ただいま、という声は聞いたような気がしていた。深夜の静けさに忍び込むように、閉められた廊下へ続く居間のドアが気圧の差で小さく音を立てたのはしっかりと認識したので、てっきり黒尾が帰宅したのだと思っていたがどうも居間へやってくる気配がない。聞き取れる程度に音の抑えたテレビを見るというより眺めていた赤葦は、テレビボードの端に置いたデジタル時計が眠気を誘う時間を示していたのに気づいて、ソファから立ち上がった。あしたは休日で、律儀に黒尾の帰りを待っていたつもりはないのだけれど、これ以上夜更かしする理由も特に見つからない。寝よう、と決めたら1週間仕事で使った身体は素直に従って、誘い出たあくびをかみ殺しながら、作った笑顔のいくつも並ぶテレビ画面をぱちん、と赤葦はそっけなく電気を落とした。
冷えて黙り込むフローリングの床をルームシューズが滑る。気温が1、2度は違うのではないかと思われる北側の短い廊下へ出ると、思ったとおり、停留する寒さが足元から這い上がって赤葦はフリースの上着に包まれた身体を縮めた。居間を出て左手にあるトイレの電気はついていない。右手にある洗面所の、引き戸の小窓からはオレンジの光が透けていた。中途半端に開いたそれに手をかけて、赤葦はそっと音もさせずに押し開く。洗面台の鏡面扉の向こうから歯ブラシを取り出し、さっと水で濡らした。磁石の惹きあうままに扉を閉めて、一瞬歯ブラシをくわえた自分の姿を認めてから赤葦は回れ右と振り返る。そこにあるのは風呂場へ続く磨りガラスの蛇腹戸で、明かりは落ちたままだ。けれど何かの合図か、はたまた敢えて直さない癖なのか、赤葦が使った後閉め忘れるはずもないその戸もさきほどと同じように5センチほどの隙間が空いている。
もう、だいたい予測のついていたことだけれど、壁に一息つくようにもたれかかった黒のビジネスバッグ、洗濯かごに投げ入れられた行儀よく並ぶ靴下、鼻を働かせて嗅ぎ取った水場に感じるほんの少しの湿っぽさと硬質な冷たさ、そして鼻腔と喉の奥をほんのりひりつかせる匂いを吸い込んで、そっと吐く。蛇腹戸に人差し指を引っかけると、きい、といささか苦しげな音が耳に響いた。
「夕飯は」
どう見たって済ませたような顔はしていない。湯気の名残の残る薄暗い浴室に、コートも脱がないまま相変わらずの猫背でふたを閉めた浴槽の縁に黒尾が腰掛けていた。手元には小さく煙のたゆたう煙草。やってきた赤葦に大きな反応を寄越すことはなく、赤葦をゆっくりした瞬きに見て諦めるように笑った。その歪んだ口元から、ふ、と凍えた吐息よりも重たげな煙が漏れて緩慢に散る。うん、と肯定とも受け取れる否定の相槌に、赤葦はくわえていた歯ブラシを外して声の大きさを真似るようにする。
「煙草じゃ腹はふくれませんよ」
食べないならシャワー浴びて寝たらどうですか、と付け足した後で赤葦は自分の言を見つめ直して、首を傾けた。
「やっぱり、何か作ります?」
「めっずらしい」
三白眼をわざと大きく見開きたばこの煙を含んだ吐息で笑って、黒尾はひとつ、こほ、と小さく咳払いする。
「で、何作ってくれんの」
「ラーメン」
「味くらいは選べる?」
茶化すように言って、煙草をくわえ直した。すう、と静かに息を吸い込み一瞬、身体に染み込むのを待つ間があって、肩の荷を下ろすように薄く開けた唇から吐き出す。磨ガラスの戸の、頼りない影が浴室に半分、長く落ちていた。その影の中で、黒尾が左手の人差し指を赤葦の方へ差し向け、閉めないの、と呟く。部屋を禁煙にしたのは一緒に暮らし始めたときに決めたことだ。吸うなら台所の換気扇の下か浴室。赤葦が喫煙者でないこともあったのだけれど、吸うくせに匂いが残るのはあまり好きじゃないという黒尾の変なこだわりもあって、すんなりとそれは決まった。職場ではほとんど吸わないという。赤葦といるときに煙草を買うのもほとんど見ない。自宅で吸うのは休日に1、2本程度。依存するほど好きそうでもないのにどうして吸い続けるのだろうと煙草の味をろくに知らない赤葦は訝しむのだけれど、こういうときのためなのかもしれないな、と思ったりもする。
