅前の弁当屋。散らかし魔の不在を知らしめるそこに、ビニール袋に描かれたコック帽のスマイルマークがくしゃりと歪む。
料理はもともと俺のほうが得意だ。誰かさんのために作るのに慣れて一人だとどうにも億劫だけれど、昨日は親子丼を作った。その前は会社近くの定食屋。久々に行ったら三十円ずつ値上がりしてていつの間にって思ったけど、店のおばちゃんが相変わらず感じが良くて、年期の入ったテーブルにイス、小針の並ぶケースも何にも変わっていなかった。味のよくしみた肉じゃがもそのまま。変わったのはブラウン管テレビが壁掛けの液晶テレビになったくらい。あれ、まだ一回もお前のこと連れてったことなかったっけ。
寝室で重たいビジネスバッグをやっと下ろして、くたびれたスーツにネクタイ、ワイシャツを脱いで仕事のあれこれもついでにあっちへ押しやり、そろそろいっぱいになりそうな大きなエコバッグを見下ろして週末の予定にクリーニング屋を入れる。ちらりと目に入った部屋の隅にかけられたフロアワイパーに、今日は勘弁してよ、と誰宛でもない言い訳をして。
休日まで動かない洗濯機に靴下とハンカチを放り込んだら気まぐれに先に風呂へ入る気分になる。待たせる人がいない、というのはこんなふうに少し自分にいい加減で、自由とは少し違うというのを俺は知る。湯船にお湯を張らないのも一人のときは常で、カラスの行水になろうとも止める人は誰もいない。
ほんとうに、あの頃に戻ったみたいだ。1DKから部屋は随分と広くなったけれども、さっぱりした身体と思考に部屋着をまとい、あっためた弁当片手に、ぱち、とテレビのスイッチ入れて俺じゃない誰かの声を聞いたときやっと一息つくような、そういう過ごしかたを数年前の俺はしてた。これが毎日というものだと別にいぶかしむこともなかったし、独身はみんなこんなもんだろう、そう当たり障りのない理由だって見つけられたし、やりがいのある仕事も持ってそれ以外を望む何かが特になかった。
あ、ビールビール。
小さく口の中で呟いてみたことが自分を誤魔化しているようで軽く苦笑いしながら、俺は冷蔵庫からよく冷えた缶を取り出す。やっと腰落ち着けて、弁当にインスタントの味噌汁、ビールを並べたところで、いただきます、と箸を持った手を合わせて目礼。ちら、とまぶたを開けたら端っこに赤く点滅する光が目に入って、ほいほい、と独り言をもらしつつ腰を上げる。
今の時代、大体の用件は携帯電話で十分事足りる。固定電話を引かない家も多いけれど互いの仕事柄、これが意外とファックスの出番がまだある。セットした留守電はファックスの受信を知らせるものか勧誘の電話がほとんどだ。リモコンでテレビの音量を少し下げて、ボタンに手を伸ばした。
1件め2件めはいつもどおり途切れた電話の定期的なビジートーン。手慣れた操作で削除して、なかなか話し出さない3件めもうっかり押しそうになった寸でで止めた。
少しのノイズのまじった向こう側で呟くようにぽつりと、黒尾さん、と呼んだ。
『俺、です』
迷ったふうな、声だった。何を言おうか、そういうのじゃなくて、どういう心がそれを言おうとしているのか、まだ見つけられていないような弱さ。何で携帯にかけなかったんだろう、一瞬そう思ったけど、すぐに分かった。仕事中に聞かないようにって、こういうとき、お前はしなくたっていい遠慮をする。いつもは遠慮ないわがままを言うくせに。
かすれたようにさえ聞こえるほんのりと低い声のメッセージを聞き終えて、俺は何ともいえない心持になって、後れ毛をばさばさとかきながら味噌汁を持ったままだったのに気づく。宙にとどまる指先と数秒は見つめあったけれど、結局削除ボタンを押すことは出来なかった。すすった味噌汁が、少し、しょっぱかった。
お前は今日、どんなもの食べたんだろう。
そんなことを考えながらから揚げかじって、付け合せのキャベツをむしる。肉料理いいっすねって、ガイドブックを見ながら話 してた楽しそうな顔を、思い出して。
美味くないわけじゃない。独身のころからおんなじようなものは食べてるし、今だってときどき買うことがあるんだから食べ慣れてさえいるんだけれど、なんだろう、独り言になる、うまい、の言葉が空回りする。この弁当だって、夕飯のことすっかり忘れたお前にちょっと小言言いつつ食べるほうが楽しい。唐突に昨日の話の続きを思い出して今さらって呆れられたり、これはお前に言わなきゃって思ってた出来事をせっつかれるみたいに話しながら、お前とする食事のほうがぜったいに美味しい。
無意識のうちに何等分にも箸で割っていたコロッケを見つめて、食い物で遊ぶのはよくないな、そう戒めて、一口分を口に放り込む。
……あのころに戻ったみたいだって、あれ、嘘。
返事の返ってこない静まり返った暗い廊下。パソコンも本も資料もないきれいに片付いたダイニングテーブル。晴れた次の日もいっぱいのままの洗濯機。洗いかごに伏せられたひとり分の食器。小さなテレビの音量がやけに響くそう広くないはずのリビング。
お前がいないなんてことは分かってるのに、つい、お前の面影をどこにでも見つけてしまう。おかしいね。家にいるのにまるでホームシックみたいだなんていうのはおおげさだとしても。
昨日の電話は、そういうことだろ。
どれくらいの距離に隔たれているのかも分からない、昼と夜の時間も遠いところに行って、普段考えないようなことでも巡らせてそんな気分になるのは別におかしいことじゃない。お前も、そして俺も。
