朝の憂鬱を嘲るように、低い機械音が唸りぬるい動作でタイムカードが吐き出される。つまみあげ、赤葦はそれを重たげな目でなぞるように眺めた。カードの左側に並ぶ規則性の見出しやすい数列と、比べて乱雑な右側の並びに思わず小さなため息が逃げる。天秤の左右で揺れるは残業と有給の二文字。相殺といきたいところなんだけどな、と頭の中で手帳を数ページ繰ったところでやめた。ついでに、定期的に交わす総務とのやりとりを思い浮かべそうになって、赤葦は頭を振りつつラックへ投げ込むようにカードを戻す。
「朝から浮かないカオしてんね」
気だるさのにじむ声がして顔をあげると、その主は少々眠そうな色をまぶたに乗せあくびをかみ殺したところだった。黒尾さん、と反射のように呟くと、ん、と目を瞬いて喰えない先輩が薄く笑う。
「おはよ」
「おはようございます」
黒のスーツに黒のネクタイ。自分もまったく同じ服装だが、なんスかそれと上目遣いに指差せば頭にのっかった黒の中折れ帽のつばをちょいと持ち上げ、パパ・ミッドナイトみたいだろ、と黒尾がにやりとする。はあ。遠くに聞いたことがあるようなないような、そんな気もしたが面倒臭さに追求はしなかった。
黒尾の長い指は既にタイムカードに伸び、なめらかに機械へ吸い込ませている。その手に持ったままなのは名刺の薄い束。ジジ、と色気のない数字のキスをし終えたレコーダーがタイムカードをくわえるのをそのままにして、黒尾はスーツの懐から黒の名刺入れを取り出した。その手元を、ちら、と赤葦は覗き込む。
「やっぱり減りが早いのはそれですか」
「まあね。なんだかんだでこれがいちばん。あとはまあ黄色とか黒。赤は最近ほとんど動かねえな。緑と青は使わないっつーか使えないっしょもう」
同意を交えて赤葦も軽く笑った。
「とにかく最近は“死神”の通りが良過ぎるくらいですよ。名刺もいらないくらい」
「それ言えてる」
はは、と声をこぼして持っていたそれを黒尾は丁寧にそろえて挟む。
黒をまとったふたりの仕事は人間を死後の世界に導くこと、肩書きは“死神”だ。古来の日本では死魔や鬼と呼ばれたりもしたものだが、最近は西洋文化にどっぷりと浸って死神の名が定着している。この際名前はどうでもいい。肩書きは人間たちが自分たちを認識し呼ぶために必要な便宜上のものだ。
名刺入れに収まるは小口が数色に色分けされたいくつかの肩書き。よく動くのは色づけされていない白、右肩に“死神”とつくノーマルなタイプだ。次に何かと都合がいいのは、天使と悪魔の肩書きだ。ただどちらも実際はそう簡単に日本へやってこれないようになっているから、嘘も方便、ただ肩書きとして騙っているだけだ。
中世ヨーロッパ時代、世界史の教科書にも載っている公会議の裏で、日本への避けられないキリスト教文化流入の懸念により死神のトップの呼びかけのもと、ヨーロッパを席巻しつつあった天使協会、悪魔連合のトップたちと話し合いがもたれた。要は、ちょっと顔貸してもらえませんかねのメンチ切りを大人の態度でごくごく穏やかに行ったようなものだ。
それ以来、どんな用件でもヨーロッパ圏へ赴くには総務への出張届けが義務付けられている。受理までに回りくどい時間がかかるようになって、役所のような固さと融通の利かなさに文句も多いのだが、あちら側とはいまだ水面下で縄張り意識に火花をバリバリ散らしているから何ともいえない。表立ってドンパチやって仕事がやりにくいよりかはいい。
互いの活動地域を容易く侵さないこと。これが西暦1414年、裏コンスタンツ公会議で定められたいくつかの取り決めのひとつだ。
「なんつうか、小説やらマンガやらに出るようになってから話早いよな。こっちがどーもって挨拶する前に、あ、死神さんですね、だもん」
笑っちゃうよね、と肩をすくめながら黒尾が名刺入れをポケットにしまった。
本当にその通りだ。死神について予備知識がある人間が増えたおかげで、一から説明しなくてもいい機会も多くなった。ただ、あくまで作り物として流布した死神のイメージのおかげで、願いを叶えてくれるだとかいいことをすれば助けてくれるだとか変な勘違いをしてる輩も出てきて、タイムカードに並ぶ上がり時刻を眺めて赤葦が浮かない顔になるのはそんなことにも起因している。
「あ」
気づいて、赤葦はタイムカードを取り上げた。
「そっちも残業続きじゃないですか。珍しい」
どうしたんスか、と、仕事は切れよく手際よくがモットーのくせに20時台の多く並ぶその列をつま弾いてみせる。
「なにしてるんです」
「……気になる?」