浴室と洗面所の境いに目を落とし逡巡する。履いていたルームシューズを放り出し、ひた、と様子を窺いながら下ろした足裏は思ったよりも冷たくなかったし濡れていなかった。肌をざわめかせる水のような冷たさも、指先をじんとさせるお湯の落ち着かなさもない、浸った感触も残さない透き通るようなぬるま湯の曖昧さが少し、心地いい。数歩先にはスラックスから覗く不釣合いな黒尾の裸足で、こういうところが黒尾らしかった。指先の触れない距離で止まって、目線だけをちらりと持ち上げ手を伸ばす。こめかみのあたりに差し込んで触れた黒尾の髪は、冬の夜気をたっぷりと吸い込んでいたのか、温かいとは言えない赤葦の手にも馴染まない。30センチほど自分の下にいる黒尾がわずかに目を細めて、その手を頼るように身動きした。手のひらに預かる確かな重みを、赤葦は指先でいとおしむ。
「あかあし」
まあるい抑揚と甘く喉に響く黒尾の声が浴室にくぐもって隅に弾かれる。
「はい」
「足、濡れるよ」
「……、はい」
もう手遅れなことを知っていて戯れる黒尾に赤葦は微笑んでから、声音を柔らかくして答える。それにひとさじ、黒尾が満足したようにまつ毛を揺らして外していた煙草を持ち込んでいた小さな灰皿に投げると、赤葦の両の手を取り自分の方へ身体を引き寄せるようにした。大人しく赤葦は従って、腰掛ける黒尾の脚の間に挟み込まれる形で立ち、手をひとつずつ大きな黒尾ので包まれ向かい合う。体温のあまり変わらない手は、あるはずの冷たさもよみがえらせずにするりと肌の滑らかさになる。182センチの大男にして何が面白いのか、女ならいい絵になるだろうこの構図を黒尾はそこそこ気に入っているらしく、ときどきこんなふうに赤葦をつかまえる。薄いまぶたをそっと下ろして、ぺこりと黒尾が頭を下げる。
「……こんしゅーもお疲れさま」
「おたがいに」
まぶたを持ち上げた黒尾と目が合った。それは伏し目がちに外されて、黒尾が歯ブラシを持っていない方の赤葦の手を親指で撫ぜながら口元に運んで甲へ口付ける。中指の付け根の骨のかたちを唇で拾って、赤葦の肌に煙草の匂いの残る吐息が触れる。それはすぐに冷たくなって違和感ともいえない跡を瞬きのあいだだけ知らしめる。そのまま中途半端に指を絡めて黒尾は、あむ、と手のひらのやわらかいところをためらいなく食んだ。歯は立てずに、舌でやさしくなぶることもせずに、唇の頼りなさだけで一回だけ。そうして、小さくこぼれた吐息はやっぱりすぐに消える。その香りに、甘いものを好む赤葦は焼いたビターチョコレートを連想するのだけれども、吸っている当人は首をひねる。残り香が赤葦の鼻腔をくすぐり喉を、しん、と焦がす。
「今日は上手」
笑みをひそませ言うと、黒尾が薄く唇を開けたまま赤葦を瞬きで見た。なにが、と呟いたのに赤葦は好きにさせていたその左手にしっかと指を絡ませた。
「いいえ、なんでも」
ダンスをリードするように腕を引き寄せたのが合図になって、真ん中で顔を近づけキスをした。唇を合わせて、小さく舌先を吸う。目を瞑ってとろける体温の心地よさに感覚を浸すと、傾けてあらわになった首筋にもう片方の手が握られたまま、ひたり、と触れた。自分のでない指の付け根のごつごつとして、骨に添って伸びた肌のすべらかな感触。不意をつかれて肩をすくませると、その隙に乗じて黒尾の舌が赤葦の歯列を割り開きそれを深く絡めた。ん、と甘い圧迫に赤葦が鼻から抜けるような声とも吐息とも似つかぬかたちをこぼすと、それを黒尾が甘えたふうに追いかけた。苦みの残る舌で赤葦のをつかまえて惑わせるように濡らせて、こっちにおいでとすがるように深くして何回も。
水の、音がする。合わさった唇から、蛇口の先から、あるいは垂れたシャワーホースの曲がり角から、もしくはまだぬるいお湯の張った浴槽のフタの下からかもしれなかったが、赤葦は、今はこのままでと子どものいたずらのように願う。
見えないところで、ひちょん、と水滴の吸い込まれる音がした。
fin.(2015.1.11)