でもさ赤葦。
赤葦。
この声がたやすく届かないのはひどくさみしい。お前が電話したのは何時だろう、まだ時差ぼけが抜けきっていなかったりするのかもしれない。整えられた清潔感のあるベッドルーム。朝方のまだ薄闇の明け切らない時間のなか、サイドボードの小さなランプを頼りにして、液晶に映る俺の名前に目を落とし一回だけ、お前は息を強張らせて躊躇っただろう。留守電だと知っていても言うべきかを迷って、ああ、ほんとうにお前って正直だ。
すべてが想像で、白いベッドの端っこに腰かける窓際の薄明かりに浮かび上がる青白い横顔も、めったに思いもしない少し小さく見えるすぼめられたような肩も、手元のスマートフォンを見つめて考え込むその口元の静けさも、俺の覚えているお前でしかないけれども、ひとりきりとはこういうことだ。考えるだけが精いっぱいで、想いだけが丈を知らないほど募って、会えなくても届かなくてもつながっている、そんなのを慰めにしたり嘘のないほど強く、信じてみたりする。
だからさ、赤葦。
食べ終わったら電話をするよ。だから、そのときはそんなこと言わなくていいんだ。
『……ごめんなさい』
そんなふうに謝ることなんてないんだよ。
***
形の拾いきれない喧騒は沈黙と尊ぶには及ばず、耳澄ます音楽にはなれない。わざわざ聞き取ろうとするのは無粋だし、耳を傾けすぎても落ち着かない。だから見るようにするのが丁度いい。距離を置いて、絵を眺めるように。
人間観察というほどではないけれど、人々の横顔を眺めるのは好きだ。たとえば駅の改札口前、天気の良い日の広い芝生のある公園のベンチ、空席の散らばる平日のフードコート、そして、昼も過ぎてのんびりとお茶とお喋りを楽しむ人々の姿のある、古い喫茶店のボックス席。ミントグリーンとベージュのストライプのおしゃれなお菓子のパッケージのような柄のソファに背中を預けて、飲みさしのティーカップに指をひっかけたまま、俺はぼんやりと外へ視線を投げる。
天井まで大きく取られた白枠の出窓、端に寄せられたカーテン。2階の窓辺から見えるのは趣き漂う石造りの建物。ホテルに近いこの辺の街並みはどこもこんなふうで、現代の服装の人間が往来を普通に闊歩しているのはやはり少しだけ不思議な気分だ。
太陽の日差しを仄かに透かすだけの冬の雲は重たくて、逃げ場のない空気は地表で、きん、と音がしそうなほどに凍える。今朝散歩に向かった足が思わずホテルを出たところでUターンしそうになったくらいだ。
チェコの年間平均気温は東京よりも低く、冬の寒さは厳しい。外に出るときはコートにマフラーが必須だけれども室内に入ればわりとどこも空調が効いていて、まだ日が陰ってもいないのにまばらに灯された天井のレトロな琥珀色のシャンデリアライト、ホールの中央に配置された丸テーブル席にちょこんと置かれたくらげみたいな小さいランプ、薄暗くも明るくもないちょうど良さに包まれた喫茶店の中は、太陽のものでない温かさのおかげでニット一枚でも平気だ。冬の我が家よりあたたかい。
ホテル以外の場所でのんびりしてみたかったし、迷っても困ると思って早めに部屋を出てきた。待ち人は、まだ来ない。テーブルに出してみたはいいけれど、おざなりのまま積み上げられている仕事の資料や本たちの隅を指先でいじりながら、店内に視線を戻した。
すぐそばの茶色の丸テーブルでは眼鏡をかけた男性がペーパーバックを丁寧に両手で持って読書に耽っている。横顔がジョブズに似ているな、なんて思い始めたら、着ているシャツとスラックスは彼の絶対的なルーティーンによって定められているのかもしれない、そんなふうに想像する。たとえば、木曜日はこの喫茶店でいつもの紅茶と脳の糖分補給にプチケーキを注文して、きっかり2時間読書をする、というような。
その奥の方の席には男女のカップル。かと思いきや、お互いかっちりしたバッグからノートパソコンと資料を取り出して愛想もほどほどに何か話し合っていた。意味ありげな目配せも、気を持たせるような笑みも、テーブルの上で手を重ねるような素振りもない。先日の件はどうだった? ええ、ボスも大変気に入っているわ。こんなふうだろうか? 遠すぎて声は拾えない。会社勤めのしたことない自分にはいささかしっくりこない会話を、小さく首を傾げてあっちへ追いやった。
数個先にあるボックス席から振りまかれる、一際大きな笑い声に気を引かれる。
あれくらいの会話だったら俺にも十分聞き取れる。帰国子女でもなく長期留学もしたことのない俺は、あまり早口でない日常会話なら耳で拾い多少は話せるけれど、ネイティブの早口な会話や専門的な単語の出てくる会話となるとその場で理解することは難しい。あのひとにも不思議な顔されたけど、悪かったっすね、話せない翻訳家は意外といるんです。
俺が入店する前からボックス席でお茶を楽しんでいるのは、年配の女性四人組だ。気の置けない友人同士、といった雰囲気で肩肘張らない程度の気さくなお洒落をして、既に空になったデザートプレートはそのままに、ときどき思い出したかのように口角の上がった唇で持ち上げたカップにキスをする。ひとしきり賑やかだった話し声のトーンも落ち着いて、もう会話のかたちは分からない。