勘違いしそうになる悪い目つきを、どう見えるかなんて分かった上で試すようにゆるゆると細めてみせるのはどうにもいやらしい。もし色気に香りがあるというのなら。黒尾が時折見せるのは知らず知らずのうちにスーツへまとわりつく、少し苦くて喉につんとするようなほのかな紫煙だ。
別に咎めてるわけじゃないんですけどね、と実際いたづらに伸びてきた手を避けて、ふい、と顎先を持ち上げたのだが、予測していたらしい黒尾の人差し指にぴたりと捕まって、微笑まれる。悪魔と違って誘惑の色を使うことのない死神にあてられることなんてないのだがそこはそれ、個人の事情ってものがある。つつ、と顎の線をなめらかに撫でられて、赤葦はわざわざ不機嫌な顔をみせた。
「ここ、職場」
「はいはい」
言い含めるような声音で言うと案外黒尾はあっさりと人差し指を翻して、いや実はね、と最初から何の気もなかったかのように頭をかいた。
「最近、復活したバンドの新譜ラッシュでさ。うれしいけど大変」
そうして、まるで哲学者や画家みたいな名前をつらつらと黒尾は指折った。残念ながらどれも赤葦には分からない。そんな難しい名を冠して何を歌うのだろう。概念的な何かかもしれないし、抽象的な何かかもしれない。分かりやすいかどうかはさておき、歌も哲学も絵も記号みたいなものであることは似通っているのかもしれない。
ある作家が“死神はCDショップにいる”と書いた。死神は皆どきりとした。そう書かれた時代からCDショップも随分減ったもので、ツタヤはなあ、情緒がないよ、と黒尾は言う。分かる。本やら文房具やらゲームソフトも一緒にならぶ雑多加減を見て赤葦でもそう思う。だから、数少なくなったほんとうのCDショップの、試聴コーナーで楽しそうにヘッドホンを揺らしている姿があったなら十中八九死神だといってもいい。多分。
オペラ劇場の屋根裏、コンサートホールの照明の上、賛美歌の響く教会の尖塔、死神にはそんな場所も人気がある。クラブはあまり好かれない。誰も放っておいてくれないからだ。そういう赤葦自身は積極的に音楽のある場所へあまり行かない。音楽は嫌いじゃないけれど、ふと、通り過ぎるくらいでいい。雑踏で小さな口笛や鼻歌をつかまえることがある。名前がないものは拾うのも仕舞うのも、捨てるのも楽だ。
黒尾に触れられた感触が残る顎を指先で控えめにさすりながら、まだ楽しそうにバンドのあれこれを語る黒尾に赤葦はわずかに眉根を寄せて唇を小さく尖らせる。
「んなのたまにはさっさと切り上げて連絡してくださいよ」
「お」
デート? と口パクで黒尾がわざとらしく演出して小首を傾げる。そうですよ、と今さらてらいもなく答え、赤葦は手にしていた黒尾のタイムカードを、すこん、と小気味いい音をさせてラックに差し込んだ。そして内ポケットへ手を滑り込ませ、黒の手帳を取り出す。死神の持ち物はどれも黒だ。どうして黒づくめじゃなければいけないのだろう。めったに死神は生きている人の前に姿を見せないが、一昔前街を歩いていたら、お兄さんビジュアル系?なんて話しかけられことがある。色の氾濫が激しい現代の街中ではモノトーンの格好はどちらかといえば目を引く気がした。
ぱらら、と手帳を繰り、今日の予定を引き当てる。並ぶのは十個ほどの名前とその死因。数日前から経過を見張っている名前もいくつか含め、赤葦が今日看取らねばならない人間のリストだ。名を見定めるようにすれば顔も場所も生い立ちも、その人間のすべてが分かる。死神の能力のひとつだ。
「ま、そうはいってもけっこう予定詰まってるんですよね」
「ほんとな。俺も似たようなもんだ」
ほれ、と黒尾が自分の手帳を開いて比べ合う。わりと角張った線の寄せ集め、記号のように見えてくる名前の羅列。あ、ここ心臓発作と事故死続いてますね。そーなんだよ。指を差し、顎に手を当て、会話を交わす。予想だにしない突然死に招かれた人間を説得して連れて行くのがいちばん骨の折れる仕事だ。
ふ、と泉の底から滲み出るように罫線の上へ新たな名前が浮かび上がる。ふたりで揃えたため息はどうせどこにも届かない。死後の世界が天国か地獄か、はたまたあの世なのか、死神ですら知らなかった。迎えに行き、入り口へ導くだけ。善人も罪人も関係ない。どこへ連れて行かれるのか知っていたら、自分たちは同情や哀れみや励ましを送ったりするのだろうか。だから、たぶん、知らない。行く先を知らないから、責任なんて言葉を一片も背負わず魂を捕まえどこぞへと放り込める。
死後の世界へ導き終えた人間の名前には打ち消し線が一本、いつのまにか引かれている。便利な手帳だ。赤葦は、ひそやかに唇を歪めた。
「……それじゃノルマをこなしにいきますか」
ぱたん、と小気味良い音させ赤葦は手帳を閉じた。そーね、と黒尾もそれに倣う。