国は違えど、女性の話題はおもしろいほどに尽きることがないらしい。どんなことを話しているんだろう。仕事のこと、趣味のこと、このあいだ食べた人気のあれのこと、今日お披露目したワンピースのことにそのお店の店員のこと、どうしても気の合わない同僚のこと、やさしくて、妙に鋭いところをみせる友人のこと、気づけば、長い付き合いになる恋人のこと、離れていてもふと思い出す、家族のこと。
回顧と好奇心の狭間を適度にゆらめく思考は、浮いては消え、ぷつん、と空で弾けたと思ったら、テーブルにあるグラスの肌から滑り落ちた水滴のように、小さく儚いものが俺の心に留まったりもする。
ホテルを出る前に俺はあのひとからの電話を受け取った。まだ数日しか離れていないというのに、俺はその声を忘れもののように懐かしく思って、返事もできないで、赤葦、あのひとがそう呼んでくれた声を沈黙のあいだに何度もまぶたの裏で再生した。
『お前から謝るなんて珍しいね』
そうでもないかな、って付け加えてたぶんあのひとは微笑んだ。耳元でかさついて確かに何かに隔たれている、鼓膜を焦がすように響かせるその柔らかさ。
『赤葦?』
聞こえてる? おーい、と耳元で呼びかけられたその声があまり見られない子どもっぽさだったから、俺は思わず声を頬を緩めた。まだ朝の静けさの残る一人きりのホテルの部屋に自分の小さな笑みが隠れる場所もなくこぼれた。なあんだいるじゃん、とあのひと。はい。ほっとしたような声の調子にちくり、と心が痛んだ。昨日の電話も、朝の留守電も、いいように迷惑かけてばっかりだ。息を吸い込んだ喉は、気を抜けばまた弱気がこぼれそうになった。
「……あの、」
『何も言わないで、とは言わないけどさ』
いいんだよ。
まあるい、まあるい、俺の心をすっぽり包むのんびりとしたやさしい声。胸のずっとずっと奥から唇へと出かかっていた言葉が、形にならない吐息にほろりと変わる。
でも、傷つけたでしょう。ベッドの端で、足元を見つめる俺。
『うーん、どうかなあ。お前が傷つけるつもりじゃなかったんだから、平気だよ』
それって、ちょっとだけ嘘だ。
このひとはやさしい。ほんとうに、やさしいから、何が俺にそれを言わせたんだろうって自分が不安にさせたんじゃないかって、きっと傷ついたように考えた。そうして、どうして肝心なときに傍にいれないんだろうって寂しくさせた。たぶんいつもそん
なふうに俺は、このひとを傷つけているんだろう。
少しだけ油断をして、目元を拭った。気づかれるはずなんてないのにそうっと。自分に触れるときは力加減なんかいちいちはからなくても間違えない。けれども、自分よりも大切にしたい相手にその加減をときどき見誤るのはなぜなんだろう。
あのひとの触れかたは、自然だ。押し付けがましいものがなくて、決め付けもない。ほんとは傷ついてるんだろう心配だってさせたんだろう。でも、平気だよって言われたら、俺は魔法みたいにそれを信じてしまう。よかった、と胸を撫で下ろしてしまう
。
やさしいっていうのは、気弱なことなんかじゃないって俺はこのひとに思う。傷ついてないよ、と俺のためなら笑ってしまえる 人。
『ねえ、声聞かして』
あれ?さっき言ったこととちょっと矛盾してるか、とくつくつと続く喉の鳴る声。
「……、なに言ったらいいか、わかんないです」
失敗したって正直思った。出だしの声が、ひりつくように擦れたから。
でも、そのままにしてくれた。
うん。
一言頷いて、泣いてるの、とも、大丈夫、とも言わなかった。聞かないふりもむやみな親切もそこにはなくて、あのひとがくれ た数秒間の小さな沈黙に俺は小さく呼吸をして浸ればよかった。俺がこのひとを信じるのはそういういところだ。やさしいけれど、なかったことにはしない。許すっていうことは白紙に戻すことじゃない。そのままを受け入れるってことなんだろう。
難しいね、とあのひとはほんの少し微笑んで困ったように呟いた。
『みやげ話は帰ったときに聞きたいから』
「はい」
『俺も、いつもどおりだから』
「うん」
『赤葦』
「はい」
『……赤葦』
「はい」
『あのさ』
「なんです」
『名前、呼んで』
甘く、耳に寄りかかる声。誰にも見せんなって言わなくたって、このひとはおれの前だけでこういう顔をする。見えなくたって
分かる。夕焼けを眺めるみたいに、擦り切れるような笑いかた。
「くろおさん」
俺は、いつもそうしてるようにあのひとのことを呼んだ。
黒尾さん。
一人きりの部屋で、俺の膝の上へ落ちて崩れていく情けない俺の声。
……くすぐったそうに、笑ってくれた。輪郭のほどけた春の風のようなささやかさに、うん、という一言が俺の耳元でふわふわと揺れる。
『もっかい呼んで』
「……黒尾さん、」
言葉にしなくて伝わるの。
ありがとうもごめんなさいも、会いたいもさみしいも好きだも、今言ったらぼろぼろになってしまうから言えなかったけれど、これだけで、伝わっている? けして正しい形じゃなくても、ひとかけだけでも、届くようにという、願いだけでも。
『はい』
……うん。
どこまでも肯定でしかないその二文字に俺は頷いた。やっぱり顔見てーわ、とからから笑った声が電話の向こうからして、そうっすね、と俺も笑い返す。
「黒尾さん」
『なあに』
「俺のことも呼んで」
はいはい、って軽い調子で言った声音の空気が小さな間のあとで、す、っと整えられるのを拾ったような気がした。ああ、うん、そうだ、伝わっていないなんてことはないんだろう。一音一音を、そのかたちを、こんなにも愛おしそうに人の名前を思い出そうとする感覚を俺は知っているから。
――Vy jste pan Akaashi?
ぱち、とまつ毛を繰る。
呼んだのはあのひとじゃないことくらい分かっている。俺をこちら側に引き戻したのは、今はじめて空気をまとい色をつけた、仕事のやりとりを交わした電話越しの声。振り向くと、著者近影のポートレートより親しみやすい雰囲気の待ち人の姿があった。肩で切りそろえられた白髪交じりのグレーの髪、黒縁眼鏡の奥の長いまつげと薄いブラウンの瞳に、頬に刻まれた皺をさらに深くしてありのままに笑う潔さ。
「Ano.」
立ち上がって、俺は彼女に手を差し出した。あら意外、こちらを見上げてそんなふうに彼女がいたづらっぽく笑った。彼女はゆっくりと俺の手を握り、元々体温の低そうな、多くの人を同じようにこころよく迎えてきた少ししわがれたやさしい手を重ねて、会えてうれしいわ、と言ってくれた。語尾に俺の名前を少し言いづらそうな様子で、でも大切そうに解きほぐすような言いかたで付け加えて。
赤葦。
彼女の呼んでくれた名前は、何千何万回とあのひとに求められた名前は、幾分か俺じゃない面影が潜んでいて、俺じゃない匂いや、俺じゃない色や、俺じゃない俺を少しだけ含んでいて、だから俺は名前を呼ばれたとき、やっぱりあなたのことを思い出した。気遣いながら、俺はほんの少しだけ力を込めて彼女の手を握り返す。
「Tesi me. Jmenuju se Akaashi.」
俺は今、きっといちばん上等な顔で笑えただろう。
***
「俺たちはさ、言葉で飯食ってんだよ」
言葉は万能じゃない、そうお前に言った翌日、同じ唇で俺は何か知ったふうに後輩を叱っている。
矛盾だ、と思う一方で真理だと思う。
こんな仕事をしていれば言葉の限界を感じることなんてざらにある。限られたスペース、紙面にふさわしい表現、必ずやってくる締め切りに、削らなくちゃならないこと書ききれないこと書くことさえできなかったこと、そんなものはいくらでも出てきて心底納得のいった記事になったのはほんの一握りしかない。
報道部の島以外の照明はすべて落ちて、背の高い棚に囲まれた部屋の隅はうっそりと暗い。定時はとうに過ぎて、まあこのフロアで定時に帰れる人間などほとんどいないのだけれど、最近動きのない経済部や国際部の連中もとっくに帰ったし、同じ報道部の同僚たちも続々と取材から引き上げてはデスクや部長に報告や打ち合わせをして、ぽつぽつと社を後にしていった。俺と後輩の様子を窺いながら残った仕事を片付けていた部長も30分ほど前に机を立った。頼んだぞ、と俺の肩ひとつ、しっかりやれよ、と後輩の肩をふたつ叩いて。
そんな静まり返った会社の一室で、俺は特に急ぎでない取材メモをまとめながら後輩の担当する記事の原稿に目を通している。
かれこれ三度目の正直、これで決まりといきたいところだがつい一時間前突っ返したものと構成も出来栄えも変わったような気がしない。あのさあ、と呟いて頭をかく俺の前で、横にでかい図体をしゅんと縮めて、これ以上下がりそうにないくらい下がった眉の下に収まるこじんまりした目がしぱしぱと頼りなく瞬く。
「ほら、子泣き爺みたいな顔すんなよ」
きゅるきゅると小さな軋みを立てる回転椅子に座ったままで俯いた顔を見上げる。まあ、似てるのは普段からなんだけど。
赤ペンを入れるまでもない原稿をぽす、と机に置き直し、ペン先で小突く。滲んだ赤い小さな点がふたつ。唸って俺は頭をかく。
「お前はこの記事で何伝えたいの」
じっと見上げると、う、と萎縮したように後輩の喉から漏れる声。……怒ってるんじゃないんだよ。俺はお前以上に何度も何度も叱られてきたしこんなのも書けねえのかって蹴っ飛ばされたこともある。今だって褒められるばっかりじゃない。でも、まあなんだあれだ、おんなじようなことで躓いたりもしたから、気持ちだって分からなくもないし少しは助け舟を出してやれる。
一回休憩すっか、と言えば、いえ、と首を横に振るその頑固さ。いいね、俺お前のそういうとこ尊敬するよ。
スリープにしたままのノートパソコンを開けた。タッチパッドを操作して、画像を液晶に表示させる。この記事と一緒に掲載される予定の一枚。後輩と一緒に取材へ出向いたベテランの無口なカメラマンに珍しく、テツローくんちょっと、と手招きされて見せてもらったのがこれだ。一拍置いて、いいっすね、そう俺がしみじみ言ったら、小皺の寄った人の良さそうな目が、だろ、というふうに笑っていた。その笑いかたはめちゃくちゃかっこよかった。自信と達成感のある顔だった。でも、次の仕事に行くときはそんなこともうどこにも引き連れてなんかいない。そこがたぶん、いちばんかっこいい。
……うん。だよなあ。
写真部の撮った会心の一枚なんてものを見ると、これさえあれば文章なんて蛇足にすぎないと思うことは俺だってある。こんなの目にしたらさ、これ一面に貼っつけてでかでかと見出し付けて、スポーツ新聞の派手さに倣って文字に色も付けちゃってさ、隅っこのほうに必要最低限の情報と、二言三言のインタビューでも載せておけばいいんじゃないかって、そんなふうに思ってしまうのも分かる。