「で、待ち合わせはどうする」
「黒尾さんのほうが長引きそうだからそっちに合わせます」
連絡くれれば行きますよ、と答えると、うん、と頷いた黒尾がちら、と赤葦の首元に目を留める。
「赤葦」
「はい」
期待したわけじゃなかったが、黒尾が目で触れ手で触れたのはネクタイの結び目だった。曲がってる、と口の中で呟きながら、黒尾が丁寧な手つきで結び目と位置を整える。これくらいの距離で今さら不意打ちを喰らったようにはならないけれども、掴まえたい、そう思った唇はさきほどの自分の発言にあえなく閉じる。ここは、職場だ。
「いいよ」
「どうも」
黒尾の手元を見ていた伏せがちの目線が、離れていく手を追い持ち上がる。笑う黒尾と目が合った。
「じゃ、またあとで」
口角の少し上がった唇を黒尾はそう動かした。とす、と左肩を軽く押されたのだろう、触れられた箇所を流し見する前にはもうぐらりと身体が後ろへ傾き、放り出されたように身体が倒れていく。とっさにバランスを取ろうともがく必要のなかった右手が振り上げられたのを、緩慢な時間の流れに見る。浮いているわけではないのに速度は感じない。耳元で空気を押しのける音も聞き取れなければ、衝突する恐怖さえない。
死神のいるところをどう表せばいいものか、死神たちも言葉に困る。人間たちが見れば、一見スーツを着たビジネスマンがいるようなオフィスであるかもしれないし、閻魔大王が住んでいそうな朱塗りのお屋敷であるかもしれないし、何にもない、ただ白っぽい光が溢れているようなところかもしれない。要は、下界と死後の世界の狭間にある何にも属さない場所だからどうとでも姿を変える。死神は思い浮かべばたいていどこへでも行けるしどこからでもここへ帰ってこれるから、どこにあるか、ということすらどうでもいい。ただ、いちいち下界と呼び、次の仕事の場所の見当をつけるとき下を見下ろすように意識を働かせること思うと、雲の上の世界、とでも称しておくのがいちばんいいのかもしれない。
今、赤葦には自分を見下ろす黒尾の靴底が見える。遠近法は正しく視界を乗っ取って、黒尾と赤葦のあいだに距離という空間が伸びていく。揺れることのない黒尾の濡れ烏のようなスーツの裾、赤葦に狙いを向けるネクタイの、黒曜石の切っ先。自分の立っていた場所だけが魔法のように消え、すこん、と結局のところ水蒸気の集まりでしかない雲を音もなくすり抜けていくようになったことに、赤葦は驚きもしないし抗いもしなかった。
あるのかも分からない透明な床の上で、落下する自分を黒尾が見つめている。変な浮遊感に包まれたような自由落下の中で、確実に遠ざかるその姿が帽子を小さく上げて自分を見送った気がした。何かに圧されもせず引っ張られもしない水平の身体で、赤葦は瞬きを返し返事の代わりにする。気づけば雲の名残のような薄もやに霞んで豆粒のようになった黒尾に、それは届いただろうか。
首を巡らせ背面の景色に目を落とすと、ばかでかい墓標のようなビルがいくつも地面から突き出で、地表をでこぼこに覆いつくしている。目を閉じただけで、手のひらで握りつぶせそうなほどまだ遠くにいるというのに、下界に蔓延する人間たちの雑多な思念がざわざわと排気ガスのように頭の中を漂った。やめた。目を開け、ふん、と不満気に息を吐き、スラックスのポケットに両手を突っ込む。
別に黒尾に落とされたままこんなふうに空を落ちていかなくたっていいのだ。けれどそれも、今、そうでなくてもいいという程度のことで、いつでも自分は辞書を引くように名前から手繰り寄せ、ぐん、と意識と寸分の差もなくこの身体を一瞬でその元へ持っていける。くしゃみをするより早い。まだ引き当てないぞ、変な心持だけは決まって赤葦は宙を仰ぐ。くぐり抜け通り抜けていく霧よりかは粗い粒子のくぐもりが、遠くになればなるほど重なり層を集め雲の体を成していく。とうに雲の上の世界は厚く閉ざされ、ただ見るだけでは赤葦の目にも見えなかった。
1キロの綿と1キロの鉄球のどちらか重いか、そんなとんちのような問いがある。直感的な人間は綿だと笑い、平凡な人間は同じだと笑う。そのどちらであったとしてもそうでない答えがあったとしても、赤葦は何の興味もない。風を切る音がない。頬がかじかむ寒さがない。肉体はあるが、浮力と速度が一致しない。自由の利かない一直線の落下よりも、中途半端なぬるま湯のような降下のほうが抜け出すのに億劫だ。
たとえるなら70キロの綿のように。
赤葦は、するするとその身が空を滑っていくのに身を任せ、死を想うわけではなく、笑って、まぶたをゆるやかに下ろした。
fin.(2015.9.6)