でも、違うんだ。
「お前が言いたいのはさ、この写真のことだけじゃないだろ。延々と写真の説明なんてされたってつまんないよ。だって、これは、見たら分かる。見えてるものをくどくど語る必要なんてない」
そうだ、俺たちは違うって思わなきゃいけない。そういう仕事で食っているから。
言葉は万能じゃない、目に見えるもののほうが雄弁だ、言葉なんて要らない、そう思うことがあっても、違うって信じなくちゃいけない。俺たちは、分かり合いたいという願いを言葉で表現する生きものだから。
お前あんなに下調べしてきたじゃないか。本も買って勉強して、その筋の教授にだって話聞きに行ったんだろ。調べた分量をかんたんに褒めてもらえるのは学生までだけれど、お前が頭と足で集めた知識持って取材に行って、カメラが見た瞬間をお前の目も見ていたのは、確かにお前自身のおかげなんだ。この最高の一枚に辿り着くまでを知ってるのはお前だけなんだよ。
敵わねえな、って思っても忘れるな。
「ここに映ってないものを知ってるのは、お前だけなんだよ」
瞬きもせずに見据えたら、一瞬きょとんとした顔をみせてゆっくり息を吸い込んだ。はい、と震えることもなくいつになく真剣
な声で後輩が頷く。
よし。持っていた原稿を渡すと、おもちゃの兵隊みたいにぴょこんとおじぎをして早足で自分の机に戻っていく。白紙の原稿用紙の山からをひったくるようにして、かじりつくようにペンを走らせる。がりがりと、強い筆圧の音がほんの少し頼もしげに静
けさに響く。
広いフロアで二人きり、残業の身で空調をずっときかせているのは忍びなくてとうに切ってしまった。まだ少し暖かな空気の気配はあるけれど、少しずつ部屋の隅のほうから外の寒さが滲んできている。今日は降る予報が出ていたらしいが、遅くまで取材に出ていた同僚たちは何も言っていなかったな、そんなことを考えつつ、俺はふ、と息を吐く。
「……お互いてっぺん越えるまでには帰りたいよなあ」
まだ何にも終わってないけどさ。でも、それはまだいくらだって始められるってことだ。
集中しきっている後輩からの返事はない。一心不乱に原稿用紙に目を落とし、ペン先を追い続ける眼差し。声なく笑った吐息は当たり前だけれど白くはならなかった。
かち、かち、かち。秒針の振れる音に、自分の浅い集中力はときどきさらわれて、急ぎじゃないなんて思ってる時点でそういう心構えなんだよなと独り言を頭の片隅に漂わせながら、記事の構成を書き出した曖昧な形でしかないものを見つめた。ぐるぐると、意味もなく見出しをペンで囲って、文章の書き出しをぼんやりと、着地点をふんわりと頭の中で考える。
一輪の花と等価の詩が書けたら、と詩人は言った。
名の知れた詩人でさえそう願う。花は語らずともそこに在るだけで美しさを伝えている。沈黙と等しく、ただ在るだけで何かを証明することができたら、確かにそれは究極の理想だ。写真に引けをとることだってない。
俺は、どうだろう。頬杖をつきながら、自然と明度の落ちていたノートパソコンをぱたりと閉じる。
「言葉は万能じゃないから」
俺は昨日、電話を切る間際にそう言った。まだ少し何か躊躇ったような雰囲気を行儀良い返事に残すあいつに、ときには形にならないことがあっていいんだよ、と少しだけ言い訳するようにして。
『……曖昧になりませんか』
そうあいつはたぶん、柔らかに笑った。とろんとした目をゆっくり瞬いて。
あいつは明瞭なものが好きだ。迷わない、ということが好きだ。好きだ、と言うことが好きだ。そして、好きだと自分自身に証明するために、真っ直ぐいることが好きだ。
雑然と散らかった部屋にいるのは平気なくせにね。フードコートじゃ食べたいもの二つまで絞るのはすぐなのに、そっから真剣に悩むから俺がいっこ引き受けたりもする。でも、気持ちだけはいつでも潔く在りたいんだ。嘘のないようにいたいから。
「苦手だもんな。お前宙ぶらりんなの」
『まあ、はい、そうっすね』
そう少し不得手だというように笑うお前が、俺は好きだ。何より自分自身を疑ったのじゃないかって、情けないって、傷ついたようになっても歪まずにいようとする素直な心根は少々頑なかもしれないけれど、思わず目を細めてしまうくらい愛おしい。
……確かに、言葉は万能じゃないかもしれない。お前を前にするとそう思う。まっすぐな想いがあればそれだけでいいのかもしれない。一輪の花のような、凛とした気持ちひとつあればいいのかもしれない。でも。
『今、そっち、何時でしたっけ』
「ええとね、うん、夜の9時」
『こっちは昼の1時です。これから、打ち合わせなんで』
「ああうん、そっか」
でも、そう、気持ちがあってもこうやってかんたんなことさえすぐに言い出せなかったりする。名残惜しいのはお互いさま。電話を耳から引っぺがす理由を見つけたくなくて、言葉の端っこをもったいぶったり、わざと迷ってみるのはどこかくすぐったいけど、後ろ髪引っ張られるこの気持ちをお互い丁寧に説明しなくても、説明しがたいこの気持ちの手触りはわかったりする。
俺は、俺の言葉が一輪の花でなくて、ひとつの呼吸であったらと思うことがある。
誰も当たり前すぎて気にも留めないけれど、その瞬間、必要なもの。いつもは忘れているけれど、どこかには在るもの。ふたりのあいだをやさしく気づかれずに埋めるもの。ふとしたときにその存在をかみ締めるもの。……花より贅沢かな。
幸せに決まってる。お前と、いること。
わざわざそんなことを改めて言うのはやめた。お前が今欲しいものはきっとそれじゃない。それこそ、万能じゃないから言葉にできないことは多くある。だからといって使わないでいるのはもったいない。目には見えないけれどそこにはあるもの、星の王子様は心のことをそうたとえたけれど、言葉だってそうだ。
心とおなじ。だから言葉は、万能じゃないからこそ尽くすんだね。
お願いします、の声に俺は休み休み走らせていたペンを止めて、原稿を差し出して立つ後輩を見た。そういう顔、してたらもう何にも言うことはなさそうだ。必死で喰らいついて何かをものにしようって貪欲さでひねり出すようにして書き上げられた原稿を、俺は隅から隅まで、一言一句漏らさずに目に含んで目を通す。
……こういうの見せられると、こんちくしょうって気分になる。負けたつもりもこれからももちろん負けるつもりもないけれど、俺だったらってちょっとの嫉妬心と、すっげえじゃんって背中叩きたくなるような奮い立つ気持ち。
簡単に赤を入れて、俺は原稿を手にいささか緊張の面持ちでいる後輩へ笑いかける。
「おつかれ。明日これで部長にチェックしてもらおう」
そう言った瞬間にまたあの顔が子泣き爺そっくりになった。へにゃって心底ほっとしたように目尻が下がったのがさ。
ちら、と窺った時計はぴったりと針が重なり合うには180度の猶予がある。よし、じゃあ、帰るか。
机の上に散らばしたメモを集めて、スリープのノートパソコンの電源も落として、持って帰るものをカバンに押し込んだら、デスクの面が見える程度には物を寄せたり重ねて今日一日の仕事は終わり、だ。コートにマフラーを着込んだところで、先輩、と思いがけない方向から声がしてびくりとした。なんだよ、もう。
見れば、帰りの支度だけはやたらと早い後輩が部長のデスクの近くで、窓を開けて手招きしている。帰んねえの、と笑うと、今日降るって言ってたじゃないですか、と子どものように上擦った声でを外を指差す。
わ、まじで。
折りたたみは持ってるけど革靴は雨用じゃないんだよなあ。近寄って後輩と肩を並べ開け放たれた外を見る。なんだかこれじゃあ、残業に嫌気が差してボイコットしてるふたりみたいだけれども。
雪だ。
ぽっかりと、深さも広さも分からない大きく頭上に穿たれた星の見えない空の何処から、はらはらと、綿のような柔さと軽やかさの粉雪が降っていた。どおりで今日は寒いはずだ。音もなく、静かに染み入る空気の冷たさは無音より遠慮なく、無音と距離を同じくして頬へ寄り添う。周りのオフィスビルの明かりもこの時間になればもうほとんど落ちている。三階より見下ろせば、昼間ならすぐに飛び込んでくるはずの行き交う車やとらえどころのない人々の喧騒はもうなくて、道路にはテールランプの残光を流していくタクシーが一台通り過ぎ、すぐそばの横断歩道の信号はちかちかと青を眩く点滅させていた。人影は見当たらない。交差点で少しの間停止していたタクシーの後姿が見えなくなると、あたりは随分と静まってしまって、俺と後輩の空気の冷たさに縛られた頼りない呼吸が、ふ、と唇の上で溶ける。
こぼれた吐息が、今度は夜空に散らばる白となった。でも、お前に届くことはない。形になっても届かないものはある。
……俺ね、寒いの好きじゃないんだよ。特に雪なんて歩きにくいし滑るしでもそんな中でも出勤しなきゃなんないし、取材だって行くのが億劫だ。お前がいたらさ、毎回飽きもせずに積もりますかね、って窓の外気にして、少しでも積もったらとりあえず外に出てみようとするの、笑ったりできるのに。
「積もるかなあ」
「はあ、どうでしょう」
気のない返事に何か証明したかったわけではなかったのだけれど、俺は窓の外へ手を伸ばした。信号の赤い光が薄っすらと手のひらへ斜めに差し込む。夜空から地上へ舞い落ちては消えていくそのひとつをつかまえた。冬の結晶は雨よりもやさしく俺に触れて、人肌の体温に火傷するまもなく、ほろりと形を失くして雪だったものになる。
後で写真を撮ってメールするよ。初雪だって、一言添えて。羨ましがったりはしないって知ってる。だって、着きました、って連絡が来たその写真にはみぞれみたいな雪が降っていた。でも、ちょっとは残念って思うだろ?
後輩を促して、俺は窓を閉めた。ガラス1枚隔てただけで小さな雪の姿は漆黒に惑わされて見えにくくなる。でも、在る。あっという間に冷たくなってしまった指先に、握り締めた手のひらに残った水滴がひやりともせずになじんだ。
「……なあ、飲んでくか」
「いいですねえ」
おっ、いつもあんまり気の乗らなさそうな後輩から思いがけない返事。誰かと話したい夜は誰にだってあるもんだ。
そうそうたやすく願い事を口にできない歳になったって自覚は少しある。強がってかっこつけてみても、言えなかったことはかんたんには消えやしない。深い夜の色した窓ガラスに、無意識にもれたため息の曇った花がふわりと、咲く。
ゆっくりしてこいよって、もちろん本音だけれど、心底つまんないよ、ほんとは、お前のいない雪の日なんてさ。
そんなとこにいないで、早く、帰っておいで。
***
旅に終わりがあるとすれば。
帰るまでが遠足だとは聞くものだけれど、旅はどうだろう。帰ろうと帰路に足を差し向けたときにはもう半分くらい心はそっちへ飛んでいて、見慣れた景色を目に含んだときにはもう、心はそこへ着地しているような気さえする。
はるか上空から眺める列島の景色で旅を締めくくろう、なんて思っていたのに、乗り継ぎをしてからもなかなか寝付けなかった身体はいつのまにか意識が途切れて、目が覚めたのは客室乗務員に声をかけられたときだった。
着陸体勢に入るとアナウンスされた後は実にすみやかで、小窓から見える太陽に白飛びした景色に、行きにも見れなかった雪の被った富士山などもうどこにも見当たらない。どこをして日本だというんだろう、ぼんやりとした鈍痛がまぶたを覆い、言葉に迷っているうちにぐんぐんとその街並みは近づいて、寝ぼけ眼に映る景色が水平を傾けた。機体のなめらかに尖った鼻がきっと空気を裂いている。速度と圧力の壁に機体は小刻みに揺れて、エンジンの轟音、やがて、どすん、と滑走路を掴む車輪の衝撃、重たい身体を押しとどめるようにかかるブレーキの重力、ほどなくしてゆるやかになった速度で進路を曲げて見えるのは、発着に並ぶ飛行機たちと平たく統べる空港の建物の姿だ。
ぴたりと止まった機体につながるブリッジを通って、搭乗口から少しずつ吐き出されていく乗客の誰もがどこか疲れたで、淡々と流れていくコンベアの横を通り過ぎる人たちと袂を分かち、案外すぐに出てきたトランクケースを引き取って、俺は、空港に降り立った。
旅立ちと帰路の場所はどちらへ向かう人も忙しなくて、まさに点だ、通過して皆どこかをあるいは誰かの元を目指し線を引っ張っていく。別れも励ましも告白も、あっという間に埋もれてしまいそうな喧騒と人々の行き交う中で、やっとお互い距離の取りかたも付き合いかたも分かってきた相棒を後ろ手に転がしながら、さきほど電源を入れたばっかりのスマートフォンを耳に押し当てた。
「もしもし、黒尾さん?」
長いコール音の後の短い返事に、今空港です、と報告すればかすれたうめきのような声がたぶん相槌を打った。寝てたでしょと突っ込みを入れる前にぽつりと、寝てた、の自己申告。今日が休みなのは知っている。見上げた電子運行表示板に多く並ぶ12の数字。
「どこにいるか当てましょうか」
『……さあどこでしょう』
「ベッド」
『はずれ』
崩れた吐息が甘く笑う。何時間も座ったままでむくんだように少し重い足を少しゆっくりにして、首を傾げる。ほかにうたた寝できるようなところなんて我が家では一箇所くらいしかない。
「じゃあソファ」
『あーたり』
旅行前に届いたばかりの黒のやつ。このひとがそこで横たわっているのを想像してみて、狭くないっすか、と俺はこぼす。うん、そうね、と伸びをする声がもわんと向こうに響く。
『でも寝心地は最高』
ならよかった。
『あ、おみやげ何?』
「持って来ましたから楽しみにしててくださいって」
立ち止まり案内表示を見上げて、俺は皺の寄ってしまったパンツのポケットを小さく叩く。
喫茶店での別れ際、俺は彼女からプレゼントを渡された。人はだれしもせめて一枚は美しい布を持つべきだと、いつだったか本で読んだ。彼女にもらったのはそれにふさわしい、きれいなきれいなハンカチだった。伝統的な文様が控えめにアレンジされた柄の布地。滑らかで柔らかく、手にしっとりと吸い付くような肌触り。男性が持つには少し派手かしら、と微笑んだ彼女に俺は首を振った。俺の苗字をひとつとった、燃えるように鮮やかな赤。
失礼でなかったら、と切り出した俺に彼女は快く了承してくれた。あなたに私のとっておきをおすそ分けできて嬉しいわ、と親切に俺のノートに地図を書きつけてくれるその指先の繊細さを、俺はずっと忘れないだろう。
仕事でお世話になっている編集さん、ときどき知識と知恵を借りに尋ねる教授、このあいだ土産をもらった友人に、家族の分、そしてこのひとには、水面がきらきらと輝く夏の海のようなブルーを選んだ。鎌倉の海の色ではないけれど、ベランダから見えるあの景色が俺もあのひとも好きだから。柄もの苦手って言ってたけれど、ハンカチならいいでしょ。
『迎えに行こうか』
と、起き抜けの気だるさのなくなってきた声。
「いいですよ。駅からはタクシー乗りますから」
行きよりも重いトランクを引き連れるのにもとうとう飽きてきた。これからリムジンバスに乗って、そこからは電車で一本。もう、すぐだ。
――この後電話を切ったら、俺は出口に向かい自動ドアを1枚くぐる。
すっと空気の温度が色を変えて、外との境い目が少し曖昧になる。2枚目の自動扉が開いた瞬間、耳へ飛び込んでくるのは高速道路に溢れる車のエンジン音。大型バスやタクシーがひしめき、発着のたびに吐き出される排気ガスのくたびれたため息、バスを待つ列の横をゆく人々の足音は落ち着きなくとどまることを知らない。ターミナルとはまた違う雰囲気に、音の濁流に放り込まれた気分になるだろう。
知覚した寒さが背中を這いのぼり、肩をすくませる。ダウンコートもマフラーも飛行機に乗る際にトランクに詰めてしまってない。首を伸ばして横浜行きのバスを探す。発車を告げるアナウンスとともにハンドルを右へ切りターミナルを離れ、高速道路へと漕ぎ出していくバスの重たそうな影、その後ろに並んでいるバスはまだ発車まで時間があるのか、運転手が手渡された乗客の荷物をバスの胴体へ積み込んでいる。目的のバスを見つけたら俺もトランクを預けて、乗り込む。身体をシートへ落ち着けたら、寝つけはしないだろうけど足のだるさに目を閉じる。ぼんやりととりとめない考えごとをしていたら駅まであっという間だ。
電車に乗り継いで揺れる車窓から、俺はきっと、まだ見えるはずのない街並みの面影を探すだろう。高台にあるマンションを探すだろう。見えるはずのない海の姿を求めるだろう。あと少し、そう思いながら飛び乗るように、自分とトランクを詰め込み、口早に我が家の場所を告げだら、通り過ぎてゆく街並みのすべてが、天頂に上ったばかりの太陽が落ちるにはまだ早いのに、何かにきらきらと瞬くようで眩しくみえるだろう。記憶と目に映るすべてがきっと瞬時に重なっていく。懐かしい、という感覚は、恋しいにとてもよく似ている。
いささか急な傾斜にシートへ預けっぱなしだった身体を起こして、延々と続くような坂道の景色に身を乗り出す。今日は薄いグレーに映る、そう古くない小さなマンションの外壁。
インターホンはどうしようか。こっそりと驚かすのもいい。玄関を開ければ実家とも違う我が家の匂い。短い廊下を抜けたら、右手にはきっとそこそこ片付いたキッチン。ごみは溜まっていない。洗い物は、いつもよりマグやコップが多めに出ているかもしれない。すかすか気味の冷蔵庫。ビールだけはいつものように冷やしてある。冷凍庫には、初雪の小さな雪だるま。あの日カメラで撮って送ってくれたもの。あのひとの手の形を残したような丸の歪さと、首を傾げたようなよれ具合は愛嬌があってかわいらしい。目にはたぶん小さな粒のチョコレートをもらって、手には南天の小さな枝が差してある。表面はなめらかに凍っていて、つやつやと光っている。小さなお皿に載せて、俺の目の前につれてきてくれるだろう。
テーブルは思うにちょっと散らかっている。郵便物と新聞が溜まってきているから。あのときのメッセージをあなたは消せなくて、電話機のランプはちかちかと赤く点滅したまま。ちらりと覗いた寝室のベッドは掛け布団がめくれあがって抜け殻だ。俺は、リビングへ視線を戻すだろう。まだ身体には馴染まない小ぶりの革のソファへ。
小さな寝息、途端にこどもっぽなるまぶたの伏せられた寝顔。端から出っ張った足に俺はたぶん笑ってしまう。目の覚めない頬に手を伸ばして偲ぶように触れたら、俺はやっと、やっと届くことに気づく。指にかかる少し伸びた髭の感触、薄くて短い眉とまぶたがぴくりと動くのを見る。
目を開けたら、なんて笑ってくれるだろう。
『赤葦』
「……はい?」
電話口の声が俺を空港の喧騒の中へと引き戻す。
甘やかす口元、思い出を見るようになんてしないで、包むようにやさしく小さな瞳が今日を見て明日を微笑んでいるのを、俺は瞬きしたまぶたに思い浮かべる。
「寄り道すんなよ」
「何すかそれ。小学生ですか」
「どうせ今、東京バナナでも買おうかって思ってたんだろ」
「……」
「図星」
「……あとシュークリームを」
「え?もしかして駅前の?」
「買って帰ろうかと」
「お前、3キロくらい太って帰ってきたんじゃない?」
「ない」
こんな軽口をやりとりするのはなんだか久しぶりな気分だ。取り方の分からない距離はなくなって、ため息のように傷つきやすい言葉ももうない。ああ、会いたい。触れたい。抱きしめて、声を聴きたい。隔たるものが何もないことだけを、ただ理解するそのために。
赤葦。
はい、なんですか。
『待ってるよ』
そう言って、結局迎えに来てくれるんでしょ。顔洗うかってさっき身体起こしたの見えてます。俺は笑った。届いてることを今、これっぽっちも疑わないで。
心に吹いた異国の風はもうない。知らない街の匂いもしない。あるのは、こういうのを言葉にするのはどうにも得意じゃないけれど、いつかは形にすることが出来るだろうか。いつだったか言えなかったことと同じように、彼の日の言葉を取り戻すように、まだ伝え切れていないことと同じように。
「……分かってますって」
あなたがいつも、そこにいること。
いつかは終わる旅の最後。
まっすぐ家に帰るから、あともう少しだけ、待っていて。
fin.(2016.3.15)